【本編とは直接関係のない、ある出来事】
福島係長、通称「窓際3号」は、やり手の窓際族である。彼は仕事をしない。そもそも仕事を任されない。一日中誰も話しかけない。彼と会話することは、同僚たちにとって何の利益も生まない。見返りがなければ誰も愛想をふりまくはずがない。彼が崖っぷちからじりじり落ちていくのを傍観するだけだ。いつか彼が奈落へ転落したら、同僚たちはほっと胸を撫で下ろすだろう。もちろん、その安堵の表情は誰にも見せない。悲痛な面持ちをぬかりなく浮かべて、窓際3号氏の転落事件を語り合うだろう。それは儀式である。儀式の目的は、転落者を悼むことではない。「終わった人」に用はない。「終わった人」を悼むフリをしながら、自分たちが「終わっていない」ことを確認するのが、儀式の要だ。この確認作業を行うことを、世間では「人間的成長」と呼びならわす。希望に輝く人の手は、いつだって血みどろだ。
されど、日一日と退職へ追い込まれつつある窓際3号氏は、この境遇をむしろ泰然自若と受け止め、用もないのに夜の9時ごろまで残業するのが日課であった。残業と言っても仕事は無いので、会社のPCでファイル共有ソフトを動かして防衛庁の機密情報を盗み見ては気を紛らわすという、暇つぶしだ。誰も近寄って来ないことが、彼にとってアドバンテージであった。
もっとも、会社に1円も貢献しない3号氏の残業をよそに、本来の意味での残業にいそしむ面々もフロア内にちらほら見かけられる。3号氏とは机5つほど隔てたデスクに、入社2年目の男性社員と、彼の管理者である入社4年目の女性社員が、二人並んでカタカタとキーボードを鳴らしていた。
「ああ、もう、疲れましたよ・・」
と男性社員は青色吐息で肩を落とした。
すると女性社員は、顔に張り付いた笑顔を崩すことなくおざなりに応えた。
「そうねー疲れたわよねー、分かる分かる」
「分かりますか・・」
「そりゃあねー、私もこんな仕事ばっかり嫌だけどねー、ほんと、分かる分かる」
「・・」
男性社員は溜め息をつき、デスクの脇に重ねてあった夜食用の牛丼弁当を引き寄せた。
「あー夜食ねー、さっき買ってきたんだよねー、私も食べようかな」
「・・」
男性社員は無言だった。
が、女性社員は意に介さず、デスク脇に置かれたもう一人分の牛丼弁当に手を伸ばした。
しばらくの間、二人は黙々と牛丼を口に運んでいたが、ふと男性社員がもらした。
「この牛、どんな牛だったんでしょうね」
「え?どんなって、松阪牛みたいな高級和牛でないことは確かだけど、産地ってことかしら?肉の部位?それとも─」
「いや、そうではなくて」
女性社員が一方的に喋ろうとするのを、男性社員が珍しく強い口調で押し留めた。
「一口に牛と言っても、きっと一頭ずつ性格とか違ってると思うんですよ。人懐こいとか神経質とか、色々あると思うんですよ。優しいとか荒っぽいとか、生まれつきの気質みたいなものがあると思うんです」
「いい牛さんだったんだよ、きっと」
女性社員がそっけなく流した。一応、愛想笑いを浮かべてはいるが、興味の無さがあけすけに伝わる物言いだ。<その話題はお終いね。別の話題に変えなさい>。彼女の張り付いたような笑顔は、有無を言わせぬ拒絶の現れである。もう1年以上、彼女とコンビを組んで仕事をしている男性社員には、そのことがよく理解できていた。
だが彼は、女性社員の牽制を見てみぬフリで、話を続けた。
「きっと、どこかの牧場で飼われてたと思うんですよ。広い牧場でしょう。農場主のオジサンは40代前半ぐらいの素朴な人で、地元生まれ地元育ち。親の経営していた農場を受け継いだような人です。牧場では牛と鶏を飼育していて、牛の一頭ずつに名前をつけています。朝晩名前を呼ぶんです。恋人の名前を呼ぶみたいに。仮に牛の名前を花子としましょう。花子やぁ、花子やぁって呼ぶんです。花子にちょっとでも元気がないと、風邪ひいたかぁ?悪いもん食ったかぁ?と心配でたまらなくなるような人です。オジサンには小学生ぐらいの娘さんがいるでしょう。娘さんも花子のことが大好きで、クリスマスに樅の木の下で花子にサンタ帽を被せて、ジングルベルを歌います。花子もモーモー鳴いてリズムを取ります。オジサンも笑いながら手を叩いて盛り上げます。そんな出来事があったと思うんですよ」
「ちょっと、何いってんの。やめようよ」
女性社員は、苦笑いを取り繕ってはいるが、少し不快そうな表情が見え隠れしている。
しかし、男性社員はやめようとしない。
「クリスマス・イブの夜が更けると、田舎の牧場に雪がしんしんと降り始めます。小学生の娘さんは寝静まり、花子も牛小屋で寝静まり、みんな幸せな夢を見てるんです。サンタクロースのプレゼントは何かな?って、翌朝の枕元を楽しみにして、静かな田舎の夜は更けていきます。でも、オジサンだけは、まだ起きています。みんなが寝静まった頃に、娘さんの寝所へ忍び込んで、枕元にプレゼントを置いてあげます。アニメに出てくるキャラクターの人形です。オジサンは牛小屋にも向かいます。オジサンの肩には白い袋が担がれています。牛小屋には花子がぐっすり眠っています。オジサンは白い袋の中から、鈍色に光るライフル銃をとりだします。東京都中央区銀座のレストランでは、クリスマス当日のディナー予約が入っています。コース料理にローストビーフが必要です。今朝、その連絡がオジサンの農場に入りました。だから準備するんです。一緒にジングルベルを歌った花子を食肉にする準備です」
