青春小説集「タンクスラム」追加
「タンクスラム」
先の戦争では大量の戦車が投入され、動けなくなった戦車は戦後そのまま打ち捨てられた。それらはそのまま住居となり、家を失った人々が戦車に住み着き、スラム街を形成した。いわゆる「タンクスラム」と呼ばれるそこで私は生まれ育った。
戦車の内部は広くない。家族で住むには向いていない。しかしそこかしこから集まってきたならず者や戦災孤児が住人の大半であったため、むしろ大勢では暮らしたくない人たちが集まっていた。
戦車の内部は住居には向いていない。分厚い装甲のおかげで夏は熱く冬は寒い。通気性は最悪なので上部ハッチを開放していなければならないため、雨も虫も他人も入り放題である。小便は容器に溜めて後で捨てにいく。大便を戦車の中ですると自分が苦しむだけなのでいちいち外に出なければならない。中には器用に戦車を改造して、砲塔から便を外に流す仕組みを作った者もいたが、逆流して大変なことになる場合もあった。
外部の者がタンクスラムに入り込んでくると、スラムの住人はまず彼らに砲塔を向けた。一部の機能が残っている戦車もあったのだ。しかしそこから砲弾が発射されることはなかった。武器となるものはとっくに取り上げられていた。兵器としては役に立たない戦車で組み上げられた街の中で、人としては役に立たない者というレッテルを貼られて生かされているのが私たちだった。世間的には見えないのと同じことにされていた。外部から人が入り込んできても、同じくらいの数だけ日々野垂れ死んで行く者もいるため、スラムの人口は変わり映えしなかった。
物心つく前にタンクスラムに捨てられた私と、十分過ぎるほど外側の世界で生きたガダとが出会ったのは、彼女が亡くなる一週間前だった。生きるために身体と心とを切り刻みながら過ごしてきたらしい彼女は、あらゆる病に犯され、粗大ごみのようにタンクスラムの入り口に打ち捨てられていた。
「うちに来る?」
私が彼女に声をかけた際、周囲の住人は皆「やめとけ」と手と首と足を振った。彼女を蹴り転がして、「外側」へ送り返そうとする者もいた。しかし私は彼女の容姿はどこか私に似たところがあり、母親なのではないかと思ったのだ。実の母親が迎えに来てくれたのでは、と信じたかったのだ。
「名前は?」と聞いた時に「ガダ」と聞こえたので、私は彼女をそう呼んだ。もうはっきりとした言葉は聞き取れなくなっていた。ぼろぼろの口から発された雑音がいくつか固まったものを、名前と受け取っただけのことかもしれない。
ガダを背負って戦車の中に降りるのは一苦労だった。決して力の強い方ではない私でさえ背負えるくらいの体重しか彼女には残っていなかった。「外側」に体重も記憶も心も健康も、全て置いてきたようだった。スラムの中にもたくさんの心と身体を切り刻んで生きる人たちはいたが、彼女ほどボロボロになっている者はいなかった。ボロボロになり切る前に、殺されるか死ぬか出ていくかする人が大半だったせいでもある。
ガダは私に向かって「私はあなたのお母さんよ。あなたをここに置き去りにしてごめんね」なんて遺言を残すことはなく、うーうー言ってるなと思ったら翌朝息絶えていた。私は死体置き場となっているタンクスラムの端の巨大な穴に彼女を引っ張っていくと、服と肉とが途中でずるずると剥がれ落ちていった。
ガダと出会う前は「ここを出ていくんだ」とずっと思っていた。ガダと出会ってからは「ここを出ていかない方がいいんじゃないか」と思えてきた。このまま行けば他の住民と同じような野垂れ死にか気まぐれな殺人ごっこの巻き添えか、薬に逃げての自己破滅か、どのみち長くは生きられない。しかし外側でもやや形を変えただけの似たような生と死が転がっているのならば、出ても出なくても同じことじゃないか。ガダのように、人としての形を半ば失うほどズタボロになってしまうくらいなら、人の形を保ったままでいたかった。
ガダを捨てた後自分の戦車に戻ると、ガダの残した腐臭が鼻についた。戦車内の換気には時間がかかる。私はその腐臭を母親のものだと思うことにした。やがて悪臭に鼻も慣れた。どんな悪習にも人は慣れる。誰もがあらゆる悪事に当たり前のように手を染めていた。誰かがハッチの上からうちの中に放尿してきやがったので、私はそいつを刺すために、鉄を鋭く削ってナイフ状にしたものを手に取り、ハッチを上がった。
結論として私は相手を傷つけることはなかった。そこでの出会いで、私に初めて恋人が出来て、二人でともにタンクスラムを抜け出すことになるのだが、その経緯はここでは割愛する。この街で青春ストーリーは進行しない。
