Neetel Inside 文芸新都
表紙

妄想ハニー
残党編-14【ソウル・ワープ】

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凄まじい熱気に溢れた一時間はあっという間に過ぎ去った。
ZAN党、自爆マシーン、女郎花と来て、アナボリック・ステロイドと、二時間半もの間観客は暴れっぱなしだ。
場内の湿度も凄まじい。
何人か過呼吸で気分が悪くなった客がいたらしく、スタッフが大慌てで換気を始めていた。
さすがは、アナボリック・ステロイドだ。
音楽性には共感できないものの、その地力の高さは俺達の到底及ぶところではない。
煽り一辺倒の俺達と違い、MCもユーモアに富んでいて、曲と曲の間を繋ぐのが上手い。
この辺は、技術の差というより、場数を踏んだ経験の違いといった所だろうか。

大トリに控えるのは真打ち、『マジック・マッシュルーム』だ。
大トリに際して余力を残す為に壁に張り付いていた客達も、一斉に前に出てくる。
期待感に満ち溢れる、チリチリとした空気。
チバもユゲも、暴れる気満々で臨戦態勢だった。
無駄に柔軟体操まで始めている。
トーヤだけはダルそうに壁際で水を飲んでいたが。
その時、楽屋口からでっかい筋肉質の男と、華奢な男の二人組が姿を見せた。
言わずと知れたエノケンとアキラだ。
アキラの方は、どうやら物販らしい『マジック・マッシュルーム』のバンドTシャツに着替えていたが、エノケンの方は相変わらず上半身裸のままだった。
己の筋肉を誇示したい年頃なのだろうか。
「よぉ、どうだったよ、残党。 俺達の演奏は?」
と、言うなりエノケンはいきなり俺の頭を掴んでグシャグシャやりだした。
その、先日とは打って変わって馴れ馴れしい行動に、一瞬戸惑いを覚える。
「え、あ、ああ……」
「お前、随分言いたい事言ってくれたよなぁ。 俺らの音楽は、暴れる為のBGMだとか何とか」
「あ、いや、それは…」
「どうだったよ、『モビー・ディック』……あ、一番最初にやった曲な。 あいつを見ても同じ事が言えたかよ? 俺達は、その気になれば、あんな音楽も出来るんだぜ。 ミクスチャーだけが俺達の持ち味じゃねぇ」
何だ、このエノケンの馴れ馴れしさは?
俺はいつの間にこんなにこいつと距離を詰めただろうか。
この奇妙な急接近に戸惑っていると、隣で苦笑していたアキラが助け舟を出してきた。
「はは、ケンタはね、認めたんだよ、タカヒロ達の事を。 コイツは昔からそうなんだ。 変なとこで意固地な癖に、自分がいいと認めたものは全力で肯定してくる。 この性格に何度泣かされてきたか……」
「オイオイ、いつ俺がお前を泣かせたよ?」
「中学の時、お前、俺と同じクラスだったサユリちゃんに一目惚れしただろ。 お前は何を血迷ったか、その時ハマってた『いちご100%』の影響受けて、鉄棒で懸垂しながら告白してドン引きされたじゃん。 おかげで、告白のお膳立てした俺は、卒業までどんだけ気まずい思いをした事か…」
「わー、馬鹿! 俺が『いちご100%』にハマってた事、バラすんじゃねぇ!!」
俺達はどっと笑った。
何となく、与党と打ち解けたような気がした。
一しきり笑い終えると、エノケンは俺の腕を掴んで言った。
「なかなか燃えるライヴだったぞ、お前ら。 クソバンってのは撤回しよう。 最高にクレイジーなバンドだ、お前らは」
「あ、ああ。 お前らこそ」
普段誉められ慣れてない俺は、つい言葉が上ずってしまう。
「チバも」
エノケンは、汗で髪の毛がオールバック状態になってるチバに向き直って言った。
「お前はすげぇヴォーカリストだ。 歌にパワーがあるし、客をノセる瞬発力がある。 舐めてたのは俺の方だったかもな」
「はっ。 思い知ったか、与党」
……このクズは相変わらず空気を読もうとしない。
エノケンは失笑して手を引っ込めた。
こいつの天邪鬼さを何となく理解したらしい。
「いよいよ、大トリの『マジック・マッシュルーム』だ。 このバンドはヤバいぜ。 リズム隊が信じられないくらいファンキーだ」
「アキラ達の、先輩なんだっけ?」
「ヴォーカルのアイカ先輩が、俺達の軽音楽部の創始者なんだ。 年代的には、俺達の四つか五つ上になるんかな? ベースのミナコ先輩は、俺がレッチリのフリーの次に尊敬するベーシストだ。 知ってるか? あの人、女だてらに握力が120kgあるんだぜ? 初めて握手した時は、手を握り潰されるかと思った。 そんなんだから、音がメチャメチャ太くて存在感があるんだ。 俺の、目標だ」
「―――――――――」
あの、俺に言葉を失わせる程のベース捌きを見せたエノケンに、ここまで言わしめるとは。
リハーサルで見た、あの打楽器のようなチョッパーの連打が思い出される。
あれは、正に雷光の閃くような衝撃だった。
洋楽ならともかく、邦楽界であれだけファンキーなベースに出会うのも珍しい。
あの人達が、ウチの高校の先輩――――――――
考えてみたら、奇妙な感覚だった。
メジャー・シーンなんてテレビと雑誌の中だけの世界と思っていた。
その世界に今、同じ学び舎で育った人達が踏み込もうとしている。
それらの世界が、こちらの世界と地続きであるという、奇妙な実感。
そして、その世界にまた、こいつらも続こうとしているのか。
照明が、暗くなった。
いよいよ、最後のステージが幕を開ける。
ステージ上では、客席から見て影となるよう、メンバーの背後からライトを当てる。
文字通り後光が差して見える三人姿は、幻想じみて、神々しく見えた。
「いよいよ、マジック・パラダイスも最終章だー! みんな楽しんでるー!?」
ベースのミナコが叫ぶ。
その言葉に呼応して、親指と人差し指を突き出した形の拳を掲げた。
「おいおい、声がちっさいぞー! バテてんのかー!?」
さっきよりも一回り大きな歓声が返って来た。
これだけ暴れまわっていても、いまだ熱気の衰えはない。
「男の子ぉー!!」
おおーと野太い歓声が上がる。
「女の子ぉー!!」
おおーと黄色い歓声が上がる。
「二階席ぃー!!」
「ねぇっつうの!!」
お約束のオチに、どっと歓声が上がった。
「お前ら全員最高だー! 今日はくたばるまで盛り上がってけぇー!!」
スティック・カウント。
ショットガンのような爆発力で、音の奔流が溢れ出した。




