深淵の瞳
act.3「ネクロフィリア」
「これは酷い……」
思わず口から出た言葉は、被害者への同情や哀れみでもなく、まず嫌悪感だった。こう何件も同じ事件が続くと心の中が擦れていくのが良く分かる。
「今回も同じ事件と見て……良いですよね?」
私の後輩、木原秀介はそう問いかける。当たり前だ。こんな下劣な犯行を行う人間が何人もいる筈が無い。犯行を行ったキチガイは一体今どこで何をしているのだろうか。捜査の難航しているこちらを見て嘲笑でもしているのだろうか。とにかく腹が立ってしょうがない。
「十人目は誰にするつもりだ“ネクロフィリア”……」
遺体の上に必ず置かれているカードの表記を口に出す。まるでどこかのデザイナーのような作りの凝ったカードは、ますます私の怒りの炎に油を注ぎいれていく。
木原は強張る表情の私に眼を配りながら、今回の事件について説明を始める。
綾瀬宮子、25歳。
四日前の昼に食事をしてくると言い残し、そのまま消息を絶つ。特に変わった様子は無し。昨日から帰宅をしていないという同棲中の男性から捜索願が出される。
そして今日午前七時、散歩中の女性が遺体を発見し通報。
手首足首に鎖のようなものが巻かれた痕と首に紐で縛った痕が残っている為、絞殺と考えられる。
「そして、毎回……」
「殺害後に遺体の下腹部をばっさり裂いて、性器のみ持ち出していく、か」
木原の表情に恐怖の色が浮かび上がるのに気づいた。そして同時に、この「性器の持ち出された死体」に嫌悪感を抱けなくなってきた自身がいる事にも気づいた。
「そういえば、昔捕まえた奴にこんな話をされたな」
「はい?」
木原は強張った表情のままこちらを見つめる。
「究極のサドってのは……」
「……この事件と関連性が?」
いいや、突然思い出しただけだと私は答え、黙り込む。
この事件に関連性が無いとも言えない。あの殺人集団が一枚噛んでいる可能性だってあるのだ。これだけの残虐な殺し方、半端な気持ちでは出来る筈が無い。絶対にどこか壊れている人間の仕業だ。薬でもやっているか、生まれつきか…。
考えれば考えるほど犯人像にまとまりがつかなくなっていくのが自分でも分かった。
「とにかく、十人目の犠牲者を出すわけにはいかない。これ以上顔に泥を塗られるのはごめんだ」
「は、はい!!」
ケースに一本だけ残っていた煙草を取り出すと、口に咥えマッチを擦り火を放つ。吐き出された灰色の煙が、私の心を落ち着かせていく。そういえば、四日前といえば、被害者の行方不明の前日、娘の高校で正当防衛の認められた突き落とし事件があった。だがまさかアレとは関連付くわけは無いだろう。
私はもう一度煙を吸い込み、思い切り吐き出す。
「御陵さん」
「あぁ?」
「さっきの話、最後までしてくれませんか?」
「え? あぁ、サドのやつか……」
木原は胸元からミントガムを取り出すと、一枚を摘み、銀紙をはがして口の中に突っ込んでいる。木原の癖だ。近くで煙草を吸う人間を見ると、すぐにガムを噛み始める。
「どれだけ残虐に殺せるか、ってことさ」
煙草の吸殻がさらりと地面へと降下し、そして砕け散った。
act.3「ネクロフィリア」
全てを話した。ありとあらゆるコト全てを。
雪野を殺害した事も、それを僕に打ち明けていたことも、そして僕を殺そうとしたことも。彼が全てをぶち壊したのだから良いだろうと僕は考えていた。全てを胸のうちに秘めておくと約束したのに彼は僕を口封じの為に殺そうとした。裏切り者という不可解な台詞と共に。
幸い水島という目撃者もいる。
『秘密を共有する』という約束をした部分を『脅されていた』というコトに改変して、それ以外は全て隠すことなく吐き出した。勿論須賀が何故雪野を殺すに至ったのかも……だ。
葬式には数人しか現れなかった。僕と水島、結城と御陵、山下さん、雪野の両親が現れることは、当たり前のように無かった。が水面下では訴えの話が出ているとか出ていないとか。
だが、僕がその話の全貌を知ることは無い。というよりも、興味が無かった。
ただ怯えていた。
人を始めて殺したその感触が、その記憶が、肉が捻り上げられ骨が軋み折れる音が、僕を蝕んだ。
須賀の両親は何を言うことも無く、ただひたすらに僕を睨みつけていた。小学生の頃からの付き合いのある存在は、あの日見事に亀裂を生じさせ、二つの家族を見事に切り離した。
あの事件から四日後、校内では既に須賀という存在に目も向けられなくなっていた。だが今でも花の置かれた机に嫌悪の視線を注ぐ存在もいるし、机を蹴り飛ばしたり、中の花を踏みにじる存在はいる。死者を尊く思うという言葉等とっくにどこかに捨てられ、傷だらけとなった机はそれでもそこにあり続けた。
「……あなたは悪くないわ。ああなる事は既に決っていたんだもの」
「そんな言葉で納得できるわけないだろう?」
水島が初めて僕を宥めていることに少し嬉しさを感じながらも、それに甘えることのできない僕がいる。
「あなたはネクロフィリアを止める義務があるの」
「ネクロフィリア? あぁ、そんな事に首を突っ込む気はさらさら無いね」
僕は両拳を握り締め、へらへらと笑みを浮かべながら彼女にそう言い放つ。彼女はそれでもしんと深く黒い瞳をこちらに向け、立っている。
僕は机を叩いた。何故僕がやる必要があるのだ。警察に任せておけばいい事件に、狂った殺人犯の事件に何故介入しなくてはいけないのだ。心の黒い部分を全部必死で嘔吐するように吐き出していく。焼け付くような喉の痛みが走る。別に胃酸を吐いているわけでもないのに、彼女に浴びせる罵倒の一つ一つが逆に心を錆びた鎖で締め付けていく。
「別にそれならそれで良いわよ?」
「何だって?」
「いつかはあなたの方から『やらせてくれ』と言ってくる時が来るだろうから…」
彼女はそれだけ言うと、踵を返し、教室を出て行った。
一体彼女は何がしたいのだろうか。僕がネクロフィリアを追って、どんな利があるというのだろうか…。
不意に、肩を叩く小さな手があった。
「今、暇かな?」
「山下……?」
ニィ、と柔和な笑顔を見せる山下が、そこにはいた。
「ショックだよね、彼女の次は親友が死んじゃうなんて」
「まぁ、あいつが先に殺そうとしてきたから……」
「でさ、一つだけ気になってる事があるんだけど…」
山下はじっとこちらを見つめる。僕が何かしただろうかと記憶を辿ってみるが、一向に見つからない。
「杉原君ってさ、彼女いる?」
完全に僕の思考も心臓の鼓動も止まった。
「は?」
「いや、ちょっとした確認なの。頼みたいことがあるから」
告白ではないということに少し悔しさを噛み締める自分がいた。
完全にペースの崩された僕はただ山下の言葉に首を傾げるだけしかできなくなる。
「私、狙われてるみたいなの……」
「誰に?」
「分からないの。けど、文化祭の次の日ね、下校の時に非通知がかかってきてね。それで出たらこう言われたの…」
非通知? と僕は聞き返す。山下は青い顔しながら話を続ける。
「『十人目だ』って」
「十人目? 何の十人目か心当たり無い?」
山下は首を振った。
「とにかく本当に怖くてさ……頼めないかな?」
「元彼……いやごめん。俺以外に頼める人はいないの?」
山下は深く頷いた。
「だって私今、ハブられてるから……」
まさかの答えに僕の心臓が一度高鳴る。人柄の良い彼女が何故グループから外されたのだろうか。まさか水島の金魚の糞達のしわざだろうか。そう思うと僕は胸が熱くたぎってくる。
「……四日間」
「え?」
「四日間だけ傍にいてあげるよ。それだけいれば非通知してきた奴だって諦めるだろう。何の十人目かは知らないけどさ」
「……ありがとう」
山下は緊張が解けたのか、涙を溢れさせ、わんわんと泣き出した。それはそうだ。周囲から弾かれ、相談できる者もいなかったのだ。どれだけ不安だったのか考えると恐ろしいものだ。
僕はあわてながらも、両の手を彼女の方に回す。泣き止むまでの間、じっと彼女のことを見つめ続けることにしてそこに二人で座り込んだ。五時限目のベルが鳴っているが、どうやらサボる事になりそうだと、僕は一度だけ小さくため息を吐いた。
※
日が暮れかけた頃、水島は黒髪をたなびかせながら教室の窓からグラウンドを覗いていた。部活に精を出す者もいれば、ベンチに腰掛け喋り続けている者もいる。これだけの存在のうち、どれほどが今この学校で起きようとしている事を察知しているだろうか、いや誰一人としていないだろうと水島は呟く。
