夏、過ぎ去ってから
第四話『ヒロイックな出会い:後編』
「や、やばっ……!」
武田がこちらに向かってくる。まずい、まずいよぉ、ここで見つかったら、それこそ死亡フラグ立ちまくりってレベルじゃないわ……。
それはもう自分でも驚くほどの電光石火で逃げる。いや、確かに屋上での二人の密会を覗き見していたわたしが悪いと思うけど、それでもここまで必死に逃げなくてもいいんじゃない。
しかも武田、意外に速いし! もう降りてくる、お、おー! 目の前には男子トイレ! 社会的地位か羞恥心か、そのどちらかを取るって言われれば、そりゃ他人に知られない羞恥心を取るわよ!
……この妙にアンモニア臭が漂う個室でほっと一息。トイレだから仕方が無いとも思うんだけどね、やっぱりその、か弱い乙女からしたら男子トイレというのは一種の無法地帯というか禁断の地というか――。
「――あー、いってぇ。くそっ」
な、ななななんで武田がトイレに来るのよーっ! ……いや、ここは男子トイレだから仕方がないとは思うんだけど、それでも空気読んでよっていうか、落ち着け、落ち着けわたし。わたしが隠れてるのは個室なのよ、息を潜めていれば見つかるはずないじゃない。そう、そうよね、武田は本堂君にこっぴどく殴られていたから、それを冷やしに来ただけなのよ。
ほら、蛇口から流れる水を止めて、今にもトイレから出て行く――。
ガチャ。
「……」
「――――ど、どうも」
バタン。無常にも扉が閉められる。なんでわざわざ個室に、しかもわたしの居る個室を開けるのよ。
しかもまた開けるし!
「お、おはようございます。今日も……い、いー天気ですね」
トイレにわたしの言葉が虚しく響いた。
『ヒロイックな出会い:後編』
「三島早紀さん……」
どうなんだろうな、男子トイレの個室で息を潜める女子って。俺個人としては何も言えないが、とてもじゃないが正気の沙汰ではない、それだけは確かなはず。
「ど、どうしたの? そんな変な顔をして……よ、用が無いならわたしはこれで」
「待て。俺としてもこのまま穏便に事を運びたいと思っているのだが、とりあえず、三島さんは特別な性癖を持ってるのか?」
「そそそそ、そんな性癖無いわよ! 誰が好き好んで男子トイレの個室に入らなきゃいけないのよう!」
……羞恥プレイ? そんな馬鹿な、どこぞのAVじゃあるまいし、現実の学校でそんなことをする奴は居ないだろう。そんじゃなぜなんだ。全くわかんねえ。
「じゃあなんでこんな所に。深く問い詰めたい気持ちでいっぱいだぞ、俺は」
「その、追われてたから……武田に……」
「そうか、武田に追われていたのか。……俺かよ!」
渾身のノリつっこみが男子トイレに響き渡る。
なぜ? 俺が? どこで? いつ? どのようにして? ……5W1Hの内4W1Hを俺に使わせるとは、なんという状況。
とてもじゃないがついていけない。俺にはわかる、この女は佐藤や本堂と同じ感じがする。関わるとトンでもないことになるパターンだ。ただでさえここ数日、ついて行けなくなることが多いんだ。これ以上変なことになってたまるか。
と、気付く。
彼女の名は三島早紀。昨日の屋上で会っている。昨日の屋上、三島早紀、変な誤解、今日の学校、新聞、一人の女子の発言。
……てってってって、ちーん。
「お前が諸悪の根源かぁーッ! 俺の平和な学校生活を返せーッ!!」
「きゃっ、急に怒鳴らないでくださいよー! それになんのことだか、わたしにはさっぱりですよー!」
「いきなり丁寧語になるんじゃねえ! これを見ろ、忘れたとは言わせんぞ!」
バッ、と制服の胸ポケットに押し込んでおいた学校新聞を渡す。彼女は中々受け取らなかったが、しばらく経った後、「あぁ!」と何もかも納得したかのように頷く。
「その新聞のことですね。いや、そもそもその新聞は新聞部部長こと、このわたしが書いたんですよー。今回はかなりの出来だと思ったのですが、いや、予想以上の反響で大満足です」
「諸悪の根源プラス黒幕……。お、お前はなんてことを」
