Neetel Inside 文芸新都
表紙

桜島少年少女
9話 迷秋

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 十月。
 暦の上ではとっくに秋を迎えていて、鹿児島県の暑さも少しづつ落ち着いてきた。
 夏の猛暑によって休止していたアウトドア活動がようやく再開できると思えば、身も心も軽くなり、踊りたくなるような面白いアイデアが次々に浮かんでくる。
 先日、『桜島ワンダーフォーゲル部』の会議で、この時期に最適なアウトドアは何か、意見を求められた時、俺は登山を推した。
 涼しい時期の登山は最高であるし、ワンダーフォーゲル部とは本来、登山をメインに活動するものなので、尚更やるべきだ。ただし、小高い山では残暑が苦しいと思うので、標高が千五百メートルを超える霧島連山を登るべきだと伝えた。
 俺の信用が得られてきたのか登山のアイデアは直ちに採用され、話は進み、登山の日を迎えた。
 この日は文句のつけようがない程の快晴で、強いて言えば陽射しの強さが心配にはなったが実際に霧島連山を登ってみると、肌に当たる涼しい風が心地の良い気候だった。
 登山に参加したメンバーの反応も良く、登山を勧めたのは正解だと思った。こうした最高の環境でアウトドアを再開すると、俺自身のモチベーションが湧き出して全身の力が漲っていくのを感じる。
 何もかも素晴らしい。
 ただ一つ問題がある。それは、この輪を乱す人間が居る事だ。
「おい、高崎。ペース落とせって」
 山の八合目あたりまで登り、メンバーの顔に疲れが見え、足を振る速度も遅くなり始めた頃。高崎は周りのペースを気にせずに、スイスイ登っていく。
「お前、また競争でもするつもりじゃないだろうな」
 先を行く高崎を追いかけながら尋ねると、「そうだよ」と悪びれる様子もなく頷いた。
 正直な奴だ。だが、褒められた事ではない。
「駄目なの?」
「駄目だろ」
「この間だって、八重山で競走したじゃない」
「春のハイキングとは違うんだ。ここは難所の少ない山だが、競争するのは流石に危険だ」
「危険かもしれないけど。前回は私の勝ちで、このまま勝ち逃げしていいのかな?」
「それは、許せない」
 まさか挑発されるとは思わなかった。
 いい度胸をしている。
「それでも、競争は駄目だ」
 挑発に乗りたい気持ちを堪えて、否定した。
 すると、高崎は顔をしかめて、「残念だな」と言った。
 そんなに競争がしたかったのだろうか。拗ねている高崎の様子を見て、少し気の毒に思えた。
 そのまま数分待っていると、大きく息を切らしたワンゲル部の面々が追いついた。
「なあ隼人。ここからでも十分に良い景色だ。ここが山頂という事にならないか」
「なる訳ないだろ」
 直井の弱音を一蹴する。
「もう少しで山頂だから、いったん休憩して、そこから山頂を目指そう」
「分かったよ」
 直井は了承してくれた。
 全員の呼吸が整うのを待ってから再度登り始め、それから数十分で山頂に到達した。
 山頂では視界を遮る物が何一つない、だから、澄み渡る空をどこまでも見渡せる。遥か遠くの桜島の姿まで見る事ができるのだ。
 この素晴らしい景色と気候は桜島が用意してくれたのではないだろう。そう確信して、手を合わせて一礼し、桜島に感謝を伝える。
 一方、隣に立つ高崎は太々しく腕組をして、景色を眺めていた。桜島を愛しているのならば、せめて腕組はやめるべきだ。
「高崎さんと、隼人君は全く疲れ知らずで、凄いね」
 背後の岩場に腰かけた野村が肩を大きく上下させながら言った。
「慣れだよ、慣れ」
「二人とも、ここは何度も登ってるの?」
「俺は十回くらいかな」
 そう言うと、「私は十五回くらい」と高崎が張り合ってきた。子供かコイツは。
「あはは。二人とも、面白い」
 野村が笑い、高崎も小さく笑うが、俺は笑えなかった。