「待たせた」
水島は教室の入り口に目を向け、そして口の端を吊り上げただけの笑みを浮かべて彼を受け入れる。朱に染まるマフラーを首に巻いた茶髪の彼はギラギラした瞳で水島を見据えている。
「まさか俺に依頼なんてな。嫌いじゃなかったのか? 俺が」
「嫌いよ。でもあなたしか頼めないんだもの」
そうかそうか嫌われているか、と男は呟きつつ水島の傍に寄る。
刹那、水島の身体が宙に浮き、そのまま床に叩きつけられる。受身を取る暇も無いその投げは見事に彼女を咳き込ませる事に成功する。男は掴んでいた手を離し、水島の腹に馬乗りになると、ひたすら冷たい目でこちらを見つめる彼女を見て舌を打つ。
「その綺麗な顔、焼いてやろうか?」
肌と言わず、と呟き、男はブレザーとワイシャツを引きちぎる。白い肌と水色の下着が露呈するが、水島は気にすることも無く口を開いた。
「あなたの仕事でしょう? ネクロフィリアの始末」
男が伸ばしてきていた手を止め、訝しげな表情を浮かべる。
「何故知っている?」
「あなたはネクロフィリアを始末できる。私はこの事件を止めることができる。そういう依頼をしようとしているの」
水島はそれに、と加える。
「杉原って子、“あなた達”も気になっているんでしょう?」
「……悪い話じゃないな」
乗ってやる。男はそう呟くと、水島から離れ、腕組みをして机に寄りかかる。
「乗ってくれてありがとう“インフェルノ”」
水島はニヤリと、妖艶という言葉の似合う笑みを静かに浮かべていた。
※
風呂という存在がこの世界にあって本当に良かったと思う。ここまで気持ちをさっぱりと流してくれる存在は無いだろう。清潔感も保てる。風呂に入るのが嫌いな奴は人生の半分を損していると思う。
得意の鼻唄を歌いつつ僕は誰もいないリビングに上半身裸で足を踏み入れ、テレビのリモコンをつける。九時からのニュースが丁度始まったところのようだ。キャスターがお辞儀をしている。
それにしても十人目とはなんなのだろうか。ストーカーならそんな大人数を追いかけるわけないし、拉致だとしても告知して警戒させる意味が無いだろう。もしかしたら獲物を怯えさせて自慰を行う趣味の悪い奴の仕業かもしれない。どちらにしろ、あそこまで怯えた山下をほうっておくわけにはいかない。
『それでは、次のニュースです。今日午前七時、連続殺人事件の九人目の被害者が発見されました……』
反射的に僕はそのニュースに見入る。最近起きている連続殺人事件といえば、屍姦事件。テレビでの報道だから和らげて言っているが、内容は確実に「九人目が殺されて、屍姦されて放置されていたぞ」という情報だ。
「九人目……」
単なる偶然ではないだろう。この報道から得た情報から、被害者が行方不明になったのは文化祭の次の日、山下の携帯に非通知の電話がかかってきたのも文化祭の次の日。
「九人目が誘拐された時点で、山下は十人目に選ばれていた!?」
僕は急いで上着を着ると近くにあったシューズに素足を通して玄関を飛び出す。山下の家は今日聞いた。僕の家から十分もかからない場所だ。
「明日からなんて言っている猶予なんて無かった。既に決っていたなら九人目の死体が遺棄し終えた時点で狙ってくる筈だ!!」
僕は必死で走り出す。できれば無事でいて欲しい。これ以上身近な人間の死を見るのはごめんだからだ。
――その日の月は、やけに赤みを帯びていた。
思わず口から出た言葉は、被害者への同情や哀れみでもなく、まず嫌悪感だった。こう何件も同じ事件が続くと心の中が擦れていくのが良く分かる。
「今回も同じ事件と見て……良いですよね?」
私の後輩、木原秀介はそう問いかける。当たり前だ。こんな下劣な犯行を行う人間が何人もいる筈が無い。犯行を行ったキチガイは一体今どこで何をしているのだろうか。捜査の難航しているこちらを見て嘲笑でもしているのだろうか。とにかく腹が立ってしょうがない。
「十人目は誰にするつもりだ“ネクロフィリア”……」
遺体の上に必ず置かれているカードの表記を口に出す。まるでどこかのデザイナーのような作りの凝ったカードは、ますます私の怒りの炎に油を注ぎいれていく。
木原は強張る表情の私に眼を配りながら、今回の事件について説明を始める。
綾瀬宮子、25歳。
四日前の昼に食事をしてくると言い残し、そのまま消息を絶つ。特に変わった様子は無し。昨日から帰宅をしていないという同棲中の男性から捜索願が出される。
そして今日午前七時、散歩中の女性が遺体を発見し通報。
手首足首に鎖のようなものが巻かれた痕と首に紐で縛った痕が残っている為、絞殺と考えられる。
「そして、毎回……」
「殺害後に遺体の下腹部をばっさり裂いて、性器のみ持ち出していく、か」
木原の表情に恐怖の色が浮かび上がるのに気づいた。そして同時に、この「性器の持ち出された死体」に嫌悪感を抱けなくなってきた自身がいる事にも気づいた。
「そういえば、昔捕まえた奴にこんな話をされたな」
「はい?」
木原は強張った表情のままこちらを見つめる。
「究極のサドってのは……」
「……この事件と関連性が?」
いいや、突然思い出しただけだと私は答え、黙り込む。
この事件に関連性が無いとも言えない。あの殺人集団が一枚噛んでいる可能性だってあるのだ。これだけの残虐な殺し方、半端な気持ちでは出来る筈が無い。絶対にどこか壊れている人間の仕業だ。薬でもやっているか、生まれつきか…。
考えれば考えるほど犯人像にまとまりがつかなくなっていくのが自分でも分かった。
「とにかく、十人目の犠牲者を出すわけにはいかない。これ以上顔に泥を塗られるのはごめんだ」
「は、はい!!」
ケースに一本だけ残っていた煙草を取り出すと、口に咥えマッチを擦り火を放つ。吐き出された灰色の煙が、私の心を落ち着かせていく。そういえば、四日前といえば、被害者の行方不明の前日、娘の高校で正当防衛の認められた突き落とし事件があった。だがまさかアレとは関連付くわけは無いだろう。
私はもう一度煙を吸い込み、思い切り吐き出す。
「御陵さん」
「あぁ?」
「さっきの話、最後までしてくれませんか?」
「え? あぁ、サドのやつか……」
木原は胸元からミントガムを取り出すと、一枚を摘み、銀紙をはがして口の中に突っ込んでいる。木原の癖だ。近くで煙草を吸う人間を見ると、すぐにガムを噛み始める。
「どれだけ残虐に殺せるか、ってことさ」
煙草の吸殻がさらりと地面へと降下し、そして砕け散った。
act.3「ネクロフィリア」
全てを話した。ありとあらゆるコト全てを。
雪野を殺害した事も、それを僕に打ち明けていたことも、そして僕を殺そうとしたことも。彼が全てをぶち壊したのだから良いだろうと僕は考えていた。全てを胸のうちに秘めておくと約束したのに彼は僕を口封じの為に殺そうとした。裏切り者という不可解な台詞と共に。
幸い水島という目撃者もいる。
『秘密を共有する』という約束をした部分を『脅されていた』というコトに改変して、それ以外は全て隠すことなく吐き出した。勿論須賀が何故雪野を殺すに至ったのかも……だ。
葬式には数人しか現れなかった。僕と水島、結城と御陵、山下さん、雪野の両親が現れることは、当たり前のように無かった。が水面下では訴えの話が出ているとか出ていないとか。
だが、僕がその話の全貌を知ることは無い。というよりも、興味が無かった。
ただ怯えていた。
人を始めて殺したその感触が、その記憶が、肉が捻り上げられ骨が軋み折れる音が、僕を蝕んだ。
須賀の両親は何を言うことも無く、ただひたすらに僕を睨みつけていた。小学生の頃からの付き合いのある存在は、あの日見事に亀裂を生じさせ、二つの家族を見事に切り離した。
あの事件から四日後、校内では既に須賀という存在に目も向けられなくなっていた。だが今でも花の置かれた机に嫌悪の視線を注ぐ存在もいるし、机を蹴り飛ばしたり、中の花を踏みにじる存在はいる。死者を尊く思うという言葉等とっくにどこかに捨てられ、傷だらけとなった机はそれでもそこにあり続けた。
「……あなたは悪くないわ。ああなる事は既に決っていたんだもの」
「そんな言葉で納得できるわけないだろう?」
水島が初めて僕を宥めていることに少し嬉しさを感じながらも、それに甘えることのできない僕がいる。
