短編集『矛盾の町』
ヨシタローのレスポール
人は死に直面した際に、やったことよりもやらなかったことに対して後悔するらしい。
いつか機会があれば、時間があれば、お金に余裕があれば……等々。やりたいと思っていたのにやらなかった理由は様々である。
「あの時やっていればよかったのになぁ」なんて、後悔するような生き方をしたくはない。ヨシタローは、最近特にそう思うようになっていた。
理由はもちろん色々あるが、尊敬するミュージシャンが相次いでこの世を去っているせいなのかもしれない。
ヨシタローは音楽を深く愛していた。好きなミュージシャンも星の数ほど居る。しかし、どういうわけか、ヨシタローが好きなミュージシャンが最近相次いで亡くなっているのだ。
あのアーティスト、あのバンドが数年おきに新曲をリリースするのが、当たり前だと思っていた。しかしそれは当たり前ではなかったのだ。好きなミュージシャンが亡くなっていく中で、ヨシタローは初めてそのことに気付いた。
ヨシタローは音楽を聞くのはもちろん、エレキギターを弾くことも大好きだった。
ヨシタローにはずっと欲しいと思っているギターがあった。赤色で、レスポールという形のギターだ。
ヨシタローは、いつか赤いレスポールを手にしたいと思っていた。そう、いつか、である。今でなくてもいい。
今はお金がないから買うのをやめておこう。楽器屋に行くのが面倒なので今回はやめておこう。他に欲しいギターがあるのでレスポールを買うのはやめておこう。……等々。
ヨシタローは、今まで色んな理由をつけて、赤いレスポールの購入を見送ってきた。
しかし最近、「そろそろレスポールを手にした方がいいのではないか」と、強く思うようになってきたのだ。
こうしてヨシタローは、遂に赤いレスポールの購入に踏み切ることになった。
しかし、問題があった。予算があまりないのだ。
レスポールは他のギターと比べて1、2割ほど高いので、安いメーカーが製造しているレスポールを買おうとしても、やはりそれなりの値段になってしまう。それよりも安価にレスポールを調達しようとするならば、もはや初心者セット以外の選択肢は残されていない。
流石に初心者セットを買うわけにもいかず、できればそれなりのクオリティのレスポールが欲しい。かといって予算はあまりない……。
ヨシタローは、行き詰ってしまった。
途方に暮れたヨシタローは、気分転換がてら自転車に乗って外を出歩いてみることにした。
季節は夏。しかも夏真っ盛りである。
真夏の日差しを受けたコンクリートからは、ジリジリとした灼熱のような熱気を感じる。
汗だくになりながら住宅街を自転車で走り抜けていると、時折どこかの家から風鈴の涼し気な音色が聞こえてきた。風鈴の音を聞くなんて久しぶりだなと思い、周りに目をやると、横断歩道を隔てた角地に中古本を取り扱っているショップが見えた。
真夏の暑さにやられ、冷気を欲していたヨシタローは、たまらずショップに足を運んだ。
炎天下の灼熱に晒された熱い体が、店内の空調で冷やされていく。
しばらく涼を取った後、ヨシタローは店内の商品を見て回ることにした。
中古本を取り扱っている店らしく、店内の中古本の数は非常に多い。漫画、文庫本、医学書、専門書、雑誌、なんでもあるような気がする。
古い戦隊ヒーローのおもちゃも売っている。ヨシタローは、そのあまりに品数の豊富さに「ここならなんでも売っているのではないか」と錯覚してしまいそうになっていた。
店内を散策していると、ギターコーナーに辿り着いた。
安いギターから高いギター、その中間のギターまで様々な値段のギターが何本も陳列されていた。
とはいえ、ヨシタローが欲しいと思うようなギターはそこにはなかった。
もう帰ろうと思ったその時、店員が新たにギターを一本運んでくる様子がみえた。
そのギターは……、赤いレスポールであった。
