Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-06-

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 街を回るように大きく遠回りをしてから帰宅した鱗道がコートを脱いだ途端に、クロもまた小窓をすり抜けて帰宅した。その嘴には大量のヘビの抜け殻が咥えられている。ちゃぶ台の上に一本ずつ整えながら、破けないように丁寧に並べられる抜け殻を前に、鱗道は驚嘆の息を吐いた。
「凄いな……数日でこんなに」
 シロには街の異常に対して目鼻を聞かせることを頼んでいた一方で、クロに頼んでいた仕事がこれである。鱗道の溜め息に、クロは満足げに嘴を高々と掲げて見せた。
 依り代を使ったらすぐに補充しておくように、というのは蛇神から言われていたことだ。鱗道の父親が代理であった時も木箱の依り代は〝鯨〟以外で滅多に使われなかった。その〝鯨〟が来ることも近代では二、三十年に一度である。猶予は充分にあるように感じられるが、それも絶対の周期ではない。また、非常手段として用いるにも数年は木箱にしまっておかねばならないし、後回しにしてしまえば使う頻度が少ない分忘れてしまう可能性もあるだろう。今回の〝鯨〟を凌いだ次の来訪に、鱗道が依り代を使うかどうかは――年齢的に微妙なところだ。
 ただ、準備をしておくに越したことはない。それでクロには抜け殻集めを頼んでいたのだが、数日でこの量が集まるとは思っていなかった。しかも、並べられるどれもが鱗道の注文通りに形が大きく、整っている物ばかりである。
『シロのように嗅覚があるわけではありませんが、私には翼と優れたる視力、そして疲労知らずの器があります。しかし、鱗道が言っていたとおり、山には実に多くの蛇がいるようですね。形が整った物を選別するだけの量があったのですから』
 クロの言葉は心なしか普段より早口であった。確かにH市を囲む山には昔から蛇が多く、山間の神社にはヘビ絡みの御利益を期待するものもあるらしい。鱗道は座るより先に店に下り、古い机から例の木箱と鋏を持ってきた。大きく整った抜け殻の全てを依り代に出来るわけではない。出来るだけ鱗の細かい部分を選び、箱に収まるように切断する必要があるからだ。
「蛇神の領地がある山だからなのか、同種のヘビには居心地がいいのかもな。それでも、昔、俺が探したときには苦労したもんだが……」
 腰を下ろした鱗道のぼやきは非常に重々しい。前に〝鯨〟が来たときは鱗道が一人で対処し、抜け殻集めも行った。高校入学前の子どもが一人で、山中を歩き回りしっかりとした抜け殻を探すことなど容易ではない。早々に音を上げて数少ない友人達に助力を願い出たが、集める理由を問われれば答えようがなく、言い淀んでいる内に「父親が死んで抜け殻を財布を入れておくと金が貯まるという迷信に縋らなければならないほど困窮している」等と大袈裟な心配をされだしたので諦めざるを得なかった。既に蛇神の代理仕事について打ち明け、検証と称して鱗道を引っ張り回していた猪狩は手伝ってくれたが、それでも学生二人である。平日昼間は学校、他に部活や家の事情なども重なれば充分な時間が取れるのは休日のみだ。さらに依り代として使える抜け殻は厳選せねばならず――と、二人がかりで相当な時間をかけて箱を満たしたものであった。
 それがこんな数日で……と感慨に浸る鱗道を横目に、自ら真っ直ぐに並べた抜け殻を満足げに眺めていたクロが思い返したようにその嘴を、
『シロ。貴方は何か、気が付いたことがありませんでしたか?』
 ちゃぶ台の横に伏せて抜け殻のにおいを嗅いでいるシロに向けた。シロは大きな目を瞬かせて、
『気付いたこと? 鱗道と歩いてる時は沢山においを嗅いでるけど、蛇神サマのにおいがあちこちからするようになってきたくらいだよ。あ、だからなのかな。なんか、小さかったり弱かったりするのは見なくなったし、においもしなくなったの。でも、そう言うのは、ちゃんと全部鱗道に言ってるよ』