「あなたはネクロフィリアを止める義務があるの」
「ネクロフィリア? あぁ、そんな事に首を突っ込む気はさらさら無いね」
僕は両拳を握り締め、へらへらと笑みを浮かべながら彼女にそう言い放つ。彼女はそれでもしんと深く黒い瞳をこちらに向け、立っている。
僕は机を叩いた。何故僕がやる必要があるのだ。警察に任せておけばいい事件に、狂った殺人犯の事件に何故介入しなくてはいけないのだ。心の黒い部分を全部必死で嘔吐するように吐き出していく。焼け付くような喉の痛みが走る。別に胃酸を吐いているわけでもないのに、彼女に浴びせる罵倒の一つ一つが逆に心を錆びた鎖で締め付けていく。
「別にそれならそれで良いわよ?」
「何だって?」
「いつかはあなたの方から『やらせてくれ』と言ってくる時が来るだろうから…」
彼女はそれだけ言うと、踵を返し、教室を出て行った。
一体彼女は何がしたいのだろうか。僕がネクロフィリアを追って、どんな利があるというのだろうか…。
不意に、肩を叩く小さな手があった。
「今、暇かな?」
「山下……?」
ニィ、と柔和な笑顔を見せる山下が、そこにはいた。
「ショックだよね、彼女の次は親友が死んじゃうなんて」
「まぁ、あいつが先に殺そうとしてきたから……」
「でさ、一つだけ気になってる事があるんだけど…」
山下はじっとこちらを見つめる。僕が何かしただろうかと記憶を辿ってみるが、一向に見つからない。
「杉原君ってさ、彼女いる?」
完全に僕の思考も心臓の鼓動も止まった。
「は?」
「いや、ちょっとした確認なの。頼みたいことがあるから」
告白ではないということに少し悔しさを噛み締める自分がいた。
完全にペースの崩された僕はただ山下の言葉に首を傾げるだけしかできなくなる。
「私、狙われてるみたいなの……」
「誰に?」
「分からないの。けど、文化祭の次の日ね、下校の時に非通知がかかってきてね。それで出たらこう言われたの…」
非通知? と僕は聞き返す。山下は青い顔しながら話を続ける。
「『十人目だ』って」
「十人目? 何の十人目か心当たり無い?」
山下は首を振った。
「とにかく本当に怖くてさ……頼めないかな?」
「元彼……いやごめん。俺以外に頼める人はいないの?」
山下は深く頷いた。
「だって私今、ハブられてるから……」
まさかの答えに僕の心臓が一度高鳴る。人柄の良い彼女が何故グループから外されたのだろうか。まさか水島の金魚の糞達のしわざだろうか。そう思うと僕は胸が熱くたぎってくる。
「……四日間」
「え?」
「四日間だけ傍にいてあげるよ。それだけいれば非通知してきた奴だって諦めるだろう。何の十人目かは知らないけどさ」
「……ありがとう」
山下は緊張が解けたのか、涙を溢れさせ、わんわんと泣き出した。それはそうだ。周囲から弾かれ、相談できる者もいなかったのだ。どれだけ不安だったのか考えると恐ろしいものだ。
僕はあわてながらも、両の手を彼女の方に回す。泣き止むまでの間、じっと彼女のことを見つめ続けることにしてそこに二人で座り込んだ。五時限目のベルが鳴っているが、どうやらサボる事になりそうだと、僕は一度だけ小さくため息を吐いた。
※
日が暮れかけた頃、水島は黒髪をたなびかせながら教室の窓からグラウンドを覗いていた。部活に精を出す者もいれば、ベンチに腰掛け喋り続けている者もいる。これだけの存在のうち、どれほどが今この学校で起きようとしている事を察知しているだろうか、いや誰一人としていないだろうと水島は呟く。
「待たせた」
水島は教室の入り口に目を向け、そして口の端を吊り上げただけの笑みを浮かべて彼を受け入れる。朱に染まるマフラーを首に巻いた茶髪の彼はギラギラした瞳で水島を見据えている。
「まさか俺に依頼なんてな。嫌いじゃなかったのか? 俺が」
「嫌いよ。でもあなたしか頼めないんだもの」
そうかそうか嫌われているか、と男は呟きつつ水島の傍に寄る。
刹那、水島の身体が宙に浮き、そのまま床に叩きつけられる。受身を取る暇も無いその投げは見事に彼女を咳き込ませる事に成功する。男は掴んでいた手を離し、水島の腹に馬乗りになると、ひたすら冷たい目でこちらを見つめる彼女を見て舌を打つ。
「その綺麗な顔、焼いてやろうか?」
肌と言わず、と呟き、男はブレザーとワイシャツを引きちぎる。白い肌と水色の下着が露呈するが、水島は気にすることも無く口を開いた。
「あなたの仕事でしょう? ネクロフィリアの始末」
男が伸ばしてきていた手を止め、訝しげな表情を浮かべる。
「何故知っている?」
「あなたはネクロフィリアを始末できる。私はこの事件を止めることができる。そういう依頼をしようとしているの」
水島はそれに、と加える。
「杉原って子、“あなた達”も気になっているんでしょう?」
「……悪い話じゃないな」
乗ってやる。男はそう呟くと、水島から離れ、腕組みをして机に寄りかかる。
「乗ってくれてありがとう“インフェルノ”」
水島はニヤリと、妖艶という言葉の似合う笑みを静かに浮かべていた。
※
風呂という存在がこの世界にあって本当に良かったと思う。ここまで気持ちをさっぱりと流してくれる存在は無いだろう。清潔感も保てる。風呂に入るのが嫌いな奴は人生の半分を損していると思う。
得意の鼻唄を歌いつつ僕は誰もいないリビングに上半身裸で足を踏み入れ、テレビのリモコンをつける。九時からのニュースが丁度始まったところのようだ。キャスターがお辞儀をしている。
それにしても十人目とはなんなのだろうか。ストーカーならそんな大人数を追いかけるわけないし、拉致だとしても告知して警戒させる意味が無いだろう。もしかしたら獲物を怯えさせて自慰を行う趣味の悪い奴の仕業かもしれない。どちらにしろ、あそこまで怯えた山下をほうっておくわけにはいかない。
『それでは、次のニュースです。今日午前七時、連続殺人事件の九人目の被害者が発見されました……』
反射的に僕はそのニュースに見入る。最近起きている連続殺人事件といえば、屍姦事件。テレビでの報道だから和らげて言っているが、内容は確実に「九人目が殺されて、屍姦されて放置されていたぞ」という情報だ。
「九人目……」
単なる偶然ではないだろう。この報道から得た情報から、被害者が行方不明になったのは文化祭の次の日、山下の携帯に非通知の電話がかかってきたのも文化祭の次の日。
「九人目が誘拐された時点で、山下は十人目に選ばれていた!?」
僕は急いで上着を着ると近くにあったシューズに素足を通して玄関を飛び出す。山下の家は今日聞いた。僕の家から十分もかからない場所だ。
「明日からなんて言っている猶予なんて無かった。既に決っていたなら九人目の死体が遺棄し終えた時点で狙ってくる筈だ!!」
僕は必死で走り出す。できれば無事でいて欲しい。これ以上身近な人間の死を見るのはごめんだからだ。
――その日の月は、やけに赤みを帯びていた。
「はぁっ……はぁっ!!」
乱れた呼吸を必死で整えながら目の前にずしんと建つ一軒の建物を見つめる。見上げればくらりと立ちくらみがしてしまいそうな程高く造られたそれは乱れた僕の呼吸を更に乱す。
「エレベーターを……」
大分鼓動が落ち着いてきたところで、僕はエレベーターの上ボタンに指を押し付ける。数字のランプが十階、九階、八階…とゆっくりと降下を始めている。確か彼女の住居は九階。心理的になのか、急ごうと考えれば考えるほどランプはゆっくりと降下する。先ほどと比べれば驚くほどランプの点滅が遅くなってきているような気がしてならない。くそ、と人差し指で何度も上ボタンを連打するが、速度が変わるということはありえない。
――きっと自分からネクロフィリアの件を解決したくなる。
その言葉は、より一層僕の中に大きな暗黒を作り出していく。猟奇殺人者とまみえるなんて誰も望むことは無いだろう。自分自身を殺して欲しいという人間はそれを望むかもしれないが、僕は生憎そんな気の狂った考えをもってはいない。
チィン……。
機械的な音声と同時に、目の前の扉が左右に退いた。足に力を込めエレベーターの床を踏み締めてから九階のランプを力強く押し込む。
『九階へ参ります』
女性の声と共に扉はガタンと閉まった。
隣のエレベーターも遅れてやってきたようで、僕の乗るエレベーターとすれ違いに誰かが出てくる。僕は焦る気持ちを抱えつつ目の前を横切る影を見つめた。
