短編集『矛盾の町』
ロータローの憂鬱
ロータローは缶コーヒーを飲みながら、夜空を眺めていた。
缶コーヒーを飲むのはロータローの嗜好ではなかった。独特の苦みがどうしても苦手だったのだ。しかし、なぜか今日に限って、ロータローは缶コーヒーを口にしていたのだった。
どうして苦手な缶コーヒーを飲んでいるのだろうか。ロータローは夜空を仰ぎながら、ぼんやりと考えていた。しばらくすると、ある考えが頭に思い浮かんだ。
――人間は自分達が想像するよりもずっと感情的な生き物なのだ。人間は感情に支配された生き物なのだ。理性とは所詮後天的に獲得した心の働きに過ぎず、しかも偽物である。その証拠に、感情的でない人間などこの世に存在しない。人間が起こす行動は、理性的ではなく、論理的でもなく、感情に身を任せた横暴にほかならないのだ――ロータローはそう思った。いや、もっと正確に言うのならば、そう確信したのだ。人間は感情に支配された哀しき生き物である、と。
缶コーヒーを飲むのは苦手だ。
苦手なものを口にするのはおおよそ合理的ではない。むしろ非合理的だ。好きな物を飲んでいる方が精神衛生に良い。とはいえ大抵の人間の行動原則は、大体そんなものなのである。
人間は平気で非合理的なことをする。他人からやめておけと忠告されたことほど、やりたくなる。押すなよ絶対押すなよと言われると、押したくなる。たとえその先にどんな苦難が待ち受けてしまっているのかを知っていたとしても、だ。
やるなと言われたことほど、やりたくなる。論理や理性なんてものは所詮ハリボテに過ぎない。人間の行動には論理的な一貫性がなく、大抵の場合多くの矛盾をはらんでいる。だから、ロータローが普段は口にしない缶コーヒーを口にしたとしても、何の問題もない。人間は矛盾に満ちた生き物なのだから。
――なんてくだらないことを考えていると、ますます夜は更けていった。
吐く息は白く、コートの隙間から入ってくる夜風は、まるで自分の心の奥底を深くえぐるかのようにひどく冷たかった。
スマホに目をやると、ニュースサイトからの通知が来ていた。
衝撃的なニュースが目に飛び込んできた。
好きだったバンドのギタリストが死んだのだ。死因は明らかにされていなかった。
何だか最近、好きだったバンドのメンバーがよく死んでいる気がする。単なる病死なのだろうか。もしかしたら自分で自分を殺めたのかも――とは考えたくない。自分も後追い自殺してしまいそうだ。
人はそれぞれ悩みを抱えている。あのバンドのメンバーも、人知れずひどく思い悩んでいたのかもしれない。
悩みの深刻さに耐えきれなくなって、心を病み、自死を選んでしまったのかもしれない。
死ななくてもよかったのに……自殺するほど深刻なことではないのに……――なんて思うのは、自分がその悩みの当事者ではないからだ。
死ぬのだけはやめておけ。生きていれば何度でもやり直せる。考え直せ。
本当にそうなのだろうか。
これらの言葉は、全て当事者ではない第三者が発したものだ。やり直せるかどうかも知らないくせに。単に目の前で人が死ぬのを見たくないだけで適当に発した言葉のくせに。
でも、世の中の人間の数割はそれらの言葉で思い留まってしまうだろう。そして悩みの当事者はきっとまた後悔してしまうのだ。自殺を止めたところで状況は何も変わらない、何一つ好転しない。こんなことならいっそ、あの時死んでおけばよかったのだ、と。
――しかし――そうは言っても――あのバンドのギタリストの死については、自分も少し言いたいことがある。死なないでいて欲しかった、と。
生きていればやり直せる――のかどうかはわからないが、何でもいいから生きていて欲しかった。生きて、音を奏でていて欲しかった。「あのバンド、まだやってるんだ」と、バンドの名前をたまに見聞きして懐かしい気分に浸りたかった。そんなことも、もう今もできない。あのバンドの名前を目にする度に、どうしようもなく悲しくなってしまう。
花に嵐の例えあり。さよならだけが人生だ。
歳を重ねれば体は老いていく。悩みの数も増えていく。出会いも増えれば、別れも増えていく。あのバンドのギタリストとは話したこともなければ、実際に演奏しているのをこの目で見たことすらない。自分と彼の関係性は、面識すらない赤の他人だ。もしも自分があのギタリストに思い留まってくれるようにメッセージを発したとしても、その声は決してあのギタリストには届かない。自分の想いはきっと届かない。
そして、ギタリストが死んだ今、あのギタリストに向けて想いを発したとしても、何の意味もない。だって彼はもうこの世にいないのだから。エゴサして自分のメッセージを見つけくれることはもうない。今さら何をしても無駄だ。
――なんてことはわかっている。でも、自分の想いをどうしても抑えることができなかったのだ。
「何で死んだんだよ」
ロータローはSNSでたまらずそう呟いた。肩を落とし、俯いた。すると、コンクリートが目に入った。その時ロータローは、自分が今どこにいるのかを思い出した。
ここは屋上。
ロータローは、屋上から飛び降りようとしていたのだ。ロータローはひどく悩んでいた。もう飛び降りる以外の選択肢がないと思っていた。しかし今となっては、もはやそんなことはどうでもいい。ロータローにとっては、自分の悩みよりも好きだったバンドのギタリストの死の方がよほど深刻だったのだ。
そしてすぐさまロータローは家に帰ることにした。
今日自殺するのだけはやめておこう。今日は好きだったバンドの思い出の曲を聞いて、悲しみに浸ろう、と。
今まさに死のうとしていた人間が、他人の自殺をとやかく言うのは滑稽だ。矛盾している。
――何で死んだんだ。まだいくらでもやり直せたのに。考え直して欲しかった。彼への想いで胸がいっぱいになった。溢れ出る言葉はどれもありきたりで、自分が嫌っていた言葉ばかりだった。ロータローはそんな薄っぺらい自分を嫌いになった――わけではなかった。どうしても彼には死を選んで欲しくなかったのだ。
スマホに通知が来た。「何で死んだんだよ」という呟きにお気に入りが1つ付けられていた。
「やっぱそう思うよな」
ロータローは夜空に向かってそう呟いた。
そしてロータローは、自分の死後について考えた。もしもたった今自分が死を選んだとしたら、世界のどこかにいる誰かがひどく悲しんでしまうのかもしれない。悲しんでくれる人がいる内は死なないでおこう。ロータローはそう思った。
ロータローはとぼとぼと帰り道を歩いた。
空になった缶コーヒーをカラカラと揺らした。
コーヒーは苦手なのに、どうして買ったのだろう。
少し考えてみたが、理由はわからなかった。
でも、これでいいのだ。
人間は矛盾に満ちた生き物なのだから。