Neetel Inside 文芸新都
表紙

妄想ハニー
与党編-06【キャンディ・ハウス】

見開き   最大化      




放課後には、『アナボリック・ステロイド』の練習が部室のスタジオであった。
前のライヴから、間が空いてしまったので、今日は今までの曲の総ざらいだけだった。
曲の安定感という面では問題はない。
しかし、アキラは今日はどうにも曲の中に意識を込められなかった。
『今のキミの音楽は醜悪だ』
そのユラの言葉が、演奏中ずっと耳朶に残っていた。
勿論、これまでだって『ステロイド』の音楽を批判された事が無い訳ではない。
だが、あそこまで酷評されたのは初めてではないだろうか。
アキラとて、コピーの時から数えたら二年近くこのバンドで研鑽を積み、練度を高めてきたのだ。
多少なりとも、自分達の音楽に矜持は持っている。
ユラの言葉は、それを根底から覆し、否定するものだった。
同時に、自分達の音楽性に対して抱いていた疑念が、ふつふつと頭をもたげてきた。
それは、音楽を創る者が、誰しも抱く命題である。
すなわち、『自分の音楽は自己満足なのではないか?』と云う疑問だ。
人間誰しも、自分が自分である限り、完全に主観性を排する事は出来ない。
客観的に見て、自分達の音楽はどう見られているのか?
音楽の評価というものは、ひどく曖昧だ。
技術力が高いと言ってそれがいいものであるとは限らないし、反対に、技術力が低くともいい音楽もある。
明確な評価基準というものが、存在しないのだ。
暗中を模索するような、音楽性の探求。
それ故に、誰しもが作曲し続ける中で疑念に襲われる。
果たして、これでいいのかと。
アキラの中で、その基盤に今、亀裂が入りつつあった。
元々、その音楽性に対する疑念は以前から沸きつつあったのだ。
ただ、このバンドの完成度は、一度全てを棄却するには余りに高過ぎた。
今でこそこういった方向性になっているものの、ミクスチャーというジャンルの音楽を演りたかったのは確かなのだ。
リュウジはリンプ、ジャガーはレイジ、エノケンとアキラはレッチリと、ミクスチャー好きが集まって出来たのがこのバンドだ。
コピーバンドでいる内は、確執は起こらなかった。
ただ、オリジナルバンドとして変質した後に、我の強いメンバー達の間に、音楽性の違いが生じ始めたのだ。
オリジナルというのは、文字通り自分の個性だ。
その違いが、今まさに軋轢となりつつある。
人間が四人集まれば、考え方や行動原理が全て異なっていて当然だ。
全てが噛み合うという事などあり得ない。
ユラに聞いた、バベルの塔の神話が思い出された。
人間が違う人間と争うのは、思い上がった人間達に下された神罰なのだと。
こうした葛藤が生まれるのが神様の罰だというのなら、それは言い得て妙だ。
出口のない迷宮。
神罰としてこれほど相応しいものは無いだろう。

「アキラ、今日調子悪いのか?」
エノケンが、ベースをしまいながら尋ねてきた。
エノケンは練習中でもスタジオの中で飛び跳ねて演奏するので、肌にじわりと汗が滲んでいる。
酸っぱい汗の匂いが、スタジオに充満しかけていた。
「いや、そんな事はないけど、何で? リズム、狂ってたかな?」
「うんにゃ、狂ってはなかったけど。 なんつーか、今日は妙にフレーズが単調だなって思ってな。 いつもは俺がここ!って思ったタイミングでいい音くれるんだけど、今日はちょっと意思疎通が取れてなかったかなーって」
さすがはエノケンだ。
長い付き合いだけあって、演奏一つでも、気が入っていない事が見透かされてしまう。
それだけエノケンも周りの音を聴いてるという事か。
リュウジも本番さながらのヘッドバンキングをしていた為に汗塗れだ。
バナジウム天然水のリッター・ボトルを片手にPA卓の電源を切っていく。
スタジオの使用時間を多少オーバーしていたようだ。
アキラ達が片付けている間に、待っていたように次のバンドの面子が入ってきた。
次の時間を取っていたのは、椎名林檎と東京事変のコピーバンド、『動脈インジェクション』だ。

