Neetel Inside 文芸新都
表紙

浪漫派ターフ。
第1R チューボー特別

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彼方に見える街の夜景が、冷たく澄んだ空気のフィルターを通して、なお一層輝きを増している。
薄曇の空からときたまのぞく月は、柔らかな白磁の光を放ち、完全に降りたはずの夜の帳を乳白色に薄めていた。
風もなく、空気は穏やかで、落ち着いたいい夜である。
そう、まさに。
ナイター競馬日和だ。

街の中心から少し外れた山あいの土地に新都競馬場はあった。
地方競馬場にしては珍しく芝とダート両コースを兼ね備えた、アーリーアメリカンを思わせる白くて綺麗な競馬場である。
時刻は午後八時半。
本馬場ではちょうどメインレースのファンファーレが鳴り響いていた。

……ぱーぱーぱーぱーーーん
おおおおおお。
地元有志によるやや音を外した生演奏の後に続く、やや控え目な歓声。
これが地方交流のグレードレースであれば、もう少し盛り上がりようもあったろうが、今日のメインはチューボー特別。
いわゆる名も無い馬たちが走る、ありきたりなレースだった。

昭和の鉄火場を連想させるおやぢ集団に囲まれて、野平龍一(のひらりゅういち)はいささか慌てていた。
もうスタートだ。早くコースに出なくてわ。
なのに酔いどれおやぢのランダム・マンマークや、タン吐きおやぢのポイズン・ブレスに阻まれて、なかなか前に進むことができない。
まあギリギリまで馬券購入を迷ったのも裏目に出てしまったが。
【単勝 10 ワショーイショーイ 10000円】
大金だからそれも仕方ない。
とにかく。
5番人気の単勝馬券を握り締め、器用に身をくねらせながら、龍一はおやぢ集団から抜け出す努力を続けた。

毎日の仕事帰りのナイター競馬。
それが龍一の日課である。
タバコは吸わない、彼女はいない、とりたてて言うほどの趣味もない。
そんな龍一にとって、この欲望と絶望の渦巻く小劇場で過ごすひとときこそが、唯一といってもいいストレス発散法だった。
歓声と怒声、声援と罵声、歓喜と落胆。
ここでは人のむきだしの感情が、馬と騎手の繰りひろげる一挙手一投足の攻防と、そのままシンクロする。
4コーナーを馬なりであがってくる威風堂々たる差し馬の姿に一喜し、直線最後まで粘りこむ逃げ馬があえなく馬群に飲まれる姿に一憂する。
そんな浅ましくも美しい悲喜劇に、馬券という切符を買いさえすれば、一観客としてではなく一人の登場人物として参加することができる。
上司、部下、取引先、お得意様、同僚……そんな社会的肩書きから解き放たれた、生の人間たちが織り成すライブ・ドラマに。
すべての人間は馬券の下に平等である。
龍一はそう信じていた。
そしてそんな空気を与えてくれる競馬場を、初めて訪れた日からずっと愛していた。

がっっしゃん!!
遠くのほうでゲートの開く金属音。
……どどどどど。
地響きのような馬蹄。
スタートは切られた。
結局、龍一はその瞬間に間に合わなかった。

人ごみをかき分けようやくコース際までたどり着いた時、ちょうど最後方の馬が2コーナーを曲がり終えるところだった。
色とりどりのカクテルライトに照らされて、14頭の駿馬たちが砂塵を巻き上げ走っている。
ずいぶん後ろがちぎれてるなあ。
見ると一頭の葦毛馬が、追走するので精一杯なのか、ぽつんと後方に置かれていた。
ざっと見、先頭とは17~18馬身ぐらい離れていそうだ。
ああ。あれはないな。
あっさり断じて、龍一はターフビジョンに目をやった。
レース展開はこうだ。

逃げているのは8番チューニビョー。
ずいぶんと折り合いが悪そうだ。
騎手が必死で手綱を抑えている。
5~6馬身切れて、先行集団が形成されていた。
ワショーイショーイはちょうどその中ほど、馬群の外を走っている。
絶好のポジションだ。
やや離れて差し馬勢。
1番人気のヴィップサンサンはここにいた。
内ラチ沿いに押し付けられ、前にも横にも動けない状態で。
こうなってしまうと、じっくり構えて内が開くのを待つしかない。
かなりギャンブルな展開だ。
そうこうしてる間にチューニビョーが先頭で3コーナーを回った。
馬群は一気にぎゅっと詰まり、リードはすでに1馬身にまで縮まっている。
考えている暇はない。
レースはまさにクライマックス、観客のボルテージも最高潮に達していた。