 と、得意げにひゃんとワンの中間の声で言う。実際、シロは気が付いたことを小まめに鱗道に報告していた。切り株側の死霊についてもシロは把握していたから、消えたのではなく鱗道の感覚が鈍っているのだと確認出来たのだ。他にも鱗道では把握していなかった細々とした変化まで逐一報告をしてくれるものから、ここ数日はテレビが仕事をしていない。
「何か、気になることがあったのか?」
『ええ。ただ、事態の重要性や今後の動静に関して私は判断出来ませんから』
 クロは自らが並べた抜け殻の隙間に直立したまま、
『山間の神社より北西――山中ですから正確な距離は測りかねますが、木が枯れているのです』
 と、普段通りの硬質な声で、並べたばかりの抜け殻を一箇所に集めながら言った。
「それは、冬だからな。木は枯れるだろうし……元々、あの辺りの木はもう葉を落としてただろ」
『ええ。ですが、葉を落とした木も白むことはありませんし……あのような枯れ方は、ここに来てから見たことがありません。それに低木まで枯れることは――いえ、枯れると言うより、荒れるという方が正確なのかもしれませんが』
 鱗道に粗雑に纏められるよりも、自身で丁寧に束ねたいのだろう。抜け殻を纏めながらも、クロは言葉選びに随分と迷っているようであった。豊富な語彙と知識を持っているクロが言葉選びに迷うほど、見慣れないものを見たということである。
『倒木などもあってまるで何者かがなぎ倒したかなぎ払ったかしたかのような箇所もありましたが……丘陵を辿り歩んでいるかのように、枯死に到った樹木が連なっていたのです』
 クロが語り終えて嘴を上げたとき、鱗道は腕を組んで唇を固く閉ざしていた。よりにもよってこんな時期に、と鱗道は口の中で呟く。シロが気が付いていないというのは、どう捉えるべきだろうか。単なる偶然の自然現象か、向こうがただの通り掛かりで単純に距離が遠いからか、街全体に蛇神のにおいが強くなったせいで少し離れた相手には鼻が利かないのか――ただ、クロの報告は、対処を必要とする事態が近付いて来ていることを高い確率で示唆するものだ。
「クロ、その枯れ木は……こっちに向かってきてるのか? 大体で構わんが、距離の推測は出来んか」
 鱗道が決めねばならないことは、それに対してどのように行動するか、である。
『帰り際に風に煽られ、高位に舞い上がったときに見ただけですから距離の推測も困難です。ただ、向かってきていると感じました。今から確認してきましょうか?』
 翼を広げたクロに、鱗道は首を横に振った。鱗道は持ってきた木箱に視線を下ろし、しばらく考え込んでから脱ぎっぱなしで放って置いたコートを引き寄せる。ポケットから小袋を取り出し、
「いや、いい。水源に撒くのは神社裏で最後だ。夜になるが……このまま行こう。そいつが近付いてくる前に撒いておけば、避けて通ってくれるかもしれん」
 木箱から抜いた五枚の依り代を仕舞って封を閉じる。よっこらせ、と声を上げながら立ち上がった鱗道は――
「……シロは……ここで待ってて貰うか」
 鱗道が立ち上がるのに合わせて腰を上げたシロを見下ろして表情を曇らせた。シロの目が、丸いまま鱗道を見上げている。先に声を発したのはクロだ。
『何故です。鱗道。先日、貴方が仰ったように、領地での出来事に関する対処はシロが担うのでは?』
「それは……そうなんだが」
 クロの指摘とシロの視線に、鱗道は言葉を濁らせる。だが、濁してばかりではいられない。クロは追及の手を緩めず、シロは視線を外さないことは分かり切っている。苦渋は、鱗道自身で飲み込むほかにないのだ。
「枯れ木の連なりは……穢れや瘴気に影響されて妙な枯れ方をしてる可能性がある。それ程影響力がある穢れだとしたら……荒神だ。本物の、荒れ狂う神、って奴だ」
 コートを着込み、前を閉じると鱗道は両手をポケットに突っ込んだ。シロの耳がピンと跳ねるように立った後にゆっくりと倒れていく。鱗道がシロを店に残そうとした理由を理解したのだろう。それはクロも同様である。シロとの違いは、
『成る程。シロを連れていけば、シロが孕んでいる穢れが刺激されて自我を失いかねないと言うのですね』
 はっきりと言葉にして返してくることだ。シロから視線を外すと、ちゃぶ台の上で鱗道を見上げてくるクロの視線とぶつかった。鱗道の眉間の皺はただただ深さを増していく。
