「おいッ! てめえ、何者だ? 何とか言えよ、ニセ狐面」
ドア越しに呼びかけるグレッチ。すると返事があった。
「いや、怪しいものではないよ……。ここに黒野楓さんはいますか……と言うかいるはずだよね……」ぼそぼそとつぶやく、少女の声だった。
「十分怪しいぞ。誰だてめえは?」
「わたしは『エンジェルス・エッグ』……ギタリスト『ラン』。……ただ黒野さんを誘いに来ただけなんだ……。怪しくないよ」
「何だと。何に誘うつもりだ?」
「『サマー・フューネラル』。夏の終わりの一大イベント……。黒野さんが持っている力が欲しいんだ。参加してもらえないだろうか」
「サポートメンバーだったらあたしが代わりに参加してやる、キーボードは弾けねえがテキトーにやるから」
「気持ちはありがたいけど」ちょっと困ったような声でランは言う。「ボーカルのゼルが望んでいるのは黒野さんなんだ。それにキーボードじゃなく、ボーカルとして参加して欲しいんだよ」
「ボーカルなんてやったことないよ」クロノが思わず声を出した。
「やっぱりいた……。黒野さん、その声だよ。あなたの声が欲しいんだ。経験は関係ない……あなたの声が持つ力が欲しいんだよ」
「じゃあなおさらあたしの出番だろ。クロノよりあたしの方が力のある声を出せる。今歌ってやろうか? それがイヤだっていうんなら、あきらめて帰れよ。もうじきうちのメンバーが来て宴会だ」
グレッチが割り込んだのでランはため息をつき、
「しょうがないな……じゃあ、あなたに納得してもらうために『エンジェルス・エッグ』の音楽を聞かせるよ、ちょっとだけね」
言うなり、ランは突然歌い始めた。
どこか遠くの国の言葉で、哀愁を帯びたメロディが、ドア越しに流れてくる。遠い昔に聞いたことのあるような不思議な歌だ。
グレッチは奇妙な気分になっていくのを感じた。酒のせいだろうか? 自分の魂だけが、体から切り離されて、どこか別の場所へ飛んで行くような――
そのせいで、クロノがドアを開け、外へ出て行くのを制止することができなかった。
「なあSG、やっぱ金をかけたモン勝ちだよなあ」赤髪が前を歩いていたSGに向かってそう言う。「最高のギター、最高のアンプ、最高のシールド、最高のピック、最高のストラップ。それさえあれば最高の演奏ができるってわけ。そう思うだろ」
「そうだな。だが一つ大事なものを忘れているぞ。最高のギタリスト」クールな顔でSGは言った。
「まーそうだけどさ……。オレが言いたいのは、結局カネがあるやつがスゲエ音楽やるんだってことだよ。ビンボーだとその時点で差がつく。ああ、こんなこと許されていいのかと。だからオレはそれに対抗して、既存の音楽をぶっ壊すのだ。最低の道具でな!」
そう宣言する赤髪の後ろで、ヒッピーが盛大にアクビをしたのでぶち壊しだった。
「ああ眠い……太陽が目に入るとアクビが出るな……」
「フツーくしゃみじゃねえのか?」
「くしゃみだと?」SGが怪訝な顔になった。「なぜくしゃみが?」
「知らねーけど、オレはそういう体質なんだよ……。目がびっくりして信号を送るんじゃねーの。それより、グレッチの家ってこっちでホントにいいのか?」
「多分そうだと思うが自信がなくなってきたな……。確か、高架をくぐって左に急な坂道がある所って言ってたが、高架自体見つからないんだよな。電話して聞くか」
SGが言いながら辺りを見回していると、見覚えのある、垂れ目気味の女子高生が、なにやら慌てた様子で走ってきた。
「あれ? あいつ見たことあるな……」
「オレは知らねーな」
彼女は三人の所へやって来て、「ねえねえ! わたしの面をつけたヤツ、知らない!?」
「面? ああ、分かった、お前キツネだな」
SGがそう言ったので赤髪も気づいた。「あー。そういやそうだ、で、面がどうしたって?」
「じつはね、さっき知らない女の子に、『そのお面ちょうだい』って言われてさ。断ったんだけど、いきなりその子が歌い出したらヘンな気分になっちゃって……気づいたら面がなかったんだよ! あああわたしのチャームポイントがぁぁ!」
「落ち着けって……」取り乱すキツネをなだめるSG。「そいつの格好は?」
「えっとね、背はわたしとおんなじくらいで、痩せてて髪はボサボサのおかっぱ。ギターケース背負ってて、服は黒いジージャンとスカートで、黒いニーソはいてた」
「ニーソか……」なぜか赤髪はその言葉に反応した。