俺のいかりのボルテージがMAXに達しようとする中、それはもう口が裂けても言えないような暴言が俺の口から飛び出そうとしていた時、トイレの扉が開いた。俺が彼女に掴みかかるのと同時に。
「いっぱい泣いてしまった。顔を洗って誤魔化さなきゃ…………おぁーッ! 貴様、武田智和! 何故このような場所にいるのだ!」
「また、厄介なのが……」
突然の来訪者は、言葉から察するにさっきまで泣いていたと思われる本堂だった。とんでもなくバッドなタイミングで現れやがったコイツは、それこそオーバーなリアクションをしたかと思うと、俺を指差しながら固まっている。
対して俺もこの状況に固まるしかなく、双方とてつもない気迫を放ちながら視線を交差させる。
「――ちょ、ちょっと、重いので……どいてくれません?」
「あ」
声がしたので見てみれば、俺と彼女の格好は見る人が見れば俺が強引に押し倒したかのように見えなくもなく、その。
「誤解するなよ本堂。これには理由があるんだ」
俺はこれ以上の面倒を起こさないためにも脊髄反射で理由を話し始める。だが、俺が話しかけているにもかかわらず本堂は固まったまま、こちらを凝視している。
と、今この状況に気付いたかのように急に動き出したかと思うと、
「ふっ、不潔だ! 不潔だぞ武田智和!」
そんなことを言い残して、一目散にトイレから出て行ってしまった。……もう昨日からこんなのばっか。
「あ、すまん。今退く」
「いえ、その、ごめんなさい……」
「へ?」
慌てて三島さんから体を離すと、彼女は何故か謝った。押し倒したことに関しては俺が謝るべきなんだが、なるほど、俺は彼女に百回謝られてもまだ足りないことを思い出す。
「いえ、本堂君に誤解されちゃいましたよね? さっきの場面、見られちゃって」
「なんのことだ」
「ですから、本堂君と武田君って好き合ってるじゃないですか? だから誤解されちゃったのかな……って」
……この女は何を言っているんだ。誤解ってなんだ。俺と本堂が両想いってなんだ。なんなんだコイツ……脳みその螺子が数十本抜け落ちてるんじゃないのか……。
「だから、それは誤解だと昨日――」
「――みんなには秘密にしていたかったんですよね……そんなことも察せずに記事なんかにしちゃって、ごめんなさい!」
キラキラと後悔の涙を流しながら、彼女は男子トイレから走り去って行った。一人残された俺は、もう戻れないところまで来てしまっていたのかもしれない。
鬱々とした気分で教室に戻ると、既に一時限目が始まっており、先生にひどく怒られてしまった。
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全ての授業が終わる。ホームルームが終わった後の騒々しさはいつもと変わらない。……が、武田智和はいつもと少し違う。その視線はただ一点、三島早紀を捉えていた。
今朝の騒ぎから一転、既に武田智和と本堂恵の件は飽きられようとしていた。まるで生徒の全員が熱しやすく冷めやすいB型だと言わんばかりの速さだ。
と、武田智和が動いた。
「三島さん、ちょっと話があるんだけど、いいか?」
ざわ……ざわ……。
いつも通り。いつも通りの帰宅、部活模様を表していたクラスがピタリと止まる。その焦点はもちろん、武田智和。今朝のインパクトは効果絶大だったらしく、なるほど、どうやらマークされていたらしい。
「はへ?」
状況がわかっていない者が一人。つい先程までめくるめく妄想の世界へ旅立っていた三島早紀が、この状況についていけるはずがなかった。
「話がある。屋上に来てくれ」
そう言い残すと、武田智和は教室を出て行った。その後しばらく、三島早紀は呆然とする。慌てて隣の女子に詳細を聞く。
「ね、ねぇ、一体どうしたの? ついていけないんだけど……」
「わたしだってわかんないわよ。今朝のことがあったにも関わらずみんなのいる前で呼び出し……これは、告白ね!」
ざわ……! ざわ……! 沈静するかと思われた教室が、またもや静かな騒々しさを醸し出す。
