ヒサエフという名を聞けば、誰もが世界的に有名な画家であるオール・ヒサエフ画伯のことであると認識する。
オール・ヒサエフとは、それほどまでに世界的に知名度を誇る画家である。
若くしてフランスの国展で最優秀賞を受賞。その後も勢力的に作品を発表しては、世界中の芸術家達が賞賛と嫉妬の念を抱かずにはいられない数々の評価を総舐めにした、絵の神童だ。
オール・ヒサエフが描く絵の特徴は、どれもこれもが、決して美しいもので統一されているものではないことである。専門家は「内なるメッセージだ」と総評しているのだが。
たった三色の絵の具のみで構成されたとしか思えない向日葵の絵。
もはや何を描いているのかも解らないような絵の具の散乱したキャンバス。
腱鞘炎の熊だってもう少し上手に描けるのではないかというような魚の絵。
同じ人物が、同じように描いたとは思えないその多種多様な部分も、オール・ヒサエフが評価された一つの要因だった。
そしてオール・ヒサエフが人気を呼ぶもう一つの要因。
正体が、不明なのだ。
性別、年齢、国籍、好物、etcetc……。
一切合切が、不明なのだ。
そのミステリアスな存在は、ある意味絵以上に人々の探究心を擽ることになる。
かくして、オール・ヒサエフという一人の画家は、噂が一人歩きするように世界中に名を知らしめ、
そして今日。
オール・ヒサエフ展という名の、一つの展示会が催されたのである。
・
「ご覧下さい。こちらの作品が、オール・ヒサエフがその名を世に知らしめるキッカケとなった、フランス国展にて最優秀賞を受賞した『椅子』でございます」
「──なんだ、子供の落書きじゃないか」
「はっはっは、貴方がそのように感じるのも無理はありません」
『椅子』と呼ばれるその作品を、まるで子供の落書きでも見つめるような目で見ていた僕に、案内人は朗らかな微笑みを返した。
──椅子、なのだろうか? 僕の目から見て、それは椅子のようには見えない。ライオンを大型の猫なんだと見るのと同レベルの度合いで好意的に見ても、それは木の積み木を適当に組み立てただけのもののような……。
「一見、確かに子供の落書きのように見えます。ですがこちらはメタフォアと呼ばれる技法の一種であり、こうやって不明瞭に、かつ単一の色を使うことにより、椅子の強固で頑丈なその存在感を描いているわけなのです」
「ふぅん……」
もう一度、『椅子』を見た。
──やはり、出来損ないの積み木にしか見えなかった。
「ご覧下さい。こちらの作品が、オール・ヒサエフが二年の沈黙を破り発表した、『我が恩人』で御座います」
──ただの、ベッドにしか見えない。
「ただの、ベッドなんじゃないの?」
「ええ、ええ。普通であればそう感じるでしょうとも」
やはり、朗らかな微笑みを案内人は浮かべた。
「つまりオール・ヒサエフは、この布団こそが命を育んだ場所であり、命の幕を閉じるであろう場所であり、日々疲労した自分を包んでくれる唯一の恩人だと表現しているのです。それは言い得て妙であり、まさに『我が恩人』と名付けても相違無い代物なのです」
「ふぅん……」
もう一度、『我が恩人』を見た。
そう言われてから見てみると、そう見えなくも無い。
──が、それって絵の素晴らしさと何か関係あるのだろうか?
「最後となりますが、こちらがオール・ヒサエフの最高傑作だと言っても過言ではない名画『母』で御座います」
──。
「今の僕でも、描けるんじゃないの?」
それを見るなり、僕の眉が八の字を模る。
丸い顔。
スパゲッティのような髪の毛。
犬だってもう少し綺麗に描けると言ったようなまん丸の目。
縦線の鼻。
横線の口。
──ジュニアハイスクールで描いたのだろう。
「子供が描いた似顔絵じゃないの?」
「いえいえ、何をおっしゃいます」
かぶりを振って、案内人が珍しく顔をしかめた。
「それこそが、オール・ヒサエフの描きたかったことなのです。母に感謝するに当たって、幼少の頃より世話になった母親を描くために、敢えて童心に戻ったのですよ。幼き頃の、あの全信頼を寄せていた純粋な心を持って、母を描くのです。これこそが誠の意味での『母』というものなのです」
「ふぅん……」
もう一度、『母』を見た。
──童心に戻ったというより、童心そのもので描いたような気がするのだが。
・
「いかがでしたか、オール・ヒサエフ展は?」
「うん、凄く楽しかったよ。僕の知らない世界が沢山あるんだなって思った」
僕がそう言うと、案内人はやはり朗らかな微笑みで、僕を見送ってくれた。
そして。
姿が見えなくなるまで、彼が遠い場所に行ったことを確認すると、案内人は大きな溜息をついた。
「全く、本当に芸術を理解出来ない男だったな。見たものを見たままに感じているようじゃ、あの男に芸術の心なんて一生わからないね」
もう一度。
今度は、嘲笑するような微笑を、見えない彼の背中に当てた。
一方。
オール・ヒサエフ展が開催された建物が見えなくなるほど歩を進めてから、僕は大きく伸びをした。
「いやぁ、芸術の世界っていうのは解らないことだらけだな。あんな絵が、まさかあんなに評価されているなんて」
一人ごち、僕はウンウンと一人で被りを振る。
何とならば、ジュニアハイスクールに通っていた頃に描いた母の似顔絵が、あれだけ深い意味を持っていたのだ。まさか幼き頃の僕に、それだけ深い意味を持った絵を描く才能があるとは。
『我が恩人』だってそうだ。急病で寝込んでしまった恩師の先生を描こうとしたはいいものの、突然容態が悪化して急死してしまったものだから、ベッドまでしか描けなかったものをそのまま発表したのだが、まさか僕の深層心理にあのような気持ちがあったとは。
極めつけは『椅子』だ。実はあれは悪戯でコンクールに出展したに過ぎなかったのに、メタフォアと言っただろうか? まさか無意識のうちにそのような何ていうか……名前的に凄そうな技法を扱っていたなんて。
もしかしたら、僕には凄い芸術の才能があるのかもしれないぞ。
そういえば、この間物置を漁っていたら、赤ん坊の頃に描いた車の絵があった気がする。よし、あれを発表してみよう。もしかしたらあれにも何か深い意味があるのかもしれない。
「よし、家に帰ったら発掘するぞ!」
そうと決まれば善は急げである。僕は自然と走り出していた。
・
──その、一ヵ月後。
オール・ヒサエフの作品が新たに発表され、やはりその作品は世界中で喝采を浴びることになる。
その作品のタイトルは『物置から発掘』。描かれているものは、赤のクレヨンで瑣末に描かれたのではないかというようなスポーツカー(?)だった。
後に案内人は、『物置から発掘』に対して、このような作品説明を行っている。
「この作品は、オール・ヒサエフが過去に憧れを抱いていた真っ赤なスポーツカーを描いたものです。赤単色で統一することにより、そのスポーツカーに対するヒサエフ自身の情熱や羨望の眼差しを表現しているわけですね。形がこのようにいびつなのは、『それは思い出であり、思い出とは曖昧なものであり、明確な形を持たない』という表現の一種なのです。タイトルである『物置から発掘』というのは、つまり記憶という名の物置から発掘された、古い古い憧れ、ということを表現しているわけですね」