「あ、アキラ先輩。 ハケるのまだ待ってください~」
と言って、スコアを片手にパタパタとスタジオに駆け込んできたのは、一年ドラムの辻村蛍子、通称ツジコだった。
ツジコは入ってきて一瞬、そのスタジオ内に漂う異臭にうっと顔をしかめる。
主に半裸で暴れ回るエノケンと、リュウジのせいだ。
エノケンはその様子に、罰が悪そうにTシャツを着始めた。
「ん、どうかした、ツジコ?」
アキラは、外しかけていたペダルを元に戻してツジコの方に向き直る。
「実はぁ、今度選考会で『正しい街』演るんですけど、スコアで分からないところがあってぇ……」
言いながらツジコは、バンドスコアをぱらぱらめくって、件のページを見せた。
「ほら、ここなんですけど。 イントロで、クラッシュ叩きながらスネアを二連打するとこありますよね? これってどうやって叩けばいいですか?」
「あー、こういうフレーズか。 これは、クラッシュ叩きながら、左手でダブル・ストロークを使って叩くんだよ。 クラッシュと同時に叩く一拍目にアクセントつけれると、雰囲気が出るんじゃないかな」
「え~、ダブル・ストローク使いながら、アクセントですか? 結構難しくないですか?」
「うん、確かに難しいフレーズだけど出来ないレベルじゃないよ。 最初は難しいかもしれないけど、繰り返しやれば、きっと出来るようになると思う。 ツジコは基礎練しっかりやってるから、すぐに対応出来るようになると思うよ」
「う~ん、アキラ先輩がそう言うなら、頑張ってみようと思います。 あ、先輩、この後予定とかありますか?」
「いや、特に無いけどどうして?」
「実は、私、今日スネアを見に行こうと思ってるんです。 部のスネアが最近何かしっくりこなくて、自分のスネアが欲しくなって。 どのスネアがいいかよく分からないんで、先輩、選ぶのつきあってもらえません?」
アキラは少し考え込んだが、承諾する事にした。
今朝からユラの事で気が滅入っていたので、いい気分転換になるかもしれない。
「いいよ。 俺もちょうど今月のドラム・マガジン買いに行きたかったところだし」
「やったぁ! じゃあ、練習終わったら一緒に行きましょう!」
そう言ってツジコは無邪気に喜んだ。



「何だよ、アキラ一緒に帰んねーの? あ、ツジコとデートか」
と、ツジコの練習が終わるまで部室で時間潰しをする事になったアキラを、エノケンが冷やかす。
「そんなんじゃないって。 スネア選ぶのについてくだけだよ」
アキラは、部室に転がってた誰のかも分からないアコギを掴むと、膝に置いて適当に爪弾いた。
誰もチューニングしてないので音は腐ってたが、暇潰しにはなる。
「お前はその気無くても、向こうはあるかもしんねーだろ。 何せ、同じ中学同じ吹奏楽部の出身で、高校でも同じ部活だもんなぁ。 案外、お前の事追ってきたのかもしんねーぞ」
「吹奏楽部から軽音に流れてくるのはよくある事だろ。 特に打楽器系は互換性あるしね」
「そうかねぇ。 まぁ、後輩に慕われる事はいい事じゃね? 特に女の後輩って何かいいよな~。 ウチの部のベース一族は、何故かヤロウばっかだからなぁ。 汗臭くてたまんねーや」
「いいじゃないか、結束強くて。 榎本ファミリーって感じじゃん」
「うるせぃ! 俺は可愛い女の子に慕われたいんだよ! 頬を赤らめて、『先輩…ベース教えてくれませんか…?』とか言われたら、それだけで悶絶モンだぞ」
「そんなシチュエーション、ギャルゲーの中にしかないよ……」
からかうエノケンを適当にあしらいながら、気の向くままにアコギの弦を鳴らす。
いつもスティックばかり振っているので、たまには弦楽器もを弾くのもいいものだと思った。
それっぽいところを適当に押さえて、ゆずをアカペラで合唱する。
歌い慣れてないアキラは声が裏返って、周りから大爆笑が起こった。

「お待たせして、すいませーん。 行きましょっ! あ、途中でお金卸して来ていいですか?」
練習が終わるなり、スタジオから飛び出してきたツジコが、間髪入れずに言って来た。
ようやく自分のスネアを買える喜びからか、テンションが高い。
小さいツジコがあっちこっち飛びかう様子は、小動物を見てるようだった。
「勿論いいよ。 っていうか、お金卸さないとスネア買えないだろ?」
「そうですよねー。 うーん、どんなスネアがいいかなー」
ツジコの瞳がきらきらしている。
アキラも、初めてスネアを買った時はこんな感じだっただろうか。
ドラマーは自分で買わなくてもスタジオに備え付けのドラムがあるから、なかなか自分の機材というものを持つ機会がない。
大抵、スティック、ペダル、スネア・ドラムという順番に機材を購入してゆく事になるが、スティックやペダルは、言ってみればドラムを叩く為の付随物であり、機材と呼べる程のものではない。
そういう意味では、スネア・ドラムは、ドラマーが最初に手に入れる自分だけの機材であると言える。
これで胸が高鳴らない筈がないだろう。
そんなハイテンションのツジコを持て余しながら、アキラは部室を後にした。