「それにしても、山頂は広いね」
「山頂付近がここまで広々とした山はそんなにないと思うぜ。登りきった達成感を味わいながら、のんびり過ごせるなんて最高だよ」
 団体客は俺達以外に数組訪れているが、互いに干渉する心配がない程に広い。
 いつの間にか、直井と長瀬は近くの平らな岩の上にガスバーナーコンロを設置して、昼食を作り始めていた。
 直井は乱雑に刻んだ肉や野菜をクッカーへどぼどぼと豪快に投入し、ペットボトルの水を流し込んだ。
「何を作るんだ?」
「カレーだよ」
 そう言って直井は、コンロをもう一つ用意して、炊飯を始める。
 山頂で行うにしては大掛かりな調理であるが、それも粋である。直井のアウトドアに対する理解度が深まってきたようで、感慨深かった。
 料理が出来上がるまで、まだ時間がかかりそうだったため、頂上を散策する事にした。
 視界を遮るもののない山頂は、どこにいても最高の景色を楽しむ事ができ、この中で冷たい風を浴びていると、たまらなく気持ちが良くて、この世の楽園に来たように思える。
 多幸感に満ちた夢うつつの状態で歩き回っていると、高崎が何やら手招きをしていた。
 彼女の下へ歩み寄ると、高崎は、「見て」と言った。
「おお」
 高崎が指さす方を見ると、ゆるやかな斜面が長く続き、そこには花を散らした後のミヤマキリシマが彩る緑色の絨毯が敷かれていた。更にそのずっと奥には青く澄んだ大浪池が見え、遥か遠くには力強く構えた桜島が佇んでいた。
「私はここから見る桜島が好き」
「凄い。贅沢な景色だ。桜島は素晴らしいし、ミヤマキリシマも、大浪池も。本当に贅沢だ。贅沢すぎて不純な気がする」
「文句を言われるとは思わなかった」
「いや、褒めてる。とにかく素晴らしい景色だ」
 桜島に見惚れていると、高崎は、「写真を撮っていい?」と聞いてきた。
この景色は写真に残しておくべきだと思ったのでそれを了承する。
「後ろを見て」
 高崎の言う通りに後ろを振り返ると、彼女は手に取ったスマホの画面をセルフカメラに切り替えており、俺と高崎、そしてこの景色を画角に収めて撮影した。
 二人で一緒に写真を撮るという意味だとは思わなかったので驚いたが、妙に心をくすぐられたし、その写真を俺のスマホに送ってもらえた時は気分が昂った。
 写真の中の二人は能人形みたいに硬い表情だったが、それが俺達らしいとも思える。高崎もこの写真を眺めながら満足気に頷いていたので、これで良かったのだろう。
「そういえば。野村の勧めでSNSのアカウントを作ったんだ。だけど作っただけで碌に触っていなくてさ。そうしていたら野村がSNSに写真を載せるように急かしてきてさ。だから、試しに何か投稿してみようと考えていたんだけど。この写真はSNSの記念すべき初投稿に相応しいと思うんだが、どうだ?」
「うん、良いと思う」
「だよな」
 そう言った後、高崎は腕組をする。
「…隼人君は少し変わったよね」
「変わった?」
「アウトドアは一人で楽しむものだと言っていたのに、今ではみんなで霧島連山に登りたいと言うし。人と繋がる為のSNSまで使うようになった」
「確かに。変わったかもしれない」
 俺が変わったのはどうしてだろうか。景色を眺めながら考えてみるが、その理由は思い浮かばない。
「高崎だって、どこか変わった気はするけどな」
「そう?」
 こうやって、高崎と普通に会話ができるのだから、何かが変わったのだろう。
 だが、俺の変化も、高崎の変化も、悪い事ではないように思える。
「まあ、いいや。そろそろ戻ろうぜ」
「そうだね」
 景色を充分に堪能して、俺と高崎はワンゲル部メンバー達の下へ向かった。

「いいタイミングだったな」
 俺達の姿を確認した直井が言った。
 たった今、料理が完成したようで、カレーライスを盛られた紙皿が地面に並べられている。
