二日後、鱗道はこごめの領地である東北にいた。
猪狩と飲んだ次の日はひたすら眠って過ごす予定であったが、昼を回る頃に強制終了と相成った。家には呼び鈴があるにも関わらず、豪快なノックと大声が鱗道を叩き起こしたのだ。こんなことをする人物は一人しか思い当たらなかったが、扉を開け、実際に想像した通りに猪狩が立っているのを目の当たりにすると非常に気鬱な思いに苛まれたものである。
昨日閉店まで飲み続けた男とは思えぬ溌剌さで、道具の使い方を教えるのを忘れたと告げた後、寝起きの鱗道を揺さぶり起こしながら登山具の扱い方と道なき道の登り方について体験談を交えて教示し、終いには十枚ほどの紙の束を押し付けて「仕事があるから」と嵐のように車に乗って去って行ったのである。恐らく、二、三時間程度の出来事であった。
昨日の酒の所為か、先程までいた友人の所為か。頭痛を訴えるこめかみ近くを押さえながら、猪狩が置いていった紙の束に目を通した。数枚はやはり登山関連の内容で、今し方猪狩が口伝していった内容のまとめと当日や事前に準備すべき物――食料や水についての必要量の目安などが書かれている物。インターネットで探した航空写真の地図に、猪狩らしい大きく力強い字で書き込みがされている物。残りは、鱗道が向かうことになる地方や山の歴史について調べられた物であった。
紙の束を居間のテーブルに放ると、鱗道は顔を洗い身支度を調え、準備しておく道具が書かれた紙を引き抜いて、昨日購入したばかりの登山靴を履いた。向かうは、駅。特急列車の席を取るためと、必要な買い物をするためだ。
荷造りの殆どは、説明をしながら猪狩が纏めていたようである。隙間やサブバックに買い込んだものや自分で用意した小物を詰め込んでいく。終わればさっさと夕飯を食って早々に眠った。翌日――つまり、蛇神から話を聞いて二日後の今日、可能な限り朝早くの電車に揺られる為に。
移動中の殆どを、猪狩が残していった紙面に目を通すことに費やした。内容は、蛇神がこごめと聞いた話と大差がない。集落の吸収合併とそれに合わせて行われた神社の統合。土砂崩れによる集落の解散。公式な記録が残っていたようで、詳細な年月と出典まで丁寧に記されていた。「犬の社」に関しては正式な記録はさすがに残っていなかったようだが、地元住民の間では僅かだが語り継がれている話はあるようだ。が、土砂崩れもあり山が閉山されてから、実際に向かった人間はいないらしい。
都市伝説めいた「犬の社」の話もあるようだが、此方の内容は漠然としている。場所も判然と「とある山中」止まりであるし、何もいないはずなのに犬の鳴き声や足音が聞こえるだとか、巨大な犬に追い回されるとか、犬に食い殺された霊が出るだとか――名前から連想されるような、よくある話ばかりである。加え、誰もが記録媒体を持っているこのご時世に写真が一枚も出てこなかったようだ。中身のない話を併記したのは、何かを切っ掛けにその手の話を聞いたとしても信じる必要はない、という意図なのだろう。
登山関連以外の紙が言いたいことは、「蛇神やこごめの言い分は正しく、信用できる」ということだ。そして、自ら動くには時間がかかる鱗道の背中を押してもいる。「だからさっさと手伝って片付けてこい」と。もしかしたら、「どうせ、やると決めているんだろうから早く動け」と、特急電車に乗り換えて都心から山間へと移り変わる風景を眺める鱗道が右手で首を掻くまでも見越していたのかもしれない。
早朝の電車を乗り継いだ甲斐があり、目的の駅に下りたのはまだ朝と言える時間であった。捕まえたタクシーに山の名前を告げると怪訝そうな顔を向けられたが、猪狩から借りた道具が本格的な物ばかりであったことが功を奏したようである。「事前調査ですか? あの山にもいよいよ手が入るんですか」と、運転手は鱗道を何らかの調査員と勘違いしたようだ。鱗道はボロを出さない程度に相槌を打ちながら、座席に荷物と体を沈めた。
タクシーから降ろされたのは形ばかりが残っている登山口である。登山口と言うよりも、公的な機関と山の管理者が入るためだけの道らしい何かというものであり、容易に跨げる高さの鎖向こうまで続く砂利道は見える範囲ですぐに植物と土に埋まっている有様である。タクシー運転手は帰りに困るだろうと名刺を鱗道に手渡していった。もっとも、携帯電話の電波もこの山近くには届いていないから少し歩く必要はあるが、と言い残して。鱗道はタクシー運転手に丁寧に礼を告げて見送った。