それからの事はよく覚えていない。
モッシュにも難儀するような圧倒的な人の密度の中で暴れ狂い、何度も肘や膝を喰らい、汗をかぶった。
サビを合唱し、靴擦れが剥けるほど飛び跳ね、平衡感覚が無くなるほどヘッド・バンキングをした。
チバの奴がまた無謀にもダイブして、今度は着地に失敗してでかいコブを作っていた。
アキラも、エノケンに肩車されて珍しくはしゃいだ様子を見せていた。
ユゲの奴は触れるのもキモいぐらいの大量の汗に包まれていて。
トーヤは脆弱な身体で、人波に揉まれながらも突っ込んでいって。
その空間には、与党も、野党も、残党も無くて。
まるで、音楽が世界を席巻したかのように見えたのだった。




十七曲の演奏に、二回のアンコール。
すでに、乳酸一滴分の体力も残ってはいなかった。
床には潰れたペットボトルだの、折れたメガネだのが転がっている。
夏草や 兵どもが 夢の跡、か。
「みんな、今日は来てくれてありがとぉー! ヒュウゥ―――――ッッ!」
客席から、特大の口笛が次々に上がった。
残念ながら、俺は口笛が吹けないので応えられなかったが。
そうしてマジック・マッシュルームは三度舞台から引き上げていった。
客席からはまたアンコールを求める声があがったが、それは予定調和だろう。
三度目のアンコールがあるとは、さすがに彼らの期待していないと思う。
俺達は滝壷にでも飛び込んだようにグシャグシャになった衣類を絞り、「関係者」の名札をつけると、楽屋に向かった。
予想通り、楽屋はごった返していた。
都合、二十二人分の機材が詰め込まれているのに、扉は一つしかないのだ。
ごった返さない方がどうかしている。
その中から、髪の毛をシャギーに切り揃えた、ショップ店員風の男が出てくるのが見えた。
ペイズリー柄のシャツに、ダメージ・ジーンズ。
中から出てきたという事は関係者だろうが、こんな奴、演奏者の中にいただろうか?
「よう、タカヒロ君。 これから、駅前の『歌仙』って店で打ち上げやるんだけど、行くだろ? 行くよな? なーに、こちとら、社会人だ。 ちょっとぐらいなら出してやるって。」
そう言って、男は掌を上向きにして、親指と人差し指で輪を作って見せた。
その声。
その特徴的な声は、聞き違えようもなかった。
「……って、ええ!? ユウイチさん!?」
「おお、そうだけど。 ――――――ああ、衣装着替えちまったからかな? よく言われるんだ、変身するって」
あの松田優作ヘアーはカツラだったのか。
あのファッションと合わせて、素だと思ってた。
「お、おい、打ち上げだって。 どうするよ?」
俺は、チバ達に意見を求める。
「まー、好きに飲み食いできるんならいいんじゃねーの? 親の目気にせず、堂々と酒飲める訳だし」
と、チバとユゲ。
「俺は行けへんよ。 干されんの目に見えとるやん」
と、相変わらずクズ思考のトーヤ。
「おいおい、高校生がせせこましい事言ってんじゃねーよ。 大人しく来いっ、な?」
ユウイチさんに髪をくしゃくしゃに掴まれて、さすがのトーヤも困ったような顔をしていた。
トーヤの奴は自閉症と言ってもいい位、他人に心を開かない。
だから、こうして他人に無遠慮に自分の領域に踏み込まれると、どうしていいか分からなくなるのだ。
だが、こういう場はトーヤの病気を治すいい機会じゃないのか?
俺はあえて、ユウイチさん側の方に助け舟を出した。
「行こうぜ、トーヤ。 どうせ帰っても、疲れて寝るだけだろ」
「春咲あずみが俺を待っとる」
…………この猿は………!
真面目に考えた自分が馬鹿らしくなった。



