●1+1=1
「先生、僕、空を見たいです」
櫻井先生ははだけた僕の胸に聴心器をあてるその動きを一瞬止めた。
思わず飛び出した戯事。ほんの冗談。ほんの出来心。けれど確かに、機械のノイズに包まれたこの無機質な部屋の中で、今までずっと望んできたことだ。
「ねえせーんせ、聞いてる?」
櫻井先生は眼鏡の奥であからさまに困った顔をしていた。俯いて細くて真っ白な指で眼鏡をついと上げる仕草はいつもと変わらない。
「藍、君の身体はあと三ヶ月もつか解らないんだよ」
吐き出すように先生が言った。
「……わかってます」
「移植をしなければもっと悪くなる、けど」
「けど提供者は現れないし、最近ほかの臓器にも病気が転移してきたから、移植して拒否反応を起こしたら」
「…」
「ね、わかってるでしょ?」
幼稚園の頃に発覚した僕の病気は、癒えるどころか歳を重ねるにつれて症状を悪化させ、他の臓器にも転移していた。当時は有り余っていた体力も、今はほぼ皆無に等しい。それもそうだ。病気がみつかったあの日から僕はこの部屋に監禁されているようなものだったから。
はだけた胸を直しながら僕は点滴の管がひっかからないように布団に潜り込んだ。事実を並べただけなのに、自分で言ってみて後悔していた。僕は喉のあたりにつっかえて込み上げてくるそれをこらえているのを隠さなければならなかった。
「藍……」
「僕もう寝ますね。なんか疲れちゃったみたいで」
そう言うと櫻井先生がベッドの周りに広げていた医療機器をひとつひとつ片付ける音がかちゃかちゃと部屋中に響いた。
「僕のクローン人間でも作ったらさ、絶対に拒否反応はしないのにね、せんせ」
自分の青白く痩せ細った腕を暗闇のなかでみつめながら小さく、しかしちゃんと聞こえるように、呟く。声が届いたかどうか解らないうちに、櫻井先生は部屋から出ていった。
∽
「――……」
目が覚めると、櫻井先生が僕の顔を覗き込んでいた。
「藍!良かった、意識が戻った……」
ナースコールを押しながら櫻井先生は心底ほっとした様子で笑っていた。
「意識が戻ったって、どういうことですか」
「覚えてないか。夜中にひどい発作を起こして、緊急オペを行ったんだ。それからお前は約一ヶ月も眠り続けた」
「一ヶ月?」
僕はようやく自分の体に呼吸機やその他にも細い管がたくさん繋げられていることに気付いた。
「目が覚めて本当に良かった。そうじゃないとアレも無駄になる所だった」
「アレ?」
櫻井先生は小さく笑った。
「もう一人の君だよ」
「初めまして、井桁藍。君が僕の元の人間なんだね。まあ最も、どんな人間なのか想像はついてたけど。だっておんなじ顔してるんだし」
彼は確かに僕の声で僕にそう言った。僕は驚きで言葉が出なかった。そこには、頭のてっぺんからつまさきまで、僕と全く同じ人間が立っていた。
「僕の友達がそういう仕事をしててね、藍のことを話したらすぐに作ってくれたんだ。所謂クローン人間だよ」
櫻井先生はそう僕に囁いた。でもクローン人間って赤ちゃんで生まれるんじゃないのかと問うと、薬で急成長させたのだと言う。現代医学がどれほどのものかがよく解った。
「君の……名前は」
「名前?」
もう一人の僕は櫻井先生の方をちらっと見た。
「名前なんてないよ、僕は井桁藍だ」
「それじゃあどっちがどっちかわからないだろ」
「簡単だよ。点滴とか色んな機械に繋がってる方が君で、そんなのひとつもない方が僕」
しれっとしたその態度に、僕はなんだか少し咎められたような気持ちになった。
「……そんなの嫌だ」
「どうして?」
「どうしてもだよ」
「まあ落ち着け二人とも、わかったから。名前をつけよう。藍じゃないほうの藍に」
「僕は井桁藍です、他のなんでもない」
「君達は自分がどっちかわかっていても、第三者はわからないだろう。だから区別するために名前をつける。いいな?」
「……わかりました」
