岩槻城は無事落ちた。
北条軍が包囲していたところ、前々から要請していた援軍が来たのであった。
武田家の内藤昌豊が2000の兵を連れて援軍に馳せ参じた訳である。
もともと兵数に差があった戦いに天秤が大きく傾いた。
結局包囲して30日。大きい戦いもないまま小競り合いが何度かあっただけで岩槻城城主、太田資正は降伏した。
太田資正は太田道灌の曾孫にあたり、道灌に劣らぬ名将である。
扇谷上杉に仕えていたものの、先の戦い河越夜戦で主君上杉朝定が戦死したため援軍も望めず、
いたずらに兵を殺すより降伏をしたのであろう。
これで北条家に武蔵の地で対抗できるような勢力は見当たらなくなった。
この後、一度小田原に戻り二月後武蔵を平定している。
武蔵国は延喜式での格は大国、遠国。
埼玉県と東京の隅田川以東と神奈川県の西北部を合わせた国である。
今の群馬県と同じぐらいの広さだろうか。
広大な関東平野を手に入れた北条家は膨大な兵糧を手に入れたことになる。
この頃は兵の多半数は農民なので、農民がいるということは膨大な田畑もあるということで
兵糧と兵数の二つを手に入れたことになる。
さて、この物語の主人公弥九郎達の目線に移る。
「この屋敷も離れるんですね。名残惜しい気もするな~」
先日岩槻城攻め、武蔵平定戦で活躍のあった、北条氏勝に入間、高麗の2郡を与えられた。
武蔵国は太閤検地のときに66万石の数値を出しており、20郡ほどある。
単純に計算して、66万石を20郡中2郡だから10分の1倍の6.6万石が北条氏勝の領地となった。
あらかじめ言っておくが6.6万石という数字は十分な勢力を持つ武将だ。
武田家の甲斐の国が22万石ということがわかれば、6.6万石という数字が如何に多いかがわかるはずだ。
無論、江戸時代なら大の前に大がつく様な大大名である。
これからは、北条家の北条綱成の配下の北条氏勝ではなく、北条家の北条氏勝となる。
『まぁな。でもそれでも上に従うのが武士よ』
せっせと荷物をまとめ、引越しの準備をする清兵衛はいった。
だよねー。といいながら僕も引越しの準備を手伝った。
北条氏勝はとりあえず、入間郡の入間城山に入城した。
入間城山とは天文14年(1545)から行われた山ノ内、扇谷上杉、足利連合軍による
北条氏の前線拠点川越城奪還戦で山内上杉憲政が川越と小田原の連絡を遮断するために築いたと伝えられてる。
なかなかの堅城である。
しかしどうやら北条氏勝はどうやらこの入間の土地に新しい城を作るようだ。
新しい城を作るときは、自分の案も見てほしいと思っている自分がいた。
昔にはなかった、奇抜なアイディアが現代の自分にはある。
名城といわれたさまざまな城を見てきた。いろいろな城をパソコンで調べた。
姫路城、小田原城、七尾城、一乗谷城、名古屋城、伊賀上野城、松本城、勝瑞城、安土城、春日山城
二本松城、箕輪城、仙台城、岐阜城、駿府城、宇都宮城、二条城、信貴山城
なんたって、僕の夢は自分の城を持つことだった。
いつか大金持ちになったら、自分の城をどこかにつくるんだ。
そう思いながら、毎日寝ていた。
しかし今は違う、自分の城ではないにしろ自分の想像が城になるチャンスである。
引越しして翌日、僕は清兵衛をせかして、北条氏勝に面会を申し出た。
ちなみに太田資正の統率88内藤昌豊の統率82(信長の野望 革新より)