「そうだ。俺も真っ向から荒神の相手をしたことはない……荒神のことを聞いたのはシロの時が初めてだった。シロが荒神と対峙したら……どんな影響を受けるか分からん」
『ですが、鱗道は今、蛇神を降ろすことが出来ないのでしょう? シロを連れていかない場合、貴方が相対してしまった時の対抗手段はあるのですか?』
 クロは剥製のように身じろぎもせず、鱗道をじっと見上げている。鱗道はシロもクロも見ないで済むように強く目を閉じた。
「依り代がある。荒神は殆ど区別なく襲ってくるが、穢れや瘴気の塊だ。それを祓い清め、消滅させられる一柱なんかは……荒神になりかけてたシロがそうだったように、警戒するもんらしい。先に依り代を撒いてここにはでかい蛇神がいると知らせてやれば、相手が本当に荒神なら……道を変えるか躊躇うかするだろう。〝鯨〟が去ったなら……どうにか出来るし、どうにかする」
『鱗道、貴方は答えを意図的にずらしましたね』
 鱗道が何度か言い淀みながらも言い終えた答えを、クロは硬質かつ冷徹に断ずる。鱗道は目を開けなかった。目を開けて二人を目にしてしまえば、自分が思う最良の判断が下せないことが分かっているからだ。
『私の質問は、蛇神を降ろせない今の貴方が一人で山に向かい、荒神に対峙したときの対抗手段の有無を問うものです』
 クロの羽音が聞こえたが、鱗道の肩には止まらなかった。飛び続けているものでもない。クロが足を着けたのは、シロの頭上だろう。ますます目が開けられなくなり、鱗道は瞼にいっそう力を込めた。
「……同じだ。相手に向かって依り代を撒けば、怯ませることぐらいは出来る。その間に逃げるんだ」
『それを対抗手段と言うのであれば、鱗道、貴方はシロを連れて行くべきです』
 クロの声は真っ正面から聞こえてくる。やはり、シロの頭上から語っているのだろう。鱗道が目を開けたとき、いつもと同じように一つの視界に二人を収められるように。
『シロが荒神と邂逅した場合の不安は理解します。が、影響の程度では今までのようにシロが貴方の言葉を聞いて理性を取り戻す可能性もあるということです。また、シロに貴方の声が届かなくなったとしても、荒神と争ってくれれば、依り代を撒いて稼ぐよりも長い時間、貴方を逃がすことが出来るでしょう』
 クロの声はずっと変わらず、シロは先程から一鳴きもしない。鱗道が発する声は、
「そうなったら、シロはどうなる。放って逃げろって言ってるのか」
 目を閉じているせいか無駄に大きく、自身の耳に聞こえている。
『ええ。ただ、シロには私が居ます。貴方が去った後も眼球やら耳やら鼻やらと、私が及ぶ限りを持ってシロの意思を取り戻す努力をいたしましょう。それが出来ずとも疲労も空腹もない私であれば、シロを街に近付けないように見張り続け阻止します。〝鯨〟の襲来も近いのでしょう? その間さえしのげれば良いというのであれば、充分可能だと考えられます』
 クロは、鱗道が腕を組まずに両手をポケットに入れたままである理由も、目を開けない理由も分かっているのだ。クロの声はいつもより冷ややかになり――しかし、鱗道に寄り添うようにゆっくりと、
『鱗道。恐れる貴方を理解します。ただ、その恐れは取り除けませんか? 貴方の成し遂げたいことはなんですか? 私には――私達には、本当に手伝うことが出来ませんか?』
 柔らかく言葉を紡ぎ上げた。鱗道はゆっくりと目を開ける。やはり、クロはシロの頭上に座り込んでいた。シロはクロを頭に乗せたまま真っ直ぐに鱗道を見つめている。月や星のように輝きを宿した紺碧の目が鱗道と視線がぶつかるのを待っていたかのように、くぅんと情けない声がようやく一声上がり、
『鱗道。僕、頑張るよ。お腹がぐるぐるするのも、我慢出来なかったらちゃんと逃げるし、ちゃんと鱗道の声を探して聞くよ。クロに突かれるのは嫌だもの。それに、本当に駄目だったら、蛇神サマが食べてくれるんでしょう?』
 昼間の張り切りはどこへやら。か細い鳴き声は子犬そのもので、語りも舌っ足らずで気弱なものだ。だからこそシロが事態の深刻さを受け止めていることも、鱗道に伝わっている。自信はなくとも不安だらけであろうとも、シロは真っ直ぐに鱗道を見つめて動かない。
「……俺は、今更、お前が荒神に成り果てて、蛇神に食われて終いなんて、望んじゃいないんだ」