「なんか久しぶりですよね~、こうしてアキラ先輩と帰るの。 中学の時以来じゃないですか?」
歩きながら、ツジコはそう話しかけてきた。
「うーん、そう言えばそうだね。 軽音に入ってからは、あんまり一緒にいる機会なかったからなぁ。 中学の時も、絡んだの大分遅くなかった?」
「そうですよね。 やっぱり、学年も性別も違ったし、あの頃のアキラ先輩って、なんか近寄りがたい雰囲気ありましたから」
「うわ、そんな風に見られてたんだ。 別にそんなつもり無かったんだけどなー」
アキラは苦笑しながら空を見上げた。
五時を回って、空はもう茜色に染まっていた。
これでも大分日は短くなってきた方だ。
風も、以前よりも涼しいものになってきている。
「ん~、何ていうか、中学の時のアキラ先輩って、あんまり積極的に人と関わろうとしないところあったじゃないですか? 今よりもっと無口だったし。 だから、私の学年の女子、みんなアキラ先輩って怖い先輩だと思ってたんですよ」
「驚愕の事実だね、それ。 うーん、昔の事とは云え凹むな~、そういうの後から聞くと」
「私も多分、楽器が同じじゃなかったら絡んで無かったかもしれないですね」
「あはは、じゃあツジコがドラムでよかったよ」
「覚えてます? 中学の学園祭の、演奏会。 私が一年生の時だから、アキラ先輩が三年生の時」
「うん? 何かあったっけ?」
「ありましたよぉ。 私が、初めての演奏で緊張してて、曲の構成忘れる大ポカやらかしたじゃないですか」
「そう言えば、そんな事あったね。 大塚愛の『さくらんぼ』。 懐かしいな」
その様子を思い出して、アキラは微笑む。
そんな失敗も、過去になれば笑い話だ。
「それで打ち上げの時、みんなが盛り上がってる中、私だけ教室の隅で泣いてたんです。 その時、アキラ先輩だけが私のとこに来て優しい言葉をかけてくれた……」
「それ、所謂“干された”って奴だよ。 俺、友達少なかったからね。 同じドラムの子だから、話し掛けやすいと思ったんだ」
「あれが、アキラ先輩と私の初絡みですよ。 あの時、すごく嬉しかったんです。 ああ、この人優しい先輩なんだなぁってその時に初めて気づきました。 あれ以来ですよね、先輩と話すようになったの」
「そうだね。 俺も一年でまともに絡んだの、ツジコぐらいかも」
「奇遇ですよね。 その唯一絡んだ後輩が、同じ高校の同じ部活に入ってくるなんて」
「ホント凄い偶然だよ。 ある意味、運命的だよな」
「もぉ~、茶化さないでくださいよっ」
ツジコは頬を赤らめながら、拳骨でぽかぽかとアキラを叩いた。
何だか賑やかな子猫を飼ってるような気分になった。



赤井楽器に着く。
店に入ると、顔見知りの店員達に会釈し、二階のドラム・コーナーに向かう。
そこでは、このドラム・コーナーの主・赤井カナメが、紅茶を片手にサンドイッチを摘んでいた。
ここはアンタの家ですか、とツッコミたくなる程のくつろぎぶりだ。
「あ、いらっしゃい、アキラ君。 ん? その子はアキラ君の彼女?」
「違います。 軽音の後輩です」
アキラはきっぱりはっきりと断言する。
「へー、そうなんだ。 貴女、前にも何回かスティック買いに来た事あったわよね。 ふ~ん、アキラ君の後輩だったんだ。 それじゃ以後よろしくね」
「あ、よろしくお願いします~」
ツジコはそう言いながら深々と頭を下げた。
赤井楽器は、この辺の楽器店でも一番規模が大きく、品揃えも充実している。
ツジコもスティックを買うとなればここを利用しているのは至極当然の流れだろう。
「ういうい。 あ、お近づきの印にどう? 栄の『鞍馬サンド』の名物、納豆コーヒーゼリー・サンドイッチ。 今日、名古屋に出張行った帰りに買ってきたの」
「…………納豆コーヒーゼリー・サンドイッチ……?」
その聞くだけで不吉な単語に、アキラとツジコは思わず顔をしかめる。
「これが意外に美味しいのよ。 ほら、豆乳ラテの豆乳だって元は大豆でしょ?」
「いや、まぁ、そうかも知れませんけど、ほら、絵的にね……」
「うーん、確かに見た目は気持ち悪いかも。 残念ねぇ、滅多に食べられないんだけどな~。 ところで今日は何か?」
カナメは、残念そうに手にした二組の納豆コーヒーゼリー・サンドとやらをしまうと、即座に営業モードに入った。
この辺の切り返しの早さが社会人って感じだ。
「この子が自分のスネアが欲しいって言うんで、スネアを見せて欲しいんです」
「ああ、なるほど。 それでアキラ君がスネア選びにつきあったって訳ね。 うんうん、いいねー、青春だねー。 私も後輩に赤井先輩、赤井先輩って呼ばれてた頃が懐かしいよ~」
「今はもう赤井先生、赤井先生ですからね」
「そうそう。 『ZAN党』の連中なんか、影でアタシの事、『赤井のムスメ』って呼んでんのよ。 マジムカつくんですけど」
「あちゃ~……バレてる…。 要領悪いからなー、あの連中」
「何? アキラ君も私の事、裏で何か言ってんの?」
「いやいや、とんでもないです。 それよりスネア見せて下さいよ」
「はいはい。 う~ん、ここでアタシのスネア選び講座を開きたいところだけど、今日のとこはアキラ先輩の面子を立てて、大人しくしといてあげるわ。 いいスネア選んであげなさいよ、アキラ『先輩』?」
「あはは……恐縮です」
カナメはアキラの肩をぽんと叩くと、二人の為にコーヒー豆を挽き始めた。
聞き慣れたバッハのオルゴールが流れ始める。
心の癒されるメロディーだったが、肝心の店員の責務は丸投げだ。
やむ無しに、アキラはツジコとスネアを見て回る事にした。