傷はほとんどなく、パーツも全く錆びていない。あまり弾かれていなかったのか、使用感はほとんどない美品だった。
お値段の方も、ちょうどよかった。ヨシタローがレスポールに出せる予算とほぼ同じくらいの値段だった。
「これは買いだ!」とヨシタローはそう思った。
しかし即座に思い留まった。
中古のギターは、断線している箇所があったり木材が反って使いものにならなくなっているケースもあるのだ。ヨシタローはギターのリペアの経験がない。もっと言えば楽器屋にある程度まとまったお金を出してリペアをしてもらうほどの金銭的な余裕もない。
リペア代とギター代を合わせれば、新品のギターを買った方が遥かに財布に優しい場合もある。
様々な可能性を考慮した結果、ひとまず今日のところはレスポールの購入を諦めることにした。
家路につくまで、ヨシタローは「あのギターを買ってもいいのだろうか」と幾度も反芻した。自宅のドアを開け、コップに注いだ水を飲み干した。色々と考え込んでみたものの、まだ答えは出ていなかった。
それから一週間が経った。
ヨシタローは、まだあの赤いレスポールを忘れられずにいた。寝ても覚めてもレスポールのことばかり考えてしまっていたので、意を決して買いに行くことにした。
中古ショップへの足取りは軽かった。
あのレスポールを手にした自分は、一体どういう気持ちになっているのだろう。妄想は止まらない。想いを巡らせている内に、中古ショップに辿り着いていた。
ギターコーナーに向かうと、あのレスポールが鎮座していた。
赤いレスポール。カラーは正確にいうとチェリーサンバーストである。ずっと憧れていた、あのカラーのレスポール。気が付くとヨシタローはレジで支払いを済ませていた。
ギグバッグを背負って店を出る。黒色のギグバッグに入っているのは、さっき買った赤いレスポール。
自転車に跨り、帰路を目指す。レスポールに極力振動を与えないよう、いつもよりゆっくり漕ぐことにした。レスポールを背負ったヨシタローの足取りは、非常に重かった。後悔していたのである。
そもそもこのレスポールは中古である。どこの誰かが使ったのかわからない。ギターのメンテナンスに長けているオタクが使っていたのならまだしも、メンテナンスのメの字も知らないような輩が使っていたとしていたら、ろくでもない状態になっているに違いない。せっかく買ったのにろくに弾けない状態だったらどうしよう……。きっとひどくショックを受けるだろう。最悪の事態を想定すると、全く心が弾まなかった。
家に帰り、ギグバックを開けた。
レスポールを手に取り、しゃらんとかき鳴らしてみる。特に感動はなかった。アンプにつないでみる。高音が強調された迫力のあるサウンドが出た。大音量で、耳が少しキンキンした。
「あれ……? レスポールってこんなんだったっけ……?」
思っていたのと何かが違う。憧れ、思い描いていたレスポールはこれではない気がした。
「ま、まあセッティングが間違っているだけかもしれないし……」
アンプやギターのツマミをいじってみる。30分程の試行錯誤の末、やはりこのレスポールは自分が思うようなサウンドを奏でてくれるギターではないことが判明した。
ヨシタローはひどく落胆した。そして寝込んだ。
夕食もろくに喉を通らなかった。明日の仕事のことを考えると、さらに憂鬱になった。
「ああ……。これから俺は何を目標にして生きていけばいいのだろう」
ヨシタローは天井を見つめながらそう呟いた。
もちろん、答えは簡単である。ギターをもう一本買えばいいのである。今回は中古だったのでダメだっただけかもしれない。新品で、少し高いレスポールを買えばきっと満足できるはずだ。頭ではそう理解できているのだ。しかし、少し高いレスポールを買うとお金がなくなる。ヨシタローにはやらなければいけないことがまだまだたくさんある。たかがレスポールに、そこまでお金を費やせない。新しいレスポールを買うくらいなら、旅行に