武田ってのはあれだろ、モーホーなんだろ? ならなんで三島に? わっかんねぇよ。
そんな会話がそこら中から聞こえてくる。
「こ、告白……ッ! わたし、ちょっと屋上に行ってくる!」
何を妄想したのか、他愛も無い女子生徒の言葉を聞いた三島早紀は駆け足で屋上へ向かった。
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「くそっ、まだなのか」
屋上へ呼び出してから既に10分。俺の我慢は限界に達しようとしていた。……それというのも三島早紀、あの女の所為だ。
誤解に誤解を重ねて誤解で勝手に俺の前から立ち去って行った彼女にわかってもらうには、呼び出して何とか詳細を話すしかない、そう思った。
俺が思うに、彼女は重度の夢見る乙女なのだろう。もちろん悪い意味で。一度強く言って理解してもらわないと、話があらぬ方向へ伸びるに違いない。……誰だよ、妄想家と新聞部部長なんていう“混ぜたら危険”な組み合わせを許した奴は。
「お、お待たせしました!」
と、15分が経過しようとしていた頃に彼女は姿を現した。相当の距離を走ってきたのか、息が上がっている。
「待ったぞ。確かに呼び出したのは俺だが、それでも礼儀というかなんというか」
「――武田智和さん!」
「あ?」
これから折角長々と説教を聞かせてやろうと思ったところで、急に話の腰を折られる。見れば彼女の瞳は少女漫画よろしくキラキラと輝いており、その、なんだ、嫌な展開を予想させるには十分な要素と言えた。
「わたしはおっけーです!」
「あぁ?」
「ですから、告白するために呼び出してくれたんですよね」
「……」
さて、状況を整理しよう。俺は三島さんを屋上へ呼び出した。それは彼女がしているだろう誤解を解くためだ。確かに学校の屋上へ呼び出すというのは非常に告白イベントっぽいと思う。否定はしない。……しかしだな、しかしだよ、いきなり人の話の腰を折ってまで何を話すかと思えば“わたしはおっけーです”。推測するに俺の告白を見越して先に返事を言うとか小憎たらしい演出をしようと思ったのだろう。
だ、駄目だコイツ、はやくなんとかしないと……。
「三島さん、告白云々はひとまず置いて、貴女が抱いている誤解を先に解かせてください」
頭が痛くなる展開で何故か丁寧語になっている俺の口調が、この澄み切った青空にひどく似合っていると思った。
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時は十五分ほど遡り。
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「これください!」
バン、と叩きつけるように箱がカウンターに置かれる。暇だったことで驚いたのだろう、店員はお決まりのセールストークを忘れるほど、唖然としてしまった。
「は、はい、こちらが一点で……498円になります」
バン、またもやカウンターに強く叩きつけられるは1000円札。しかし店員は既に慣れたのか、置かれた1000円札を受け取る。その動作は手馴れたもので、熟年の女性である店員はこの店に勤めて長いのだと連想させる。
と。
「――用にラッピングしてください!」
「……はい?」
店員は自分の耳を疑う。おかしい、きっと自分が聞き間違えたのだろう。そうに違いない。
「ですから、――用にラッピングをしてください!」
「……」
聞き間違えではなかった。
この客は何を考えているのだろう、サービス業だというのに店員はそんなことを考えてしまう。
「わ、わかりました」
仕方がなく客の言うとおりにする。おかしい、この客は絶対におかしい。そう思わざるを得ないほど、彼女の発言は突飛……もとい、馬鹿げた内容だ。
「ではお釣りが502円になります。レシートは――」
「お釣りは要りません!」
ラッピングが終わり、いざお釣りを返そうと正面を見れば、いつの間にか消え去っている包装した商品と、その場に残った一陣の風。なぜ店内に風なんて吹くのかという疑問を感じるには、店員は唖然としすぎていたのだ。