「ツジコはどんなスネアがいいの? 例えば、音的にはどんな感じのがいいとか?」
「そうですねぇ~。 最初ですから、オーソドックスに色んな曲に使えるタイプがいいですね。 メタルみたいなカンカンした音はちょっと……」
「だったら木製のスネアかな? スネアには、木製とスチール製のヤツがあるんだけど、やっぱり木製のやつの方が音に丸みがあって、マルチに使えるよ」
「へぇ~。 あ。 あれってアキラ先輩が使ってるヤツと同じタイプじゃないですか?」
ツジコが、スネアの棚で一際目立つ、金光りするスネアに目をつける。
アキラが使っている、チャド・スミスのモデルのスネアだった。
「ああ、あのスネアはレッチリのチャド・スミスのモデル。 スチールの中じゃ結構オーソドックスなタイプだし、まぁ音云々よりも、俺がチャド・スミスのファンだからミーハー根性で使ってるんだけどね」
「わぁ、そういうのいいですよね。 私もあれにしてもいいですか?」
「それは駄目。 却下。 断る」
「えー? 何でですかぁ~?」
「同じ部に同じスネア持ってる奴がいたら、何か嫌じゃん」
「うぅ……アキラ先輩のケチ。 いいですよ、別のにしますから…」
「そ、そんな拗ねるなよ…」
「もういいです、アキラ先輩には頼みません。 つんっ」
そっぽを向くツジコ。
「あらあら、痴話喧嘩? いいわねぇ、初々しくて。 コーヒー、ここに置いとくわよ?」
カナメがティー・スペースから乗っかってきた。
―――――――余計な事を。
「そうなんですよ、アキラ先輩ってば亭主関白で、いつも自分の好みばかり私に押し付けて…。 でもいいんです。 慎み深さこそ、大和撫子の美徳ですから。 暴虐の限りを尽くす先輩にも私は寛容の心で以て接します~、よよよ。 嗚呼、私ってば良妻賢母」
「………本気にされるから止めて欲しいんですけど、そういう言動」
案の定、ツジコは調子に乗ってしなしなとキャラを作り始めた。
ハルキのマイペースさもアレだが、この子のハイテンションさも考え物だ。
「ウソウソ、嘘ですよ~。 そんなに怒んないでくださいよ~」
「怒ってないよ。 そう云えば、ツジコってそういうキャラだったなーって」
「あ。 どういう意味ですか、それ~」
そんな会話の脱線を繰り返しながら、結局選ぶのに二時間もかかってしまった。
オーソドックスに使えるタイプのスネアなら結構な数置いてあったが、やれデザインがどうのとか、誰々のモデルがいいとか後付け注文をツジコが繰り返すからだ。
それでもどうにか、無事ツジコのスネアを選んで購入した。
メイプル製のスネアで、ビスを全部外さなくてもヘッドの交換が出来る優れものだ。
カナメの勧めるままに、ツジコは交換用のヘッドも一緒に購入する事を決意する。
両方合わせると結構な散在のはずだが、大きな買い物をしたせいか、ツジコは金銭感覚が麻痺しているらしかった。
結局、ツジコは両方購入して、夏休み中のバイト代を赤井楽器に献上した。