結局、俺達は全員打ち上げに参加する事になった。
居酒屋は初めてだったが、何だか大人になったような気がする。
内装は無国籍風のチェーン居酒屋のようで、ちゃんと機材を置くスペースも用意されていた。
スタッフや関係者も合わせると、五十人近くはなるだろうか。
カウンターには何人かのサラリーマン風の男が、集まって飲んでいる。
こういう雰囲気は、TVなんかではよく目にするものの、実際にそうした店に足を踏み入れるのは初めてだった。
焼き物がメインなのか、焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが店内に漂っていた。
とりあえず、席の方はバンドごとに固まってチームを成しておいた。
こうしとけば、最悪干される心配もないだろう。
ちょうど、隣の団体が『自爆マシーン』だった。
ユウイチさんは、何かと俺達に気さくに話し掛けてくれる。
メンバーのおじさん達も、なかなか話の分かる人が多かった。
もっとも、音楽の趣味については、キッスだとかチェッカーズだとか、時代の差を感じたが。
ほどなくして、俺達の目の前には小鉢と、焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。
タレの焦げた香りがなかなか食欲をそそる。
「おいおい、まだ食うなよ。 幹事が乾杯の音頭を執ってから食うのが作法だぜ」
今にも食いつかんばかりに皿を凝視している俺達ZAN党を見咎めて、ユウイチさんが釘を刺した。
昼から何も食べてないのに暴れ回って、腹がぺこぺこだったのだ。
元より、飲み会なんかやった事がないので、こういう場の作法が分からなかったのでありがたくはある。
じきに、ユウイチさん達が、ドリンクのメニューを回してくれた。
二時間の間、ドリンク・フリーらしい。
といっても、居酒屋だから、ソフトドリンクのメニューは、メニュー表の隅にせせこましく載っているだけだったが。
「う~ん、選択肢が、あるような無いような……」
「あ、俺、ビール大ジョッキな」
そう言ったのは、ユウイチさん……ではなく、チバだった。
「オイ、お前……」
「堅い事言うなって。 どうせ捕まりゃしねーよ。 普通に考えりゃ、大学生だってホントは未成年飲酒になるんだからな」
そう言うチバに続いて、ユゲ、トーヤも、俺も俺もとビールを注文する。
赤信号、みんなで渡れば怖くない、ってか。
「ははっ。 まぁ、今日位は無礼講、無礼講。 いざとなったら、俺が車で送ってってやるよ」
「ユウイチさんは飲まないんですか?」
「機材車の運転は、誰かがやんなきゃいけないからな。 さっきバンド内でジャンケンやって、貧乏くじ引いちった訳さ。 ま、その分、食いまくって元は取るさ」
「うはっ、そいつは気の毒に……」
「まったくだ……。 ライブの後のビールほど美味いモンは無いのに。 それも周りがビール飲んで食べてる横で、一人ウーロン茶とは拷問にも程があるぞ」
「まーまー、その分、俺達が美味そうにグビグビ飲んでやるって」
と、自爆マシーンのギターのおっさんが答えた。
「ヤッさん、そいつはねぇだろぉ~」
情け無さそうにユウイチさんがしなだれる間に、ドリンクが運ばれてきた。
俺は結局、ジンジャー・エールにした。
チバやユゲからは、チキン、チキンと言われたが、耳に入れなかった。
そうだ。 俺は、ジンジャー・エールが、好きなのだ。 うん。

全員に飲み物が行き渡ったところで、マジック・マッシュルームの三人組が立った。
軽く、今日のイベントの労苦を労う言葉を交わし、挨拶を述べる。
髪が長い綺麗目な方がアイカで、ドレッド・ヘアーの男勝りな方がミナコだったか。
赤井のムスメも、この強烈な二人のフロントマンの前では大人しくなっているようだ。
「それでは、本日のイベントの成功と、皆さんの益々の躍進を願って! カンパーイ!!」
「「「カンパーイ!!」」」
待ってましたと言わんばかりに、各場所でグラスがぶつけ合わされた。
みんな、一日の疲れで、喉が渇きに乾ききっているのだ。
俺達も、グラスをぶつけて乾杯し合うと、乾いた喉にドリンクを流し込んで、吸い寄せられるように皿の上の焼き鳥に手を伸ばした。
とりあえず、俺は大好物の砂肝とつくねを確保して頬張る。
初めて入る店だが、タレの味がなかなか深くて美味い。
焼き方も、外が香ばしいのに中身は半熟レアだ。
それでいて、歯を立てると押し返してくる確かな弾力もあり、しゃっきりぽんと舌の上で踊るようだ。
うむ、ここの店は当たりだぞ。
そんなこんなで、俺がすっかり美味しんぼな気分になっていると、横にしなだれかかってくる重さがあった。
どこの華奢な女の子かと思ったら、トーヤだった。
猿め。 キモいぞ。
トーヤは、どことなくトロンとした目付きで俺の方を見ると、自分の飲みさしのジョッキをこっちに差し出してきた。
「お前、これ飲まん? やるわー」
「お前、そういう趣味だっけ…。 とりあえず、その、何だ。 キモい」
俺がそう吐き棄てた横から、ユウイチさんがトーヤの顔を覗き込んできた。
「あっちゃ~、こりゃ、この子、下戸だな。 ほれ、これっぽっちのビールで、顔が真っ赤になってやがる。 たまにあるんだよ、ホントに酒が一滴も飲めない体質ってのが」
見ると、トーヤが差し出してきたジョッキからは、猫の額ぐらいしかビールは減っていなかった。
店の照明が薄暗いので気づかなかったが、よく見るともうすでにトーヤの顔は真っ赤を通り越して赤紫色になっていた。
「だ、大丈夫なんですか、これ?」
こういう経験がまるでない俺は慌てふためいた。
医者にかかるような事になったら問題だ。
学校にバレて停学になってしまう。
受験を控えたこの時期に、それだけは避けたい。
「下戸たって、この位なら平気だよ。 店の人に、お冷やを頼んどいてくれ。 気分が悪いようだった、トイレに連れてこう」
俺はとりあえず、注文用のブザーを押して、店員の人を待つ事にした。
開始十分でこの体たらくとは、トーヤも結局、虚勢張ってたのか。
素直に帰らせときゃよかったかなと俺は後悔した。