『それは僕も同じ。だけど、もし、僕がここに残って、鱗道が帰ってこなかったら』
 すん、と鱗道の鼻に雪のにおいが届いた。苔生して荒廃した神社で出会って以降、一時として消えたことのないシロの冬のにおいである。終わりを待つ荒涼であり、悲哀であり、
『僕はここで、鱗道をずっと待つよ』
 長くを耐え忍び、雪解けを待ち望む覚悟のにおいでもある。
 クロの声に根負けして目を開き、シロと視線を合わせた鱗道は頭を抱えかけた。それをぐっと、コートのポケットに突っ込んだ手を握ることで抑え続けている。ずっと、そうして我慢してきた。首の後ろがちりちりとむず痒く、掻こうとする手をずっとずっと抑えてきた。
「なら、シロ……危ないと思ったら、俺を置いて逃げると約束出来るか?」
『それはちょっと難しいかも……』
『シロ。挫折が早すぎます』
 鱗道が目を開けてシロを見たことで良しとしたのか、クロがシロの頭上を離れてちゃぶ台に着地する。わざとらしく滑らせた足音に、シロが困ったようにキュンキュンと鼻を鳴らした。クロは畳んだ翼を上下させて肩を落とす仕草を真似てみせながら、
『しかし、鱗道。その条件をシロに強いるならば、平等でなければ。貴方も身の危険を感じたら、シロを置いて逃げると約束出来ますか?』
 くるりと首を回して、鱗道に嘴を向ける。離れた距離であるのに先端を突き付けられているような気がして――あるいは、質問内容の状況を想像して背筋が冷えて返事が出来ない。間近に強固な嘴の突端が迫るのも、身の危険を感じるような状況でシロを置いていくのも、鱗道にとっては似たようなものだ。
『出来ませんね。まぁ、そうでしょうとも。なので、ここは二人の条件を平等にいたしましょう』
 クロは鱗道から嘴を逸らし、演説でもするかのようにちゃぶ台の上を歩き始めた。
『私が二人の頭上で警戒し続けます。荒神の可能性が考えられる存在はもとより、シロや貴方の状況に関してもまさしく俯瞰します。その私が警告を発したならば、二人は必ず従って頂きます』
「……言い方は悪いが、お前にも分かる状況ってのは……手遅れ手前じゃないか」
 鱗道の言葉に、クロが機嫌を悪くした様子はない。むしろ指摘は想定済みであったのだろう。歩き回っていた足は、鱗道の言葉終わりで鱗道に一番近いちゃぶ台の縁に到達し、
『ええ。私が嘴もしくは声を挟む状況は紛れもなく手遅れでしょう。ですから、二人はその状況に陥らないよう手段を講じてください。鱗道、貴方の状況は私が監視します。貴方は荒神の可能性がある存在とシロに集中なさってくださって結構。依り代に祓い清める力があるというのであれば、荒神に対してだけでなく、シロが我を失った場合に沈静化させることも望めるのでは? 依り代に余裕があるのでしたら、少し多めに持っていった方が良いでしょう』
 会話として聞き取りやすいようにという配慮だけで区切られた硬質な声で、クロは鱗道の顔を見据えたまま言葉を挟ませずに言い切った。すぐさま、クロの嘴はシロに向くと、
『シロ。貴方は貴方のすべきことをしなさい。自身を御して対処出来ると鱗道は貴方に期待しています。ですが、どうしても貴方自身では対処が出来ないと思ったならば、すぐに鱗道や私に助けを求めるのです。それが、貴方に対して鱗道が本当に望んでいる行動です』
 鱗道に向けた言葉よりもゆっくりと、諭すように語りかける。シロもまた紺碧の目で真っ直ぐクロを見ながら、時々、単語を復唱しているようだ。
『相手と対峙した瞬間、どうしようもないと思ったときには、奥の手として鱗道を引き摺って逃げることです。貴方には可能でしょう』
『ひきずって』
『守るということは、戦うだけではないのですよ。シロ』
 シロが何度か瞬きをした後に、『うん』と一声発して頷いた。クロは満足げに見てから、シロの頭に飛び移る。これでどうだ、と鱗道を見上げるクロの目が室内灯を反射させてキラリと光った。
「……えらく乱暴な言葉が出て来たが、聞かなかったことにしておく」
 鱗道は溜め息混ざりに体を屈め、木箱の中身を確認した。最後に海に撒くのに五枚、それと同量の予備を残して、余った数枚を別の小袋に入れてポケットに突っ込む。
