グレイスケイルデイズ
-05-
一昨日は山、昨日は小さな小川の先、そして今日は駅の反対側へと鱗道はシロを連れ歩く。行きも帰りも遠回りする為に、普段の散歩よりも早めの――人通りの多い時間帯に重なっていた。元々近所に通学している子らには有名であるシロは、散歩中もよく声をかけられる。鱗道はシロが子どもと触れ合うことを――「こっくりさん」のような遊びが流行していない限り――特に制限していなかった。シロも子どもに呼び止められれば足を止めて尻尾を振り、撫でやすいように頭を下げたり、おっかなびっくりの子には頭を逸らして胴体を向けたり、時には自ら伏せの体勢を取って撫で回され待ちをする愛嬌の大盤振る舞いだ。当然、人通りの多い時間帯になればかけられる声も多くなる。
が、ここ数日はかけられる声の内容が変わっていた。やれシロクマだ、やれオオカミだと好き勝手な呼ばれ方はせずに、
「なんかシロちゃん、キリッとしてる」
だの、
「シロがマジメな顔してる!」
だの、
「オトナのシロだ!」
と、言う具合だ。散歩から帰った後の店先で、帰路につく子ども達を見守るときも普段のように大歓迎と鳴き喚くことがなく、酷く静かに見送っている。子ども達は当然、シロの変化に気が付いているようで、中にはわざわざ店内に寄り、
「シロは病気になったの?」
と、鱗道に尋ねる子どももいた。病気でないことだけは否定しているが、鱗道も昨今のシロの様子はある意味、病気と言えば病気なのではないかと思い始めている。
駅を抜けた反対側、山の裾野にある公園が今日の目的地であった。今日もまた道中で子ども達に呼び掛けられていたが、シロは愛嬌を振りまくも過剰な反応はなりを潜めている。シロの変化を感じ取っているのは子ども達だけではなく、いつも吠えかかってくる小型犬も挨拶を試みようとする大型犬も最近のシロを避けるような素振りであった。
公園には池が設けられていて、コイやフナやカメなどが気ままに過ごしている。池の縁を歩きながら、人目がない時を見計らって鱗道は手摺りを跨いで低木で囲まれた池の畔を進んだ。池に注ぐ湧き水の水源は、公園の管理人でもなければ立ち入らないし目にも付かないような奥まった場所にある。
コンクリートで補強された囲いの中からこんこんと湧く水源の横にかがみ込むと、注意深く覗き込みでもしなければ気が付かれまい。そこでようやく、鱗道は脇からぬっと顔を出したシロに話しかけた。
「……なぁ、シロ。確かにお前を頼りにはしてるが」
シロは水源に舌を伸ばして喉を潤している。魚が住み着いている池の水源だ。飲んで体に悪いということはないだろうし、実は生き物に毒であったとしても霊犬であるシロに効くとは思えない。ただ、シロに「この水は毒だ」と言えば別だろう。シロは喉の渇きや空腹、疲労や寒暖を感じ取っているのだが、全て生前の名残や思い込みだ。シロに影響を及ぼすのは〝彼方の世界〟の力だけである筈なのだが、シロの場合は思い込みが想像以上の影響をもたらすことがある。鱗道に「この水は毒だ」と言われたとしたら、腹を痛めるか衰弱するか――思い込みの度合いにもよるだろうが、シロにはただの水が真の毒になってしまう。
鱗道に呼ばれて上げられたシロの顔は、確かにいつもより精悍な気がした。全身に力がみなぎり、風もないのに被毛が揺らめいている。紺碧の目はやや切れ上がっているような気がしないでもない。子ども達や他のイヌが、シロに感じ取っている異変はシロの思い込み――この場合は、思い入れによるものだろう。
「あんまり、張り切りすぎるなよ」
『でも、僕、頼りにされてるからね!』
その証拠とも言えるのが、普段はひゃんひゃんと子犬のようにしか聞こえない鳴き声が、心なしかワンと聞き取れることである。
シロはイヌとして生きた時間も、霊犬として在った時間も充分に長い。大きな領地を治める一柱とまでは行かずとも、なんらかの神に到れるほどの力を溜め込んだ犬だ。神に到れなかったのは不運の重なりに過ぎず、精神的な成長を阻害した原因は他者と隔絶されていた期間もまた長かったことにある。ただ、シロが鱗道と共に生活するようになり、時に「鱗道堂」の看板犬として、時に蛇神の代理仕事の手伝いとして様々な人物や存在、出来事に遭遇してきたがこのような変化は見られなかった。
今までのような手伝いではなく、鱗道に頼りにされているという責任感と思い入れがシロを急速に成長させているのだろう。オトナのシロという子どもの言い方が、奇妙ながらピタリと当てはまっている。