真っ赤になったトーヤの背中をさすって待ってる時、不意にさっきのアイカとミナコの二人が立ち上がった。
二人とも、手にはビールの大ジョッキを抱えている。
何が始まるのかと周囲の克目する中、ドレッドのベーシスト・ミナコが声高に叫んだ。
「え~、空気も温まって参りました所で! 余興に移りたいと思いまーす!」
おお、参加者が一斉に沸き立ち、喝采を送る。
そう云えば、ライヴのMCの時も、ミナコの方がその役割を一身に担っていた。
あのバンドにおいては、ミナコが盛り上げ役なのだろう。
「えー、我々マジック・マッシュルームは、なんと今年で結成七年目になるんですが……まぁ、途中一、二年休止期間挟んでますけどね。 ともかく、この七年間、色々ありました。 特にこのアタシとアイカ。 もう幾度と無く解散寸前の大喧嘩をやらかしましてね。 大抵あたしが折れてやる訳ですが、心のシコリは残る訳ですよ、これが。」
「どっちが折れてんだ、どっちが」
横からアイカが突っ込むも、ミナコはこれを無視して続ける。
「そこで! 積年の恨みを晴らすべく! 長き因縁に決着をつけるべく! 二人で一気飲み対決をしちゃうぜ、ベイビィィイイイイイ!!!」
おおおと、場がざわめきだった。
因縁とやらの真偽はともかく、酔っ払いどもは酒の肴になれば何でもいいのだろう。
無理矢理対決に乗っかって場を盛り上げる。
「カナメちゃんはやらねーのかー!?」
ユウイチさんが野次を入れる。
「アタシは、車ですから…」
赤井のムスメだけは完全にテンションに乗り遅れた感じで、二人の対決のジャッジを務めていた。