荷物から二本揃いの登山用ストックを取り出し、防寒着の上までファスナーを閉めて、帽子手袋を着用し――と、猪狩の登山心得に忠実に準備を整えた。紙の束からは地図を引き抜き、畳んでポケットにねじ込む。
「……行くか」
もともと、やる気をみなぎらせる性分ではない。が、いかにも誰も分け入らなくなり相当な年月が経過しているという登山口もどきを目の前にすれば、奮い立たせなければ一歩目も踏み出せなかった。ストックを握る手に力を込め、鎖を跨いで進んでいく。三歩目――砂利道が土と植物に覆われ出した境で、鱗道を後悔が襲った。
目の前に小さな蛇が垂れ下がっている。山でマムシに噛まれるとどうなるか、毒蛇は頭上から降ってくることもあって云々と、猪狩が話していった山の危険エピソードが走馬灯のように駆け抜けていく。蛇は二股の赤い舌を鱗道の目の前でちらちらと揺らし、
『さぁ、それでは行くかね、末代。お前の行動の早さには驚いたが――おや、どうした?』
頭の中には聞き慣れた声が響いている。と言っても、いつもとは違って音量がかなり控えめで音も高い。眉間に皺を寄せ、一歩引き下がり、鱗道は目の前の蛇と睨み合った。鱗道の頭上にある枝から垂れている体は一メートルにも満たない。その細い体の鱗は白く、時に青、所により緑であり、額には小さな赤い点がついていて、丸く小さな瞳は金色である。
「……まさか、アンタ、蛇神か?」
『そうだとも。言っただろう? こごめの領地でまた、と』
白い蛇――目の前に垂れた実体がある蛇神は、枝から鱗道の体に乗り換えるとするりと首元に巻き付いた。ぞくり、と鱗道の体が震え上がるのを見て、まるで笑うように体を揺らす。
「現実に出てこられるのか、アンタ」
『わたしは常にいるのだからその言い方はひっかかるが、お前の言いたいことは分かるよ。これは〝わたし〟自身ではない。夢の中でお前と話すわたしも厳密に言えば〝わたし〟ではないことは分かるかい? 〝わたし〟は領地の深くにあり〝わたし〟自身はそこから出られない。お前の中とは繋がってはいるが、それだけだ。
そうだね……〝わたし〟達に干渉させるために、お前に〝わたし〟の力を降ろさせるだろう? 少しばかり準備が必要だがそれと同じように力の一端――分身をそこらの蛇に憑かせて顕現したのがこれだ』
細長い体を器用にうねらせ、蛇神は鱗道の顔の前を行ったり来たりと繰り返す。時に舌を出して周囲を味わい、匂いを嗅いで楽しんでいるようにすら見えた。
「領地深く、ってのは夢の中でアンタが入っていく巣穴か? アンタは、彼所から離れられんのか」
蛇神の言葉に頷いて黙っていた鱗道であるが、思い当たったように口を開いた。ここは蛇神と意思で会話をする夢の中ではない。現実だ。他の彼方の世界の住人と会話をする時のように、鱗道の言葉は口から発さねば届かないらしい。
『そうだとも。でなければ、代理などさせる筈がないだろう。わたしはお前の中に、領地深くと通じる唯一の巣穴を作っている。お前達の償いが終わるまで〝わたし〟自らが表に出ることはない。末代。お前が、人間の中に棲む最後の巣穴だ』
中、というのが抽象的な言葉であることは理解している。が、鱗道は思わず己の腹をまさぐっていた。夢の中で見る、夜のような漂うだけの空間。そこからさらに、蛇神が去って行く巣穴。あれが鱗道の中に作られているとすると、納得出来ることが幾つか出てきた。
事態の片付け方で、鱗道の身体に蛇神を降ろして食わせるものがある。食わせたものが体のどこかに落ちていくような感覚はあるが、実際に喉や腹の中を通っている物はない。鱗道の中に蛇神の巣穴があるのならば、望む時に蛇神が降ろせるのは当然であるし、飲み込んだ先が蛇神に直接通じているのだろうことも想像ができた。
そして、代理人がどの時代も一人であった――ということも納得出来るというものだ。此方の世界と彼方の世界で巻き起こる領地内の問題を正していく、というのを一人で行うというのは効率が悪い。巨大な蛇神一匹と一人の人間では動ける範囲も知れる範囲も違いすぎる。そもそも、問題自体が少ない現在ならば良いとして、蛇神の代理仕事を行うようになってしばらくは生命に直結する程の危機もあったそうだと父親から聞いた。単純に、数は戦力である。頭数を揃えればそれだけ早く安全に仕事をこなすことが出来るはずだ。だが、蛇神が一人に取り憑き外部と通じる唯一の巣穴を作る――巣穴を作られた者が代理人として務めるならば、一人しかいないのは必然だ。