「ツジコって、何処でバイトしてるんだっけ?」
帰り道、何となく話題に困ったアキラはそんな風に会話を切り出した。
「モスバーガーです。 マックとどっちにしようか迷ったんですけど、ハンバーガーの味、こっちの方は好きだったんで。 たまに廃棄のハンバーガーちょっと失敬してるんですよ~」
「ジャンクフードの廃棄ばっかり食べてると太るよぉ?」
「え、えー? 私、太ったように見えます? 夏休み中は結構ダイエットしたつもりなんですけど」
「ダイエット? そんな痩せたようにはみえないけどなぁ~。 背はちょっと伸びたみたいだけど」
さっきのお返しとばかりにツジコをいじり倒す。
背が伸びたとはいえ、もともと小学生みたいな上背しかなかったツジコは、余裕で150センチに満たない。
アキラもそこまで背の高い方ではないが、ツジコと比べれば頭一つ分は勝っていた。
「むぅ~、ドラムは身長じゃないですよ。 ハートです、ハート。 選考会は、このスネアちゃんで勝ち抜きますからねっ」
ツジコは意固地に言って、買ったスネアをぎゅっと抱きしめた。
「俺もさっきちょっと叩いたけど、いいスネアだよ、それ。 これでちゃんとしたヘッドに張り替えて、きちんとチューニングしたらかなりの名器になるんじゃないかな」
「あ、それなんですけど先輩」
「ん?」
「とっても図々しいお願いだと思うんですけど、今日、これからウチに来て、ヘッド張り替えるの手伝ってくれませんか?」
「ええ? これから?」
アキラは、腕時計を見ると、もう七時を回っていた。
女の子の家にお邪魔するには、少し遅い時間帯だ。
さすがに日ももう暮れかけている。
もし家族と鉢合わせたら、かなり気まずい思いをする羽目になるだろう。
「お願いします~、私、まだヘッドの張り替えってやった事ないんですよ」
「あ、そっか。 中学の時は、先生がやってくれたもんなぁ。 ん~、明日、部室でやるんじゃ駄目かな。 ほら、もう遅いし」
「スネアとヘッドを別々に学校に持ってくと、すっごい嵩張るじゃないですかぁ。 それに、部室でチューニングすると、音がカンカンうるさいって、リュウジ先輩達が怖いし……」
「なるほど、それはあるな…」
ドラムのチューニングは、ビスを締める都度いちいちスティックで叩いて音を確かめるので、周りからすると非常にやかましく、ウザがられる。
前にマスオが部室でチューニングをしていた時は、リュウジやエノケンに音がうるさいと一喝され、部室の外に追いやられたのだ。
強面揃いの三年生は、一年生にとっては畏怖の対象なのだ。
「ツジコの家って、マンション? 一軒家?」
「? 一軒家ですよ?」
「それなら良かった。 いや、マンションだったら、チューニングやるのに近所迷惑だと思ってさ。 わかった、じゃあ付き合うよ」
「うわぁい! じゃあ私、報酬に手料理振舞っちゃいますよ。 今日、お母さんが出張で遅くなるんで」
ツジコは子供のように飛び跳ねると、アキラの腕を掴んで擦り寄ってきた。
なんだかんだで今日一日、ツジコのペースに乗せられて振り回されている気がするが、沈んだ気分を切り替えるのにはいい薬だ。



「ふんふんふふーん♪ 先輩って、何か食べられないものありますかぁ? シーフードとブロッコリーのパスタを作ろうと思ってるんですけど」
家の玄関口に着くなり、ツジコは鼻歌交じりに聞いてきた。
ツジコの家は、二階建ての真新しい洋風館だった。
家の塀は染み一つ無く真っ白で、築五年も経っていない様に見える。
家の住人の趣味なのか、庭の草木にはやたらと凝ったガーデニングが施され、欧米的な雰囲気を演出している。
ガレージに停まっている車は、これまた真っ白なセルシオだった。
ツジコは、本当にいいとこのお嬢、といった印象を受けた。
なるほど、この環境がツジコのあの間延びした性格を形成したのか。
「特に嫌いなものは無いけど、んと、まず先にチューニングやっちゃわないか? ドラムのチューニングって、ちゃんとやると結構時間かかるし」
「もぉ~、せっかちですね、先輩。 もうちょっとイタリア的な、心と時間の余裕を持ちましょうよ」
「日本人はあくせくしてる位で丁度いいんだよ。 このペースで行ったら夜中になっちゃうぞ」
「あー、さすがにそれは困りますねぇ。 じゃあ、先にチューニングしちゃいましょ。 ご飯はその後で」




ツジコの部屋は思ったよりもこざっぱりとしていた。
てっきり、もっとぬいぐるみやファンシーグッズで埋もれていると思ったが、予想外にそういったものは無く、棚の上にはCDが整然と羅列されていて、壁には中学の時の写真がぺたぺたと貼られている。
その中には、中学の吹奏楽部の面子と一緒にアキラの映っているものもあった。
三年前の学園祭と、卒業式のものだ。
「あの卒業式の時、アキラ先輩に貰った第二ボタン、まだちゃんととってあるんですよ。 毎年、先輩みんなに貰ってたから、私の机の一番上の引き出し、ボタンでいっぱいなんですけどね。 でも、全部ちゃんと分けて、どれが誰のだか分かるようにしてありますから、アキラ先輩のも他のに紛れずにしっかり残ってますよ」
「俺の第二ボタンなんか、そんな価値あるもんじゃないよ。 他に貰い手の付かなかった不良物件じゃん」
「もぉ~、アキラ先輩って、吹奏楽部時代の事になるとすっごい自虐的ですよね。 いいんですよ、他の先輩達がアキラ先輩の事をどう思ってようと、アキラ先輩がツジコの師匠には変わりないんですから」
「―――――――――」
自虐的、か。
確かに、そうかもしれない。
エノケンと出会った事でアキラの孤独は解消されたが、吹奏楽部員達との確執はその後も改善されなかった。
もちろん、長く付き合うことで多少は打ち解けたものの、その間には一条の溝を挟んだような、微妙な距離があり続けたのだ。
その理由を、おそらく後輩達は知らない。
教師達が、アキラ達の世代に暗黙の戒厳令を敷いたからだ。
おそらくそれは世間体を気にしてのものだったのだろうが、それ以来アキラの事情について、生徒達の話題に登る事はなくなった。
無論、裏では何を言われているか知れたものではなかったが、少なくとも、表向きそれを理由に揶揄される機会は無くなったのだった。
「そう言ってくれるのは、ツジコだけだよ…」
「ホラ、またそんな自虐的な。 私もマスオ先輩も、今の軽音のドラマーはみんな先輩の弟子みたいなもんじゃないですか。 マスオ先輩なんか、アキラ先輩の事、神と崇めてますよ。 アキラ先輩は、今やみんなに目指される目標なんです。 あんなにドラム上手いんだから、もっと自信持ってください」
「―――――――――」
二歳も年下の後輩に諭されるとは思ってもみなかった。
それだけ、アキラも心が疲弊していたのだろうか。
そう考えると、何もかもがくだらない事に思えて、心が軽くなるような気がした。
「そう、だな。 少しは、ツジコの楽観的思考を見習ってみるかな」
「もう……すぐ茶化すんですから」