クローンの方は渋々頷いた。櫻井先生は数秒考えると、
「唯。唯一の唯でどうだ」
と言った。
「藍と似てる」
唯がちょっと嬉しそうに笑った。きっとこんな笑い方は僕にはできない。その笑顔は唯だけのもののように思えた。
「――しかし、今回の件はクローン人間ってだけでも前代未聞だけど、これから予定する手術の内容も前代未聞だよ。多分、今まで誰もやったことがないし、やろうとしたことがない」
櫻井先生が眼鏡をまた、つい、と人差し指で押し上げた。
「どういうことですか」
「いいか、よく聞け二人とも」
二人とも、というのに違和感を感じつつ―だって自分と同じ姿をしているのに―櫻井先生の柔らかい声に耳を傾けた。
「藍と唯は藍を基準にして姿形、つまり――DNAから臓器の細胞の数まで全てが同じだ。ということは、藍は唯の身体に対して拒否反応を起こすことはないし、逆に唯も藍に拒否反応を起こすことはない。だって二人は同じ一人の人間なんだから。そこで俺が考えたのは、藍の脳を唯の身体の中に移動させるということ。唯のパーツの一つ一つを藍のと取り替えるより、そっちの方が遥かに手っ取り早い。解るか?」
「……言ってることは、解ります、けど。その後、唯はどうなるんですか?」
「僕がどうなるって、そんなの関係ないだろ。だって僕はそのために生まれてきたんだよ?」
会話に割って入ってきたのは僕と同じ声だけれど、僕ではない。まるで機械が発するような、冷たい声。
「そうだけど――」
そんなことをすらすらと言う唯に恐怖を覚えたのはこの時だ。けれど、唯は一つも間違った事は言っていなかった。
「唯……は、怖くないの?」
「何が?」
「何がって……」
「怖くないよ」
「……」
「怖くない」
それは唯が自身に向かって言い聞かせた言葉のように鮮やかに耳に響いた。
僕らのあの衝撃の出会いから二週間経っても、やはり病院の患者やら看護婦やらが僕らを珍しがったために、毎日病室を尋ねてくる者が絶えることはなかった。肺炎持ちの小さな女の子が「おんなじ顔のお兄ちゃんだあ」と言って部屋から出ていった時だった。
「……唯、僕からはなれて」
「なんでさ」
「嫌なんだよ。一緒にいるといつもこんな扱いされる。君は健康なんだから、一日中僕の側になんかいないで、どこかにでかければいい」
「どこかってどこ?」
「……そんなんわかんないよ」
唯は寝ている僕のベッドに腰掛けて、にこにこしながら僕の顔を覗き込んだ。
「なんでこんな風にいつも側にいるとおもう?」
「知らない」
「藍が好きだからだよ」
瞬間。ベッドのスプリングが小さく軋む音がして、唯の短い髪の毛が僕の顔にあたったかと思うと、僕のと同じ唇が僕の唇に触れていた。
「――っやめろよ!」
思わず薄い胸板を突き飛ばしていた。鈍い音をたてて唯が床に尻をついた。
「なに?なんで?なんで嫌がるの?僕と君は同じ人間なのに」
「同じじゃない!一緒にするなよ!」
「藍、唯、なにやってるんだ!」
櫻井先生が部屋に駆け込んで来た。少し涙目の僕を見て驚いた。
「唯、藍に何かしたのか」
「してないですよ何も。そうだよね藍?」
「……しただろ、僕に汚いこと、しただろ!」
言った瞬間に喉につっかえていたものが涙となって溢れ出るのが解った。
「藍、落ち着け、わかったから」
櫻井先生が僕の背中を撫でた。何故自分がこんなに泣いているのか解らなかったけど、きっと、僕は唯が怖かったのだ。機械のように冷たい唯と、僕が同じになってしまう気がしたから。
「唯なんか大っ嫌いだ……」
呟いた言葉に、唯の横顔がもっと寂しそうにうつった。
そんなことがあっても、夜になると唯は無言でやっぱり僕のベッドの側に布団を敷いた。僕も無言で唯に背を向けた。
「藍、起きてる?」
しばらくしてから、唯が宙に向かって呟くようにして言った。
「起きてないよ」
「そっか。」
静寂が響いた。