刹那、僕の身体は反射運動のように「開く」ボタンを連打していた。
「山下!! 山下ぁ!!」
開くボタンの連打を止め瞬時に二階のボタンに拳をたたきつける。だが時は無常で、二階をするりと無視してエレベーターは九階を目指す。
三階のボタンをひたすら押し続ける。
あの時僕は確かに見たのだ。
フードをすっぽり被った男が、山下を抱えて走っていくのを……。
act.3-2
三階のエレベータを降りて階段を飛ぶように降りていったが、既に男はどこかへ去ってしまったようで、追跡することも無理に等しいようだった。
「遅かったか……」
悔しさに思わずその言葉が漏れた。どうしてこんな簡単なことが理解できなかったのだろうか。そういう趣向なのか分からないが、非通知でそんな連絡を入れていて、九人目を廃棄済みなのだから、その日のうちに行動を起こすかもしれない。それさえ分かっていれば、今日のうちに自宅にでも連れて行くか、警察署に連れて行って保護してもらうべきだったのだ。
「そんなことにも気づかないなんて……」
まずは山下の親御さんにこの状況を伝える為にエレベーターに戻る。落ち込み続けるより、警察に伝えるべきだ。確か御陵の父親がこの事件調べている筈。もしかしたら何かしらの裏を知ることが出来るのかもしれない。まあ一般人に教えるほど刑事が馬鹿な筈は無いが。
エレベーターの上ボタンを再び押し、扉が開く。と同時に、床に落ちている試験管に気づく。無色透明の液体が詰められゴムキャップで蓋がされている。
キュポン、という音と共に液体が一度大きく揺れた。
「……なんだこれ……薬品?」
確か臭いを嗅ぐときは、と手で管の口あたりをゆっくりと仰ぎつつ鼻を近づける。
「…げほっげほっ」
キツイ臭いに思わず堰が出る。何かしらの薬品である事は分かるが、それが何かなど分かる筈も無い。
「とにかく、これも警察に……」
不意に現れた殺気に僕は気づかなかった。
背後に誰かが立っていることを身体が確認した時には、何か糸状のモノが僕の首を絞め上げていた。
「……!?」
――アルコールの臭い? いや、薬のような臭いも…。
とにかくこの状況から逃れなくてはともがくのだが、もがけばもがくほど、首に絡む糸に手をかけようとすればするほど、酸素が失われて僕の脳内がぐるぐると回転をしていく。とにかく呼吸がしたい。呼吸さえできれば何か機転が掴めるかもしれない。
だがそんな求めを聞き入れるわけも無く更に力が入る。上手く頚動脈に入っていないからなのか、首を絞め上げられる痛みと呼吸のできないもどかしさ、酸素が足りないと嘆く身体。そしてその他諸々が全て悲鳴をあげているのを自覚できてしまう。もういいから意識よ落ちてくれと何度も懇願するが、それさえも叶うことが無い。
「がぁ……がっ……」
「……くぅ!!」
やっと白く薄れてきた視界に僕の心が安堵感を覚え始める。溺れた時に感じたことのある何か不思議な開放感が僕の身体を満たしていく。自分が死んでいくということが手に取るように分かった。
――ここまでか……。
薄れゆく意識の中、遠くから悲鳴のようなものと舌打のような音が聞こえ、首が開放される。今まで体験したことのない堰が僕の身体を蝕み、そして欲していた筈の酸素は思い切り呼吸をした僕に牙を剥く。涙はとめどなく溢れ、鼻水と唾液の混じった粘度の高い液体が地面に水溜りを作り出していく。
動かない身体をフルに活動させて目の前に落ちている試験管に手を伸ばす。
がその手は犯人によって蹴り飛ばされ、試験管を拾うとフードの男は僕の下を去っていった。
「大丈夫!?」
ざわざわと人が密集し始める中、意識の確認をする為にかしきりに声をかけてくる女性に一度笑顔で頷く。
そして僕の視界は完全に、暗黒の世界へと沈んでいった。
※
気づかれたことよりも、接触してしまった事に恐怖を覚えた。生きている肉体はやはり嫌いだ。何より中身が気になってしまう。さっきの少年も首を絞めつつ中身はどうなっているのか気になって仕方が無かった。あのまま殺害していたら悲鳴が聞こえてもひたすら解剖に力を注いでしまっていた筈だ。
殺さなくて良かったと安堵に胸をなでおろし、そして片手でミラーをいじる。後部座席には苦悶の表情を浮かべて眠る山下由佳の姿。これから彼女をどうやって殺そうか。肉体に傷を付けたくは無いが、せっかくの十人目だ。今までに無い殺し方をして、逃れられない死を直面した表情を見たいものだ。
そう考えただけでも私のソレはとてつもなく充血してズボンに自身を押し付けている。十人目に相応しい彼女ならば、一ヶ月間は余裕で処理を行うことが出来るだろうと考える。何もしていない筈のそれはびくりと動き、全身に得もいえぬ快感を撒き散らしていく。無駄遣いをさせないでくれ。これからじっくりと彼女で楽しむんだ。実物を見ながらゆっくりとね……。
少年時代、アニメの続きを楽しみに待っていた頃のような高揚感と胸を縛り付ける何かが私にアクセルを更に踏み込むように命令を出す。ミラーは直しておこう。彼女を見ているだけで二度目までしてしまいそうだ。
※
治療を受けて病院のロビーに戻ると、薄ら笑いを浮かべて壁に寄り掛かる水島がいた。
「だから言ったでしょう? 解決したくなるって」
「……お前は一体なんなんだ? 超能力者か?」
水島ふふんと無邪気な笑みを浮かべつつ僕の首についた痣を覗き込む。ずいぶん派手にやられなのね、と漫画で聞きそうな台詞を吐かれた時には流石にカチンときた。
「それで、まだ山下を助け出せる可能性はあるのか?」
水島は満面の笑みを浮かべながら五本の指全てを立てる。
「五十%か……。五分五分……?」
「違うわよ」
五分五分ではないらしいが、五十に近いのだろうからそれだけまだ可能性はあるのだろう。
「五パーセント、よ」
僕の考えは、見事に打ち砕かれ粉となって消え去った。
「五っ!?」
「ネクロフィリアの趣向にもよるのよ。彼が誘拐してから殺すまでの期間は本当に適当でね。パターンってものがないのよ」
「つまり、山下も、今日のうちに殺されている可能性が?」
「それだけはないわ」
水島は更に左手で三本の指を上げた。
「三日?」
正解。水島の楽しそうな声が院内に響く。
「パターンとまでは言えないけど、奴は最低でも三日感は生きている女性をおかずにオナニーしているらしいの。例えば色々突っ込んで苦悶と快楽に滲んだ被害者の姿を見ながらとか、身体にある程度の苦痛を与えて楽しんだり。で自分自身が欲に耐えられなくなったら、そこで殺害してから彼女に挿入。快感を味わったら子宮のみ切り取って野外に放置する。これがネクロフィリアの趣向」
「……最低でも三日のうちに発見しないといけないんだな?」
彼女の口から卑猥な言葉が幾つか出たのを必死で頭から消し去りつつ、僕は彼女に問いかける。
「えぇ。でも、あなたは既にある程度の可能性を知っているのよ……」
「……知っている? 俺がか?」
水島の首が縦に動く。僕がネクロフィリアが隠れている可能性のある場所を知っている。きっと最近起きた出来事の中に隠れているのだろうけれども、僕には検討がつかない。
思い出せと必死に脳に言い聞かせるが、脳は僕にお手上げだとでもいうように首を傾げるだけだ。
「薬品の臭い……試験管……」
必死に頭の中で言葉を組み合わせようとするが、どこにも破片が嵌ることは無い。
「君が、杉原君かい?」
不意に聞こえた声に僕は振り向いた。「渋い」という言葉が似合う男性がそこにはいた。僕よりも五センチほど高い背で、白髪の混じる髪と整えられていない無精髭が威圧感という武器を彼に与えている気がした。
「警察、ですか?」
「あぁ、今日首を絞められたこととについて色々聞かせて欲しくてな。あぁ、あと……」
「後?」
「君が同時刻に見たというフードの男と山下由佳について……ね」
彼はふぅ、と不摂生により出来たクマをなぞりつつ僕にそう呟いてから、名刺を僕に手渡してくる。
――御陵聡介。
名詞に記載されたその特殊な姓を見て、僕はふと一人の少女の名を思い出す。
「……もしかして、御陵さんのお父さんですか?」
「うちの娘を知ってるのかい?」
「えぇ、同じクラスです。こっちの水島も」
さりげなく紹介したつもりだったのだが、水島は嫌そうな表情を浮かべ、御陵さんから視線を逸らした。
「水島……? 水島沙希さんか?」