『僕はね、頑張るの! ちゃんとやるの!』
ひゃんとワンの中間めいた鳴き声が、溌剌と返されて、鱗道は眉間の皺を深めた。
シロの変化はクロも感じ取っているらしい。昨日、クロが帰宅したときにはしばらくシロを観察した後、『シロは男子だったのですね』等と言い出した。続けて、『男子、三日会わざれば刮目せよと言うではありませんか。もっとも、シロの場合は会わざる時間は二十四時間にも届いてないでしょうが』と淡々と告げる。更には『それで、実際、シロは男子なのですか?』とイヌ用のおやつを囓りだしたシロに問い始めていて、鱗道が顔を洗って居間に戻ってくるまでの間に問答は終わっていた。クロは店の梁に姿を消していて、シロはおやつに齧り付いている。重要なところを聞き逃したような気がするが、そもそも重要ではない気もする。
「……終わるまでにバテないでくれよ」
シロの変化を成長と受け取るならば喜ばしいことだ。〝此方の世界〟で生きているものと違って、〝彼方の世界〟に在るものは時間と共に成長するわけではない。意思の変化や力の増減で見る間に変化していくものもあれば、想像も及ばない長い時を一切の変化がなく過ごすものもいる。シロは元々、精神面に対して力が多く持て余し気味であった。それ故に力が腐り、穢れとなってシロの体内に染み付いてしまった。そんなシロの精神的な成長は、自身の力を制御することに欠かせないものである。取り除けない穢れを宿すシロにとっては最も安全で痛みのない妙薬と言えよう。
しかし、シロの成長だとして、一抹の寂しさを感じるのは何故だろうか――と、鱗道は少しばかり遠くを見ながら手袋を脱ぎ、コートのポケットから小さな袋を取り出した。ファスナー付きの小袋には依り代となったヘビの抜け殻が五枚入っている。一昨日、昨日としてきたように依り代を両手の平ですり潰しながら水源に撒いていく。粉微塵になった依り代はキラキラと輝きながら水面に散っていった。それもすぐに見えなくなる。流れていくのは当然だが、文字通り溶けてしまうからだ。〝此方の世界〟から〝彼方の世界〟へ。
最後に、両手を水源で洗えば終いだ。湧き水そのものより、濡れて少しした後の方が手が冷える。鱗道は手早くハンカチで手を拭いて、再び手袋を填めた。その間にも、鱗道には自分の中身が――実際にある変化ではなく、体感でしかないが――軽くなっていく感覚がある。鱗道と蛇神の巣を繋ぐ巣穴が狭まって、流れ込む蛇神の力が減ったからだろう。そして、蛇神の力が減った分、鱗道は〝彼方の世界〟に対して鈍くなる。これはこの公園に辿り着くまでに実感していた。
駅に向かう途中立ち並ぶ街路樹の中に、倒木となって今は切り株しか残っていないものがある。そこには、女の死霊がいた。名前も知らない女であるが、未練と執着を残しているのは間違いない。放って置いて自然に消えてしまえばそれで良し、瘴気を溜め込んで有害となりそうならば対処しようと気にかけている存在だった。だが、行き掛けには姿を見付けられず、切り株の側を通ったときに鱗道はようやく死霊の声を聞いたのだ。未練と執着を抱えた声など聞きたいものではないが、帰りは側を通ったとしても聞こえなくなっているだろう。
『ここからも蛇神サマのにおいがするようになったよ』
水源の上で鼻をひくつかせたシロが顔を上げた。鱗道には全く蛇神の片鱗も分からない。シロが言うならば間違いはないだろう。そうか、と鱗道は返事をして立ち上がる。まだ、公園に人は少ない。一般人の散策ルートに戻るのは今のうちだ。
「じゃぁ、後は昨日撒いた辺りから広がってるか確認しながら帰ってくれ。少し遠回りになるが……お前は気にならんか」
水源から離れ、人目を避けて手摺りを越える。手摺りの下を潜ったシロが顔を上げて得意げに鼻を鳴らし、
『まぁね! いつもよりちょっとお腹は空くけどね!』
ひゃんとワンの中間の鳴き声を二つほど上げた。鱗道の頭に届く声に変化はない。相変わらず舌っ足らずで、内容も子どもっぽいままだ。ここに変化が見られるようになったら――一抹の寂しさは、ちょっとした衝撃に変わりそうである。ただ、幸いにしてその時はまだ先であるようだ。シロに対して一言呈するならば、人気がない今のうちだろう。
「……昨日も食ったろ。今日の唐揚げは絶対にやらんぞ」
鱗道は呆れや安堵混ざりの、苦く柔らかく不明瞭な小声でシロに釘を刺した。