「嘘、というものは貴方、大変な技術ですよ」
犬は、頬に何かを詰めた時に喋っているような、ひどく空気の濁った音で、そう言う。
「それに『言葉』と言いましたか? この技術も、中々眼を見張らなければならないものがある」
あ、い、う、え、お。
眼の少し下まで裂けた口を動かして、僕達の世界では、「文字として表すならば」そういうことになる音を吐き出した。
「私共は確かに、はい貴方の言う通り、人間、でしたか? 人間の十六倍の機能を、耳に備えています。十六倍というものに関して、私はどれほどの違いがあるのかは、見当もつきませんが」
「貴方の十六回分の食事を、僕が一回で食べてしまうことと同じですね」
まぶたをパチパチとしぱたかせた。僕が他人よりもモノを知らないだけなのかもしれないが、犬にもまぶたがあることに、若干驚いた。
「音を」
それだけ言って、犬は窓の外へ眼をやった。僕も、それに習う。
ゴトンゴトン。ゴトンゴトン。
列車は走り続け、規則正しく線路を叩く音が響く。
「聴こえますか?」
「ええ、線路の音が」
「……失礼。貴方を貶すわけでは無いのですが、貴方の言葉の意味が理解できません」
線路、という単語を知らないのだろう。
「ゴトンゴトン、と聴こえます」
「ワフッ……なるほど、十六倍ですか」
犬が、僕の耳を見つめる。口から覗く牙が、それをあまり良い気分にはさせなかった。
「音は、そこから吸い取るのですか?」
「ええ」
「であれば、そこが耳なのですね?」
「ええ」
「貴方の『ゴトンゴトン』は、確かに私の耳にも吸い取れました。最も多くね」
ごらんください、と犬は言った。指す方へ眼をやると、満天の星が並んでいる。窓から見える風景だった。
「私の耳は、あの石が燃える音も吸い取っております。オボボ、オボボ、と、そういう音でした」
「最も遠い場所は?」
「どれほど距離があるのかはわかりかねますが……」
彼方を見つめる。何も変わらない景色が、そこにある。
「遠い、遠い場所。空気が、捩れるような音が聴こえます。言葉には出来ません。音が重なりすぎていて、一つの言葉では表せないのです」
アンドロメダ星雲のことだと思った。確証は無かったが、僕の中での宇宙の外側とは、アンドロメダ星雲だと相場が決まっていたからだ。
「それが本当だとするならば」
「はい?」
「それが、本当だと、するならば」
「ああ、ええ」
「十六倍、ではなく、もっともっと大きな力が、あるのかもしれません」
フン、と鼻を鳴らして、舌で唇をペロリと舐めた。思案?
「にも関わらず、です。私達は貴方がたのように、細かい音の違いを、聞き分けることが出来ない。それは何故でしょう?」
「必要が、無かったから?」
「言葉とは」
犬は、吠えた。僕は今まで、犬が吠える時は怒っている時だと考えていたが、それは違うのだと考え始めている。
怒っている時に関わらず、人間だって、感情を大きく表現する時はあるのだ。
「とても、高度な技術なのです。人はそれを生まれ持ったわけではなく、自分達の力で開拓した。ところで喉が乾きましたな」
飲み物は、無い。
僕達と同じ車両で、隅の方に座っている二人の少年が、窓の外を見ている。窓の外では、折り紙のような鳥達が飛んでいた。
・
殺されたのだと思う。
意外と苦しくないものだと思った時には、既に僕は僕では無くなっていた。どういう風に死んだのかは、わからない。ただ、何か強い思念があったことは、覚えていた。
駅だな、と思った。
僕が立っていた場所は、止ん事なく駅だったと思う。
やがて駅には、列車が来た。行く宛も無かったので、列車に乗ることにした。
駅で拾った綺麗な貝殻は、ポケットの中で砂になっていた。「離れたからだな」と思う。何からかは、やはりわからない。
見合い席になっていた椅子に座って、どれほど時間が経ったのかはわからない。腕時計は止まっていた。
列車が駅に止まり、二人の少年が列車に乗った。一人は濡れているような気がしたが、粗粒子はそのように輝くものなので、不自然には思わなかった。ただ、その少年達を見て、僕はようやく「ああ、自分は死んだのだな」と思った。
気付けば、犬が相席していたので、今まで話をしている。どこかで、見たことのある犬だと思った。
・
「身を、滅ぼしてしまった」
「嘘で、ですな?」
死んだことには、何ら衝撃は受けなかった。ただ、嘘に殺されたことだけが、何か得も言われぬ空虚感を僕に叩き付けた。
「人間には、必要だったのだと思います。ただ、我々には必要無かった。高度なものが、必ずしも必要になるわけではない」
「必要なものに、僕は殺されたのですか?」
「それもまた、人間だからでしょうな。生き長らえるために必要であり、またそれが終わる原因にもなる」
「言葉は、必要だと思いますか?」
「嘘が、ある以上は」
笑っているような気がした。犬も笑うのだなと、感じた。
「言葉があるから、嘘は生まれたのでしょう。そして嘘があるから、言葉は今まで使用されてきたのでは?」
「嘘もまた、必要だと思いますか?」
「必要だから、今日まで使用されてきたのでしょう」
窓を見た。少年達が、歌っていた。真っ赤なドレスに身を包んだ少女と、真っ黒なコートを羽織った男も、少年達のすぐそばに居た。
「歌もまた、素晴らしい技術だと思います。ええ」
「賛美歌をご存知ですか?」
「これは賛美歌というのですか? 歌、ではなく?」
「いえ、歌です。歌で賛美歌なのです」
クゥン、と鳴いた。
「主は、存在するのだろうか?」
「貴方も歌いませんか」
「ええ」
犬と共に、歌った。何を歌っているのかは、わからない。きっと犬も、わからないのだろう。
ただ、歌った。歌うことが、義務だと思ったからだ。
・
「降りましょう」
犬がそう言って、僕の手を取った。肉球が、ひどく冷たいものだと思った。
ふと、思い出すことがあった。
確か、溺れて死んだのだった。
小学生の時に飼っていた犬だ。溺れた僕を助けるために川へ飛び込んで、そのまま二度と浮かび上がってくることはなかった。
「貴方の名前を教えて下さい」
「名前?」
「貴方は、どういう音でしたか?」
「ハフッ……私は、そうですか。生前は……」
懐かしい響きだった。もうどれくらい、その音を口にしていなかっただろう。
迎えに来てくれたのだと、思った。あれから、何十年の時を越えて。
涙は出なかった。ただ、「ああ」と息が漏れた。
「親父は、僕を許してくれるだろうか?」
「何か悪いことを?」
「嘘をつくなと、そう教えられて育った」
「ああ……ええ、知っていますよ」
犬は、僕を見た。つぶらな瞳だった。
「判りませんな、私には嘘が使えませんから。だから私は滅びたのです」
電車が止まった。