(了)
戦車の内部は広くない。家族で住むには向いていない。しかしそこかしこから集まってきたならず者や戦災孤児が住人の大半であったため、むしろ大勢では暮らしたくない人たちが集まっていた。
戦車の内部は住居には向いていない。分厚い装甲のおかげで夏は熱く冬は寒い。通気性は最悪なので上部ハッチを開放していなければならないため、雨も虫も他人も入り放題である。小便は容器に溜めて後で捨てにいく。大便を戦車の中ですると自分が苦しむだけなのでいちいち外に出なければならない。中には器用に戦車を改造して、砲塔から便を外に流す仕組みを作った者もいたが、逆流して大変なことになる場合もあった。
外部の者がタンクスラムに入り込んでくると、スラムの住人はまず彼らに砲塔を向けた。一部の機能が残っている戦車もあったのだ。しかしそこから砲弾が発射されることはなかった。武器となるものはとっくに取り上げられていた。兵器としては役に立たない戦車で組み上げられた街の中で、人としては役に立たない者というレッテルを貼られて生かされているのが私たちだった。世間的には見えないのと同じことにされていた。外部から人が入り込んできても、同じくらいの数だけ日々野垂れ死んで行く者もいるため、スラムの人口は変わり映えしなかった。
物心つく前にタンクスラムに捨てられた私と、十分過ぎるほど外側の世界で生きたガダとが出会ったのは、彼女が亡くなる一週間前だった。生きるために身体と心とを切り刻みながら過ごしてきたらしい彼女は、あらゆる病に犯され、粗大ごみのようにタンクスラムの入り口に打ち捨てられていた。
「うちに来る?」
私が彼女に声をかけた際、周囲の住人は皆「やめとけ」と手と首と足を振った。彼女を蹴り転がして、「外側」へ送り返そうとする者もいた。しかし私は彼女の容姿はどこか私に似たところがあり、母親なのではないかと思ったのだ。実の母親が迎えに来てくれたのでは、と信じたかったのだ。
「名前は?」と聞いた時に「ガダ」と聞こえたので、私は彼女をそう呼んだ。もうはっきりとした言葉は聞き取れなくなっていた。ぼろぼろの口から発された雑音がいくつか固まったものを、名前と受け取っただけのことかもしれない。
ガダを背負って戦車の中に降りるのは一苦労だった。決して力の強い方ではない私でさえ背負えるくらいの体重しか彼女には残っていなかった。「外側」に体重も記憶も心も健康も、全て置いてきたようだった。スラムの中にもたくさんの心と身体を切り刻んで生きる人たちはいたが、彼女ほどボロボロになっている者はいなかった。ボロボロになり切る前に、殺されるか死ぬか出ていくかする人が大半だったせいでもある。
ガダは私に向かって「私はあなたのお母さんよ。あなたをここに置き去りにしてごめんね」なんて遺言を残すことはなく、うーうー言ってるなと思ったら翌朝息絶えていた。私は死体置き場となっているタンクスラムの端の巨大な穴に彼女を引っ張っていくと、服と肉とが途中でずるずると剥がれ落ちていった。
ガダと出会う前は「ここを出ていくんだ」とずっと思っていた。ガダと出会ってからは「ここを出ていかない方がいいんじゃないか」と思えてきた。このまま行けば他の住民と同じような野垂れ死にか気まぐれな殺人ごっこの巻き添えか、薬に逃げての自己破滅か、どのみち長くは生きられない。しかし外側でもやや形を変えただけの似たような生と死が転がっているのならば、出ても出なくても同じことじゃないか。ガダのように、人としての形を半ば失うほどズタボロになってしまうくらいなら、人の形を保ったままでいたかった。
ガダを捨てた後自分の戦車に戻ると、ガダの残した腐臭が鼻についた。戦車内の換気には時間がかかる。私はその腐臭を母親のものだと思うことにした。やがて悪臭に鼻も慣れた。どんな悪習にも人は慣れる。誰もがあらゆる悪事に当たり前のように手を染めていた。誰かがハッチの上からうちの中に放尿してきやがったので、私はそいつを刺すために、鉄を鋭く削ってナイフ状にしたものを手に取り、ハッチを上がった。
結論として私は相手を傷つけることはなかった。そこでの出会いで、私に初めて恋人が出来て、二人でともにタンクスラムを抜け出すことになるのだが、その経緯はここでは割愛する。この街で青春ストーリーは進行しない。
(了)
あとがき