「僕の記憶はね、藍と初めて出会ったところからしかないんだ。どうやって生まれてどうやってここまで成長したのかとか全然知らないけど、一つだけ知ってるのは、僕が藍のクローンなんだってこと。僕は藍の細胞の一部から生まれたってことだよ。つまりそれって、藍がいなきゃ僕は生まれなかったってことでしょ。君は僕のお母さんであってお父さんでもあって、しかも兄弟でもあるんだ。
だからね、藍のことが好きだよ。藍が僕のこと嫌いでも、僕は藍のことが世界で一番好き」
「……わかったから」
「でも、僕もうひとつ知ってるんだよね。藍がすごい病気だってこと。僕が生まれてきた理由は、僕の身体を藍にあげるためだってこと」
「……」
「僕は藍のためならなんだってできるよ。身体だってなんだってあげられる。――藍と初めて会ったあの時、怖くないって言ったでしょ。あれも嘘じゃないけど。ちょっとだけ、怖いのは、本当。でも、それが僕の存在理由だから。櫻井先生もきっと僕がそう思う事を望んでる。だから僕は怖がっちゃいけない。怖がっちゃいけないんだよ……」
怖がっちゃいけないだなんて。
僕はこの時、泣きたくなるくらい後悔した。櫻井先生にクローン人間のことを呟いた自分を呪った。そして、唯を機械のようだと思った自分を呪った。――クローン人間にだって、心はあるのだ。
「唯……ごめんね」
「なんで泣くの?」
「だって……」
「藍は泣き虫だなあ」
唯が小さく笑った。
「唯、こっちに来て」
「え?」
「いいから」
唯は少し遠慮がちに僕の布団に入ってきた。両手の指を唯の指に絡ませれば、唯の体温が痺れるように伝わってくる。やはりそうだった。唯は機械なんかじゃなく、ちゃんとした一人の人間だった。
「唯、ごめんね、僕がいけないんだ」
「……いいよ」
「一緒にいてもいいよ。大嫌いじゃないから、唯のこと。僕も多分、世界で一番好きだから」
今度は僕から唯の唇に自分の唇を押し付けた。その時初めて、唯も泣いているのに気付いた。
「唯だって泣き虫だ」
「うるさいな」
暗闇のなか、二人で一つになれた気がした。
∽
「ひぁっ…う、痛っ…」
「藍しっかりして、ねえ藍、」
唯がナースコールのボタンを押しながら、泣きそうな声で僕の手を握る。薬の副作用の痛みは鈍痛と加えて身体を引き裂くような激しい痛みだ。意識が飛びそうになりながらも必死で唯の手を握りかえした。
櫻井先生が何人かの看護婦と一緒に部屋に入ってきて、僕のベッドを囲むと、医療機器を広げて僕の身体に更にたくさんの細い管をくっつけた。
「藍、聞こえるか?」
「聞こえ…ます」
「痛み止めを打つから、もうちょっと我慢するんだ」
点滴の管に看護婦が注射機で痛い止めを加えるのが見えた。少しすると呼吸が整って、痛みも弱まった。
「肺に病気が転移したみたいだ」
「……そうですか」
「そろそろ、手術の日を決めなければならない」
部屋の隅に立っていた唯がぴくっと反応した。
「できるなら早めにして下さい」
「なに言ってるんだよ唯」
「藍が痛がるのを見ると……僕まで痛い」
「……」
「とりあえず、遅かれ早かれ、手術の日が決まったら伝える」
櫻井先生も苦しそうな顔で医療機器を片付けていた。そして誰とも目を合わせずにそう言い切ると部屋を出ていった。
「藍、不思議だね、もう怖くないんだ」
びっくりして唯を見ると、なんと彼は笑っていた。
「僕は怖いよ。君がいなくなるのが」
「いなくなるんじゃない。君は僕のなかで生き続けるんだから――そう考えた方が楽でしょ?」
「……唯は優しすぎるんだよ」
「そんなことない」
唯の手を握るとやっぱり指先から唯の体温がにじむようにして伝わってきて、まるで僕の指が溶けて唯の指とくっついたみたいに感じた。
「ごめん、唯、超眠い」
「あーあ、藍はほんとに空気が読めないなあ」
「だって唯の手、すごいあったかいんだもん」