「あの時はどうも……」
御陵さんにぶっきらぼうにそう言うと、水島は気分が悪いから外にと僕の耳元で囁いて病院を出て行ってしまった。
「そうか、水島、こちらに出てきていたのか……」
「あの」
「あぁ、すまないね。じゃあ、色々と向こうで聞かせてもらおうか。娘の友人なら事情聴取も大分楽になりそうだよ」
はぁ、と返事を返しながらも、僕はひたすらパズルを解き続けていた。
――知っている…。僕は、可能性は……僕が握っている……。
台紙の無いパズルは僕の目の前にばら撒かれて存在している。これを解くことが出来れば、どれだけのコトが分かるのだろうか。破片を拾い上げては繋ぎ合わせ、合わなければすぐに崩れ去る。そんな手のかかるパズルを手に、ひたすら組み合わせ続ける。
「――君? 杉原君?」
脳内のパズルを組むことに必死でいた僕はやっと御陵さんの言葉に我を取り戻す。
「あ、はい大丈夫です」
「そうか、どこか悪いのなら言ってくれよ」
「はい」
御陵さんはそう言ってから軽く微笑むと、カチリとボイスレコーダーのスイッチを押し、煙草に火を付け鋭い眼差しで僕を見つめる。
「じゃあ色々と聞かせてもらおう。杉原君」
「はい」
その圧迫感は、僕の脳内から綺麗さっぱりパズルを吹き飛ばした。
「まず、山下由佳が連れ去られた事について何か分かることは無いかな?」
「放課後に非通知で電話が掛かってきたと相談を持ちかけられました。なんでも『十人目だ』と言っていたとか…」
「なるほど……。狙いは既に定まっていたのか……警察へ連絡は何故?」
「その時は流石に猟奇殺人事件の被害者が九人だったとは知りませんでしたし、悪戯かと思ってしてはいないようでしたし、僕もするつもりはありませんでした」
煙草の吸殻が灰皿にポトリと落ちる。
「……君は何故首を絞められたのか、心当たりはあるかい?」
「は……い……。山下を抱えている男を見たし、エレベーターで液体の入った試験管を見ました」
「その試験管は?」
「首を絞められた後拾っていかれてしまいました。臭いを嗅いだとき、刺激臭というか、くらりとする感覚があったようなないような…」
「……彼女に嗅がせる為のモノかもしれないな」
「クロロホルムですか?」
御陵は僕の問いかけに、刑事モノの見すぎだと呟いた。
「あれよりもっと適したものがある。クロロホルムは意識が途絶えるまでかなり時間がある。その間に振り切られて終了さ」
「そうなんですか」
「ジエチシルエーテルってのがあってな…と、あんまりこういうことは教えられないな。危険だ」
「なるほど……」
後でネットで調べてみよう。そうすれば何かしら分かるかもしれないと僕は心の中でジエチシルエーテルという言葉を何度も連呼する。
「あと、首を絞められたとき、薬品というか、アルコールというか、そんな臭いがしました」
「なるほど。他に何かないかい?」
「いえ、それくらいです」
そうか、と御陵さんは呟くと立ち上がり、ボイスレコーダーをカチリと停止し部屋を出て行く。
「ありがとう。悪かったね時間をとらせて」
「いえ」
「この間友人に殺されそうになったり、君は本当に大変だね…」
彼なりの同情の言葉なのだろうが、僕にはとても残酷な一言であった。がそれを吐き出さないように必死で作り笑いを浮かべておく。爆発させてはいけない。そう心にひたすらに耐えろという言葉を刻みつける。
「……?」
スッと、僕の頭の中で何かがはまった。
「……!?」
パズルの破片と破片が、綺麗に繋がった。
――あのときの違和感…。
僕は御陵さんの横をすり抜け、外へと飛び出すとベンチに腰掛ける水島へとずかずかと歩み寄った。
「水島」
「……?」
そして僕は両手をポケットに突っ込みながら、静かに呟く。
「あったよ。一つだけ……場所が……」
その言葉に表情が浮かび上がる。
「良かったわね」
水島が微笑みを浮かべていた。
「おはようございます、先生。」
僕の呼ぶ声に反応し、目の前の白衣は痩せこけた顔をこちらに向ける。
「やぁ、杉原君。どうしたんだい? この時間に。」
生物学の山木保はそのぱっくりと割れた唇を吊り上げ笑みを返す。無精髭をたくわえ、使い込まれた年代モノの白衣の各所には解剖のときについた血や様々な汚れが染み付き、それが一層彼の纏う空気を薄らとしたものにしていた。
「いえ、実は色々とお聞きしたいことがあるのですが……」
「私でよかったら、何でも聴きなさい。けれども変だね。テストはもう終わったと思うのだが……あぁ、受験生だったね君は」
「薬品についてです。少し興味がありまして……」
「ほう、面白い子だね」
山木はアゴを人差し指と親指で支え僕を見つめる。妙に掠れたその瞳を見て、多少の嫌悪感と吐き気を催したが、それを喉下で押し留め、僕は言葉を続ける。
「ジエチルエーテルって、分かりますか?」
山木の眉がぴくりと動いた。
「……また不思議な薬品を知っているんだね。どこで知ったんだい?」
「単なる興味本位ですよ」
「ふぅん。確か引火物じゃあ無かったかな? あぁ、あと麻酔作用もあったと思うよ。」
「なるほど……」
彼はそのひょろりとした笑みを歪め、僕もよく知らないんだ。すまないねと言うと、僕に背を向け足早に歩き出す。
「じゃあ、人を誘拐する時にも、十分に使用可能なんですね?」
山木の足が、ぴたりと止まる。
「先生、何故嘘をつくんです? 科学室にしっかりと格納してあったじゃないですか“ジエチルエーテル”が……。それもたっぷりと」
「科学室に無断で入ったのかい? いけないなぁ。」
「……雪野早苗の死亡した夜、なんで学校に入れたんでしょうね?」
「何の話をしているんだい?」
僕の黒い何かが確実に暴れ始めている。動揺をしている山木の表情を見て、うっとりと、何か恍惚としたなにかを感じ取っている自分に気づいた。
「セキュリティ、何故解かれていたんです?」
「……私は知らないが?」
「そうですか。それは失礼しました。」
僕は一言呟き、身を翻すと山木に背を向け教室へと向かう。
「あぁ、最後に一つだけ……」
「?」
僕は黒い“何か”を必死で抑えつけ、“僕”が“僕”を打ち破って“僕”以外の何かにならないように強く念じる。抑えきれなくなったときが“僕”の最後だという事は承知の内だということを心に刻み込み、そして仮初めの笑顔を山木に向けた。
「山下由佳、まだ生きていますよね?」
山木の表情が、確実に変化した事を僕はしっかりと目の当たりにし、そしてじゅうぅと脳裏に焼き付けた。
「また明日、じっくりと話をしましょう……」
僕はにやりと、笑ってみた。
act.3-3
ドアをガラリと開くと同時に、出席簿が僕の頭にギロチンの如く落下した。
「遅刻とは良い度胸だ杉原ぁ!!」
「すいません、寝坊です。」
「テスト終わったからって気を抜くなよ。受験生!!」
数学の山瀬清子はうはは、と色気の一切無いジャージ姿で男のように笑う。
正直女性のこういう姿は好きではない。冬場のスカートの中にジャージを履く女子を見ていると特に思う。
ならば丈を短くしろ。
誘惑するな。
太ももを見せるな。
変な想像をさせるな。
僕はそう強く言いたい。
「やぁ水島。」
「……寝坊なんて在り得ないでしょう。相当早い時間に君が来ているのを見たわ。」
流石は水島だ。とでも言うべきなのか分からないが、そう言うところを目撃してくれている事で、その後の僕の起こした出来事の説明は容易い。
「昨日確かめた時点では、その日の朝の目撃者は生物学の山木だということ、そして朝のセキュリティを解除したのも山木。時刻は三時頃らしい。」
「随分と早いわね?」
「あぁ、うちの学校はそこまでハイテクじゃあないから毎朝教師がセキュリティを切っている。けれども生徒が登校するのは八時。朝練でも七時前後。教師が来るとしても五時頃で十分な筈だ」
水島のノートをシャープペンが縦横無尽に駆け巡る。
「三時間前は……妙に早すぎる……」
「もしくは、その“前”からこの学校にずっといたか……」
水島のペンがぴたりと動きを止め、僕に向けられる。僕はゆっくりと頷く。
「あの日の夜中から朝にかけて、山木保は学校に存在していた」
「なるほどね。それで偶然、須賀君が雪野さんを突き落としたところを目撃した」
「あの先生の性格だ。こちらの所業も見られたのではと考えたんだろうな……」