チューニング・キーでスネアのビスを緩め、フープを外して、ヘッドを取り外す。
買って来た新品のヘッドをビニールから出すと、その縁をベキベキと指で潰して、糊をほぐす作業を始める。
これがまた非常にやかましい。
エア・パッキンを潰す要領で一通り糊を剥がし終えると、今度はそれをスネアに取り付ける作業に掛かる。
これでまたチューニング・キーでビスを締めなおせば作業は完了な訳だが、ここからがチューニングというヤツの正念場なのだ。
抜けのいいドラムの音を出す為には、ビスを均等に締めなければならない。
ただ均等に締めるだけなら、ビスを締める際に何回転したかを目視しておけばいいが、しかし、それを欲しい音に近づけるとなると、気の遠くなるような工程を強いられる。
一個ビスを締める度に、他のビスのテンションが全て変わってしまうからだ。
その張り具合を確認する方法は一つ、一個一個、ビスの近くのヘッドをスティックで叩いて確認してゆくのだ。
こうして、自分の好みの音に近づけてゆくという作業をチューニングと称する。
ドラムのチューニングは、プロでさえ難しい、職人の領域だ。
大抵の場合、そのあまりの作業の難解さに、適当なところで妥協する事になる。
あとは経験で音作りの仕方を覚えてゆくしかない。
………というようなウンチクを垂れながら、アキラはチューニングをツジコに教えた。

スナッピーを緩めると、スネアはレゲェで使われるようなポンポンという軽快な音に変わる。
その状態で、スティックでテンションを確認する作業をする。
この作業が、他の楽器陣に不評を買う騒音の元になるのだ。
「ねぇ、アキラ先輩…」
ツジコが、不意にアキラの服の裾を掴んできた。
「ん? どうした、ツジコ。 疲れた?」
「私、ドラム上手くなれますかね?」
「どうしたの、急に」
「だって今の軽音楽部って、女ドラマーって私だけじゃないですか。 今、頑張って腕立て伏せとかしてるんですけど、正直、他のドラムに比べるとパワー不足な気がするんです。 こんなんで、来年先輩になってやってけるのかなぁって」
「音のデカさを決めるのは腕力だけじゃないよ。 ドラムの基本は脱力としなりだって、教則本にも書いてあるだろ。 それに、科学的な根拠がある訳じゃないけど、女の子ってみんなリズム感がいい傾向があるから、リズム隊に向いてるんだ。 ツジコも練習すれば、男以上のドラマーになれるよ」
「リズム感。 リズム感かぁ。 なんか、アキラ先輩にそう言って貰えると心強いなぁ。 頑張ってみます、とりあえず選考会に向けて」
カンカンと、一音一音確かめながらチューニングをする。
大まかな音作りは出来たので、微調整の段階に入る。
掌の感覚を頼りに、数ミリ単位でビスを緩め締めし、音の違いを見る。
アキラもツジコも、感覚を研ぎ澄まして打音に耳を傾ける。
非常に精緻な作業だったが、たっぷりと時間をかけてアキラはこの作業を終えた。
終わる頃には、額に汗が浮いていた。