唯が僕の指をはなしてベッドの下から自分の布団を引っ張りだそうとした。
「あーあの、埃がたつから」
「何」
「埃がたつから」
「……ちゃんと言いなよ」
唯はちょっと嬉しそうに、僕を試すように笑う。
「埃がたつから、布団敷かないで」
「えー、敷かないと寝れないよー」
「敷かなくていいよ」
「なんで?」
「……唯くんがこっちで一緒に寝ればいいです」
「なに唯くんって」
唯が笑いながら僕の布団の中に入る。
「もう痛くないの?」
「うん。痛くない。唯は?」
「痛くないよ」
∽
痛くないよ。怖くないよ。だから僕は早く一つになりたいんだよ。
僕だって。でもね、はなれたくないよ。
……僕だって。
∽
「手術の日が決まった」
固い顔で櫻井先生が口を開いた。僕が読みたかった本を唯が買いに町へでかけている時だった。
「いつ、ですか」
「来週の木曜日だ」
あと、十日。
「唯に言うか言わないかは君に任せるから」
「……先生、なんですかそれ。知ってたんですか、唯の考えてること。それならあまりにも無責任すぎませんか」
櫻井先生はベッドの横のパイプ椅子に座ったまましばらく動かなかった。そして、顔を両の手の中に埋めた。
「本当は、分かってた。唯を生み出す前から。でも、君を助けるためだったらなにをしても構わないと思ったんだ。所詮クローンだと思ってたんだ……命を扱う医者として失格だ……唯にだって心があるんだってこと、もっとちゃんと考えてから決めるべきだったんだ。藍、許して、俺を」
それから櫻井先生は消え入りそうな声で、殺してくれと言った。人間失格だ俺を殺してくれと確かに。
「僕は、」
冷えた両手を絡めれば、唯の暖かさが思い出される。
「僕は……唯に会えて良かったと思ってます。だから、先生を攻めたりしない。きっと唯も同じことを思ってるはずです。少なくとも僕は、先生に感謝してます」
「感謝なんて、」
「藍、ただいま」
声にふと顔を上げると唯が本屋の袋を持って部屋に入ってきていた。
「どしたの?」
「……手術の日が決まったって」
「そう。いつ?」
「来週の木曜日だ」
言ったのは櫻井先生だ。
「ちょうどあと十日だね」
唯は平然としていた。僕も櫻井先生も驚いた。
「あ、それでね、藍が言ってた本、上下巻一緒で半額になってたから、そっち買ったよ。良かった?」
「え、ああ、うん、良かったけど…」
「怖くないのか」
櫻井先生が俯いたまま言った。
「怖いって、何がですか」
「手術だよ」
「……怖くないです」
「嘘だ」
「やめてくださいよ櫻井先生」
唯はにこにこしたまま櫻井先生に向き直った。
「僕は身体を藍にあげるために生まれたんです。藍のために死ねるなら本望なんです」
「……」
「僕は感謝してますよ。先生が僕を作ってくれたこと。藍に出会えたんだもの。嘘はひとつもついてません」
「……唯は、自分を作った俺を呪おうとは思わないのか」
「一つも思いません」
「やっぱり僕の言った通りだったでしょ、先生」
櫻井先生は唯と僕の顔を見比べて、切れ長の瞳の端にうっすらと涙を浮かべた。
「ごめん……ごめんな……」
唯と僕に挟まれて、櫻井先生は初めて僕らに泣き顔を見せた。
∽
「憂、海、京、恋、生、あとなんだろ、無いとか?」
「無いって違うでしょ唯、第一、一文字じゃないし」
「でもいっぱいあるねー」
「うん。ある」
「なんで藍と唯なんだろうね」
「わかんない。響きがいいからじゃない?櫻井先生に聞けば?」
「藍はさ、藍色の藍だし、愛するの愛だし、虚数のiだよね」
「唯は?」
「唯一の唯って先生が言ってた。それしか知らない」
そんな会話さえ同じ声で交わされているから、まるで一人で喋っているように聞こえた。むしろそうだったら良かったのに。唯がいなければ、もしくは藍がいなければ、お互いにこんな切ない思いをしなかったのに。
「二人とも、」
櫻井先生が何人かの看護婦と一緒に部屋に入ってきた。
「時間だよ」