 一見、粗雑で行儀の悪いように思えるかもしれないが、これもアウトドアらしさだろう。
 全員が岩場に腰かけ、手を合わせると、一斉に食事を始めた。俺も使い捨てのスプーンを手にして、カレーを掬い口へ運んだ。
 ああ、何という事だろうか。
 口の中でカレーの味わいとスパイスの香りが広がっていく。更に、山頂の澄んだ空気が、至高のスパイスとして加わっている。
 カレーのルーは一晩寝かせた方が良いなんて言うが、それは間違いだ。山の上で作ってすぐに食べるのが一番旨いに決まっている。そう断定させるほど、このカレーは魔性的で魅力的だ。
 始めのうちは興奮を胸に秘めて黙々と食べていたが、みんな次第に、「うまいうまい」と言って、調理した直井と長瀬を褒め讃えた。
 やはり山頂での食事は最高だ。重い荷物を抱えてきた直井と長瀬に深く感謝する。
 全員がカレーを食べ終えた頃、野村はコンロで作業を始めていた。
「おお。チタンマグか」
「うん。山の上でコーヒーを淹れる楽しみを、味わってみたかったんだ。こうやって、チタンマグを直火で温めるのは、何だかドキドキするね」
 野村はガスバーナーの五徳の上にチタン製のマグカップを直接置き、そのまま火にかけていた。
「最初は不安かもしれないが、直火でお湯を沸かす事に意義があるんだ」
 野村もアウトドアの魅力を理解してきたようだ。立派に育った我が子を見ているようで、誇らしくて、嬉しくなる。
「ケトルやクッカーでお湯を沸かすと使用する道具が増えてしまうから、直火は道具が少なくて済む。ロマンと実用性を兼ね備えた手法だ。水が沸騰した後に、インスタントコーヒーの粉を振りかけて混ぜていく工程も非日常的でたまらないぜ」
 俺の熱弁を野村は静かに聞いていた。
 コーヒーを淹れる過程を楽しみ。食事を終えて、各自一服した後は、来た時より美しくの精神でこの場を片づけて下山した。
 途中、下山の時であれば競争をしても構わないだろうと、高崎が謎の理論を提示してきたので、それを却下した。
 山を下りてからは長瀬が調達したワンボックスカーにメンバー全員で乗り込んだ。
 道中は登山の疲れで全員、眠りに落ちていた。俺は運転手の直井が居眠りをしないか助手席で見張ったり、静かになった車内を見渡したりしながら今日一日を振り返った。他人からみれば些細な出来事かもしれないが、俺にとっては充実したもので、こうして大学生活を楽しむ事ができれば何よりだと思った。
 こんな事を考えるようになった俺は、高崎の言う通り、変わったのかもしれない。
 鹿児島市街地に到着すると、それぞれの家の近くで一人ずつ車を降りていった。自宅が近所同士の俺と野村は同じ場所で降ろされて、そこから二人で帰る事になった。
「疲れたか?」
「うん」
 野村は高崎と同じか、それ以上に無口だ。しかも、野村は口下手でコミュニケーションが苦手である事から、会話が噛み合わない事が多い。もし俺が無言の空間に耐えられないタイプの人間であれば、こうして野村と一緒に過ごす事は難しいだろう。
 なんとなく野村に目配せすると、彼女は視線を逸らしてしまう。これほど内気な奴がSNS上では数多のフォロワーの前で煌びやかな表情や個性的なポーズを見せて、大量の『いいね』を集めるというのだから不思議である。
「登山は、楽しかったか?」
「楽しかったよ。登山に行くのは、小学校の遠足以来だったから。新鮮だったな」
「良かったな。SNSに載せられそうな写真をたくさん撮れただろうし。苦労して山を登った甲斐があるんじゃないか」
「凄く良かった。だけど。SNSはあくまでもついでだよ」
「ついで?」
「アウトドアとか、外出した時、撮った写真をついでにSNSへ投稿しているだけで。SNSの為に、山を登ったりするわけじゃない」
「なるほど。野村がアウトドアをやるのは、アウトドアを楽しむ事が目的だって事か」
「うん、そういうこと」