行った方がマシである。そうなのである……。
そうなのである。ヨシタローの人生にとって、レスポールは必要ないのである。必要ないからこそ、ヨシタローは今までレスポールの購入を見送ってきたのである。人間、本当に必要なものはすぐに買ってしまうものなのである。購入を見送ってしまうことなどないのである。
「やっぱり俺の人生にレスポールって必要なかったのかな」
レスポールを抱きながら、天井に向かってそう呟く。とても悲しい気持ちになった。しかし、どうにかしてこのレスポールを良いギターにしようと思うほどの愛着もわかなかった。購入一日目にして、ヨシタローは赤いレスポールをもう弾かないことに決めた。
それからの日々は何をしても上の空だった。仕事でも日常生活でも些細なミスばかりだった。
心のざわつきを抑えられなかった。やけ酒をしようとしたが、一口目で虚しくなってやめた。
誰と会う気にもなれなかった。ここではないどこかに行きたいと思った。レスポールの購入に失敗したくらいで、ここまでダメージを受けるとは思っていなかった。ヨシタローは、自分のメンタルの弱さが少し嫌いになった。
ヨシタローは途方に暮れていた。しかし、転機が訪れた。
ネットサーフィンをしていると、楽器通販サイトの広告に映っていた赤いレスポールに目を奪われた。音響屋という名前のサイトだった。たまらずサイトにアクセスすると、エレキギターが一覧で並んでいるページが表示された。ページの上部には赤いレスポールが表示されており、セール中という表記があった。どうやら少しお安くなっているらしい。少し頑張れば買えなくはない値段だった。
ヨシタローはすぐにサイトの評判について調べた。検索して調べた限りだと、悪い噂はほとんど見当たらなかった。
「どうしようかなぁ」
ヨシタローは悩んだ。また失敗したらどうしよう……。レスポールに使えるお金はそんなにない。今ここでレスポールを買えば、少し先に買う予定があった物を我慢しなければならなくなる。三日三晩悩んでから買うかどうかを決めようとしていたが、気が付くとヨコンビニで支払い手続きを済ませていた。
「こんなんじゃお金溜まらないよなぁ」
注文したレスポールの配達状況をスマホで確認しながら、ヨシタローはそう呟いた。
次の日の夜、レスポールが家に届いた。
購入したのは、もちろん赤いレスポール。カラーはチェリーサンバーストである。
堅牢に梱包された段ボールを開けると、黒いギグバッグが入っていた。チャックを開けると、赤色のレスポールが姿を現した。
「おお……」
思わず声が出た。チェリーサンバーストという名の通り、太陽が雲間を照らすかのような夕焼け色だった。ボディの外周部分は暗く濃い赤色で、中心部分にかけて夕焼け色になるようにグラデーションがかかっていた。
ヨシタローはしばらくレスポールに見とれていた。新品のギターは購入したその日が一番綺麗である。ヨシタローは綺麗な状態のレスポールを忘れてしまわないように、スマホで写真を何枚も撮った。ヨシタローはとても満足しているようだった。
ふと、一本目の赤いレスポールと目が合った。
「たまには君も弾いてあげなきゃね」
そう言ってヨシタローはレスポールを手に取った。
適当にローコードを奏でてみる。気のせいか、この前よりずっと良い音がした。
「何だよ、こんなに良いなら二本目を買わなくてもよかったじゃん」
ヨシタローはレスポールを手に取りながらそう呟いた。
しかし、だからと言って一本目のレスポールを売る気にはなれない。いなくなると、それはそれで寂しい気がするのだ。
「ま、いっか。ギターなんて何本あっても困らないし」
そう言ってヨシタローは自分の散財を肯定した。
夏真っ盛りの日の夜、ヨシタローはレスポールで音を奏でる。
ヨシタローが奏でるのは不協和音を含んだコードばかりだったが、不思議なことに耳障りは悪くなく、むしろどこか調和が取れているようだった。