Neetel Inside 文芸新都
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君の手は僕に触れない
第七話『偶像は届かない蜃気楼』

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 健の家での一件から一ヶ月近くが過ぎ、三月も半ばに入ろうとしていた。
 光一との関係もさすがに落ち着いてきて、今は三日に一回ほどしか会っていない。まぁ、会った時にはすることをしているわけだが、毎日ペースが長続きするほど青臭くはなりきれなかったようだ。
 その日、譲は久しぶりに遠出して街をぶらぶらと歩いていた。
 実家が川崎近くにある譲は、めったなことでは新宿や渋谷など都の中心まで出てくることがない。交通費はかさむし、来る必要もないからだ。買い物をするなら近場で済ませればいい。
 ただ、この日は何となく遠くまで電車に乗りたい気分だった。
 ゴトンゴトンと揺りかごのように揺られ、暖かくなり始めた午前中の日差しを背中に浴びながら呆けていて、つい遠くまで来てしまった。
 せっかくだから、そのついでに買い物でもしよう。そう思っただけ。
 突発的に出てきたので懐具合も芳しくなく、譲は服屋を冷やかしたり、CDショップで試聴だけしてみたり、本屋で文庫本を立ち読みしたりと金を使わない方法でぶらりぶらりと時間を潰す。
 曜日で言えば平日のはずだったが、春休みのせいか街は人で溢れ返っていた。
 休みなのに制服姿の女子高生、春だとしても暑すぎるだろう奇抜な格好に身を包んだ集団、忙しなく時計と信号を交互に見るスーツの中年男性。
 足が疲れたので喫茶店に入る。普段はこういう店に一人で入ったりはしない。というか、できない。ファーストフード店でさえ一人で入るのは躊躇するというのに。
 トートバッグの中から文庫本を取り出した。さっきの本屋で目について買ったのだ。
 学生時代、健から勧められて半ば無理やり貸されたことのある本だった。ぶ厚くて、ハードカバーは移動の時に持ち歩くにも不便で、結局ほとんど読まないで返した。
 買ったのはそれの文庫版。前後巻で並べて置いてあったが、前巻だけを買った。人気あったんだなーと思う。
 ふと時計に目を落とすと三時を回ったところだった。今日もバイトはあるが、夜からだ。まだ時間はそれなりにある。
 ページをめくりながら思い返す。
 学生時代に、健と二人での思い出などほとんど存在しない。映画を見に行ったり、学校帰りに寄り道したり、テスト前の休日に集まって勉強したり。そういったことは大人数でばかりしていた。いや、健がそういうことがあるたびに、周りの人間を手当たり次第に誘っていたのだ。
 唯一の二人での出来事――図書館でのことを思い出して、無意識に唇を噛みしめる。
 今でも……いや、また彼に会ったからこそ、頻繁に思い返してしまう。疑問に思う。
 あれは、なぜ自分だったのか。
 どれだけひいき目で見ても、譲は健のたくさんいた『仲の良い友人』の一人だった。特別二人で心に残る出来事があったわけでもない。きっかけも無かった。自分にあんなことをした、理由が分からない。
 それを聞く機会は、とうの昔に失われてしまったけれど。
 ふと、喉が渇いて傍らのアイスコーヒーを手に取る。結露して張り付いた水滴で掌が濡れる。いつの間にか手に汗を握っていたようで、ぬるい温度の水同士が混じり合って気持ち悪い。
 あいにくハンカチを持っていなかった譲は、どこかカウンターの並びにあるだろう紙ナプキンを探そうと顔を上げて、ふと視線が外に向いた瞬間に静止した。
 健と彼女が、肩を並べて歩いていた。見覚えのある黒いシャツ。フレームレスのメガネ。
 二人の姿は一瞬で雑踏に紛れて見えなくなる。反射的に腰を浮かしてしまうが、冷静に考えて席に戻る。本に目線を戻す。
(いや……違うだろ……)
 そんな偶然など、あるわけがない。一瞬見えた顔はそう思っただけだし、黒いシャツの男性なんて人ごみの中には腐るほどいる。メガネのフレームなど、ここからは見えない。
 大体、本物だったとしてもなんだというのだ。追ってどうなるものでもないではないか。何もできない。何も言えない。
 音を立ててアイスコーヒーをすする。手に付いた水滴は軽く払った後、乱暴にジーンズで拭った。
 最近の自分は重傷だ。そんな風に思う。
 こうして久しぶりに外に出て気分転換をしている最中さえ頭に浮かんでくるなんて、本当にどうかしてる。それほど気になるなら、一回電話してみたらいいのだ。案外、お詫びに食事でも、と言ったらホイホイ来てくれるかもしれない。
 馬鹿な。彼女がいた彼に、一体どんな顔で話ができるというのか。
 もう彼に会うことはない。会うことなどできない。目の前から逃げだしたくせに、合わせる顔など無い。それが独りよがりな加害妄想だったとしても。
 ぐるりぐるりと堂々巡り。結論は譲れない事柄なのに、否定する材料には事欠かない。かといって、それは決定的なものとは程遠い。
 不安定な譲を支えているのは、光一との関係だった。きっとそれさえなくなってしまえば耐えられない。健と会うこともできず、慰めすら無い人生に自分は耐えられないという実感がある。
 文庫本は考え事をしない助けになったのか、喫茶店に思いのほか長居してしまったせいでそこから直接バイトに向かって、帰宅した頃には時計の針が零時近くを指していた。
「……ふぅ」
 ベッドに倒れこむ。シャワーを浴びなくてはと思うのだが、全身の力の抜ける感覚にこのまま眠ってしまいたい衝動に襲われる。
 明日は一日休みのはずだ。光一との約束があったはずだが、このまま寝てしまい朝風呂で済ませることにしようか。
 本気でそう考え始めたとき、椅子にぞんざいに引っかけただけの上着のポケットから、バイブレーションの音が響いた。
 こんな時間に……と心の中で毒づきながらメールだったら無視しようと決めるが、残念なことにバイブの音は鳴り止まない。譲は体を起こしてベッドに腰かけると、上着から携帯を取り出す。
 折りたたみ式の携帯を開くと、知らない番号が表示されていた。一瞬、出ない方がいいのではないかという考えが頭をかすめる。しかし、せっかく起き上ったのだから、という貧乏性のような考えで結局は通話ボタンを押した。
「はい、もしもし?」
「あのー……これって、吉川譲さんの携帯で合ってますか?」
 聞き覚えのある声だった。落ち着いて、沁み渡るような若い女の声。
 あの時と同じ嫌な予感が、相手も同じであると訴えている。それを拒絶したくて、譲は質問に質問で返した。
「どちらさまですか?」
 そして、予感は的中する。最近こんなことばかりだと頭を抱えたくなった。

「一ヶ月ほど前に少しお会いした、村上健くんの彼女ですけど。覚えてますか?」

       

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