完全な僕の予測であるが、ここまでは合っているだろうと考えている。
そしてその時の状況も、十分に考えることはできる。多分山木は変声器か何かで須賀に電話をかけた。山下の電話番号を突き止めるだけの執着心があるのだ。それだけのことは簡単にこなせるだろう。
※
「はいもしもし?」
『ヤァ、殺人者サン。』
「!?」
『キミガ雪野早苗ヲ突キ落トスナンテ思ッテモイナカッタヨ』
「……誰かに聞いたのか!?」
『……取引ヲシナイカイ?』
「!?」
※
須賀はここで電話を切り、興奮状態の中一体誰が目撃したのかを考える。セキュリティの事など考えている暇はその時も、雪野を殺したときも無かった筈だ。そして、興奮と混乱の入り混じった精神状態で導き出された答えは――
――杉原が俺を裏切った!!――
という答え。
「なるほどね。けれども、何故彼がネクロフィリアだと思ったの?」
「こちらは本当に勘さ。身近にいて、しかも須賀を強請った奴だとまでは考えていなかったよ。けれども」
「君の勘はすごいわね。で、けれどもって何?」
僕は脳内に微かに残る映像をひねり出す。
「……気持ち悪かったんだよ。」
山木の授業中、身体の仕組みを説明するビデオを付けた時、彼は恐ろしいほどの快感に身を悶えさせているかのような表情と震え、そして生物解剖の時の鮮やかなナイフ捌きに内臓の掻き分け。
普通なら教師だしと思うかもしれないが、それにしては気味が悪いほど綺麗なのだ。弄ぶように生物を掻っ捌き開く姿も、明らかに授業中に放送するべきではないビデオを教育用といって放送する姿も。
「表じゃ呆けた人を演じているけれども、裏は絶対に狂人だって変な自信を持てたんだ。あの人を見ていたら……」
ふぅんと彼女は呟き、そしてちらりと左を覗き、ノートに視線を落とす。
刹那、ギロチンは僕の頭頂に突き刺さった。
「余裕じゃないか杉原。」
「えぇ、お蔭様で……」
山瀬の表情は完全に、叩き殺されたいか、と僕に問いかけている表情であった。つまり、騒いで死ぬか大人しくして生きるかどちらかを選べと、表情のみでハッキリと感じ取れた。
「……それで、何故山木に鎌かけてきたの?」
しゃがみこむような姿をすると、彼女は上目遣いでこちらを覗き込んできた。
「……山下を比較的無傷にしたいからさ」
「どういうこと?」
「君の言う話じゃあネクロフィリアはある程度愉しんでから人を殺し、そして行為に及んでから破棄する。その愉しむという時間は今回、比較的長いだろうと君は言っているだろうけれど、猶予なんて実際無いんだよ」
「……だから何故?」
「彼が犯人だと確信して、二人の姿を九人目の犠牲者が消えた日に目撃しているという事は、監禁場所は“ここ”の可能性が高いんだよ」
水島はもう一度首をかしげた。
「監禁されている時点で精神的に苦しいのに、そこに肉体的に傷を付ける。するとどうなると思う?」
「精神的に、崩壊する……」
ペンを回転させ、黒板の問題をゆっくりと解き始める。
「そう、しかも長い期間の中で見張っていたとしても、たった二人で学校を監視できるわけがない。だから」
「あの時の鎌かけで? 来るの?」
「偶然僕が学校で山木が何かをしているのを見たと、ネクロフィリア事件に躍起になっている御陵の父親に言ってみる。小さなモノでも、そんな証言が入れば捜査側は調査しに来るだろう? もし山下が見つかれば?」
「勿論夜中まで残っているのを見られた山木が連れて行かれるわね」
「まぁそんなに早く警察が動けるかっていえば、望み薄だけれども、そんな予想が既に彼の中には出来上がっている筈さ。つまり、今日中に山下由佳を処理し得ない状況に追い込まれる。」
「……頭痛くなってきた」
「まぁ、ここまで頑張ったんだから聞いてくれよ。」
僕はおどけてみるが、彼女は正直完全に頭を抱えている。
「だからこそ、僕は今夜セキュリティが設置されていないであろう学校に再度戻り、山木を山下由佳の監禁場所まで尾行する。」
「あなたが殺されるかもしれないわよ?」
「僕が君にワンコール入れる。それを合図に通報してくれ『校内に入って行く男を見た』とか言ってね。あぁ、女性を抱えていたとか言えばもっと効果は大きいかもしれないね」
「……やると思う?」
「君は僕に、色々な殺人狂と戦わせたいんだろう?」
水島ははぁ、とため息を一つ吐いた。
「交渉成立だな」
そう言ってから、解き終わった問題と黒板の回答を何度も見直し、そして一つ大きな赤丸を問題につけておいた。
これだけ勘が偶然当たる運の良さは、きっと僕を不幸に追いやるしっぺ返しとして返ってくるのだろうなと、不意に思う。それが一体どんな不安なのか、僕には全く分からないが、とにかくそう思った。
杉原は何故あんな言葉を吐き出したのか。今となってはもう確認することもできない。だが、今やるべきことはただ一つ。
「……うぐぅ……」
赤く腫れた目でこちらを睨みつけ、猿轡を噛み締める山下を、今日中に処理する必要があるということ。
「さて、名残惜しいが……」
私はそそくさをベルトを外し、ズボンを下に下げる。山下の表情は恐怖と嫌悪感でぐしゃぐしゃに歪んでいる。それを見ているだけで十分私のそれに意識が集中していく。キツくなったボクサーパンツを一気にずり下げ、山下を見下ろす。
なんという優越感だろうか。力の無い者が怯え上に立つものを見上げる。力の無い者はただひたすら嬲られ続け、そして命をはかなく散らしていく。
「さぁ、一生で一度の楽しい楽しい……性教育の時間だ」
「……むぐぅ!!あぐぅ!!」
山下の必死の悲鳴に快感を覚える私がいる。とてつもなく変態だ。吐気がする位気持ちの悪い趣味を持つ悪人だ。それを理解しているからこそ、こういう行為を起こせるのだ。この快楽に依存することで、その黒い自分の渇きを満たす。
暴れる山下の身体にゆっくりと触れる。暖かくふにふにとした弾力のある適度な肉付き。それでいて幼さの残る顔立ち。
今その幼げな表情は涙で歪んでいる。
「……すばらしい!!」
私が握り締めていた制服が縦に破れ、胸を覆い隠す下着がちらりと見え隠れする。私は本能のままにひたすら彼女の衣類を千切り取っていく。
ビリリ。
ビリリ。
ビリリ。
ビリリ。
ビリリ。
ビリリ。
下着のみの姿となった時、私は彼女の痴態に気づき、またも好奇心を掻き立てられる。
「む? いけないじゃないか山下ぁ……」
「……っぐ……っぐ……むぐぅ……」
彼女の内面に引っかき傷をつけてあげようか。私はニヤリと笑みを浮かべ、そして山下の耳元で静かに囁いた。
「駄目じゃないか…この歳でおもらしなんか…。仕方が無い。今濡れている下着を…脱がせてやろう…」
彼女の表情が完全に凍りつく。
私のそれはより一層昂ぶり、捌け口を求めていた。
act.3-4
「じゃあ、あとはよろしく」
「……ワンコールで、いいのね?」
僕は一度だけ頭を縦に振る。心配気な声にも拘らず、表情は変わらず氷のように冷たい。この氷が果たして溶けてくれる日は来るのだろうか。僕は寂しさと一緒にため息を一つ、深く吐き出した。
「じゃあまたあとで」
「ええ。また……」
さて、と僕は改めて目の前の校舎を見据える。暗黒に包まれたそれはまるで廃墟のようだ。どこかの有名RPGで例えるとすれば、勇者は僕で、龍は山木。囚われの姫は、山下だ。
ただ、そんな例えは実際なんの役にも立たない。下手をすれば姫は既に殺害されているかもしれないし、死亡した勇者は当たり前のように生き返ることも無い。龍に太刀打ちできずにのたれ死ぬ可能性だってある。
ペンライトと果物ナイフしか持って来ていない僕に、果たして猟奇殺人者が倒せるかどうか。
答えはNOだ。
だからこそ彼女に通報を頼んだ。これからも殺人狂と戦わせたいのだろう等と言ってはいたが、実際そんな狂人らとこの先も戦うつもりは無い。というよりも、こんなごく一般の人間がそんな奴らと戦えるわけが無いのだ。
そんな道を歩むくらいなら死を選ぼうと思う。
これが僕の最後の勇気だ。
「さぁ、自殺の準備をしよう……」
生唾をゴクリと飲み込み、僕は玄関に足を踏み入れた。
※
「彼、死ぬつもりだね」
「そんな事分かってるわ」
悪戯な笑みをこちらに向けながら、インフェルノは首下に指を突き立て、横に一閃する。今すぐにでも引っ叩いてやりたいという感情が芽生えるが、焼け死にたくは無いのでぐっと堪える。