まるで台風のようだ、と。一生使うことがないと思っていた比喩表現を、店員はしてしまった。
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そして現在。
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「三島さん、告白云々はひとまず置いて、貴女が抱いている誤解を先に解かせてください」
「誤解? なんの誤解?」
案の定、彼女は全然分かってない。
……誰かが言ってたなぁ、無知は罪なりって。確かに知らないからこそ、こういう暴走じみた行動が出来るわけだ。ううむ、頭が痛い。
「まず一つ、今朝の新聞。あれは間違いだ。俺と本堂はそんな色めいた関係じゃない」
相手に伝わりやすいよう、なるべくゆっくりと要点を述べる。言っておくが馬鹿にしているわけじゃない、親切心からなる口調なんだ。
「そうなんですか。…………それを聞いて納得しました!」
「え?」
てっきり否定するなり落ち込むなりすると思っていたのに、予想外にも彼女は、三島さんはすんなりと納得してしまった。……おかしい、俺の本能が告げている。これは嵐の前触れだと。
「そうですよね、わたしに告白するってことは本堂さんと関係が無いことが前提ですもんね。もし本堂君と関係を持って、尚且つわたしとも関係を持ちたいなんて言う人だったらそれはもうひどい方法で振ってやろうと思っていましたよ。はい、納得しました!」
「あ、その」
「それでですね、ちょっと早いけど」
駄目だ、彼女のペースに巻き込まれたら駄目だ! 話が進まないどころか、断崖絶壁に向かってチキンレースをしているような気分になる。
……俺が頭を悩ませている時、彼女から何かを手渡された。
「――ちょっと早いけど、バレンタインデーのチョコです。時間が無くて、お店で売っていたものだけど、良かったら食べてください」
「…………」
駄目だな、これはチキンレースじゃない。公道でトレノとランエボが爆走しているくらいありえない。
そう、この日差しが眩しい七月初旬、よもやバレンタインデーという言葉を聞くとは、さすがの俺でも思わなかった。
そもそも二月十四日以外に渡したチョコはバレンタインデー用として認められるのか。俺は認めない。確かに生まれてこのかた母親にさえチョコをもらったことがない俺だけれど、この今にもチョコが溶けそうなくらい日差しの強い日に渡されるバレンタインチョコなんて、風情もクソもあったもんじゃない。
とどのつまり、
「お断りだ」
「え?」
「……俺はね、三島さん。君が好きどころか、かなりの苦手意識を持っているんだよ」
全面的に否定するしかなかった。
この展開を予想していなかったのだろう自己完結していた彼女は、まるで魂が抜け去ったかのように呆然としている。見れば手が震えており、その内、コトンと音を立てながら綺麗にラッピングされたチョコが地面に落ちる。それをまるで気にも留めず、彼女はただ虚空を見つめる。
第三者からすると、まるで俺が悪いことをしたように見えるが、ことの真相を知れば100人の内100人が俺の気持ちに同意してくれるだろう。
確かに悪い気はする。どんな経緯だとしても、三島さんは“おっけー”してくれたわけなんだし。……ただ、それとこれとは話が違うんだ。
「まぁ、これが君のしてい“た”二つ目の誤解だ。別に俺は告白しようと思って呼び出したわけじゃない。さっき言った一つ目の誤解を解こうと呼び出しただけなんだ」
これでハッピーエンド。俺が懸念することは佐藤の件一つだけになり、晴れていつもの日常に近い生活に戻れるというわけだ。
「そんなわけで三島さん、さようなら」
沈黙している彼女に背を向け、俺は屋上を後にした。
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