「スラムタンク」を裏返した「タンクスラム」を書いてみました。「徐々に貴重な証券」とか「ポテトファーザー」とか書いていたのですが、「戦車で出来たスラム街」というイメージを一度形にしてみたくて、こういう形になりました。今回はギャグ要素もありません。代わりに途中まで書いた「ポテトファーザー」を置いておきます。
「ポテトファーザー」
ポテトのことになるとうるさい父だった。昔父が病気で入院した際に、サツマイモベースのポテトサラダが出てきたことがあったそうだ。それは別に構わない、と父は許していた。ただそこにレーズンが入っていたことだけが、何年経っても忘れられなかったという。
「ポテサラにレーズンを入れてはいけない」
これを我が家の家訓としろ、が父の遺言だった。
父の遺品を整理していると、大量の小説らしき原稿が出てきた。どうやら父は生前、ネット上のいろいろなところで小説らしきものを発表していたようだった。ポテサラとレーズンについての考察も「脳脊髄液減少症安静治療の入院記録」というファイルに収められていた。
小説「らしき」という言葉を付記したのは、父の書いていたものが一般的に小説と呼ばれるものとは少し違っていたからだ。大半は父の生活がベースになっており、私たち子どものことも多く書かれていた。あとは父の好きだった音楽のことやら、私たちから見たら母、つまり父から見たら妻、にいじられている様子やら。そういった何気ないエッセイのように語り始められた話が、突然スラム街に隠された戦車の話に飛んだりしていた。ポテトサラダとレーズンの記述の少し前には、入院中に出たカレーライスについての言及もあった。昼食にカレーが出たので、父は夕食にもカレーを食べられると思い込んでいたのだという。家庭のカレーではないのだから、病院食で続けてカレーが出ることなんてまずない。学校の給食でだってそうだろう。それなのに父は立て続けにカレーライスを求め、さらには「六面全てカレーと刻まれたダイスで献立を決めるべきだ」という暴論まで発展させていた。
私は父に倣った書き方でこの文章を書いている。父は一時期タイトルだけ名作のパロディにした「青春小説集」というコンセプト小説集を書いていたようだ。「腎臓ボール」という題名でドラゴンボールのパロディを。「バックルック」は「ルックバック」の。「スラムタンク」は当然「スラムダンク」という風に。父について書こうとして思いついたのはマフィア映画の名作「ゴッドファーザー」だったが、父はマフィアのボスでもゴッドでもなかった。少し「ゴッドファーザー」の意味をChatSGGK(チャットスーパーグレートゴールキーパー若林源三)に訊ねてみた。
「ゴッドファーザー(Godfather)」は、もともと**「代父」や「教父」**を意味する英語で、キリスト教の洗礼式で子供の信仰や道徳を導く役割を果たす「代父」にあたる存在を指します。教会において、神の意志を子供に伝え、信仰の成長を見守る人物です。
私の知る父の実像と、小説らしきものの中で書かれた父の像は違う。主に「私」という一人称の陰に隠れるようにして、父はその不甲斐なさも情けなさも弱さも薄めていたように見える。ある文章の中で父はこう書いている。
本当のことを書こう。
私の山下チンイツ、という名前は、実は私一人のペンネームではない。だいぶ前から妻と、そして今では大きくなった子どもたちとの、共有ペンネームである。
作風についていえば、私小説風の話と下ネタギャグを書くのが私で、私小説風の話と下ネタギャグを担当するのが妻。そして娘は私小説風の話と下ネタギャグを担当し、息子は私小説風の話と下ネタギャグを担当している。
(山下チンイツ「バックルック」より)
泥辺だったり山下だったりする父の本名をここで書くことは控える。個人情報だからというのではなく、放送禁止用語だからである。父はどちらかというと父というよりもちんちんに近い名前であった。
私には五つ年上の姉がいるのだが、姉に父とポテトのことで何か思い出すことはないか、と聞いたところ「マジックで私の名前書いておいたじゃがりこを食べられた」とのこと。自分用にと蓋に名前を書いていたのに、父は気付かず食べてしまったのだという。
「あとカレー」
そういえば私たちは小さい頃、カレーに入っているじゃがいもをあまり食べなかった。じゃがいもだけ父の皿にごろんごろんと入れていった。じゃがいもだらけになった皿を見て父は「ポテサラにレーズンを入れてはいけない」とまた言っていたものだ。レーズンはカレーに入っていなかった。
(中断)