3~4コーナー中間地点で、やはりヴィップサンサンの行き場は無い。
馬群に囲まれ必死に出しどころを探している。
「不随田(ふずぃた)ボケエェェェッッ!!」
「てめ、いい加減に汁!!」
すかさず罵声が飛ぶ。
チューニビョーもここでいっぱいになったか、ずるずると後退。
変わって進出を始めたのは、人気薄の鹿毛馬。
ゼッケン10番、ワショーイショーイ。
「きたーーーーーっっっ!!」
織田裕二ばりに龍一はシャウトした。
おおおおおおお。
場内は悲鳴とも怒声ともつかないどよめきに包まれた。
このまま決まれば、大荒れだ。

「よしっっっ!! そうだあぁぁっ、そのままいけえぇぇぇっ!!」
ワショーイショーイが4コーナーで早々と先頭に立つ。
興奮のあまり龍一は丸めた競馬新聞をぶんぶん頭の上で振り回した。
単勝オッズは、ヴィップサンサンが一本被りの1倍台になっており、5番人気のワショーイショーイでさえ20倍を越えていた。
うはww、20マソキタコレwww。
まさにこの直線の攻防は、1万円が20万になって戻ってくるか、それともゼロになるかの瀬戸際の二十数秒。
我を忘れて熱くなるのも当然だ。

「やめろおぉっ!!」
「来るな、蛇沢ボケエェッ!!」
「蛇沢落ちろおぉぉぉっっ!!」
ワショーイショーイを買っていない客から怒声があがる。
しかし新都競馬場の250mに満たない直線は、4角で先頭に立った馬を差しきるには酷なほど短い。
ヴィップサンサンはようやく前が開き、追い出しをはじめたばかり。
もう目がないのは明らかだ。
後続の馬たちについても、ワショーイショーイを追いかけてきそうなのは見当たらなかった。
「そのままあぁっ!! そのままあぁぁぁぁっ!! そのあmふぃあ@gjらいふじこ」
最後のほうは日本語にすらなっていない雄叫びをあげ、龍一はその場でエア昇竜拳を繰り返した。

残り200mを切った。
依然としてワショーイショーイ先頭。
リードはまだ2馬身ぐらいある。
後続の脚色はみな同じ。
馬を追うジョッキーの手が激しく動いている。
乾いたムチの音が、何度も何度も飛んでいる。
龍一はリアルで飛んでいる。

残り100。
と、ここで急にワショーイショーイの脚色に翳りが見えた。
明らかに頭が上がり苦しそうだ。
両手の間に張ったタオルで電信柱を押すような、と例えられる、いわゆる「いっぱい」になった状態である。
こうなると、たとえ熟練のジョッキーであっても容易に馬を動かせるものではない。
「うわあああああああ、蛇沢ぁあっ!! 残せ、残せえぇぇぇぇぇっ!!」
龍一は大慌てで叫んだ。
それはそうだろう。
半ば手中に収めていた大金20万が、するりと指の間からすり抜けようとしているのだ。
しかもこの馬券を買った1万円は、まだ半月以上残っている今月の小遣い全て。
外せば、極貧生活は免れない。
龍一の顔面からさーっと血の気が引いていった。
そして。
「蛇沢あぁっ、蛇沢あぁぁっ、ひぇびさわぁあああぁあっっっ!!」
次の瞬間には紅潮した。

古人にいわく。
『競馬の神様はきまぐれだ』
「あ」
龍一の視界の隅に、一頭の馬が飛び込んできた。
『きまぐれで、いたずら好き、強欲で、気前がよく、一筋縄ではいかない』
スタートからぽつん殿で、ずうっと後方を走っていた、あの葦毛だ。
「おいおい」
『時に何億円もの馬券を一瞬で紙屑に変えたかと思えば、たったの100円を何百万にも増やしたりする』
勝負どころでも全く名前を呼ばれなかったので、その存在さえ失念していた馬だ。
「おいおいおいおいおい(汗)」
『もちろん、ジョッキーの名を連呼しさえすれば勝たせてくれるほど、甘い神様じゃない』
明らかに一頭だけ脚色が違う。ピンクのシャドーロールがぐんぐん迫る。
「うはwww、ちょwwおまwwwwwやめれww」
『馬を愛するだけでは足りない、馬券の買い方に知恵を絞るだけでも足りない。競馬の神様に愛されるためには……』
大外から一気に差を詰めて、14番オマイラオーツがやってきた。
『競馬そのものを愛することだ』

「さくらタンキターーーッ!!」
「さくらタンがんばれーっ!!」
「もう少しだよ、さくらターーーン!!」
後ろのほうでコロニーを形成していた、甲虫臭を発するオタク軍団から一気に快哉があがる。
不思議なバンダナに、魔法のスタジャン、謎のバックパックで武装したステロタイプのオタクどもが、これも見るからに不細工な手作りのメッセージボードを掲げ、野太い声を嗄らして盛り上がっている。
その姿はまさにキモオタと断ずるに些かの躊躇も持たぬ(by王。
ボードに書かれた文章も同じぐらいキm(ry。
さくらタン、すなわち吉永さくら(よしながさくら)は、ご覧の通り追っかけまでいる、新都競馬唯一の女性ジョッキー(萌え)である。
今年でデビュー3年目の21歳。
1年目、2年目と勝ち星をあげることができなかったが、今年に入りようやく念願の初勝利をあげた。
それを皮切りに、最近ではぽつぽつと勝てるようになり、重要なレースでもしばしば上位に名を連ねている。
もともと馬に対するあたりが柔らかく折り合いをつけるのは上手だったのだが、ここにきて追い方もきっちりしてきたのが躍進の理由だろう。