「なるほど。だいたい容姿は分かった。それじゃ、がんばって探してくれ」そう言ってSGは立ち去ろうとする。
「ええ!? そこまで聞いておいて探してくれないわけ!?」
「オレらはこれから宴会なんだ……それに見つからなくても同じ面はいくつでもあるだろ」
「あれは特別なんだよ! 面の裏側には『魂狐』を結成したときの寄せ書きがあって、そのときの気持ちを絶対忘れないように、って気持ちがこめられてるんだよ!」
「そうか」SGたちはその場を後にした。
「うー……薄情者! こうなったらわたし一人で探してやるよ! 絶対に見つけ出すんだから!」
そう言いながら拳を固める、キツネこと神木恒子だった。
夢を見ているような顔でクロノはランに手を引かれていく。ヒグラシの声が、夕焼けの色に染まっていく通りに響いている。どこか別の世界へ旅立つような気分でクロノは歩いていた。
面を横向きにつけたランは次第に疲れた顔つきになっていった。移動しているからではない。あるものが今の彼女には不足しつつあったのだ。
「また妙なものをつけてますね、ラン」
彼女に声をかけたのは電柱の影から現れた金髪の男だった。さわやかな雰囲気と同時に影がある表情をしている。
「ナギ、買っておいてくれた……?」ランは彼を見るなりそう聞いた。
「これでしょう?」男――エンジェルス・エッグのドラマー「ナギ」はコンビニの袋を彼女に手渡す。
我慢できないといった様子でランは、袋からチョコレートを取り出し乱暴に包み紙を破る。
「落ち着いて剥がさないと銀紙を噛みますよ」
ナギの忠告も耳に入らないようだ。バリバリとチョコレートを獣のように貪る。
「その子が黒野楓――『卵』ですか」
「そう……。今からゼルの所へ連れて行くから……これでゼルの望みがかなう……」
そのとき声がした。「どこに連れて行くって?」
夕闇に包まれつつある路地からだ。
「迷いに迷って出てきたら、キツネから面をパクったヤツに出くわすとはな。しかもうちのキーボーディストをどこかに連れて行こうとしている」SGたちだった。
「『スマッシング・レッド・フルーツ』……か。面倒くさいなあ……」頭をゆらりと揺らしながらランはそちらを向いた。「ナギ、黒野さんを連れて行って。わたしが彼らを説得するから……」
「分かりました。お気をつけて」
黒野の手を引いてナギは立ち去ろうとする。
「クロノ!」赤髪が叫ぶが彼女はちらりと振り向いただけで、そのままナギとともに行ってしまった。
「彼女は自分の意思でゼルのところへ向かうんだよ……。邪魔しないで……」
ランは青いギターを取り出した。「ほう」とSGが漏らす。
「リッケンバッカーか。そんないいギターで殴り合いかい? 痛むぜ」
言いながら彼も、安物の赤いSGを取り出した。
「気にしないよ……ギターは傷つくものだから……」ランがSGをにらみつつ、構えた。
「赤髪、クロノを追ってくれ!」
「オーケイ。ニーソをじっくり見れないのが心残りだがよ」
言って赤髪は走り出す。ヒッピーはその場に横たわり、仮眠を取り始めた。
「……回ってきた……」ランは顔に手を当てた。頭に糖分が浸透していると彼女は感じていた。
ぽたりとアスファルトに赤い染みが落ちる。鼻血だ。
「行くよ」
ゆらりとその体が揺れたかと思うとバネ仕掛けのように飛び掛って来た。
かろうじて回避したSGのサングラスが飛ぶ。
「危ない危ない……。やるじゃないか。……なあ、一つ教えてくれ、どういうわけで、キツネの面を奪ったんだ?」
「わたしはね……。人の持ってるものが欲しくなるんだ、すぐに。頭に糖分が足りてないとそうなるんだよね……。ゼルはわたしよりもすごい力を持ってる……欲しくても手に入らない力が……だから好きなんだ……」
落ちたサングラスを拾ってかけるラン。
「ゼルをがっかりさせたくない。あなたが追いかけてこないようにさせてもらうよ……わたしの歌で」
ランはさっきグレッチに聞かせたのと同じ歌を、歌いだす。
するとSGは何も考えられない、といった表情になり、その場に立ち尽くした。これが彼女の力だった。たそがれに溶け込むようなその曲を歌えば、相手は放心してしまう。
「『サマー・フューネラル』を楽しみにしておいて。それじゃあね……」
そう言って背を向けた彼女だったが、その顔から、キツネの面が剥ぎ取られた。
「えっ!?」
取ったのはSGだった。――動けないはずの彼がなぜ?