「あなたの方も準備はできているの?」
「あぁ、万端さ」
彼は白いスーツの胸ポケットからマッチを取り出し、それを点火すると、暗闇に一点の光が現れた。気味が悪いほど穏やかなマッチの炎を、気味が悪いほどインフェルノはうっとりとした目線で見つめている。
「…楽しい?」
「楽しいよ。火ってさ、本当に素敵だ。燃え尽きれば跡形も無く消え去り、光さえも奪っていく…」
「…悪いけれど、はっきり言うわ」
咽まで這い上がってきたこの汚物に近い『ソレ』を私は、思い切り彼にぶつけてやろうと決めた。
「気持ち悪いのよ。この炎オタク!」
インフェルノはポカンとした表情で、そこに佇んでいる。
マッチの火は、スゥと跡形も無く消え去った。
※
闇に染まる廊下を照らすには、ペンライトでは足りなかった。目の前の床を一点だけ照らす光が、一体どれだけ足元を安心させられるだろうか。いや、安心させられるわけがない。彼がいる可能性のある科学室が一階で良かったと本当に思う。この暗さで階段を昇るとなると一苦労することになるし、転んで大きな音を立ててしまえば存在を気づかれて逃亡を図られるかもしれない。彼が逃げるのを確認できない状況にある。それだけは回避したい。
「……山木は、科学室の一体何処にいるんだか……」
科学室のプレートを見つけ、ゆっくりと扉の窪みに手をあて、横に引いてみる。
ガラリ。本来閉まっている筈の扉は、いとも容易く僕を受け入れ、横へと退く。小さな円状の光で辺りを見渡し、ここに山木も山下も居ないということを確認し、一度胸を撫で下ろす。
ここでバッタリと出くわして、戦闘になったとして、利は向こうにある。こんな机だらけの不安定な場所で刃物なんて振り回してもなんの役にも立たないし、何よりもこの部屋は彼の方がよく知っているのだ。そしてなによりも殺人者と一般人。少しでも自分に有利な場所を選ばないと相討ちに持っていくのはムリだろう。
「……科学室のどこかに、地下室とかあったりして」
不意に浮かんだ考えが思わず口から出るが、学校にそんな大それた事出来るわけがない。普通に却下だ。それ以前に、地下室で行為をしているのなら、雪野殺害を目撃することなんてできない。
やはり、この校舎内のどこかにいるのだ。
僕はペンライトで科学室のスイッチを探し出して、パチリと乾いた音を鳴らした。ブゥン、カラン、という音と共に蛍光灯に光が灯る。目が少しじんと押されるように痛むが、慣れはすぐに目に感じる痛みを取り払い、視界を開けさせた。
「……さて、盛大にやるか」
蛍光灯に光と灯したまま科学室を後にすると、すぐ傍の壁に設置されていた消火ボンベに目をつけ、両手でそれを抱えあげてから、キャップを抜き取りレバーを押し込む。
暗闇の中を迸る白煙と轟音が廊下に木霊する。
僕をゆっくりと、窓から反対校舎を見つめる。瞬きすらせずに、ただひたすら見つめる。
「……開いた」
反対側の校舎一階の図書室が、ゆっくりと開き、懐中電灯を持った山木が現れ、科学室の明かりと、白煙まみれの廊下を凝視している。僕は白煙のついた窓にゆっくりと、指をつけ、動かしていく。
僕にあんな事を言われて、科学室で行為を行うわけはない。通報されて、一番怪しいと思われる科学室に向かっているのを確認し、裏口から逃亡を画策していたとする。二階では色々と面倒であるし、選ぶとしたら一階のどこか。そして自分の殺害場所である科学室を離れて見ることが出来るのは、反対側の校舎の部屋。つまり、そのどこかに山木は隠れている筈なのだ。
もう一つやらなくてはならないのは、僕の存在を見せること。子供一人でここに乗り込んできたという事で、彼は安堵感を覚えるだろう。そして、正義の味方ぶる僕の存在をまず消しに来る。
気付かれないまま向こうの部屋に乗り込んだ場合、山下が殺害されている可能性がある。僕の方に意識を行かせることで、山下殺害を妨害させることも僕の計画には入っている。
だが、これは賭けだ。もしかしたら既に行為は済んでいるかもしれない。
「ギャンブル過ぎるよな、本当に」
後は僕を殺しに来た彼と対峙し、頃合を見計らってワンコール入れれば良い。
「……さて」
窓に字も書き終えた。あとは廊下の明かりを点けて山木の行動に注目していればいい。
僕の命で、一人の命が救えるのだ。それだけで十分満足だ。
※
彼女の陰部から私のモノが溢れ出ている。死んだ魚のような目で山下はこちらを見つめている。笑みも、悲しみも、怒りも、何もその表情には映っていない。文字通り無表情なのだ。
「壊れちゃったんだね?」
「殺して……」
大丈夫。と僕は彼女の両肩にゆっくりと手をあてて呟いた。もはや恐怖さえも映さないその瞳は、僕の興味をがりがりと削いでいく。九人目までは最後まで抵抗していたのに、何故彼女はここまであっさりとしているのだろうか。
本当に殺してみよう。死ぬ間際はきっと、もっと気持ちが良いのだろう。何しろ私が十人目に選んだ少女だ。微妙なわけがない。散る間際の輝きを目に焼き付けないと。
「よく頑張ったね山下」
光を灯さないその瞳に、私は怒りさえ感じてくる。
もっと抵抗しろ。
もっと。
もっと。
「今から快感と一緒に、天に送ってあげるよ。最高だろう?」
「……嫌ぁ……」
彼女の表情が、ほんの少し曇る。この表情を待っていたのだ。脳内から様々なものが分泌され、高揚感が再びやってくる。
首にゆっくりと手をかける。
不意に、微かな明かりと、何かが相当な勢いで放出されていく音が響き渡った。私は勿論、山下も呆然とした表情で図書室の扉から差し込む光に目を奪われる。
「……チッ」
舌打ちをしながら、彼女の口に猿轡を噛ませ、ズボンを履き直してから図書室のドアを開けた。
案の定鎌をかけてきた彼と警察は科学室に向かったのだろう。さっさと裏口から出て、脇に止めてある車で逃亡を図ろう。今ならさっさと逃亡することができる。
対校舎の廊下は、白煙に包まれていて、どうなっているのか確認しにくい。一体向こうで何が起こったのだろうか。
不意に、廊下の窓の一つが完全に真っ白に曇っていることに気付く。白煙が付着したのだろうか。私はその窓を凝視する。
すぅっと、「み」の文字がその曇った窓に描かれる。
「……み?」
次々と入っていく文字を見て、私の心臓が鼓動を早くしていく。
『みつけた』
窓に書き込まれた四文字と共に、隣の窓から一人の少年がこちらに笑いかけていた。
「杉……原ぁ……!!」
私に向かって悪戯に笑みを浮かべる彼は、ナイフを手で弄ばせている。しかし、見たところ彼は一人のようだ。
たった一人で私を捕まえようとでも思っているのだろうか? これでも九人を手にかけてきた殺人者の私を、彼は捕まえられるとでも思っているのだろうか。
「……どうせだ。山下と一緒に仲良く殺してやろう」
動けない位痛めつけた後に、彼の目の前で彼女の首を絞めながら犯してやろう。勇者気取りでのこのことやってきた彼にとってそれは相当な屈辱だろう。
それ位の事をしないと、私の趣味を汚した罪を洗い流すことは出来ない。
図書室の机にばら撒かれている器具の中からナイフを探し出すと、それを手の中でくるりと回す。本来は山下の性器を切り出す為に用意していたが、良いだろう。たまには生きた血をこのナイフに味あわせるのも。
私は山下の顔に一撃、拳を叩き込んで昏倒させると、杉原の下へとゆっくりと歩いていく。向こうも逃げる気は無いようだ。
ネクロフィリアも、舐められたものだ。
開いた双方の眼に飛び込んできた光景は、僕に全てを語っていた。
鼻にツンとくる消毒液の臭い、数人の白衣姿、モーター音と定期的に伝わる弱々しい振動。
「……そうか。俺」
「お疲れ様」
彼女は、横になっている僕の左側に腰掛け、こちらを覗き込んでいた。その表情にはほんの少しだけ、暖かみが存在していた。
初めて見た表情だ。そして多分、これから先二度と見る事の出来ないたった一度の表情。
「……ネクロフィリアは?」
僕の問いかけに彼女は目を逸らす。表情から暖かみは消え去り、普段の冷めた眼をした少女へと逆戻りだ。
「……もう心配しなくていいわ」
「そうなのか、山下は?」
「山下さんは……あなたが心配する必要ももうないし、『責任を感じる』必要もないわ」
彼女の妙にまとまっていない言葉に僕の心が敏感に反応し、ぶるると一度強く震えた。今の彼女の言葉は、一体何なのだろうか?