酔っ払い達が、二人を囲んでリングを作る。
空気的には、本当に二人の私闘を見ているようだ。
剣呑な視線が、アイカとミナコの間で交錯する。
店員がこの空間に入ってきたらさぞビックリするだろう。
「さぁさぁ、どちらさんもどちらさんもありませんか?」
丁半賭博の打ち手のような台詞をカナメが吐く。
意外にこの勝負にノリノリだ。
ライヴとは、違った種類の緊張感。
「う~、この空気、たまんねぇな」
チバがすっかりこの場に入り込んでいた。
こいつも何だかんだで酔っ払ってるのだ。
「それでは――――――――」
カナメの声と共に、アイカとミナコの手がジョッキに掛かる。
「レディ~~~~~~~、ゴォッッ!!!」
―――――――瞬間。
凄まじい勢いでジョッキが二人の喉に流し込まれた。
ほとんど重力落下にも等しい勢いで、ビールが喉の奥に流し込まれる。
先にジョッキを空けたのは、ミナコだった。
速い。
その時間、わずか十秒足らず。
アイカはまだ三分の二残っている状況だった。
ミナコはギャラリーから差し出された二杯目を掴みながら、嘲弄の笑みを浮かべる。
「ふはははは! どう!? 沖縄仕込みのショットガン飲法は!?」
ショットガン飲法って何だよ、というツッコミは置いといて、とりあえず速いのは間違いない。
早くもミナコは二杯目に取り掛かった。
首を垂直に持ち上げ、口、喉、食道、胃の軌道が縦一直線になるように調節する。
「行くぜっ! 二杯目っ!!」
ミナコがその軌道に向けて、ビールのジョッキを深々と傾けたその時だった。
アイカの目が獲物を見つけた猛禽類の目に変わった。
ミナコが顔を上に持ち上げた事によって生まれた死角―――――――
剥き出しの脇腹を、空いたアイカの左手が、文字通り鷲のように掴んだのだった
条件反射で吹き出されるミナコのビール。
ば、馬鹿なッッ! 直接攻撃だとォッッ!?
そんなミナコの心の声が聞こえてきそうな程、その顔は驚愕に歪んでいた。
予期せぬ攻撃と、ビールが気道に入った事で、むせ返るミナコ。
その間にアイカは二杯目のビールにとり掛かっていた。
なんて卑劣な。
情け容赦のない、無慈悲な大人の世界を垣間見た気分だった。
アイカは、隙を見せたアンタが悪いんですけど何か?と言わんばかりに、堂々と腰に手を当てて一気飲みを続ける。
そのふてぶてしさに、周囲は湛えるように一気コールを巻き起こした。
「や、やってくれるじゃないの……」
げほげほと喉を押さえながら、それでもミナコは残ったジョッキのビールを飲み干す。
凄まじい闘志だ。 へタレのトーヤにも見習わせてやりたい。
その頃には、アイカはすでに二杯目を終えて三杯目に取り掛かっていた。
顔に出にくい体質なのか、それとも本当に酒に強いのか、いまだ顔色が変わった様子は無い。
ミナコはお返ししようと隙を伺うが、アイカは飲みながらもまるで隙を見せなかった。
当たり前だ。
自分がやった攻撃に対する警戒など既に出来ているだろう。
あの技は、不意打ちだからこそ意味を為すのだ。
かくなる上は――――――
「ちえええええええぇぇぇいッッ!!!」
ミナコは、拳から中指を立てたFuckサインの形を左手で作ると、アイカのヘソに向けて一直線に突き出した。
「くくく、知ってるぞ! ここが貴様の弱点! 要するに性感帯だという事をッッ!!」
なるほど、掌ならその大きさ故ガード出来ても、一本拳なら指が突き出ている分、防ぎにくい。
ミナコの、研ぎ澄まされた精緻で鋭利な一撃が、真っ直ぐにアイカのヘソを抉ろうとする。
しかし、それを受けたのは、アイカの円運動を利用した広域防御だった。
ミナコの一本拳を、演舞にも似た華麗な防御が受け止める。
「こ、これは神心会に伝わる回し受け!? 馬鹿なっ!!」
「ふふ、ミナコ。 残念ながら、アンタの小細工は私には一歩及ばなかったみたいね」
アイカの喉に、三杯目のビールが流し込まれ、四杯目に手がかかった。
ミナコの勝利は潰えたかに見えた。
このリードは絶望的だ。
ショットガン飲法は諸刃の剣である。
あれはさっきのように、喉と食道、胃を一直線にする為に上を向かなくてはならない。
すなわち、腹部に死角が出来る。
もう一度あれをやれば、またアイカの必殺の鷲掴みが、ミナコの脇腹を襲うだろう。
つまり、デンプシー・ロールを封じられた幕の内状態な訳だ。
なんと恐ろしい………。
もはやコレは、武器の使用以外の一切を認める地下闘技場ルールの様相と化していた。
―――――――――いや、まだ手段は残されている。
最強の、そして、おそらく最悪の禁じ手が。
「ふ、ふふ……やっと出来たぜ。 “ダンコたる決意”ってヤツが」
「何ですって?」
ミナコの不敵な笑みに、何を仕掛けてくるのかとアイカが警戒する。
その時、ミナコの取った行動は――――――
なんと、テーブルの上に佇んでいた、ビールのピッチャーを掴む事だった。
ピッチャーには大ジョッキ五杯分のビールが注がれている。
まさか、アレを一気に!?
「馬鹿な! 洒落になってない量だぞ!!」
ユウイチさんが叫ぶ。
それはそうだろう。
飲み会全体を通して八杯ならまだ分かるが、一気に八杯分は結構ヤバイ量だ。
しかし、ジョッキを持ち変える手間がない分、差は一気に詰まる。
むしろ、息継ぎする間がない分、飲む時身体にかかる負担は少なくて済むかもしれない。
もっとも、飲んだ後の反動は想像を絶するものだろうが。
「ピッチャーがなんぼのもんじゃーい! アル中が怖くてメジャーに行けるかってんだー!」
さすがのアイカも、コレには目を見開く。
「さすがっス、ミナコ先輩! 漢の中の漢です! 一生ついてきます!!」
「死なすぞ、エノケン! ブリトニーよりキュートなこのアタシを捕まえて誰が漢だ、コラァ!!」
涙を流してしなだれかかるエノケンを、ミナコはブラジリアン・キックで一蹴した。
………あいつも既に随分飲んでるな。
喧騒。 喧騒。
会場はすでに、この無謀な挑戦に賭けるミナコ・コール一色だった。
何という―――――――
あの劣勢から、力技で場の空気を味方につけやがった―――――――!
「うっしゃあああああ! アムロ、行きまぁあああああああす!!!!」 
ミナコは、かなり無茶な姿勢で、ピッチャーを一気に傾けた。
