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だらだらと緩やかに続く上り坂を、草薙流子(くさなぎ るこ)は自転車を引きながら歩く。
吐く息が白い。
十二月も半ばにさしかかり、太陽もすっかりと頼り甲斐をなくしてしまった今の時期に外を歩くというのは、恐らく殆どの人間にとって愉快なものではないだろう。
学校を目指し歩く、男子高校生たちが目に入る。
明らかに流子より寒さに強そうな装備をしている。
スカートとソックスの間に風が吹き付けるたび、流子は男子生徒の指定制服に短パンが採用されればいいのに、と思った。
学校の駐輪場に自転車を置き、鍵をかける。かじかんだ手をようやく制服のポケットに入れる事が出来る。
手袋を買えば自転車に乗りながらでも手を冷やさずに済むのだが、あともう少しすれば冬休みに入り、自転車に乗る頻度も減ると思うとわざわざ買うのも馬鹿馬鹿しい。
もし、どうしても手の冷たさが我慢ならないほど気温が低い日が来たら、歩いて登校すれば良い。
学校から流子の家は、同じ学校の生徒の家と比べるとかなり近距離に位置しているので、自転車でも徒歩でも大して移動時間は変わらないのだ。
駐輪場から歩いて自分の教室の前につくまで、流子に話しかける者は居なかった。
はっきり言ってありがたい。
何故か朝というのは、世の中の殆どのものが疎ましく思えてしょうがない。
寒い日は特にそれが顕著だ。今誰かに話しかけられても、不機嫌な調子でしか返答できないだろう。
扉を開き、教室の中に入る。
教室と廊下の境界線を越えると、魔法のように周りの気温が変化した。
教室はヒーターのおかげでとても暖かい。
窓際最後尾の自分の席に腰を落ち着け、背もたれに体重をかけると、まるで一仕事終えた後のような気分になる。
実際に、学校についてしまえば後は暖かい教室内で教師による子守唄を聞き、昼飯を食べ、帰るだけだ。
学校生活の中で一番の大儀は、朝起きて登校することに他ならない、と考える高校生は少なくないのではないか、と流子は思う。
携帯をいじるでもなく、お喋りをするでもなくボーっと窓の外を眺めていると、自分の席の方向へ歩いてくる人物に気がつく。
「やぁ、流子」
佐々木優奈(ささき ゆうな)が、眠たそうな顔をしながら息を漏らすように挨拶の真似事をしてくる。
うん、と軽く頷いて返すと、優奈は流子の机に座った。
ちなみに机に座った、という表現はその机と対になった椅子に座ったという意味でなく、机本体に腰を落ち着けた、という意味である。
普通、いきなり自分の席の机に座られれば驚くし、少なからず邪魔ではあるのだが、優奈が流子の机に座るのがいつの間にか日常となっていたので、流子は特に気にしなかった。
きっと、世の中の大抵のものはこれと同じメカニズムで成り立っている。
流子の机の座り心地が気に入っているのか、窓際で光合成でもしたいのかは知らないが、優奈は休み時間ごとに流子の机に座りにくる。
「なんだか最近、何もないね」
優奈はよく、こういった抽象的な言い方をする。
「いや、少なくとも酸素はあるみたいだよ」
流子は真顔で言った。
「何か変わった事が起きればいいのにね」
変わった事というのは、例えばどんな事だろう?
今日から日本が韓国の領土になるとすれば、それは変わった事だろうか?
「私は起きて欲しくないな」
流子は思ったままの事を口にした。
チャイムがなる。立ち歩いていた生徒達が自分の席に着き始める。
「そっかー、流子は大人だね」
良く分からない事を言うと、優奈は机から降りて、廊下側の自分の席へとすいすい歩いていった。
クラスの担当教師がいつものように教壇側の扉から教室に入ってきた。
あらかじめプログラムされていると思われる挨拶をし、全国で統一されていると思われるホームルームを始める。
優奈が望むような“変わった事”が入り込むような隙は無いように思える。
しかし、それはそのように思えるだけなのだろう。
非日常的な出来事というのは、精密さゆえに起こるバグのようなものなのだろうから。