「やられちゃったのよ。ネクロフィリアに」
水島のぼそりと吐き捨てるように呟いた言葉は、針の様な鋭利さを身に付け、確実に僕を貫いた。
山下さんを守ることは出来なかった。死を覚悟しての結果は、本当に脆いものだと、自分自身に冷笑を浴びせかける。
おまけに僕は今しっかりとここで生を実感している。
「……そうか」
僕は、一体何故生き残っているのだろうか? 体中に負った切り傷を無償に広げたい気持ちにかられる右腕を押さえつつ、僕は強く、強く歯を噛み締め、体を振るわせた。
act.3-5
煙が晴れていく中、僕は頼りない果物ナイフのカバーを抜き取る。カラン、というカバーの落ちる乾いた音が廊下に響く。
「やぁ、杉原君。一体こんな夜に学校に侵入してどうしたんだい?」
「……山木」
「いけないな、先生を呼び捨てなんて…」
削げた頬を引きつらせて浮かべる邪悪な笑みは、僕の体を瞬時に凍りつかせる。ああこれが殺人者が持つ威圧感なんだ。緊張と恐怖で回る視界に気を悪くしながらそんな事を脳内で呟いてみる。
既に緊張で一杯だ。今なら背中を軽く押されただけ、いや、少しでも動いただけで胃の中身を放出してしまいそうだ。山木は余裕に満ちた表情でただこちらの動きを観察している。右手に鈍く光る獲物が握られているのを見て、僕の左胸の鼓動が更に加速していく。
「……おいで、教師として説教をしなくてはいけない」
「誰があんたを教師だなんて…認めるか…」
山木の笑みは更に深みを増す。多少緊張を孕んでいる僕の声がそんなにも面白いのだろうか。
僕は根を引き剥がして、足を上げる。
一歩で良い。一歩さえ出れば、少しでも世界は変わる。そう自分に言い聞かせる。
そしてゆっくりとした足取りで。
僕は。
足を。
前に出した。
その瞬間、僕は体を前に思い切り屈ませ、胃からの逆流に抵抗すらできずに、見事に床に吐瀉物をぶちまける。
「そんなに私が怖いのかい? この連続殺人者『ネクロフィリア』が」
そりゃ怖いさ。と口を開いた瞬間、第二波が汚物で汚れた床に上塗りされる。
「私がいる事を知っていて、ここに乗り込んできたのではないのかい? えぇ? 探偵君?」
「……勝てる自信がある……からな」
「自信があるのに殺人者を見て吐くとは、君も面白い人間だ。異性なら獲物にしてやりたかったよ」
山木の右足が、一歩前に出る。右手に握られた鋭利な刃物は鈍い光に身を輝かせながら、僕の血を強く欲している。そんな気がした。
とにかく、今は時間を稼がなくてはいけない。ここで連絡を入れたって仕方が無いのだ。その仕草に気付かれて逃げられてしまってはいけない。少なくとも僕が押さえ込まれる寸前まで頑張らなくては。ナイフを握る手に汗がにじむ。
「だぁぁぁぁぁぁ!!」
声というものはとても不思議なものだ。さっきまで一歩出しただけで嘔吐していた状態だったのに、今は妙に爽快な気分だ。見事に何かがシフトした気がする。だが、これは多分勇気というよりヤケなのだ。
ヤケで飛び込むような輩に勝ち目が無いことは知っている。
「ヤケかい? つまらないなぁ!!」
ひたすら廊下を駆け抜け向かってくる僕を見据え、鈍色の獲物を中段に構える山木がいる。刺される。刺されれば痛いだろう。血が大量に出るだろう。切り傷どころではすまない。当たり所が悪ければ致死の可能性だってある。
だが、それが一体なんだと言うのだ。死を覚悟して僕は彼に立ち向かっているのだ。今更立ち止まるわけにはいかない。
「山木ぃぃぃ!!!」
僕は正面にナイフを構え、左手を添え、しっかりと狙いを定め、最後の一歩を強く踏み込み、両手で握り締めたナイフを山木の左胸に思い切り突き出す。
刹那、視界から山木が消え去り、両手で支えていた筈のナイフは金属同士の重なる音と共に弾き落とされる。左に首を捻じ曲げると、体を横に逸らし、右手に持つ獲物を振り翳す山木がそこにいた。
一瞬白く染まった思考に『左足で蹴れ』と命令が下り、山木が弾き飛んだ時、山木の獲物は既に僕の左頬に一文字を刻み込んでいた。じくじくとした痛みと、溢れ出る生暖かい紅の液体が僕の中の恐怖心を更に引き出し、足が震え始め、呼吸が荒くなる。
「腹に一発ね。やってくれるじゃないか杉原」
「っはぁ……っはぁ……っはぁ……」
「何か言えよ、おい。えぇっ!?」
山木の右足から放たれた渾身の一打が、僕の腹部にズボンと収まり、そして痛みに顔を歪ませ、僕は地面に丸くなって倒れこむ。その体勢を見て山木は僕に飛び掛ると、一気に腕を封じ、シャツを思い切りまくり腹部を露呈させると、そこに獲物を突き立てた。
「……そのまま動くなよぉぉ杉原。どうせだからお前の腹にす~ぎ~は~らって彫ってやるよぉ…」
「……やめろよ」
さっきまでの覚悟は一体どうしたのだろうか。気付けば僕は死への恐怖に体をよじらせ、ゆっくりと距離を縮めてくる獲物から逃れようとしていた。ワンコールなんて出来るわけが無い。
「まずは、『す』だな…」
「やめろ。く、来るな……」
そう叫びパニックに陥りながら僕は、自分の情けなさに落胆する。僕の言う覚悟はこの程度なのだろうか。死を覚悟すると言いながら、どこかで死なないだろうという甘い考えに乗っかっていたのだろう。死という言葉に酔って、僕は一体何をしようとしていたのだろうか。カッコをつけてワンコールだとか隙だらけの戦略を練って、一体何をし得ようとしていたのか。
僕は最低なのだろう。
調子に乗りすぎたのだ。
僕は歯を強く食いしばり、腹部に刻まれるであろう激痛を涙をボロボロと溢しながら待ち構える。もう終わりなのだと悟ったのだ。
「何をしている!?」
山木の眼の色が一気に変わり、取り落とした獲物は僕の腹部にストン、と刺さり、ずんと仁王立ちをする。勿論僕の腹部に激痛が走り、噛み締めた唇からは鉄の味のするものが溢れ出てくる。
「……ちぃっ! 通報したのか!?」
山木は僕を一瞥すると、奥へと走っていく。警備員らしき人物は、深く被った帽子からチラリと僕を覗き込むと、そのまま消えていった。
「……やました……さん」
腹部に走る激痛に苛まれながらも、手を必死に伸ばし、重たい体を引き摺る。彼女が捕らえられている教室まで、あと一体何メートルあるのだろうか。
最早痛みで何も考えることが出来ない。霞む世界、力の入らない手足…。
僕の意識は、そこで見事に途絶えた。
※
もう少しで目撃者を殺害する事が出来たのに、何故こうもタイミングが悪いんだ…。私は悪態を吐きながらも、校舎裏のフェンスを飛び越える。
「とにかく、顔を変えて……またどこかに潜り込めばなんとか……」
「悪いけど、あなたに『次』は無いのよ。"ネクロフィリア"」
その澄んだ声に私は身を震わせ、そして、ゆっくりと後方へ体を捻った。
「"驟雨-しゅうう-"か……」
「お久しぶりね。色々と面倒掛けてくれちゃって、こっちとしては迷惑だったのよ?」
栗色の髪を後ろで結い上げながら、彼女は私に微笑みかける。
何故彼女はここまで美しいのだろう。幾人も美女をこの手にかけてきた私が、本能的に『殺してはいけない』と悟った唯一の人物。それが驟雨。
「ま、待て。いいだろう? 一度は逃げだしたかもしれないが……。もう一度チャンスを!!」
くすくす…。
私はその美しく、品のある笑顔に思わず見とれる。彼女は寛大な心の持ち主だ。彼女ならばきっと私を匿ってくれるだろう。私はほっと胸を撫で下ろす。
「やっちゃって、"インフェルノ"」
彼女は、今一体何と言ったのだろうか? インフェルノ? 何故彼がここに居るのだろうか。
「やぁネクロフィリア、まさか俺から逃げ切れるとか思っていたのかい?」
「あ……あぁ……ああ……」
身が震える。心が凍りつく。周囲の熱という存在を一瞬で吸い尽くして、警備服姿の彼はにっこりと笑っていた。
「借りを作ったのは面倒だけど、やっとあんたを殺せるんだ。逃亡者め」
「た、たす、タスケテ……助けて」
次の瞬間、体に液体が突如降りかかり、ぬるりとした感触に包まれる。
「じゃあね」
彼の点けたマッチの火が、私の体にぶつかった。
※
「――連続女性暴行犯の捜査は未だ困難を極めております。続いてのニュースは……」
ニュース番組を見て知ったが、結局犯人は未だに捕まっていないらしい。山木だと知っているのにも関わらず何故僕が警察に言わないのか、答えは単純だ。
水島が僕に「言うな」と釘を刺したからだ。
水島の話によると、ネクロフィリアはもう二度と犯罪を起こせない状況らしい。つまり、今までの犯罪それ相応の痛手を負ったのだろう。
「……怒ってるのか? 水島?」
「怒ってない」
水島はプラスチック製の皿にうさぎの形をしたリンゴを並べると、テーブルの前にバン、と思い切り置いた。怒っているじゃないか、と突っ込みを入れたいのだが、そんなことをしたら彼女が一体どんな行動に出るのか分からない。僕は溜息を一つ吐いて、目の前のうさぎ型リンゴにフォークを差し込んだ。
「……」
うさぎの形のリンゴ、か。
「何?」
「いや、結構可愛いことするもんだなと思って」
「べ、別に……」
水島は窓に顔を背ける。僕はその姿を見て、少しだけ傷が癒されるのを感じた。
「山下は……」
気付けば、口に出ていた一人の人物の名前。
結局守れずに、被害者となってしまった少女の名前だ。
「大丈夫よ。生きているんだもの」
「酷いこと……したよな。俺」
リンゴの甘酸っぱい汁が口中に広がる。が、何一つ「うまい」と感じることが出来ない。
「なら、今度は被害を出す前にコトを済ませば良いわ」
「……」
彼女はまだ、僕に殺人鬼殺しをさせるらしい。ここまで大失敗をしてしまったのに、何故彼女は僕に期待を寄せるのだろうか。
「殺人犯に立ち向かうなんて…無理だよ。俺は臆病だから」
「そう、でもこれからも、あなたは巻き込まれるわ」
「逃げようが無いって事か。じゃあ諦めるとするかな……」
僕は水島を見上げる。
「なら、せめて……君が何故殺人者を見ることが出来るのか、教えてくれよ」
水島は目を瞑り、一度だけ首を振った。
「今は言えない……でも一つだけ、言える事があるの」
水島はベッドに腰掛けると、僕の頬をゆっくりと撫でて、それから冷たく黒い瞳でじぃっと見つめてくる。
「もしもあなたが死ぬ時は、私も死んであげるわ」
窓の外は、ざぁざぁと雨が降っていた。