唯が無言で看護婦の運んできた移動式のベッドに横になった。看護婦たちが唯を囲んで、僕と同じように点滴の針を唯の腕に埋め込んだり、機械から伸びる細い管を唯の身体中に手際よくくっつけたりした。僕も唯も呼吸器をとりつけることを頑なに拒んだ。呼吸器をつけたら話せなくなるからだ。
「藍とおんなじになっちゃった。どっちがどっちかわからないね」
「やっぱり名前をつけて良かったね」
「ねえ櫻井先生、どうして唯って名前をつけたの?」
「適当」
「えっ」
「嘘だよ」
先生はいたずらっぽく笑った。
「『あい』って響きの言葉はたくさんあるだろ。色んな意味を兼ねた響きなんだよ。藍色で、愛される、虚数、みたいな」
「わけわかんないです」
「僕もわからない」
「でも唯は唯一の唯なんだよ。君は、世界でたった一人の人間なんだ」
「……あー、」
「わかったようなわからないような」
「ようするに、僕は『唯一の唯』なんでしょ?」
「うん。そうそう」
「わかった」
「意味わかんないよ唯」
「僕はわかったからいい」
「よくないー」
「はいはい、お喋りはやめ。唯、呼吸器、もういい?」
「ねえ藍」
「なに?」
「ばいばいじゃないよ」
「わかってるよ」
「うん、藍、大好き」
「僕も」
唯の口と僕の口に呼吸器が取り付けられた。
∽
「藍、調子はどう?」
目が覚めると、相変わらず白い天井と櫻井先生と静かな機械音があった。
「うん。悪くない。唯は?」
「ここだよ」
櫻井先生は僕を指差した。そっと両手を合わせると溶けるように熱かった。ああ、本当だ、僕は唯の中で生きていた。
∽
数カ月後、僕は都内の高校に進学していた。唯の身体はすんなりと僕になじんだ。僕は望み通り、本物の空を見ていた。一つ発見したのは、左腕に痣があることで――多分、僕が唯を突き飛ばした時に作ったものだと思う。そう思うとおかしかった。
それから不思議なことに、僕は、絶対に今まで見たことがないだろう駅前の本屋を知っていた。錆びた赤文字の看板と、ひどく急な入口の段差、大学生のアルバイトの顔、そしてその入口から見える空の色まで。――唯もこの空を見たのだろう。やっぱり唯の身体なのだ、僕の身体は。そう思うと自分が、自分の身体がひどく愛おしい。
そんな秋の午後。唯が僕に買ってきてくれた本に初めて手をつけた。ハードカバーの重たい本を数ページめくると、はらりと四つ折りの紙切れが一枚、宙に舞った。
「……?」
拾い上げて広げると、ワープロで書いたような整った文字列が目に入った。
『藍へ。
ようやく見つかりましたか。遅いです。(笑)
これを見てるってことはもう君が僕の中にいるってことなのかな?
そうだよね。藍は僕と一緒にいる時間を気遣って本に手をつけないようにしてたもんね。ということは本に挟んであるこの紙切れも見つけるのは手術のあとのはず。
知ってたよ。僕との時間を藍なりに大切にしてたこと。だからなんで僕にこの本が欲しいから買って来いって言ったのか未だにわかんないんだけど(笑)
櫻井先生から聞いたけど、言ったんでしょ?空を見たいって。そういえばあの部屋には窓がなかったものね。どうですか?本物の空は。
僕がこの本を買いに外に出た時に見た空はね、すごく綺麗だった。青くて、吸い込まれそうなくらい青くて、ああ生きてるなって思ったよ。だから、藍も同じ空を見てたらいいな。自分が生きてるんだって思って欲しい。
今、手術が怖くないなんて言ったら、嘘になる。本当はものすごく怖いんだ。それも泣きたくなるくらい。でもね、藍が好きだから藍のためになりたいって気持ちの方が大きいかな。
だからなんか、抵抗はないよ。叫びたいくらい怖いんだけどね。なんか矛盾してるね(笑)
今、どこにいるのって言われたら。そうだね、藍の中にいるよ。一緒に空を見てる。
生きてるよ。
唯』
窓を開けて秋の空を見たら、心臓の鼓動が少し早くなった気がした。