 その割には随分と熱中して写真撮影をしていたように見えていたが、野村がここまで強く主張する事は珍しかったので、SNSに関しては彼女なりの拘りや美学があるのだろう。
 その後もSNSに関する熱い話を聞きながら歩いていると、突然、野村はそわそわと落ち着かなくなった。
「どうした?足でも傷めたのか?」
「ううん、足は大丈夫。ただ、最近ね。この辺りに不審者が出るの」
「不審者が?」
「家の近くでさ、私の方をじっと見てくる人が居るんだ。昨日も、そこの電柱の陰に立っていて。その人と目が合ってしまって、怖かった」
「それは本当に不審者じゃないか」
 体験していないのに話を聞いただけで寒気がして、鳥肌が立った。
「冷静に話していい内容じゃないぞ。警察には通報したのか?」
「二週間くらい前に通報して、警戒するとは言われたけど。その後も不審者を見かける事があって、困ってるんだよね」
「それ、困ってるでは済まないだろ」
 どこか悠長な様子の野村を見ていると不安になってしまう。
「やっぱり、そうだよね」
「ああ。とりあえず夜遅くなる時は、親御さんに相談するとか、こうして俺が付き添ってもいいし。とにかく暗い時間に一人で外を出歩くのは、やめた方が良いだろ」
「え、一緒に帰ってくれるの?」
「もちろん。そうするべきだ」
 野村は目を輝かせていた。
 責任は重大だが、野村が不審者に襲われるのを見過ごす事はできない。
「とりあえず今日も家まで送るよ」
「嬉しい、ありがとう」
 野村は疲れが吹き飛んだかのように、浮足立って歩いていた。更に、注意散漫な様子でSNSやアウトドアの話題を語るものだから、しっかり道案内をしろと言ってやりたかった。
 俺も野村の事ばかり気にしていてはいけないと、周囲に気を配ると、すぐ正面、道の真ん中にメッシュキャップを顔が見えないほどに深く被った男が立ち塞がっていた。
「お兄さん、ノムさんの彼氏?」
 その男が話しかけてきた。
 ノムさんとは、野村がSNS上で使っている名前だ。
「違いますけど」
 野村は俺の腕を掴む。どうやらこの男が不審者らしい。
「本当かなあ」
 不審者は首を傾げながら俺の方へ近寄ってきたので、すぐさま野村の腕を引っ張って、脇道へ入り、走って逃げた。
「ねえ、カップルに見えたのかな」
「何を言ってるんだよ。早く逃げるぞ」
 振り返ると、不審者も走って追いかけてきていた。
「このまま真っ直ぐでいいんだよな」
「うん」
 出来る限り早く走るが、こちらは登山道具を抱えているから分が悪い。このままでは直に追いつかれるだろう。
「おい、あんた。ついてくるなよ。こんな事して、ただじゃすまないぞ」
 警告するが、不審者は構わずに追いかけてくる。
 これ以上ついてくるなら、完全に犯罪行為だ。それならば、こちらから攻撃をしても正当防衛になるだろう。
 道端に置かれている黄色のビニール袋を見つけて、手に取る。
「力を貸してください」
 桜島に祈り、すぐ近くまで迫ってきた不審者に袋を投げつけた。その袋は不審者の顔面に直撃し、中に詰まった桜島の火山灰が噴出する。
 灰にまみれた不審者は、「あああ」と叫び声を挙げた。
 不審者に投げつけた袋は自治体が施設や家庭に配布しているビニール袋で、降り積もった火山灰を中に詰めて廃棄する為のものだ。灰の詰まった袋を収集する場所は普通の可燃ごみなどと同じように、町中至る所にあるのでそれを丁度良く見つけて、武器にする事ができた。
「今のうちに、逃げるぞ」
「うん」
 その後、野村が案内する通りに走り続けて、数分。ようやく野村の自宅へ到着した。野村の家は以前に聞いていた通りに立地が良く、門構えまで建てられた立派な造りの一戸建てだった。
 俺は息を切らしながら、野村の方を見る。
「こんな事なら、家の前まで送ってもらうべきだったな」
「本当だね。ごめん」