「やだ、何いってんの、やめなさいよ」
「オジサンはライフル銃を両手でしっかり支えています。ジングルベルジングルベルと小声で歌いながら、ライフル銃に黙々と鉛弾を詰め込んでいきます。慣れた手つきです。娘さんにアニメの人形をプレゼントしたその手で、花子を食肉にするための鉛弾を詰め込んでいきます。これは仕事なんです。花子がおいしそうにビールを飲んだら、オジサンも嬉しかった。高値で売れるからです。高値で売れれば農場経営の借銭が返せます。離婚した奥さんは東京で若い男と高級マンションに住み、オジサンに慰謝料を請求してきます。お金が必要なんです。小学生の娘さんも、来年には私立中学に上がります。お金が必要なんです。だからオジサンはライフル銃に鉛弾を詰め込むんです。ジングルベルジングルベル鈴が鳴る。スズが含まれている鉛弾です。鉛弾を充填するたびにスズが鳴るんです」
「こら!やめろって言ってんの!」
女性社員がついに苛立ちを顕わにして、怒鳴った。
「人が牛丼食べてる最中になんでそんな作り話なんかするのよ!!気になって食べられないじゃない!!嫌がらせなの!?なんなの!?ふざけないでよ!!」
男性社員は一瞬無言になり、女性社員の顔をまじまじと見つめた後、呟いた。
「ふざけてないですよ」
「え・・」
「ふざけてるのは誰なんですか。オジサンですか。花子ですか。逃げた奥さんですか。銀座のレストランでローストビーフの予約を入れた人ですか?牛丼を食べてる僕ですか。あなたですか」
「え、ちょっと・・」
様子の変わった男性社員にたじろぎ、女性社員はイスに座ったまま後ずさりした。
「な、なに言ってるの・・?」
「オジサンが花子を殺すのは暴力ですか。暴力は形に現れるものだけですか。形に現れる暴力ならマシじゃないですか。目に見える暴力が嫌いですか。目に見えない暴力が好きですか。何が『分かる分かる』なんですか。何が分かるんですか。口先だけ合わせていれば気の弱い人間を食い物にできますか。処世術なんですか。笑顔で相槌を打てば勘違いしてもらえますか。他人の心は簡単に踏み込めますか。何が分かるのか言ってもらえませんか。この牛殺し」
「ちょ、私は牛なんて殺してないわよ・・」
「あなたが牛丼を食べるから花子は殺されたんじゃないですか。あなたのいやしい胃袋の暴力が、オジサンに花子を殺させたんじゃないですか。あなたは花子の死に責任があるんじゃないですか」
「なによそれ・・そんなわけないでしょ・・」
「あなたは花子の死体にガツガツ食いつくしか能のない豚じゃないですか。豚のくせに牛の肉を食べる豚じゃないですか。メス豚じゃないですか。飛べない豚。メス豚。ブタ」
そのなじるような言葉を最後に、水をうった静寂がやってきた。
やがて「ヒック、ヒック」と小さくシャクリ上げる嗚咽がもれ始めた。
女性社員が、罵倒されたショックのあまり、泣き始めたのだった。
「デキル先輩面を散々楽しんだあとは、泣いて逃げるんですか。いつもは笑ってますね。あれも逃げてるんですよね。今は泣いて逃げてるんですね。泣けば済むと思ってるんですか。家畜らしい根性ですね」
「どうすればいいのよ・・ヒック・・ねえ、許してよ・・」
「いまここでクリスマスソングを歌ってくださいよ。『ジングルベル』でいいですよ。『あわてんぼうのサンタクロース』でもいいですよ」
「ヒック・・あわてんぼうの~サンタクロース~・・ヒック・・クリスマス前に~やってきた~・・ヒック」
涙と鼻水で化粧が台無しになった女性社員は、延々と『あわてんぼうのサンタクロース』を歌い続けるのだった。
涙声のクリスマスソング大会が幕を開けた現場から、机5つほど離れたデスクで、窓際3号氏は大きな欠伸をもらした。ファイル共有ソフトでダウンロードした防衛庁の機密書類に、今しがた目を通し終えたところだった。
「ああ、忘れるところだった」
彼はPCのデスクトップの壁紙を、12月用の猫写真に切り替えた。彼のPCの壁紙はいつも猫の写真である。被写体は、近所の野良猫だ。しかし12月用に切り替えた壁紙に、猫は映っていなかった。猫の餌を盛り付けたプラスチックの皿が、草むらの真ん中に置かれている。それだけの写真である。
3号氏と顔見知りだった野良猫は、保健所に連れて行かれ、もう2度と戻って来ることはないと思われた。3号氏はそれを承知で、かつて野良猫と出会った草むらへ足を運び、餌をてんこ盛りにした皿を置いてきたのだった。これは、その記録写真だ。
あの野良猫も今の自分と同じように、崖っぷちに立っていたのだろうか。3号氏は考えた。いやそもそも、猫も人も、この世にうごめく生物はいつだって崖っぷちに立っている。順序が先か後か、それだけの話ではないか。そんな考えがよぎる中、涙声の『あわてんぼうのサンタクロース』は、2番の歌詞に突入していくのだった。