「うん、大体こんなもんかな。 曲目が椎名林檎だから、ちょっと堅めにセッティングしといたよ」
「わぁ、ありがとうございます! 今度の練習が楽しみです!」
「じゃあ、仕上げ。 ヘッドのたるみを無くす為に、ヘッドの上に乗ってごらん」
「えっ、大丈夫なんですか? せっかく張ったヘッド破れちゃったりしません?」
ツジコは、今しがた張り終えたばかりのヘッドを不安そうに見る。
「大丈夫だよ、ドラムのヘッドは丈夫だから。 チェ・ホンマンが上に乗って飛び跳ねても破れたりしないよ」
「そ、そうですか。 じゃあ、ちょっと失礼して……」
ツジコは、おっかなびっくりという感じで、そろそろと足をドラムの上に乗せた。
片足の体重を預け、破れそうに無い事を確認してから、ゆっくりともう片方の足を乗せてゆく。
そうして全体重を乗せると、ビスの周囲から、ビキビキという音がした。
「な、何か音が鳴ってますけど、大丈夫なんですか?」
「ヘッドの、剥がし損ねた糊が剥がれてる音だよ。 こいつを剥がす為には、上に乗るのが一番手っ取り早いんだ。 ほら、ゆっくり足踏みして」
ツジコは、最初の内こそ恐る恐る足踏みをしていたが、やがて生来の調子に乗る癖が出てきて、ダンスでもするかのように矢継ぎ早に足を踏み出した。
「あはっ、何か楽しいですね、これ~!」
ツジコが交互に足を踏む度に、制服のスカートがひらひら舞って、その奥の影が見え隠れする。
アキラは気恥ずかしくなって、思わず目を逸らした。
「お、おい調子に乗るなよ。 破れはしないだろうけど、あんまり無茶すると、せっかくやったチューニングがまた狂っちゃうだろ」
「それは困りますねー、って、ぷぎゃっ!」
「おわっ!?」
案の定、足を踏み外したツジコが、胡坐をかいてそれを見守っていたアキラの方に倒れ掛かってきた。





「――――――――。」
「――――――――。」
ツジコの顔が、目の前にあった。
倒れた拍子に、ツジコの身体がアキラの上に覆い被さった形になる。
衣服を通して、ツジコの肌の温もりが、ふくよかな感触が伝わってきた。
「ツジコ…」
「先輩…」
焦点も合わないような目と鼻の先にあるツジコの顔が、ゆっくりと目を瞑った。
アキラの、思考が停止していた。
その目線が、ツジコの濡れそぼった唇に釘付けになる。
頭の中が真っ白になり、それが本能に刷り込まれていた行動であるかのように、ツジコに引き寄せられる。
鼻腔に届く、甘酸っぱい芳香。
やがて、唇に温かくて柔らかな感触が伝わってきた。
二人の唇が重なる。
―――――――キス。
アキラは、我知らずツジコの身体を引き寄せていた。
ツジコは抵抗する事もなく、身体をアキラに委ねるに任せる。
どれくらいお互いの唇の感触を確かめていたのか。
完全に思考の停滞していたアキラの方に、やがて変化が生じた。
唇の中に、割って入ってくる熱いものがあった。
ツジコの、舌。
それが、アキラの歯茎をゆっくりとなぞると、その奥にあるアキラの舌を見つけて絡め取った。
舌と舌がねっとりと絡み合い、アキラの口腔の中で二人の唾液が混ざり合う。
アキラは、本能には逆らう事が出来ず、思い切りツジコの舌を吸った。
お互いの口腔をなぞりあい、互いの唾液を啜りあう。
一分もその猥らな交接を続けていただろうか。
二人は息苦しくなって、ようやく唇を離した。
離した唇と唇の間に、一条の唾液の糸が垂れる。
二人は、お互いの上気した顔を見つめ合う。
足元にじゃれついて来た子猫は、いつのまにか一人の女の顔になっていた。
「……先輩、私、嘘付いてました。 今日は、両親、帰って来ないんです……」
「ツジコ……?」
「アキラ先輩、好きです。 好きなんです。 中学の吹奏楽部の頃からずっと」
ツジコは、この上無く直接的に、その言葉を口にした。
何の婉曲も、比喩も、詩性もなく。
おそらく、今日の出来事自体が、ツジコが事前に綿密に計画したものだったのだろう。
全ては、アキラに、その感情を伝える為に。
それ故、その言葉には、彼女の万感の想いが込められているのが感じ取れた。
「ちょ、ちょっと待てよ。 ツジコは、僕にとって後輩で、妹みたいな存在で」
我ながら、白々しい台詞だとアキラは思った。
その妹のような存在を相手に、今、性的な欲望を露わにして見せたのは誰だと言うのか。
当然、ツジコも気が付いているはずだ。
今、彼女の太股に当たっている、充血したアキラの逸物の存在に。
「私はアキラ先輩の事、先輩としてと同時に、男性として見てました」
潤んだツジコの瞳。
それは、並の男なら一瞬で篭絡されるような、保護欲を誘う絡惑性を湛えている。
現に、アキラの理性はすでに崩壊の兆しを見せ始めていた。
しかし、その中でアキラの脳裏に浮かんだのは、ツジコではなく別の女性の顔だった。
「気持ちは、その、嬉しいんだけど……」
「先輩にとって、私ってお子様ですか?」
ツジコが、一層強くアキラを抱きしめてくる。
三年前は小学生のように見えたその身体がいかに発育したかが、感触として確かめる事が出来た。
甘ったるい香水の香り。
そう云えばツジコは『エンジェル・ハート』の香りが大好きだったと前に言っていた気がする。
なるほど、香水というのはこういう風に使うのかと否応無く納得させられてしまう程、その効果は絶大だった。
「そ、そんな事は」
「私、もう女ですよ。 アキラ先輩が望むなら、あげてもいい。 アキラ先輩が相手なら、我慢できると思うし」
恥じらいを込めたその台詞は、しかし確かな決意が感じられるものだった。
彼女は、今夜アキラと結ばれる事まで考えていたのだろう。
こうまで女性に尽くされれば男冥利に尽きるというものだが、しかし、アキラは鋼鉄の自尊心でそれに抗う。
「ちょっ、ま、まず一回離れてくれないか」
「駄目です。 アキラ先輩が私とつきあってくれるっていうまで、離しません」
「そんな無茶な」
「観念しないとこうしちゃいますよ」
ツジコは、そう言うなりアキラの首筋に吸い付いてきた。
「うっ」
痛いぐらいの強烈な吸引。
ツジコが唇を離すと、そこには甘いむず痒さと共に、赤いキスマークが出来ていた。
「さぁ先輩。 観念しないと、首筋キスマークだらけにしちゃいますよ。 明日、部でどういう言い訳するつもりですか?」
………駄目だ、こうなると女の方が強い。
状況的に見て、どう考えても悪者になるのはアキラの方だ。
そうなったら、この事態を打破したところで元も子もない。
社会という檻の中では、女に捨て身で突っ込まれたら、男は屈服するしかないのだ。
「ねぇ、だから、ツジコとつきあいましょ? それとも、他に好きな人がいるんですか?」
アキラの耳元で、小悪魔が囁く。
アキラは、その質問の返答に窮した。
それは、アキラの中でまだ明確な答えの無い問いなのだ。
しかし、その答えの萌芽が自分の中に芽生えつつある。
それこそが、ツジコの誘惑に抗する所以なのだ。
「ツジコ、僕は――――――――――」
アキラが、何事かを口にしようとしたその時だった。
ツジコの掌が、ふと、異様な感触を感じ取った。

