Neetel Inside 文芸新都
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君の手は僕に触れない
第三話『想い出は傷まない棘』

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 譲たちが通っていた私立上坂高等学校は、偏差値で言えば上の下辺りに位置する男子校だった。
 男子だけ、という閉鎖された環境ならばどこにでもあるものなのだろうか、上坂高校も例に漏れず『そういう』噂がいくつかあった。
 やれ、どこぞの部の先輩は『そういう』人で、顔で選んだ新入部員を片っ端から喰っているとか。
 やれ、生徒会長選挙で当選するためには、前任者に操を捧げて一番良かったものが選ばれるとか。
 どれも男子校なら一つや二つは転がっているような、他愛の無い下世話な噂話だ。
 譲も『そういう』噂をクラスメイトたちに混じって耳にしてはいたが、そんなことが現実に起こっているなどとは蚊ほども考えず、ましてや自分が『そういう』行為の標的になるなどとは想像もしていなかった。
 だから、その言葉も―――
「吉川はさ、俺のことどう思ってる?」
 最初は全く意図が分からなかった。
 確か、夕暮れの図書室。
 一年の頃から同じクラスで友人だった二人が、久しぶりに他の友達と時間が合わずに二人きりで帰ることになった途中、健の申し出で本を借りに寄る事になったのだ。元々村上健は本の虫で、そのこと自体は特に珍しいことでもない。
 銀縁のメガネを指で押し上げながら、本棚に寄り掛かった譲は気にも留めずに質問を質問で返す。
「どう……って、それこそどういう意味だ? 簡潔すぎて話が読めないよ」
「そりゃあ、好きか嫌いかってことだよ」
 本棚の方を向いたまま投げかけられた、そんな意味深なセリフさえ、
「なんだそれ、なんかのドラマのセリフみたいだな」と笑って返していたのだ。
 健は不満そうな顔をする。
「笑うなよ……俺、一応マジメに話してるんだけど」
「マジメってどういう意味? そりゃあどっちかって言ったら好きだけどさ、友達なんだし」
「友達……ね」
 後から思えば、それはどうしようもなく遅かった。
 ダン! と派手な音を立てて打ち付けられる健の手。本棚と健に挟まれて、初めて疑問が頭に押し寄せてくる。
 健の体の後ろに見えたのは、教師でもめったに来ないような専門書の並ぶ棚だ。普段健が読むのは普通の小説だったはずで、こんな図書館の奥にまでは来たことも無かったはずなのに。
 真剣な表情で見下ろしてくる健と目が合う。
 普段笑顔を絶やさないはずの口元はしっかりと引き結ばれていて、無造作に伸ばした細い黒髪が、額に触れそうなほど近くにあった。
「おい……なんだよ、冗談なら寄せって」
 185センチ以上ある健に迫られた譲の声は、思わず震えていた。
 現役で空手部に所属していた譲には、抵抗しようと思えばすることも出来たはずなのに。健の表情にいつのまにか足が竦んでいて―――
「だから、俺、マジメに話してるんだけど」
 うんざりした声で言った健を、思わず見上げてしまった。
「何をマジメにって――んっ―――」
 触れ合ったメガネ同士が、カチャリと音を立てる。
 何が起きているのか把握することが出来なかった譲には、初めて味わう唇に感慨を持つ余裕などあるはずもなく、生理的な嫌悪感よりも友人がこんな行動に出たことに対する疑問が頭の中一杯に渦巻いていた。
 そんな状態の譲が健を振り払ったのは、舌の湿った感触が上唇に触れたから。
「―――っ!」
 首を振り、健の腕を押しのけて本棚の端まで駆ける。健はそれを追わなかった。
 譲の過ちは、そこで完全に逃げてしまわなかったこと。
 疑問が頭の中を占めていた譲はそこに留まってしまった。
「な……んで?」
 口元を袖で拭いながらも、足を止めて訊いてしまった。
「なんでって、言わなくたって分かるだろ? 俺が聞いてるのに要領を得ないような顔してるからさ、行動で示してみたんだよ」
「行動って……お前が俺のことを?」
 好きなのか、と。そんなことを聞いていること自体の非現実さに、別の意味で口元を押さえたくなる。
 健はそんな様子を見て苦笑を顔に浮かべながらも、ゆっくりと譲の方へ一歩を踏み出した。
「そうじゃなきゃ、普通こんなことしないだろ?」
 当然のように告げられる言葉に、譲の肩がびくんと震える。
 目の前の――さっきまで親しげに話していたはずの友人が、まるで別世界の生き物のように異質に見えた。
「そんなに怯えるなよ。本気で嫌なら俺だって何もしないって。ホントだ」
 一歩一歩と近付いてくる健に、しかし譲は逃げ出すことが出来ない。
(本気で嫌なら? 嫌に決まってる、男同士でキスするなんて!)
 友達との会話で『そういう』噂を聞いた時は、いつも話半分で聞いていた。
 自分の友達に『そういう』人間がいるなんて思っても見なかった。
 有り得ないと思っていることだからこそ、笑い話として受け入れることが出来ていた、はずだ。
 でも、話を聞いていた時、自分の中に嫌悪感や抵抗はあっただろうか。
 キスをされている時に飛び退いたのは、舌のびっくりするほどの熱さに何かが反応してしまったからではないのか?
(そんなわけ、あるはずないっ!)
 口元を押さえたまま、心の中だけで自問自答する。
 そうこうしているうちにも、健は足を進めている。元々それほど離れていたわけではない。いつのまにか、健は手を伸ばせばすぐにでも譲を拘束できるだけの距離にまで来ていた。
 譲の足は未だそこに留まったまま動かない。
 健は譲から一歩離れたところで立ち止まった。先ほどのように逃げ道を塞いだりはしないで棒立ちのまま、譲にいつもと変わらない優しい調子で呼びかける。
「……嫌だったら、嫌だって言えよ」
 顎に指がかかり、上を向かせられる。
 譲の口は自らの手で押さえられたままだ。
 だから、この後の展開なんて安易に予想できていたはずなのだ。譲にも、健にも。その上で、譲はその言葉を口にしようとした。
「イ―――」
 口元から放した手はその瞬間に健の手で捉えられ、ようやく解放された口は否定を口にする前に唇で塞がれる。
 そうなることは分かっていた。それは拒絶を装った容認だ。最後まで拒絶の姿勢を崩さないことで、なんとか自分への体裁を整えているだけ。
 唇を割って入り込んできた舌に、今度は自分から応えていた。
 確か、夕暮れの図書室。
 暖房の効いた室内は、差し込んでくる夕日のせいで冬なのに蒸し暑い。片手と唇だけしか触れていないはずなのに、身体はお互いを高め合う熱源のようにどんどんと体温を上げていった。
 湿った紙の匂いを、むせるような汗の臭いが蹂躙していく。
 手を押さえるのを止め、首筋と腰に回る手。それに任せるように自分の腰を押し付けた時、ようやく譲は自覚した。

 自分は、異常者だ―――と。

 それが、村上健と吉川譲の最初で最後の情事だった。

       

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