グビッ、グビッという音がこちらまで聞こえてくるようだ。
おお、挑戦者達よ。
アイカも四杯目を終えて五杯目に取り掛かるところだったが、あれを飲み干されたらカウントは一気に逆転する。
アイカは、冷静にその妨害の手段を模索していた。
そして、辿り着く。
ピッチャーはその大きさ故、下腹部がどうしても死角になる。
ミナコの意識は今、目の前のピッチャーに集中している。
今なら行ける――――――
そう確信したアイカは、荒鷲の鉤爪とでも表現すべきその一撃を、ミナコの脇腹に放った。
しかし、それを封じたのはミナコではなかった。
横から闖入してきた、軽音楽部の後輩ベーシスト、エノケンだった。
意味のわからん事に、泣きながら拳を振り上げている。
「アイカ先輩、駄目っす! これは漢と漢の尋常な勝負の筈! ミナコ先輩はっ! 師匠は今、超人の領域へ足を踏み入れようとしとるんですっ! そいつを冒涜する事は、たとえアイカ先輩でも許しましぇんっ!!」
「エ、エノケン、アンタ、裏切ったわねぇ~~~~!!」
何の図だよ、これは。
なんでエノケン、泣いてんだよ。 そして何キャラだよ。 泣き上戸か、あいつは。
ミナコは、ごくりごくりと既にピッチャーの半分以上を飲み干していた。
ストッパー役のカナメも、すでに諦めているのか、店員にお冷やのピッチャーを頼んでいる。
しかし、ピッチャーの四分の三を超えた辺りで、急にミナコの動きが止まった。
当然だろう。
あれだけ一気に飲んだら、血中のアルコール濃度が一気に上がって、ぶっ倒れてもおかしくない量だ。
ミナコの肌に、脂汗が浮いている。
そろそろ、限界か――――――
そう感じたのか、ユウイチさんが止めようと立ち上がった時だった。
ミナコは、いきなりピッチャーをテーブルに置くと、隣のアイカの頭を両腕で掴んだ。
「な―――――――」
「辛い時っ、辛いと言えたらーいいのになぁー! あっはーん!! 僕達は強がって笑う弱虫だぁぁー! あっはーん!!」
もはや原曲の面影も無い意味不明の戯れ事を叫びながら、ミナコはアイカの頭を激しくシェイクする。
元々相当量の酒が入ってるところに、激しく頭部を揺すられたのだからたまらない。
アイカは、一気に酔いが回って、為す術無くその場に崩れ去った。
クール一辺倒だったその鉄面皮が、今は真っ赤になっている。
―――――――ヤバイ、吐く。
空気を察したユウイチさんと赤井のムスメは、慌ててアイカを抱えてトイレに連れて行った。
…………何という外道プレイ。
飲み干すのが無理と分かった瞬間、物理的に相手を潰しに行きやがった。
「おおお! さすがっす! ミナコ先輩、最強っす!!」
「だははー! マジック・マッシュルームのトップが誰だか、よーく分かったか小僧どもー!!」
ミナコは頭上にVサインを掲げて高笑いした。
ああ、この人、クズだなーと何となく俺は思った。
「さぁ、他に誰か挑戦者はいないの!? あたいは誰の挑戦でも受けて立つぜよー!!」
すっかり気が大きくなって周囲を煽るミナコ。
もはや何というか、平静の欠片も見受けられない。
さすがにこの大酒豪っぷりを見せられて挑戦しようという奴は見当たらなかった。
すでに限界まで飲んでるのだからジョッキ一杯でも潰せそうな気がするが、あの飲みっぷりを見ていると、さらにその限界から幽門が開きそうで怖い。
「お、俺行きますッッ!」
と、手を挙げたのはエノケンだった。
もう顔が真っ赤で、べろんべろんになってる気がするが。
「ほほぉ~、いい小僧っ子がアタシに盾突いてきやがったね~。 おっしゃあ、三秒で潰したるわー!」
「お、おいおい。 未成年は不味いだろ。 アル中で倒れられたら過失傷害で刑事事件になるぞ」
「てやんでぃ! お上が怖くて、ロックン・ロールなんかやれるかってんだー!」
完全にタチの悪い酔っ払いである。
人間、ああはなりたくないものだ。
「いいでしょう! それだったら――――――」
エノケンは、叫びながら何を思ったかいきなり上着を脱ぎだした。
K‐1選手さながらの、筋骨隆々とした屈強な上半身が露わとなる。
しかし、そのボディは酒のせいもあって、すっかり真っ赤になっていた。
まるでそれは、昔話に出てくる赤鬼の風体だ。
「ミナコ先輩! アーム・レスリングで勝負しましょう!!」
はぁ!?という周囲の空気。
年長とはいえ、女相手に腕相撲で勝負を挑もうとするか?と誰もが思っただろう。
しかし、昼間、俺はあのミナコについての逸話を聞いている。
「いや、あのベースのミナコって、握力が120kgあるんだってよ……」
そう呟いたのは、さっきの“ヤッさん”と呼ばれていた『自爆マシーン』のギタリストだった。
握力120kg―――――――
そう、素手でリンゴが握り潰せる握力だ。
「昔やった時は瞬殺されましたけど、今度は負けないっすよ! 俺だって、あれから鍛えに鍛えてきたんだ! 握力だってもうすぐ100kgを超える!! アンタを乗り越えて、俺は絶対の自信を手に入れる!!」
「ほぉおお!!面白い!! 『握撃に最も近い女』と呼ばれるこのアタシにアーム・レスリングで挑むたぁ、いーい度胸してるよ! 掌、粉々に握り潰したらぁああ!!!」
すでにバキバキと拳を鳴らしているミナコ。
猛獣vs猛獣。
雌豹vsゴリラ。
これって一体何の集まりだったかとか、そういうのがもはや形骸化している。
これが酒の魔力か。 覚えておこう。
「ミナコ先輩! 俺が、この腕相撲に勝ったら―――――――」
エノケンが、やたらしどろもどろになって叫ぶ。
「ほぉ、何だい?」
「こ、こ、この腕相撲に勝ったら――――――お、お、お……」
まさか――――――――告は……く?
その先を、誰もが期待していた。
酒の勢いに任せて、まさか、まさかの。
確かに、エノケンのミナコへの執着は異常だった。
師弟愛だとか、先輩後輩だとか、そういった領分を越えているようにも感じられた。
そうか、そういう事だったのか。
そう考えると、全て、得心の行くような気がした。
周囲が息を呑む。
ああ、そうだ。 たとえこの場で叶わぬ夢でも、口に出す事に意味がある。
たとえそれが野次馬的な好奇心であったとしても、今の空気なら周囲はそれを讃えるだろう。
さぁ、行け、エノケン。 思いの丈を、ぶち撒けろ。