『なにやら考え込んでいるね。末代。聞かれれば答えることもあるというのに、お前は昔から自ら知ろうとしないな。構わんがね。まぁ、巣穴から出られたとしても、領地からは離れたくないものよ』
蛇神が鱗道の体の上を器用に這いずり回り、ポケットの中に入っていく。それこそ、巣穴に戻るようだと、ポケットから溢れて揺れる尻尾を鱗道は見守っていた。
「そういうもんかね」
人間も同じ所にいるのが性に合う者もいるが、多少なり外へ出ることを好む者が大半だろう。今の蛇神は外出をかなり楽しんでいるように見える。
『そうだとも。私が眉間を突かれ、追いやられた時の領地の有様と言ったら――お前は知る由もないが。魑魅魍魎に得体の知れぬ者ども、荒神や凶兆、瘴気に満ちて穢れまみれが跋扈する惨状だ。そうなれば人間尺度の世界も、酷い有様になるものだよ。お前は既知の通り、〝わたし〟達の世界と人間尺度の世界は結局同じ皿の上だ。どちらかにのみ影響が生ずる、等と言うことはまずあり得ない。
土着の者が領地を離れる、というのはそれ程の影響をもたらす。故に、領地外に用件があれば分身や化身を遣いとして送って済ませるか、領地に代わりの者を一時的に立てる。今回は末代、代理仕事を担うお前が〝わたし〟の遣いというわけだ』
ポケットの中でうぞうぞと蠢きながら語っていた蛇神が、その口に畳んだ紙を咥えて出てくる。先程しまったばかりの地図だ。首を傾げるような仕草が見えたため、紙を受け取り蛇神の前に広げて見せた。
『これはこの辺りを天から見た地図かね? お前の友、猪狩とかいう、あの男の餞別か。成る程、成る程。お前の行動が早かった理由が分かったよ。発破をかけられたのだな』
「まぁ……そんなとこだ」
蛇神の頭は広げられた紙面を丁寧に目で見るように動いている。鱗道の夢の中に出てくる蛇神がどのように物を見ているのか知りもしないし聞いたこともなく、そもそも視覚を有しているのかも分からないが、今は蛇の体に取り憑いている身の上だ。蛇の視力など程度はしれていようが、その辺りはとある領地を治める一柱の蛇である。野生のただの蛇と同じはずがない。
『この地図は書き込みを含めて概ね正しいな。素晴らしきかな人間の進歩よ。細かな方角の案内はわたしが務めよう。お前も近付けば分かるだろうがね。さぁて、「犬の社」とやらに向かおうじゃないか』
蛇神に促されるまま、鱗道は今一度ポケットに地図を畳んで押し込み、代わりに取り出したコンパスで方角を確認した。首にゆるく巻き付いた蛇の小さな頭が、コンパスに重なって方向を示すように舌を伸ばす。
蛇神の背に乗って山を進む等と言うことは想像していたが、蛇神を肩に乗せて山を登ることは想像をしていなかった。微かであるが笑った鱗道は、コンパスをしまうとストックの柄を強く握り直した。
普段は運動と無縁の三十路男が整備されていない山道を登る、となれば相当な無理であることは分かっていた。休憩は当然必要であるが、意識的に多く取りながら進む。その辺りも登山心得に書かれていたことだ。慣れない道や足場は存外に多くの体力を持っていくものだ、と。
山に人間の手が加えられた気配はない。木々が高く生長していて、山中は暗かった。時折遭遇する少しの木漏れ日を眩しいと感じるほどである。木が大きく成長し光を遮っているからだろう、地面近くは思っていたよりも植物が少ない。鱗道のよく知るH市の山とはまるで違った。H市の山は人の手が加えられていて、季節によっては子供の遊び場に成る程明るい山だ。低木植物が多く茂っていたが、それにさえ気をつければ安全でもある。此処の山は姿を見せないだけで動物が多くいるのだろう。それにしては静まりかえっているのが、人間の世界から切り離されたような気分を増長した。
ゆっくりであるが着実に山を登っていけば、時折聞き慣れない、枝葉の擦れる音に似た言語化されていない声が頭に届いた。視線を巡らせても何も見えないが、青葉の塊が跳ねるような、あるいは巨大なバッタのようなものが動くのを漠然と感じる。彼方の世界の何かが、近くにいるようだ。
『こだま、だ。木霊――豊かで古い山に住む妖精とでも言えば良いのかね。物好きだが力が弱い。お前には見えやしないよ』
悪い者じゃない、と蛇神の補足に頷いて鱗道は歩を進めた。確かに、気配は感じるが敵意や悪意は感じ取れない。好奇の色を多く感じるのは、蛇神が物好きと称した性質に寄るのだろう。