慌ててリッケンバッカーを振るが、すばやくSGは回避した。
「返してもらうぞ。まったく手癖の悪いお嬢さんだ、次はオレのグラサンを返してもらおうか」
「どうしてわたしの歌が効かないの……!?」
「聞こえないが『なぜ歌が効かない』って言ってるんだろ? さっき迷ったときうちのギタリストに電話して、君のことは聞いたよ。オレのバンド、練習で爆音鳴らすからさ、そのために買った耳栓が役立ったよ」
「くっ……!」
「さて……叩かれたくないからな、いったん距離をとらせてもらう」
言ってSGは、背を向けて走り始めた。かかってくるかと思っていたランは一瞬虚をつかれ、追いかけるのが遅れた。
我に返って走り出し、寝ているヒッピーの脚を飛び越えたとき、前を走っていたSGが叫んだ。
「ヒッピー、一時だぞ!」
「え!?」
夜中に起こされるときと同じ台詞を聞いて、とっさにヒッピーは跳ね起きた。その脚にひっかかってランは派手に転倒する。
「うわ……悪い、大丈夫か?」寝ぼけつつ謝るヒッピーを無視して、ランは走り出した。膝を擦りむいたが、高揚が痛みを消している。
「わたしからものを奪うなんて許さないよ……」もともと面はキツネから奪ったものなのだが、そんなことはお構い無しだ。
闇に染まりつつある路地を走るラン。やがて、細い袋小路にたたずむSGに追いついた。
「追い詰めたよ……! その面を返してもらうよ。さっきのチャンスに攻撃しなかったのは失敗だったね……」
「まずはキツネの面を取り返したかったんでな。それにしても、君、隙がないよな。フラフラしてるみたいだけど、いい動きするよ。うちの酔っ払いギタリストにも見習わせたい。ま、ないなら、隙を作ろうとオレは考えたんだが……」
「頭にエネルギーが回っている今のわたしに、隙はもう二度とないよ」
言いながらランは跳び、リッケンバッカーを振り下ろした。
そのままSGの頭を直撃するコースだったが、
「!?」
止められた。
SGが受け止めたのではない。空中で見えない何かに引っかかっている。
「これは……弦!」
薄暗くて分からなかったが、ギターのプレーン弦が、路地の両脇の標識とパイプに結ばれ、宙に貼られていた。
「隙ができたな」
一弦のない赤いSGが、脇合いから彼女の顔に向かって迫った。
「……っ! …………え?!」
寸止めだった。
そしてSGは何食わぬ顔でランの横を通り抜けながら、彼女からサングラスを外し、かけた。
「な……なぜ止めたの!?」その背中に向かって叫ぶラン。
「そりゃ、女の子の顔に傷をつけたくないからさ……なんてな。メインの理由は、安物とはいえこいつを傷物にしたくなかったからだよ」言って、赤いSGを撫でた。「それにこれも気に入ってたしな」サングラスを中指で上げ、SGは背中を向けたまま言う。「君のだっていいギターだ。ぶっ壊すのは――せめてライブで最後の曲をやった後だけにしとくんだな」
その背中に襲い掛かろうとすれば、できる。しかしランはそれをしなかった。
そのころ――
「やべえ。クロノ見失った……あとここ、どこだ!?」
赤髪はまた迷っていた。