「この勝負に勝ったら、お、お、おっぱい揉ませてください!!」

………………
お前は何を言ってるんだ、という周囲の視線。
血迷うにも程があるだろ。 樹海行って首吊ってこい。
しかし、酔っ払ったエノケンはものともせずにその野太い腕を差し出すのだった。
丸太のような、筋肉の塊。
正直、俺達ZAN党が四人がかりで行っても、勝てるかどうかは謎だ。
しかし、ミナコもひるまじと腕を差し出す。
「おお、上等だぁ!! このBカップの極貧オッパイなんてケチ臭い事言わずに、奮発してカナメのあのFカップの特盛りオッパイ揉ましてやんよ!! 存分に味わうがいい!!」
おおっ、と周囲が色めき立つ。
うわぁ。 ドサクサに紛れて、この場にいない赤井のムスメに全部押し付けた。
この師弟、正真正銘のクズだなぁと俺は確信した。
その場にいた、暗そうなにーちゃんがレフェリー役を買って出る。
よく見たら、それは化粧を落とした女郎花のヴォーカルだった。
あんな顔だったのか。
「はいはい、力抜いて抜いて~」
がっちりと組み合ったミナコとエノケンの腕を、女郎花のヴォーカルはぶらぶらと振って脱力させる。
力は抜いても、二人の気はそこに注がれている。
その空間から溢れる、熱気と言うか、オーラと言うか、そういう目に見えないものが、得体の知れない緊張感を生み出していた。
じわりと、俺の拳にも汗が滲む。
背筋がひりつくこの感じ。
――――――――
「レディ~~~~~~」
緊張が、高まる。
「ゴォッッ!!!」
静寂が破られた――――――――その瞬間。

エノケンの身体が、飛んだ。

ミナコの腕がエノケンの腕を倒した時の凄まじい遠心力で、エノケンの身体が180度回転したのだ。
その身体はテーブルに突っ込み、食べかけの料理を巻き込んで、転倒した。
エノケンは、衝撃で頭をぶつけて、ヒクヒクしている。
それを見たミナコは、勝ち誇ったように宣言した。
「はっはー! アタシの勝ちッ!! アタシに挑むなんざ100億光年早いっつーの!!!」



結果、俺達は店を追い出された。






結局俺は、赤井のムスメの車に乗せてもらって帰る事になった。
こちらは介抱組といったところか。
ミナコを始めとする酔っ払い組は、河岸を変えて飲み直すらしい。
あれだけ飲んだのに、元気な事だ。
ユウイチさんは自分達の機材車があるので、これから先に潰れる奴の為の介抱役として別行動になった。
そんなんで、今俺は赤井のムスメの運転する、『マジック・マッシュルーム』の機材車にいる。
助手席には酔い潰れたアイカが、後部座席には俺とトーヤがいた。
トーヤは結局、ビール一杯で潰れてしまったのだ。
トーヤが下宿で良かった。
実家暮らしだったら、家族への言い訳がかなり面倒くさい事になっていただろう。
ビールの一杯くらいで軟弱な、と俺が毒づくと、世の中にはそういう体質の人もいるのだとカナメに窘められた。
「いつもあんな風なんですか?」
「ん?」
「いや、『マジック・マッシュルーム』の打ち上げ」
「いつもって事はないけど……まぁ、今日はちょっと羽目を外しすぎてたかなぁ……」
はは、とカナメは苦笑いをする。
あの我の強い二人がメンバーにいれば、必然的に仲介役はカナメがやる事になるだろう。
その心労は、きっと凄まじいに違いない。
「嫌になった事とか、ないんですか? その……解散を考えたりとかは?」
カナメは少し考え込んだ風を見せて、十数秒が経った後に、答えた。
「あるよ。 ってゆーか、しょっちゅう考えてるかな。 あはは」
「え?」
俺はつい、呆けたような声を出してしまった。
「うん。 3Pってね、難しいのよ。 人数が少ないから衝突も少ないだろうと思ったら、これが大間違い。 意見が割れた時、必ず奇数組と偶数組に分かれるから、意見潰された方はストレスが溜まるの何の。 おまけにフロントのあの二人は、あの通りのジコチューでしょ? 何度、辞めたいって思った事か…」
「じゃあ、何で、辞めないんですか?」
「きっと、ここが、私の居る場所だから」
ぽつり、とパワーウィンドウの外側に水滴が張り付く。
雨、か。
「実はね。 バンドが出来て、一、二年ぐらい経った頃、一度このバンド、解散してるんだよね。 一年ぐらいの間、三人とも、別々の道を歩んでて、交わる事もなくて、でもそこで気づいたの。 私達の居るべき場所は、あそこなんだって。 『マジック・マッシュルーム』なんだって」
「―――――――」
「アイカは空気読まないし、自己中。 ミナコも、性格ぶっ飛んでる上に、自己中。 でも私は、私達、三人でいる空間が好きだった。 何ていうか、歪なパズルのピースが、噛み合ってる気がしたの。 他の場所にいる時の、代わりの利く私じゃない。 自分が、換えの利かないワンオフ・パーツになってるって実感。 きっとそれが、私が『マジック・マッシュルーム』に居る理由なのかな」
「―――――――」
同じだと、俺は思った。
きっと、それは俺がZAN党に居る理由と同じだ。
ライヴの最中に、俺が感じたフィーリングと同じだ。
チバ、ユゲ、トーヤという、社会性の無い三人のクズ。
そこに加わる、四人目の社会性の無いクズである俺。
だが、俺達四人が集う事で、バンド『ZAN党』になる。
教室の片隅で干されてた俺達が、今日みたいなライヴを作り出す事が出来る。
それは、俺達が誰一人欠いても為しえない事なんだ。
「でも、そうじゃないバンドもある……」
ふと、赤井カナメは、呟くように言った。
雨が、ぽつぽつと勢いを増しだした。
夏の雨は、大粒だ。
きっともうすぐ、スコールのようになるだろう。
「ユウイチさんが、そうだった」
「―――――――」
俺は、生唾を飲んだ。
何か、赤井のムスメは、重い話を俺にしようとしているような気がした。
俺は、ルームミラー越しに赤井カナメの顔を見据えながら、続く言葉を待った。
「ユウイチさんの所属していたバンド、『ニトロ・グリセリン』がスマッシュ・ヒットを出した後、すぐにバンドは解散する事になった――――――って所までは聞いたわね?」
「あ、は、はい」
「でも、それは本当は違う。 正確には、解散した後でヴォーカルのユウイチさんを除いた他のメンバーと、レコード会社が用意したヴォーカルで、すぐに他のバンドが再結成された。」
「―――――――」
雨は、益々大降りになってゆく。
やがて、ウィンドウが粒で覆い隠された。
赤井のムスメが、ワイパーを使い始める。
それで何とか、向こうの景色を見通す事が出来た。
「作曲のセンスもいい。 作詞のセンスもいい。 ただ、ユウイチさんのヴォーカルだけが、一般受けしないと判断されたの。 実質上のクビね。 ただ、他のパートと違って、ヴォーカルを変えるともはや同じバンドは言えないから、形の上だけでも解散扱いにされた。 再結成されたバンドは、今でもメジャーシーンで活躍を続けている……」
「―――――――」
何て話だ。
「結局、『ニトロ・グリセリン』も、毎年話題になっては切り捨てられてく泡沫バンドの一つになったのよ。 メンバーの裏切りにあってユウイチさんも辛かったんでしょう。 一度は音楽の道をきっぱり断って就職したんだけど、どうしても音楽を諦められなくて、またメジャーに昇る為の努力を始めた……」
外気の湿度に反して、俺は寒気がするような感触に襲われていた。
あの、気さくなユウイチさんに、そんな過去があったなんて。
ユウイチさんの、凄さを知ったような気がした。
それはメジャーへの克己心であるとか、執念であるとかそういったものじゃない。
そんな目に合っても、まだ音楽を楽しんでいられる。
まだ、音楽で人を幸せにする事を信じていられる。
それが、きっと、ユウイチさんの強さなのだ。
当時のユウイチさんのヴォーカルが、今と同じものだったかは分からない。
だが、今のユウイチさんのヴォーカルは、間違いなく聴いた人の心に届かせる事が出来る。
現に、それは俺の心に届き、動かす事が出来たのだ。
「ユウイチさんは、必ずもう一度、メジャーに行くと思います」
「え?」
俺の、半ば確信を伴なった言葉に、カナメは不意を突かれたようだった。
「だって、あの人のヴォーカルは、人に力を与えられる。 人の、辛さや苦しさを分かってやれる。 だから、人の心に届くはずです」
赤井のムスメは長い事黙っていたが、やがてミラー越しに笑顔を見せると、得心したように言った。
「そうね。 きっと、あの人なら、やってくれるわね」
窓の外を見上げる。
狐雨だろうか。
雨が降っている割に、空には雲があまりかかっていない。
夕闇の中で、橙色の月が、半ば欠けた状態で空に浮かんでいた。
月に、輪が掛かっている。
雨粒で滲むその月は、とても幻惑的で、何故かずっと眺めていたい心地にさせられた。