「……オッくん、そろそろいこっか」
じっくりと機会をうかがっていたさくらは、これまで我慢を続けてくれた相棒にそう声をかけた。
でもね、まだゴーじゃないよ。ゴーはもう少しあと。
ビロードのような繊細なタッチで手綱を操り前進をうながす。
細心の注意で、慎重に、確実に。
乗り手の意思を理解したオマイラオーツは、3~4コーナーを外外で大きく回り加速をつける。
あくまで馬なりで。
あくまで気分良く。
そしてすんなり先行集団に取りついた。
いい流れ。
さくらは心の中でつぶやいた。
ここまでスムーズにいったのには、チューニビョーが産み出したハイペースも利するところが大きかった。
1番人気のヴィップサンサンをマークするか、それとも快調に飛ばすチューニビョーについていくべきか、迷った馬は千々にペースを乱されて本来の力を発揮できないでいた。
「抜け出してるのは……蛇沢さんか」
結果、最初から外をマイペースで進んだワショーイショーイと、腹を括ってシンガリから行ったオマイラオーツだけが残った。
4コーナー出口で内に進路を取り、出来るだけロスを避ける。
馬群の薄そうなところに狙いをつけ、じわじわと追い出しを開始。
彼我の距離差はおよそ8馬身。タイムにすれば約1.6秒だ。
小回り、しかもダートコース、普通に考えれば絶望的な距離である。
……届かないかもしれない。
弱気が頭をもたげてくる。
と。
がつん、と衝撃が手綱越しに伝わった。
そんな気持ちを打ち消すように、オマイラオーツがもう一段ハミを深くとってくれた。
直線を向いた。
ヴィップサンサンはまだ出てこない。
他の馬もひとかたまりの団子状態。
迷っている暇はない。
今は、この子を信じよう。
「はぁっ!!」
気合とともに一気呵成、全身を投げ出すようにして必死で追った。
流れる風景は加速し、ものすごい勢いで後方へと飛んでいく。
空を飛んでいるようなこの感覚が、さくらは大好きだった。

うhはhhhhhh、俺死んだwww。うん、間違いなく脂肪wwwwww。何この神展開、ありえなすwww。
何年も競馬を見ていればわかる。
オマイラオーツの脚色はゴールまで一直線に突き抜ける、まさしく勝者のそれであった。
ほどなく必死にもがくワショーイショーイを捕らえ、一番にゴール板を通過するであろう。
青くなり、赤くなり、そして今や真っ白に燃え尽きた龍一の前を、「白地に桜散らし」の可憐な勝負服が、闇を切り裂く一陣の風となって、さあっと駆け抜けてゆく。
そのとき、はぁっという声も、wktkして盛り上がるオタクどもの奇声も聞いたような気がしたが、もはや龍一の耳にはなにも届かず、ただ脳内でいつか聞いた悲しげな歌がリフレインされるのみであった。

残り50mでワショーイショーイはあっさり差されて負けた。
手中に収まりかかっていた20万どころか、なけなしの1万まで失ってしまい、すっかり心の折れてしまった龍一は、最終レースを待たずして帰宅することに決めた。
祝勝ムード満載、黒山の人だかりと化したウィナーズサークルをすり抜け、人影もまばらな薄暗い駐車場に向かった。
はあ。
明日からどうやって生きていこう。
昼飯は当分、買い置きのカップラだな。
もうひとつ、はあとため息をつき龍一は車に乗り込んだ。
ばんっ。
思いの他大きな音を立ててドアが閉まる。
今日は酒でも飲んでさっさと寝てしまお。
晩飯も適当になんか流し込んで終わりにしてしまお。

……ん?
流し?
そういや、流しでも馬券買わなかったか?
単勝のインパクトですっかり忘れていたが、ワショーショーイを軸にした流し馬券も買っていたはず。
ただ、その相手を適当に選んだために、オマイラオーツが入っているかどうかは覚えていないのだが……。
ばばばっと、龍一は全身のポケットをまさぐった。
あった。
背広の内ポケットだ。
そろそろと馬券を引き出す。
誰が見てる訳でもないが、こっそりと印刷を確認する。
そして。
「さくらタンキターーーーーーーーッ!!」
レースはすでに終わっていたが。
ひとり、絶叫した。

       

表紙

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Neetsha