「スラムタンク」を裏返した「タンクスラム」を書いてみました。「徐々に貴重な証券」とか「ポテトファーザー」とか書いていたのですが、「戦車で出来たスラム街」というイメージを一度形にしてみたくて、こういう形になりました。今回はギャグ要素もありません。代わりに途中まで書いた「ポテトファーザー」を置いておきます。
「ポテトファーザー」
ポテトのことになるとうるさい父だった。昔父が病気で入院した際に、サツマイモベースのポテトサラダが出てきたことがあったそうだ。それは別に構わない、と父は許していた。ただそこにレーズンが入っていたことだけが、何年経っても忘れられなかったという。
「ポテサラにレーズンを入れてはいけない」
これを我が家の家訓としろ、が父の遺言だった。
父の遺品を整理していると、大量の小説らしき原稿が出てきた。どうやら父は生前、ネット上のいろいろなところで小説らしきものを発表していたようだった。ポテサラとレーズンについての考察も「脳脊髄液減少症安静治療の入院記録」というファイルに収められていた。
小説「らしき」という言葉を付記したのは、父の書いていたものが一般的に小説と呼ばれるものとは少し違っていたからだ。大半は父の生活がベースになっており、私たち子どものことも多く書かれていた。あとは父の好きだった音楽のことやら、私たちから見たら母、つまり父から見たら妻、にいじられている様子やら。そういった何気ないエッセイのように語り始められた話が、突然スラム街に隠された戦車の話に飛んだりしていた。ポテトサラダとレーズンの記述の少し前には、入院中に出たカレーライスについての言及もあった。昼食にカレーが出たので、父は夕食にもカレーを食べられると思い込んでいたのだという。家庭のカレーではないのだから、病院食で続けてカレーが出ることなんてまずない。学校の給食でだってそうだろう。それなのに父は立て続けにカレーライスを求め、さらには「六面全てカレーと刻まれたダイスで献立を決めるべきだ」という暴論まで発展させていた。
私は父に倣った書き方でこの文章を書いている。父は一時期タイトルだけ名作のパロディにした「青春小説集」というコンセプト小説集を書いていたようだ。「腎臓ボール」という題名でドラゴンボールのパロディを。「バックルック」は「ルックバック」の。「スラムタンク」は当然「スラムダンク」という風に。父について書こうとして思いついたのはマフィア映画の名作「ゴッドファーザー」だったが、父はマフィアのボスでもゴッドでもなかった。少し「ゴッドファーザー」の意味をChatSGGK(チャットスーパーグレートゴールキーパー若林源三)に訊ねてみた。
「ゴッドファーザー(Godfather)」は、もともと**「代父」や「教父」**を意味する英語で、キリスト教の洗礼式で子供の信仰や道徳を導く役割を果たす「代父」にあたる存在を指します。教会において、神の意志を子供に伝え、信仰の成長を見守る人物です。
私の知る父の実像と、小説らしきものの中で書かれた父の像は違う。主に「私」という一人称の陰に隠れるようにして、父はその不甲斐なさも情けなさも弱さも薄めていたように見える。ある文章の中で父はこう書いている。
本当のことを書こう。
私の山下チンイツ、という名前は、実は私一人のペンネームではない。だいぶ前から妻と、そして今では大きくなった子どもたちとの、共有ペンネームである。
作風についていえば、私小説風の話と下ネタギャグを書くのが私で、私小説風の話と下ネタギャグを担当するのが妻。そして娘は私小説風の話と下ネタギャグを担当し、息子は私小説風の話と下ネタギャグを担当している。
(山下チンイツ「バックルック」より)
泥辺だったり山下だったりする父の本名をここで書くことは控える。個人情報だからというのではなく、放送禁止用語だからである。父はどちらかというと父というよりもちんちんに近い名前であった。
私には五つ年上の姉がいるのだが、姉に父とポテトのことで何か思い出すことはないか、と聞いたところ「マジックで私の名前書いておいたじゃがりこを食べられた」とのこと。自分用にと蓋に名前を書いていたのに、父は気付かず食べてしまったのだという。
「あとカレー」
そういえば私たちは小さい頃、カレーに入っているじゃがいもをあまり食べなかった。じゃがいもだけ父の皿にごろんごろんと入れていった。じゃがいもだらけになった皿を見て父は「ポテサラにレーズンを入れてはいけない」とまた言っていたものだ。レーズンはカレーに入っていなかった。
(中断)