「いや、いいけど。あの男はSNSで野村に興味を持って、付き纏うようになったんじゃないか?」
「そうだと思う。私の事をノムさん、って言ってたから」
「いまさら、遅いかもしれないが住所を特定されそうな投稿は控えた方が良いな」
「今後はそうするよ」
  野村は不審者が居る方へ振り返る。
「おかげで、助かったよ。ありがとう。隼人君が頼りになったから、あまり怖くなかったな」
「頼りになったか?」
 だから呑気な事を言っていたのだろうか。
「じゃあ、今夜の事はすぐ警察に通報するんだぞ」
「わかった」
 野村は家の門を開けた。そして手を振りながら、「登山楽しかった。またね」と言って玄関の扉を開き、中へ入っていった。
 SNSにはこのようなリスクがあるのだ。フォロワーの数が一桁しか居ない俺にはあまり関係のない事かもしれないが、一応、頭に入れておこう。そう決めたところで、山頂で撮影した絶景の写真を思い出した。改めて見ても良い写真で、これをSNSへ投稿するのだ。初めての投稿なので操作に苦戦するかと思ったが、俺のようなITに疎い人間でも簡単に投稿できるようにシステムが作られていて、すぐに投稿する事が出来た。
 野村にはSNSの利用を勧められていたから、この投稿を見て、きっと感動するだろう。彼女の反応を楽しみにしながら、そして不審者の逆襲に怯えながら自宅へ足を向けた。



 後期のカリキュラムには未だに慣れず、講義への参加を忘れてしまいそうになる事が多い。直井はスマホのアプリを使ってスケジュール管理をしているらしいので、近々そのやり方を教えてもらいたいものだ。
 俺は今日の予定が全て完了した事を手帳で確認し、ワンゲル部の部室へ向かった。
 講義以外の時間はアルバイトのシフトが詰まっていたので、部室を訪れるのは霧島連山の登山以来、数日ぶりだった。
 部室の扉を開けると、いつものように直井と長瀬がテレビゲームで遊んでいて、彼等は俺の姿を確認した途端、ゲームを中断した。
「おい、隼人。久しぶりだな」
「久しぶりって程ではないけどな」
「それで、何だよ、あの写真は。いつ、どういうつもりで撮ったんだよ」
「写真って、何のことだよ」
 惚けたフリをしながらも、内心ではよくぞ聞いてくれたと気分が昂っていた。
「隼人がSNSに投稿した高崎さんとのツーショットだよ。まったく羨ましい奴だぜ」
「ああ。あれは良い写真だろ。あんなに素晴らしい景色は滅多に見れないからな」
「確かに良い景色かもしれないが、話題になっているのはそこじゃあない。隼人と高崎さんが二人仲良く、並んでいる所に注目してるんだよ」
 何だ、それは。
「そんな事はどうだっていいだろ。景色を見ろ。それは霧島連山と桜島に対する冒涜だぞ」
「隼人は本当にそればかりだな」
 直井が期待外れだと言うみたいに溜息をついた。
 女子メンバーは畳の上に座りながら、俺達のやり取りを静かに見守っていた。その中に高崎の姿は無い。
「それで、高崎はまだ来てないんだな」
「今日の会議には間に合わないらしい。だから、参加者はこれで全員だ。それじゃあ、会議を始めよう」
 そう言って、長瀬は手を叩いた。
 今日の会議の議題について。長瀬曰く、ワンゲル部のメンバーが各々で好き勝手な事を言う機会が増えてきたらしい。それによりサークル全体の方向性がぶれるのではないかと、憂いているそうだ。そのため、メンバーの意見を集め、今後の目的と方向性を定めたいらしい。
 ワンゲル部の活動に方向性なんてものは存在せず、好き勝手にやっていくものだと思っていたので、少し感心した。
 会議が始まると、各々がやりたい事を上げていく。その中で俺は『一週間キャンプ』を提案した。
 一週間キャンプとは、その名前の通り。キャンプ場などに、一週間続けて宿泊する事だ。長期間に渡ってアウトドアを行う事で、非日常が日常になる驚異的な体験ができ、アウトドアのスキル向上にも繋がるので提案したのだ。
 流石の俺でもこれまでやった事はないし、想像すると不安を覚えるものだ。それでも一度は体験してみたいし、時間に余裕のある大学生にしかできない事だと思った。すぐに実行するのは難しいので、今後の連休を利用して実行してみないか提案したのだ。
 だが、一週間のハードルは高かったようで、メンバーの反応は悪かった。少し後悔したが、俺は一人でも実行するつもりなので、そこまで気にする事でもないだろう。
 それからしばらく話し合いが続いて、話がまとまった。
 ワンゲル部は一旦初心に還り、簡単なアウトドアを近場で繰り返していき、少しずつ難易度の高いアウトドアに挑戦していくという方向性になった。
 難易度を上げていき、いつかはワンゲル部で一週間キャンプに辿り着く可能性も示唆されたので納得した。
 来週には近場でバーベキューが開催される事も決定したので、どんなアウトドア用品を使うか、今から楽しみだった。
 会議が終わると、テレビゲーム大会が始まりそうな雰囲気になったので、これ以上ここに居る必要はないと思い、部室を抜け出して中庭に出た。
 アパートへ戻る前、会議中は多く発言したために、少し疲れたので休憩がてら自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰かけた。
 秋晴れの澄み渡る空を眺めながら一服を始めたところで、同じく部室から出てきた野村が隣に来た。
「何してるの?」
「一週間キャンプに想いを馳せていたところだ」
「あれは、凄い話だと思ったよ。一週間も続けてキャンプに没入すると、新しい世界が見えそう」
「そうなんだよ。アウトドアは日常から離れる事が目的だけどさ、普通のキャンプでは日常との距離が近すぎるんだ。だから、それでは物足りないんだよな。アウトドアはいわば、現実逃避だ。漠然とした不安は誰だって抱えているだろうが。アウトドアに身を投じて現実逃避をすればいいんだ。完全に日常を忘れるためには、一週間キャンプをする位じゃないといけないんだよ」
「なるほど。それは、そうかも」
 俺の理想に賛同してくれるのは野村だけかもしれない。
「ところで、SNSの調子はどうだ?」
「え?」
 どういう訳か、野村は目を見開いた。
「野村のSNSだよ。ここ数日の投稿は盛り上がっているのか?」
「ああ、うん。そうだね。一昨日ぐらいに高崎さんの家の旅館で撮影した写真を投稿して、それの評判が良かったかな」
「そうなのか。確かに、あの旅館は風情があって、景色も良くて、素晴らしかったよな。だけど、あの写真を今頃になって投稿したんだな」
「うん。まあ、何だろう。旅館の写真を投稿していいか、高崎さんに許可を貰っていなかったからっていうのと。みんなとの思い出の場所を簡単に投稿してしまうのもどうかなあとか、思ってたりして。あと、不審者の件も前から起きてて、いろいろ考えたのかな。やっぱり、SNSの投稿っていうのは、気を遣うし、迷う事も、多いよね」
「そうだったんだな」
 野村はSNSの話題になると、饒舌になるのだが、今日は歯切れの悪い話し方をしていて違和感があった。やはり、不審者に対する恐怖が大きいのだろう。
「あそこは良い旅館なのに、観光シーズン以外は客が少ないっていうんだから勿体ないと思っていたけど。野村がSNSに旅館の写真を投稿した事で、それなりに客も増えるんじゃないか?」
「え、どうしてそう思うの?」
「どうして、って。インフルエンサーの発信には宣伝効果があるって話はよく聞くぜ」
「ああ、そうか。そうかもしれない。でも、その通りだと思う。宣伝効果はあるよね」
 野村は目を泳がせながら話している。やはり、様子がおかしい。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だけど。隼人君はやっぱり、SNSを見てないんだね」
「全く見ない訳じゃない。最近はインド人が現地の屋台で料理を作る動画を見てるかな。食材の切り方とか、調味料の塩梅とか、食器の洗い方がかなり大雑把で。日本とはまるで違う文化だから新鮮で、見ているだけでワクワクするんだ。それに加えて、道路を走るバイクのエンジン音や自動車のクラクションとか、街の喧騒がBGM代わりに絶え間なく響いていてさ。日本とはまるで異なる世界観が堪らないんだよ」
「それは、凄い。面白そうだね。今度見てみよう」
 今一つ反応の薄い野村を見ながら、俺はコーヒーを飲む。
 SNSの話題に対する反応が良くないので、ここは一旦、別の話題に切り替えるべきだと思った。
「話は変わるけど、今度のバーベキューは楽しみだよな。会場はルールが緩くて自由の利く所だから、好きな物を何でも持ち込めるんだ。だから最近買ったアウトドア用品をいくつか試したいんだよ」
「私もナイフを買ったんだよ。立派なのは持ってなかったから、少し奮発して買っちゃった。だから、バーベキューでこれを使うのが楽しみだな」
 野村はスマホで写真を見せてくる。
「おお。これ、かなり良い物じゃないか。今度使わせてくれ」
「いいよ。その代わりといっては何だけど、ナイフの使い方を教えてほしいな」
「ああ、お安い御用だとも」
 アウトドアの話になり、野村は途端に調子が良くなった。だから、これから購入していきたいアウトドア用品だとか、それを使ってどんな活動がしたいかといった話題で盛り上がる事ができた。
「楽しそうだね」
 その話の途中で、横から声をかけられた。
 声の主は高崎だった。アウトドアの話に夢中にだったので、彼女の存在に気がつかなかった。
「ああ、高崎。遅かったじゃないか」
「いろいろ用事ができてしまってね」
 何気ない言葉だが、高崎の抑揚のない話し方のせいで何となく不吉な予感がした。
「ワンゲル部の会議はさっき終わったよ。それで、来週はバーベキューをする事になったんだ。だからスケジュールを調整しとけよ」
「…来週は難しいかな」
「難しい?」
「最近、旅館の予約がたくさん入るようになって、この時期にお客さんが多いのは珍しいんだよね。それで、人手が足りないから来週は私も対応しないといけなくて、参加は難しいんだ」
「そうなのか」
 どういう訳か俺は、胸が締め付けられる感覚がした。
「今日も家の手伝いをしないといけなくて。大事な会議をする事は聞いていたから、顔だけでも出して帰ろうと思ったところ」
「大変だな。まあ、ほどほどに頑張ってくれよな」
「ありがとう」
 高崎は頷いてから小さく手を振ったので、俺も小さく手を振った。
 隣に立つ野村は高崎と打ち解けていないのか、最後まで一言も語らず、軽く目を伏せていた。
「じゃあ俺もバイトがあるし、帰るぜ」
「うん。気を付けてね」
 分かれる間際まで野村は浮かない表情をしていた。
 先程までアウトドアの話題で浮かれていたのに、苦い想いをしながらバイト先へ向かう事になった。
 夏季休暇が終わり、これからは高崎とアウトドアをする機会が増えて。アウトドアを語り合い、時には技術を競い合ったりして充実した時間を重ねていく。そんな風に膨らませていた期待はナイフで切り裂かれてしまった。
 だが、落ち込んでいても仕方がない。
 高崎が自由に動けず苦しんでいるなら、俺も高崎と同じ境遇に身を置いて、痛みを分かち合うべきだと夏の桜島で決意している。だからこの先もそうしようと思う。
 そう思っているのだが、違和感を覚えている。
 今のやり方は何か間違っているのではないか、本当は他のやり方があるのではないか。そんな気がしている。

       

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Neetsha