結局、家に辿り着いたのは日付が変わってからだった。
酔っ払い達を優先して家に送り届けて来たので、俺の番は最後、という事になったのだ。
実際、アイカの方は何度か吐きそうになって車を停める事があったので、それでよかったのかもしれない。
赤井のムスメは、アイカのマンションについて、介抱してから出て来た為、結構な時間がかかった。
灯りのついていない自宅の玄関口に着くなり、俺は一日の疲れがどっと圧し掛かってくるのを感じた。
首はヘッド・バンキングのし過ぎで痛いし、腕も足もモッシュのせいでパンパンだ。
全身乳酸漬け状態。
確かにこんな状態で酒なんか飲んでたら、俺もトーヤと同じ末路を辿っていただろう。
家について安堵したのか、急激に眠気が襲ってきた。
瞼が、重い。
俺は何とかして居間まで辿り着くと、ソファーの上に横になった。
ああ――――――なんかもう、ここでいいや。
フカフカしたソファーの感触が、優しく俺を包み込む。
夏場だし、このまま寝ても風邪を引くって事はないだろう。
意識が、酩酊にも似たまどろみの中を彷徨ってゆく。
瞼の裏で、不意に電灯がついたのが分かった。
俺の帰宅を察知した、マドカが起きてきたのだろうか。
しかし、俺の意識は今正に深い深い闇の中に落ちてゆく最中だった。
もう一度、目を覚ます気力は残ってなかった。
「もぉ~、夏だからってこんなとこで寝たら風邪引くよ? 季節の変わり目は怖いんだから。 お兄? お兄?」
ゆさゆさと俺の身体を揺するマドカ。
そうしてしばらくすると、諦めたように溜め息をついて部屋を去るマドカの気配が感じられた。
ああ、これでやっと安眠できる……。
再びまどろみの中に意識を戻そうとした時、ふと、ふぁさっと俺に掛かってくるタオルケットの感触があった。
マドカ、か。
動かせないならせめて、とタオルケットをかけてくれてくれたらしい。
「今日はお疲れ様。 おやすみ、お兄」
そんな言葉が耳に入ったような気がしたのと同時に、電気が消えた。
今度こそ、本当に、静寂の闇。









こうして、とても、とても長かったこの一日は終わった。





       

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Neetsha