「足を引っかけられたら溜まったもんじゃないな」
『わたしが居るから近付いてこないさ』
多少のいたずらを覚悟した鱗道に対し、蛇神は他を一瞥することなく悠々と体を揺らす。蛇神からは砂の流動を感じることが多かった。乾ききって生命の匂いの薄い、しかし清らかで静かな、雄大な流動だ。その気配は肩に乗るほど小さな今も漂っている。
鱗道は彼方の世界を「聞く」ことと「感じる」ことが出来るが、「見る」ことはほぼ出来ない。例外は子供や関わり方を心得ている人間に認識されるほどの巨大な力の持ち主である場合や、己の意思で姿を認識させる調整が出来るような存在である場合、そして肩に乗っている蛇神の分身のように此方の世界にある一般的な物に取り憑いている場合に限られている。「聞く」のは頭の中に直接響き、「感じる」のは匂いや触覚、温度であったりと、内容によって偏りはあるがバリエーションが豊富である。
なお、「聞く」のも「感じる」のも彼方の世界の住人に関してで限定されている。此方の世界の住人である人間や動物に関して内面や考えを「聞く」ことは出来ないし、彼方の世界について「感じる」ように此方の世界に関して何かを「感じる」ことはない。少しは勘が良い、程度のことはあるかもしれないが。
『猪狩、か。あの男は稀有な男であるよ。蛙のようで好ましい』
休憩の度に地図を確認する鱗道の横から覗き込んでいた蛇神の声は、とても愉快げであった。普段よりも音量が低いからか、抑揚の変化が分かりやすい。いつもこの位の音量であれば、蛇神の感情を読み取ることがスムーズになるのではないかとすら思う程である。もっとも、読み取った感情が正しいかどうかは別問題であるが。
「……アイツが蛙?」
が、愉快げな蛇神よりも気になったのは言葉の内容であった。鱗道は繰り返しながら顔をしかめる。猪狩と蛙はどう考えても繋がらないからだ。
『そうだとも。あの男はこの地図の他に、この辺りのことを調べてお前に教えただろう?』
「ああ……あれは、別にアンタを疑ったわけじゃないと思う。慎重な男なんだよ」
蛇神が頭を振ったのは言葉の否定の意味ではなかった。鱗道の読み取りが違う、と言う否定である。続く蛇神の言葉は変わらず、楽しげであった。
『もしわたしを疑っていたとしても構わぬよ。その辺りが稀有だと褒めているのだから。
蛙は目の前で動く物を何でも飲み込むが、有害と判断すると胃ごと吐き出す。あの男も似たようなもので、目の前にあるものを何でも受け入れるが、盲目的に信じると言うことはしない。調べて検証し、確証が持てない限りは何時でも吐き出せるように構えている』
鱗道は言葉にせず、小さな感嘆の声を上げた。蛇神の言う通り、猪狩は受け入れることと信じることを分けて考えている男だ。実際、中学時代から始まった鱗道の代理仕事に関しても容易く受け入れ飲み込んだものの、それとは別と言わんばかりに様々な検証に引っ張り回した。あれは、猪狩が誠に信じ切るために必要なことだったのだろうと今では理解できるし、何より受け入れ飲み込んで見せた事に感謝の気持ちは変わらない。もっとも、検証で巻き起こった様々な出来事を一番無責任に楽しんでいたのは猪狩当人であるが。
『確か、所司……では位が高すぎるね。奉行……いや、憲兵……』
「警察官、だな」
『それだ。今の時代はそう言うのだったね。非常に向いている職業だっただろうに。惜しまれる。今は情報を扱う仕事をしているのだったかい? それも向いた仕事であろうが……やはり稀有な人間だ。あんな蛙男は滅多にいやしない』
蛇神の言葉に鱗道は肩を震わせた。確かに、世話好きで正義感も強く、体も頑丈で慎重な性分の猪狩にとって警察官という仕事は天職であっただろう。今の仕事も向いてはいそうだ。蛇神のお墨付き、となれば実際に向いているのだろう。だが、
「アンタがそうやって褒めてたと伝えようと思ったが、蛇に珍しい蛙と褒められたんじゃ流石のアイツも素直に飲み込まんだろうな」
『そうだろうね。もっとも、わたしの容姿について疑念を抱いているようであるから、少しばかり脅かしてやって欲しいところだが』
蛇神はわざと大きく口を開き、口の周りを細い舌でぺろりと舐めた。さて、何かの機会に言ってみたい気もするし、黙っておいてやりたい気持ちもある。
「……まぁ、あれだ。外見については、釘を刺しとく」
どちらにせよ、伝えるべき時が来たなら自然と口に出るだろう。鱗道は苦く笑いながら、真新しい登山靴を地面に強く踏み込んで進み始めた。