「え………?」

ツジコがその正体に目を走らせる。
「――――――――!」
今度は、彼女の思考が停止する番だった。
彼女の凝視した“それ”は、咄嗟に見るにはあまりに彼女の常識の範疇を超えていた。
(しまっ――――――――)
アキラは彼女の見た物に気づき動揺するも、時は既に遅しだった。
彼女はもう言い訳の余地も無いほどに、それを目に捉えていた。
――――――――
それは、“異物”を見る目。
かつて、中学のクラスメイトが、吹奏楽部の部員達が自分に向けたものと同じものだった。
それは冷たく、見られる者に鋭利で、畏れに満ちていて―――――――
……どうしようもなく、惨めな気持ちにさせる。
アキラは、ツジコのその視線に、自分の意識が急激に冷めてゆくのを感じた。
マスターベーションの後に訪れるような、唐突な虚無感。
開きかけていた心が、また閉塞してゆく。
ブルータス、お前もか。
ジュリアス・シーザーのその言葉が、アキラの脳裏に浮かんできた。

「………………分かったか、ツジコ。 これが、俺が吹奏楽部で干されてた理由だよ」

ツジコは、まだ放心してそれを見つめたままだった。
アキラは、何故か無性に哀しくなり、同時にいたたまれなさを感じた。
きっとこの少女は今日、想っていた相手との恋を成就させ、その腕に抱かれる幸せな夢を夢想していた筈だ。
何日にも何週間も前からその方法を模索し、勇気を振り絞って今日という日に臨んだ筈だ。
だが、それを今自分は無残に破壊してしまった。
自分は、彼女に想われるような人間ではない。
ユラの言ったように、心の醜い人間なのだ。
幸せな夢を見れると思っていた。
望めばきっと、このツジコのような可愛い女の子と幸せな未来が待ち受けている筈だと考えた事もある。
ああ、だがやはり。
過去は変えられない。
たとえ何人であろうと、過去の呪縛から逃れる事は出来ないのだ。

「………帰るよ。 もう夜も遅いし……」

アキラは、ツジコとは視線を合わせずに、それだけ言って部屋を出た。
彼女は、かける言葉が見つからず、無言でその場で放心し続ける。
やがて、閉じたドアの向こうで、彼女のすすり泣く声が漏れてきた。
















「どうしてだ…………」
ツジコの家を出て、夜道を歩きながら、アキラは自問した。
答えのない、問いかけに。
「どうして俺ばっかりが、いつもこんな目に遭うんだ――――――――」
目の奥が、熱くなった。
血液が煮えたぎっているかのように、身体の奥が熱い。
その熱がどんどん込み上げてきて、やがて瞼から溢れた。
滂沱と、溢れる涙。
「畜生、畜生、畜生………」
アキラは涙を拭いながら、声を殺して泣いた。

無性に『ZAN党』達に会いたかった。
おそらく、自分の苦しみを唯一理解出来る彼らに。
無性に雨宮春輝に会いたかった。
まどろみの中で、自分が好きだと自覚したあの少女に。






       

表紙

牧根句郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha