二月中旬。
大学の構内では彼岸桜が咲き始めており、寒さに支配されていた中庭から温かみを感じられるようになっていた。
ワンゲル部の部室では、期末テストの成績を報告し合って一喜一憂している。
必修科目がどうとか、出席日数や単位が足りないとか、大学に入学する前はまるで外国の言葉みたいに思っていたが、今では当然のように使いこなしている。
「一年目で留年する強者は流石に居なかったな」
長瀬の言葉に全員が頷いた。
「無事、みんな揃って進級できる訳だ」
直井は全員の姿を見渡した後、顔をしかめて、「いや、そうでもないのか」と訂正する。
そう。みんなが進級できるかはまだ分からない。部室にできた輪の中には、高崎が欠けていた。
クリスマスイブに高崎父が倒れて、彼はそのまま息を引き取ってしまった。
見知った人がこの世から消えてしまうのは、俺にとって初めての事で、悲しみや寂しさとは異なる奇妙な感覚に包まれた。
高崎父には世話になっていたので、お通夜に参列させてもらった。
お坊さんが読経している最中、高崎母は俯きながら溢れる涙をハンカチで拭っていて、隣に座る高崎はいつもの無表情でぼんやりと供え物を眺めていた。
その時に聞いた話では、彼が亡くなった原因は心筋梗塞で、仕事の過労と、普段の不摂生が原因になったそうだ。
焼香の後、高崎に促されて高崎父の顔を見せてもらうと、安らかな表情ではあるが、最後に会った時と同じように青白い顔色をしていて、やはり当時から体調が優れなかったのだろうと伺えた。
通夜の後は、食事会のようなものが始まるようだったので、そのような場が苦手な俺は高崎に挨拶をしてさっさと帰る事にした。
その帰り際、
「せっかくだから食べていけばいいのに」
なんていう、高崎らしくもない言葉を掛けられた。
高崎はいつも通りの様子に見えるが、彼女なりに平静を取り繕っていたのだろう。いつにも増して活気のない様子が何となく伝わってきたりもした。
俺はどんな言葉をかけていいのか分からず、「また」とだけ言うと、高崎は静かに頷いた。
だが、今日に至るまで高崎と会う事は叶わなかった。
それから、何となく気まずくなったワンゲル部内の雰囲気を見た長瀬が口を開く。
「高崎さんは、まあ、なかなか連絡も取りにくい状況だし。戻ってきてくれるのを祈って、静かに待とう」
その言葉に、全員が小さく頷くが、俺は祈っているだけでいいのかと疑問に思った。
待ってばかりいては、これまでと同じ後悔を繰り返す気がしたが、今回ばかりは本当にどうしようもないように思える。
「これから長い春休みだ。ワンゲル部の活動も一先ず間を置いて、帰省する奴もいる。それでも、もし何か活動をしたい時は声を掛け合い。可能ならば、落ち合おう。それでは、解散」
最後に長瀬が言って、集会は終わった。
俺は二ヶ月ほどの春休み期間中に、一週間キャンプを計画していたのだが、今のモチベーションでは実行できるか怪しい。
浮かない気持ちのままキャンパスを出た時、スマホに通知が入った。
メッセージの送信者は高崎で、吹き出しの中には、「いまから会って話がしたい」と書かれていた。
待ち合わせ場所はいつもの桜島フェリー乗り場だった。
「この間は、お通夜に来てくれてありがとう」
どうしようもない程に落ち込んでいるのではないかと心配していたが。高崎らしい、不器用な微笑を浮かべていたので少し安心する。
「もう大丈夫なのか」
「身辺整理は落ち着いたかな。お骨は錦江湾に蒔いてくれって、昔から言われていたんだけど、そんな簡単には決められないよね。遺書とかに書いてあれば別だけど。そんなの用意されてないし、だからお骨は家に置いてある」
故人の事を朗々と話す高崎の様子を見るに、気持ちの整理までついているのかもしれない。
「役所の手続きがあったり、旅館を臨時休業にして、旅館の仕事に関わっている人達と調整をしたりで、慌ただしくて学校どころじゃなかったけど。とりあえずは落ち着いたよ」
「そうか。まあ、事情が事情だから期末テストの追試は受けられるだろうし、そこは問題ないだろうな」
「いや、テストは受けないよ」
「え?」
「大学は辞める事にしたんだ」
何かの聞き間違いだと思った。
「何だよそれ」
「大学を辞めて、鹿児島から離れるんだ」
まるで意味が分からない。
「お母さんの実家は福岡市内でさ、実は凄く都会人なんだよ。だから、私もめでたく都会っ子になるんだ」
「いや、だから、意味が分からない。どうして鹿児島を離れるんだ」
「まあ、いろいろあって」
「いろいろってなんだよ」
訊ねると、高崎は口を閉ざす。
「なあ、教えてくれよ」
何を隠しているのか、こればかりは聞き出さずにはいられないが、高崎は首を横に振る。
それでも頑なな姿勢を崩したくて、じっと視線を送り続けていると、彼女は観念した様に「分かった」と言った。
「桜島を見たくないの。桜島が私の視界に入るのが辛くて。鹿児島に居る限り、どこにいても桜島が見えてしまうから、辛い」
「親父さんの事と関係があるのか?」
「うん。お父さんが死んじゃってから、考えるんだ。旅館が桜島じゃなくて、鹿児島市街地の方にあれば、こんな事にはならなかったかもしれない。大きな病院に近ければ、助かったかもしれない。私が旅館の仕事をもっと手伝っていれば身体を悪くする事はなかったんじゃないか、とか。ネガティブな事ばかり考えてしまう。考えても仕方ないから、忘れてしまおうとしたけど、桜島がある限り、どうしても忘れられなくて。考えれば考える程、桜島が憎くて、堪らなくなってしまう。まるで、お父さんは桜島に殺されたような気分にまでなってしまうんだ。だから、桜島なんて見たくない。だけど鹿児島に居る限り、桜島は視界から消えてくれない。どこにいても桜島がついてきて、どこにいても苦しくて。だから、鹿児島を離れたいと思ってるの」
高崎は涙を溢した。
気持ちの整理なんてついていなかったのだろう。彼女の抱える負の感情の大きさを知り、掛けてやる言葉が見つからなかった。
「でも、鹿児島から離れるのは少し待ったらどうだ。いまは辛くても、桜島だって、いつか、慣れるかもしれない。直井なんか、鹿児島に来てすぐに桜島は見飽きたとか言ってるんだ、おかしいよな」
考え直すよう強く勧めるが、高崎は首を横に振る。
「私もそう思ってたけど、桜島に慣れる日が来るか、分からない。これまで、既に二ヶ月間耐えてきたけど、もう限界なんだよ」
「でも。あれだけ桜島が好きだったじゃないか」
そう言った後で、高崎の鞄にいつもぶら下がっていた『さくらじまん』のキーホルダーがなくなっている事に気がついた。
「確かに、桜島は好きだった。だけど、今は違う。桜島から離れたっていい。気分を一新して、都会暮らしをするのもいいかなって思ってる。アウトドアはできなくなるけど、元々、都会は好きだから。博多の生活が楽しみでもあるんだ」
なんだ、それは。
「桜島だけじゃなくて、アウトドアからも離れるのか?」
「そういう事になるかな」
まるで俺の聞きたくない言葉を、選んで並べている様だった。だが、そんな筈はなく、むしろ苦しみながら言葉を吐き出しているのが伝わってくる。
「でも、そうしたら。ずっと一緒に居るって約束はどうなるんだよ」
とうとう耐えかねて、俺まで言いたくない事を言ってしまった。
「それも、もう無理だよ。隼人君とは、これでお別れになるのかな」
「駄目だ。そんなの、駄目だ」
最早、否定する事しかできない。
「そう言ってもらえるのは、嬉しい。だけど、桜島が嫌いで、アウトドアを辞めた私の事を好きだなんて、思えないよね。隼人君が愛している桜島の事を悪く言う人間の事なんて、嫌いになるよね」
一瞬、高崎の言う通りかもしれないと思ってしまった。
だから、返す言葉が出なかった。
「じゃあ、これで。お別れだね。野村さんの事を大事にしてあげて」
そう言って高崎は最後に笑って見せた。
どんな気持ちで笑顔を作れるのか、少しも理解できなかった。
踵を返して去っていく高崎に声を掛ける事はできず。しばらくして、桜島フェリーに乗りこむ高崎の姿を見た。彼女も俺の方を見てくれているのかは分からなかった。それから何もできないまま、高崎を遠くに運んでいくフェリーを静かに眺め続けた。
また、こういう事になるのか。
どうしようもない、理不尽を何度も繰り返し与えられては、仕方ないと受け入れて、心を擦り減らしながら、生きていくしかないのだろうか。
何の希望も持たず、諦めて楽観的になればいいと、思い至ったがそんな簡単に割り切れたりはしない。
フェリーは港から遠く離れて小さくなり、桜島に飲み込まれるみたいに見えなくなった。
途方に暮れて、桜島に話しかけたが、こんな時になっても、彼から返事はない。最後に桜島と会話ができたのは何時だっただろうか。もう思い出せない。
・
寒さの残る春休みはひたすらに虚しかった。
時計の針が進むのを眺めているだけのような暮らしをしばらく続けていたが、それはあまりに息苦しく、耐え難いものだったので、桜島の礼拝とアウトドアに没頭した。そうする事で、心の穴を埋めようとした。
こうなっても桜島とアウトドアに縋ってしまうのは、砕けて散った宝石の欠片を拾い集めているようだった。
これはただの現実逃避であるが、それが悪い事だとは思わない。現実逃避をしながら、ゆっくりと痛みを忘れる以外に、どうしようもないからだ。
決して、すぐに諦めた訳ではない。他に良い方法はないか、ひたすら考えた。高崎と一緒に鹿児島を出て暮らすのはどうかなんていう大胆な事まで考えたりもした。だが、これまで俺と高崎の関係を結びつけてくれていたのは桜島とアウトドアだ。それを失くした時、高崎と繋がりを保つ自信がなかった。
実際、俺と高崎は繋がりを失いかけている。
今では、高崎の居ない虚しさだけが二人を繋いでいるようで、どうしようもなく苦しかった。こんな想いをするくらいなら、いっその事、繋がりを断ち切ってしまった方が楽ではないかとさえ思ってしまう。だが、断ち切る方法なんえ何もないし、自然に消えていくものだ。だから、俺にできることはもう何もない。
現実逃避の一環で、今日もワンゲル部の部室を訪れた。
春休みに部室を訪れるのは、バイトに明け暮れて地元へ帰省する機会を失った直井と俺だけだった。
「今日もしょぼくれているな」
直井は溜息をつくように言った。
「やっぱり、そう見えるか?」
「見えるね。魂が抜け出てしまったみたいだ。隼人を支えていたのは桜島だと思っていたけど。今思えば、高崎さんだったのかもな」
「それは、その通りかもしれない」
桜島との会話ができなくなってからも、ここまでやってこられたのは高崎のおかげだろうか。
「だけど隼人の事を支えているのは高崎さんだけじゃないぜ。隼人のためなら、俺も何だってしてやる。どこまでも背中を押してやる覚悟はあるからな」
「ありがとう、助かるよ」
直井の言葉は本当にありがたかった。だけど高崎が居なくなったいま、どこへ向かって背中を押してもらえばいいのかさえ分からない状態だ。
週末になり、暇を持て余していたため、野村に誘われてSNSの撮影を手伝う事になった。撮影場所は昨年の夏に訪れた、桜島フェリー乗り場近くのグランピング施設だ。SNSの活動が順調な野村は施設側から、サービスの宣伝を依頼されたそうだ。宣言していた通り、野村は努力をして前へ進んでいるようだ。
撮影日の朝、部屋を出る少し前に高崎からメッセージが届いた。
内容は、今日の午前十時頃に発車する新幹線で鹿児島を発つとの事だった。
まさか高崎から別れを報せてくるとは思わなかったが、本当にこれで最後なのだろう。
もしかすると、最後に会って挨拶でもしたいなんて意味が含まれているかもしれないと思ったが、野村と先約を交わしているし、高崎との縁は既に切れている。だから撮影の約束を破棄してまで、高崎に別れを告げに行く必要はないだろう。
そう考えた時、「それでいいのか」と聞き覚えのある声が耳に届いた。気がした。
葛藤を終えると、部屋を出てクロスバイクに跨り、グランピング施設へ向かう。
この日は、快晴の空で、写真撮影には申し分ない気候で、高崎の旅立ちにも相応しい日だと思った。
それから施設の最寄り駅あたりで、野村の後姿を見つけたので、バイクから降りて、「おはよう」と声をかけた。
「自転車で来たんだね」
「ああ、最近は専らコイツだ。乗っていて楽しいし、電車代の節約もできるからな」
「なるほど、良い事づくめだ」
「ああ。それにしても今日は撮影日和だな。こんな晴れやかな空を見ていると、いよいよ春が近い感じがするよな」
「隼人君の表情は、だいぶ、曇っているみたいだけど」
「そうか?」
俺は明るく振舞っていたつもりだったが、野村は見透かしたようで、ジメジメとした目つきでこちらを見てくる。
「そうだよ。やっぱり、高崎さんの、退学の事だよね。私も少し違うけど。気にしている事がある」
「高崎の、お父さんの事か?」
「うん。グランピングのところへ行く前に、少し話をしてもいい?」
野村は足を止めて訊ねてくる。
「ああ、いいよ」
「高崎さんの旅館が忙しくなったのは、私がSNSで宣伝したからで。だから、お父さんが倒れたのも、私のせいだと思うんだ」
「それは違うだろ。SNSで旅館の宣伝をしようと決めたのは、高崎のお父さんだって。それに、旅館が忙しくなったのも望んでいた事だって、高崎も言ってたじゃないか。だから野村は何も気にしなくていいだろ」
「分かっているけど。そもそも私が提案しなければ良かったかもしれない。何より私は邪な気持ちで提案した訳だし」
「もう、終わった話だろ。野村がどんな気持ちだったかなんて、関係ない」
「関係なくても、気にしてしまうんだよ」
野村は俯いて、震えた声を出した。
これ以上、励ます言葉が見つからず、何の言葉もかけてやれなかった。
少しの間、沈黙していると、野村は顔を上げた。
「この前、高崎さんから、電話が来たんだ」
「電話が?」
「こうなったのは、野村さんのせいじゃないから。気にしないで。って、それだけ言ってくれた。これで気にしないのは、無理だけど。少しだけ気が楽になった」
高崎の気配りで少しは救われていたようだ。
「それでね。隼人君と仲良くして、と言ってくれた。その言葉がなかったら、私は今日、隼人君と会う事はなくて、もしかしたらこの先、隼人君と二人で会う事もなかったかもしれない。そうじゃないと、私はあまりに卑怯な人間になってしまうから」
何が、卑怯なのか、いまひとつ理解できなかった。ただ野村なりに気持ちの整理はついているようで安心した。
「隼人君は、これから、どうするの?」
「どうするって、何を?」
「高崎さんとの事。今は辛いかもしれないけど。隼人君なら、何とかするんでしょ?」
「それが、どうしようもないんだ。高崎は、もう桜島とアウトドアから縁を切るから。それで、俺との関係も終わりだって話になったんだ」
俺が言うと、野村は首を傾げる。
「なに、それ。高崎さんが、そう言ったの?」
「はっきり言われた訳じゃないけどさ。高崎が桜島を嫌いになって鹿児島から離れるなら、もう駄目かもしれないって思ったんだ。それに、今朝、俺の方にも高崎からメッセージが届いたんだよ」
「メッセージ?」
「ああ、今日の午前十時に新幹線で鹿児島を出るって書かれたメッセージだ」
「それだけ書かれてたの?」
「そうだ。これでお別れって意味なんだろうな。いろいろあったけど、最後はあっけないものだよな」
俺が言うと、野村は、「違うでしょ」と呟いた。
「お別れって意味じゃない。桜島と縁を切るのだって、隼人君と縁を切りたいわけではないはず」
「いや、そんなの、分からないだろ」
「分かるよ。むしろ、どうして分からないの?」
「どうしてって言われても」
「分からないなら、教えてあげる。高崎さんは、最後に隼人君に会いたくて、メッセージを送ったんだよ」
「何だよそれ、本当に、そうなのか」
「いいから、早く、会いに行くべきでしょ。そうしないと、間に合わない」
「でも、今日は撮影の約束をしてたじゃないか」
野村は首を横に振る。
「私はこれまで、卑怯な手段ばかり選んできたから。これから先は、正々堂々としていきたい。だから、ここで無理矢理引き止めたりはしない。隼人君は、高崎さんのところに、行きたいんだよね。それなら、そうするべき。やりたい事をやりきるって、誓ったよね」
野村に諭されるのはこれで二度目だ。そして、俺の心は、高崎だけを描いている。他には何もなかった。
「分かった」
覚悟が決まる。
「高崎のところへ、行くよ」
ようやく向かうべきところが見つかった。
金縛りが解けたみたいに身体は軽くなっていて、すぐにでも飛び出したい気分だ。
「桜島の前では、嘘をつけないから、それが本当の気持ちだよね」
「ああ。嘘はつけない。俺は高崎と一緒に居たい」
野村にこんな言葉をかけたくないが、ここは本音を伝えるべきだと思った。
その瞬間。錦江湾の海面で、何かが動いて、俺達はそちらへ視線を奪われた。
太陽の光が海水に反射して目がくらみそうなほどに眩しかった。そして、海面の上から頭を出し、優雅に跳ねるイルカの姿を見た。
「イルカだ」
野村が呟いた。
イルカは数頭の集団を作って泳いでおり、入れ替わりで跳ねては沈みを繰り返し、ゆっくり移動していく。
「凄い。たくさんいる」
イルカ達は我々に警戒する事もなく、優雅に泳ぎ続けている。
「夏の桜島で、イルカを探したよね」
「しばらく探したけど、結局見つからなかったな」
「うん。あの時、もしイルカが来てくれれば、もう少し一緒に居られるんじゃないかって思ったんだ。だけど、上手く行かないね」
どういう意味だろうか。
「分からなくていい。分かったら、隼人君らしくない。じゃあ、早く、行って」
俺が理解できていないのを察したのか、すぐに追い払おうとする。
「いいのか」
「いいから」
野村はこちらを見ずに、イルカを眺め続けていた。
俺は野村の姿を見送りながらクロスバイクに跨り、強くペダルを漕ぎ出し、鹿児島中央駅へ向かった。
・
勢いよくクロスバイクを走らせてから数分が経ち、鹿児島中央駅のシンボルである、屋上の赤い観覧車が見えてきた。
目的地は見えてきたが観覧車の輪はまだ小さくて、遠い。
このままでは新幹線の発車時間に間に合いそうにない事を悟り、奥歯を噛み締める。
昨年の夏、本当は高崎の仕事を手伝いたくて仕方がなかった。秋には何とか手助けしようと思ったのに、結局は何もできなくて悔しい思いをした。
だからこの先は、やりたい事を全てやっていくと誓った。
それなのに、結局は同じ過ちを繰り返して、同じ後悔を抱えている。
高崎と最後に会った時、助けを求めているのではないかと薄々気づいてはいた。今朝届いたメッセージの意味だって、もしかしたら、俺に会いたいと思ってくれているのではないかと、何となく考えたりもしていた。考えた上で、高崎についていけたらという想いもあった。それなのに、桜島とアウトドアから縁を切る自信がなくて、目を背けていたのだ。
救いようのない愚か者だ。
だが、それも、本当に終わりにする。
理不尽な環境の変化に負けて、何もできない事が辛くて、自分の殻に閉じこもった事は何度もある。それは俺だけじゃない。誰だってそうだろう。そうだとしても、俺はそこから抜け出したい。
もし、無事に高崎と再会できたならば、桜島と、アウトドアとは、お別れだ。辛い決断だが、それでも、俺は高崎と一緒に居たい。その為なら、高崎にどこまででもついていく。だから、ペダルを漕ぐ足は止めない。諦める訳にはいかない。
その時、「隼人」と俺の名前を呼ぶ声がする。
聞き覚えのある声、それは間違いなく桜島のものだ。
「久しぶりですね」
息を切らしながら言葉を返す。
「ああ。君が大切な事に気づいてくれるのを待っていたよ」
「そういう事だったんですね。だけど、これでお別れです。俺は、高崎についていく為に、鹿児島から離れます」
「そのようだな。だが、心配は無用だ。隼人と高崎氏を結わえていたものは、私ではなく、お前達が二人で共に過ごした時間だ。共に時間を過ごすための手段が、偶々、私とアウトドアだっただけだ。私達から離れるなら、別の手段を見つけて時間を共有していけばいい」
「…ありがとうございます」
餞別の言葉に涙がこぼれそうだった。
「最後に、お礼をさせてくれないか」
「何のお礼ですか?」
「これまで、私を愛してくれたお礼だ。いま、彼女に会いたいと必死になっているのはよく分かっている」
彼の言う通り、俺は必死だ。
このままでは新幹線が出発する時間に間に合わない。それが苦しくて、悲しくて仕方ない。だけど、桜島が話しかけてくれたのは嬉しくて、とにかく感情が滅茶苦茶になっている。
「だから、最後にとっておきを贈りたいと思う」
その言葉の直後、地面の奥底から何かが軋むような低い音が聞こえてくる。そして、俺の背後の遥か遠くから大きな爆発音がした。
俺は足を止めて振り返り、我が目を疑った。
桜島の火口から溶岩が噴き出していたからだ。晴天の日中で、赤く輝く溶岩が見えるのは、滅多にない事だ。更に、今まで見た事のないほどの速さで、噴煙が空を昇っていく。
これが桜島の贈り物なのだろうか。普段の噴火とは規模がまるで違う。
鹿児島市街地の上空まで噴煙で覆われそうなほどの力強さで、付近にいた誰もが驚き、桜島に視線を奪われていた。
「隼人、足を止めるな。早く行け」
桜島が言った。
俺は慌てて、ペダルに足をかける。
クロスバイクを走らせながらも、地面が小刻みに揺れているのが何となく伝わってくる。
いつしか街中のサイレンが鳴って、桜島の大噴火を報せ始めた。
「餞別を、ありがとうございます。ただ、少しやりすぎじゃないですか?」
俺は桜島に言うが、返事はなかった。
ようやく駅に到着した頃には酸欠で息切れが止まらなかったが、気力を振り絞って階段を駆け上がる。それから駅の構内に入って、券売機の前に立った。しかし、高崎が乗る時刻の切符を発券する事ができない。すぐに時計を見ると、新幹線が発車する午前十時を迎えていて、それが理由で発券ができないようだ。
間に合わなかった。
覚悟を決めて、皆に背中を押してもらって、ここまで来たのに。こんな終わり方があるのか。
俺は券売機から離れて、近くのベンチに腰かける。そして、改札を出入りする人々を呆然と眺めた。
やはり遅すぎたのだ。最初から、覚悟を決めておけば、こんな事にはならなかった。
もういい。後悔する事にも疲れてしまった。何も考えたくない。そう思って俺は深く俯いた。
「何してるの?」
殻に閉じこもった途端、声をかけられて顔を挙げる。
目の前に立っていたのは、高崎だった。
「高崎、何で、ここに」
俺は慌てて立ち上がる。
「何でって、新幹線に乗ろうとしたけど、止まったんだよ。アナウンスで言ってるでしょ。だから、戻ってきたんだよ」
新幹線が止まったとは、どういう事だろうか。
俺は電光掲示板を見る。そこには、新幹線の運転見合わせに関する情報が書かれていた。
要約すると、大量の降灰による視界不良と火山性地震の影響で、新幹線や在来線の運転が休止されているとの事だった。
ここまで全力でクロスバイクを走らせてきた疲労と酸欠で、周囲の情報を認識できなくなっていたようだ。
「そうか、良かった。俺は高崎に会いたくて。福岡でも、どこでもついていこうと思ったんだ。だけど、それを決断するのが遅くなって。ギリギリになってしまってさ。いや、実際は間に合わなかったんだけど、結果的には何とかなったみたいだ」
高崎は俺を見つめ、黙って話を聞いてくれている。
「俺は桜島とアウトドアが大好きで。そのおかげで、高崎や、ワンゲル部のメンバーと出会う事ができた。でも、これからは桜島とアウトドアから離れるから、それが心配で、覚悟を決めるのに時間がかかってしまった」
そこまで言って、俺は言葉を止める。
「こんな長ったらしい理屈はいいや。高崎が桜島を嫌いになっていようと関係ない。どんな高崎とでも、一緒に居たい。どんな俺だろうと、どこまででも付いていきたい。だから、一緒に居させてほしい」
俺は、高崎に想いをぶつける。
高崎は、俺の目を見つめたまま、「私も一緒に居てほしい」と言った。
いつしか俺は、高崎の身体を抱き寄せていて。彼女も俺の身体に腕を回してくれた。
「ここに来る途中、新幹線の発車時刻に間に合わないって思った時にさ、桜島の声が聞こえたんだ。それで、俺達のために噴火して新幹線を止めてくれたんだ」
「何それ。そんなの、信じないよ」
「やっぱり、桜島への愛が足りないな」
「桜島は嫌いだから」
「ああ、そうだった」
「でも、もし、本当に桜島が私達を助けてくれたなら。桜島を少しだけ許せるかもしれない」
そう言って、高崎は小さく笑った。
窓の外を見上げると灰色の空が広がっていて、旅立ちの日には相応しくない空模様となってしまった。
この薄暗い空を見ていると、何となく不吉な予感がする。だが、そんな事はもう、どうでも良かった。