「どうしても悪いことばかり考えるが……何事もなく、穏便に済むかもしれんし、そうなれば一番良いんだ」
 屈んだままの顔を、鱗道はシロへと向けた。顔の高さがぴったりと同じである。シロからは生き物のにおいはしない。いつも凍えるばかりの冬のにおいが漂っている。恩を返そうと力を溜め込み、人々と隔絶されてしまったが故に力を腐らせ穢れを宿した霊犬。守りたいと願った自分のままで終わることを望み、ずっと一人で雪解けを、春雷を、春の訪れを待ち続けていた残雪。そんなシロに、ゆっくりと共に歩もうと言ったのは――
「……シロ。ついてきてくれ。ただし、クロの言うことは聞くようにな」
 鱗道の言葉に、ぱあっと花が咲くようにシロの顔がほころぶ。開かれた顎が赤い舌を垂らして、ひゃんとワンの中間の鳴き声を上げると、
『うん! 僕、リード持ってくる!』
 千切れんばかりに尻尾を振って、我慢していたのだと言わんばかりに鱗道に体を擦りつけてから、シロは外されて床に放られたリードを取りに行く。シロが歩き出した拍子に舞い上がっていたクロが、ようやく鱗道の左肩に止まった。
『貴方もですよ、鱗道。私の言うことを聞いてくださるよう、今回は譲って頂きます』
「俺がお前の声を聞き逃したことはあったか?」
 鱗道の言葉に、クロは嘴の開閉音を二度鳴らす。
『いいえ。私が貴方に協力するようになってから、貴方は私の声を聞き逃していません。聞き流すことはありますが』
 手痛い指摘だ、と鱗道は小さく笑った。それからそっと、右手をクロの頭上に伸ばす。クロが払う様子を見せなかったため、そのまま指先でクロの頭を一撫でした。
「……お前にはいつも、一番難しい判断をさせてるな」
 判断、という言葉の含蓄をクロならば読み取ってくれるだろう。クロは常に冷静で感情的になることは殆どなく、第三者の目線で状況を整理、判断し、調停する。日常における些細なことから蛇神の代理仕事に関わることまで、クロに判断を求めることは多岐に亘り、その度にクロには助けられていた。クロは、シロに言ったようにすべきことをしているだけだと言うだろう。
 守ると言うことは戦うだけではない、を最も体現しているのがクロだ。時に鱗道やシロでは言い出せず、実行出来ないような非情な意見や判断も、必要とあればクロは躊躇いなく言うし実行する。クロに代弁させることに鱗道が甘えてきたこともあるだろう。今回の判断も、その一つだ。そして、判断はこの後も続く。
 クロには負担を強いるだろう。シロを自身に集中させるため、鱗道をシロと問題に集中させるため、クロが自らの手元に残したカードはシロを見捨てよと鱗道に宣告する事や、シロに鱗道を置いて去れと宣告することである。それらの事態を防ぐために全体を俯瞰し、ぎりぎりを見極めて見逃さないためにもクロはいつも以上に多くを見聞し、状況を把握し続けることになる筈だ。疲労はないとクロは公言しているが、実際には肉体的な疲労がないというだけである。精神的な疲労は着実にクロに積み重なり、苛むことがあることが、先日、とある一件で明らかになった。クロはけっして無感情ではなく、鱗道以上に表に出て来ないだけであることを忘れてはならない。
『貴方は犬好きですからね。こればかりは仕方がありません』
 クロは少し頭を伸ばし、鱗道の指先に自分から押し付けてきた。鱗道は指先でしっかりと受け止めてやり、
「鳥類なら、カラスが一番好きだがな」
 急に動いたクロの嘴が避けきれず、鱗道の頬骨とぶつかって鈍い音が上がった。痛がるのは鱗道だけである。リードを咥えたシロが音を聞きつけて足早に近寄ってきた。クロは颯爽とシロの頭上に飛び移り、鱗道に尾羽を向けたまま無言を貫いている。
「……クロ、お前も、無理はするなよ。相手によっては、お前の体を貫通して影響を与えてもおかしくないからな」
 シロが頭上のクロに気遣いながら、鱗道の左頬に鼻を寄せてくる。冷えたシロの鼻先が心地よいから、赤くなっているのかもしれない。鱗道は大丈夫だとシロの鼻先を宥めながら立ち上がる。クロから声による返事はなく、一度だけ嘴の開閉音が鳴らされただけであった。

       

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Neetsha