Neetel Inside 文芸新都
表紙

夏、過ぎ去ってから
第十九話『早すぎる。速すぎる。』

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 カリカリと鉛筆の小気味いい音が耳を刺激し、午前の授業特有の気だるさが全身を包む中、俺は真面目に授業を受けている本堂を見つめていた。ノートに一生懸命板書しているその姿を見る限りでは、別に変わった様子の無い、どこにでもいるような高校生。しかし、その実ホモっ気ありの女装癖持ちとくればリータンピンに裏ドラが付いてしまったようなもの。つまりは重量過多であり、一体どこのなにを“解決”すればいいのか、俺には皆目検討もついていなかった。
 ただ、その中でも“佐藤への恋心”が重要だというのはわかる。本堂の異常性癖を解決するにあたり、そのどれをとっても佐藤が絡んでくる。結局はそれが“解決”する対象なのかもしれない。なんせヒントもクソも無いので、全て当てずっぽうの推測なんだけど。
「えー、では、ここまで。42ページは念入りに覚えておけよ」
 チャイムが鳴り、教師がトントンと資料を整え、教室から出て行く。そんな光景を見ながら俺は席を立つ気にもなれず、延々と考えていた。


『早すぎる。速すぎる。』


 気がつけば、昼休み。眠気と霞がかかったような頭を抑えながら、深呼吸。昨日は授業を丸一日屋上でサボっていた所為か、頭が勉強を受け付けなくなっていたみたいだ。
 きょろきょろと周りを見渡して、ふと、一つ疑問に思う。いつもこの時間になれば、内藤が嬉しそうに弁当包みを抱えて、俺のところに持ってきていたものだ。けれど、アイツはもういない。……これも疑問に思うべきだった。クラスのみんなは内藤が消えたことに対して、何の疑問も持っていないのだろうか。それよりも、内藤が消えたということを“知って”いるのだろうか。
 急にあの屈託の無い笑みを浮かべる、わけのわからない姿を思い出し、胸が締め付けられる。この教室で積極的に話しかけてくれる奴は内藤しかいなかったしな……。例えあの女と関係があったとしても、しばらくの間、楽しいと思える時間をくれたことに変わりは無い。それを思うと、何故か悲しくなってしまう。
 そんな思考を振り払うように俺は頭を左右に振り、昼休みになったことで騒がしくなる教室で、うんと伸びをする。……考え事をしていて回りに配慮していなかった所為だろう、ゴン、と。真後ろにいた誰かに握っていた拳をぶつけてしまった。
「あ、ごめん」
「いえ、こちらこそすみません」
 反射的に謝ってから、姿勢を正し後ろを向くと、ぽけーっとした杉林さんが立っていた。……今気付いたけど、そういえば杉林さんも同じクラスだったんだよな。教室じゃ話したことが無いから、すっかり忘れていた。なんというか、いつも屋上でぼーっとしている印象があるんだよね。失礼な話だ。
 杉林さんはこれから昼食を摂りに行こうとしていたのか、いそいそと落としてしまったらしい弁当包みを抱える。居た堪れなくなり、俺も席を立って杉林さんに近づく。
「ほんとごめん。弁当落としちゃったみたいで」
「いいです。ぼーっとしてた私も悪いですし」
「いや、後ろを気にせず伸びをした俺の方が悪い」
「そんなことないです。ふらふらしていた私が悪いんですし」
「俺が悪いから一緒に昼食を食べませんか」
「いいですよ」
 気が済むまでお互いに“悪い”を取り合った後、俺は唐突に昼食のお誘いを杉林さんに投げかけた。即答されたのでちょっと驚いてしまう。……変なやり取りだ。
 まあ、丁度杉林さんに聞きたいこともあったし、俺は先に屋上へ言ってて欲しいということを伝えて、コンビニへ向かうことにした。……なんでかはわからないけど、杉林さんと話してると全部どうでもよくなってくることに気付いた。ううむ、話していてもあまり“違う”ものへの嫌悪感も無かったし。なんでなんだろうな。
 悶々としながら教室を出て、昇降口に着いて、そこで初めて、俺は手持ちが無いことに気付く。ポケットに入れてある軽い財布を意識した途端急に心が寒くなってしまい、俺は体の向きを反転させて屋上へ向かうことにした。



「それでは、昨日の晩から何も口にしてないんですか?」
「まあ、うん。俺のことは気にしなくていいから、どうぞ食べてください。本当に気にしなくていいです。はい」
 さんさんと無慈悲に降り注ぐ日差しから逃げるべく、俺と杉林さんは給水タンクの影に座っていた。俺がここに来た際、何も持っていないことを不思議に思っているだろう杉林さんに懐具合を説明して、たった今納得してもらった次第。
 するすると弁当の包みをほどく杉林さんから目を逸らして――物欲しそうな目で見られたら飯が不味くなるだろう――、俺は仰向けになり、空腹から気を紛らわせようと雲一つ無い空を凝視する。……いくら影にいるとは言っても、太陽の光は容赦なく俺の目を焦がした。
「あー……」
 仕方が無いので横になる。冷たいアスファルトに頬を当てて、暑さをいい具合に中和させる。
 何をやっているのだろうか、俺は。普通に考えてみよう、俺は本堂のことをもっとよく知らなければならない。じゃなきゃ何もしようが無いからな。しかし、現実には杉林さんの隣で空腹に苛みながら寝そべっている。……ダメだな、半日にして俺の気力は限界に達したとでもいうのか。
「いい天気ですね」
「そうだなあ」
 杉林さんの言葉につられて、再度空を見上げようと仰向けになる。いい天気だ。……むう、俺はそんなことを真剣に考えている場合じゃないだろう。
 思い返せば、杉林さんとの昼食はなんだかんだで気持ちが休まる時が多かった。それを踏まえてお誘いしたというのに、無い袖を振ろうとしていた自分に後悔する。……仕方が無い、この機会に杉林さんとも話をしておこう。杉林さん自身のことはもちろん、内藤のことも聞いてみたいし。
 そう思い、勢いを付けて上半身を起き上がらせようとした時、俺の視界に影が映る。それを確認した直後、俺の目に激痛が走った。
「ぎゃー」
「あっ、そのっ、すみません、お腹が空いてると思って、その」
 ……目が見えない。いや、硬い物が俺の目を侵略してきたのはわかる。それはわかる。ただ、目が見えない。痛い。隣で杉林さんがおろおろしながら謝っているが、なんだ、俺になにか恨みでもあるのか。
 理不尽な痛みに対して若干の怒りを感じるも、“お腹が空いていると思って”と、この言葉で収まる。なるほど、つまり弁当の何かを俺に分けてくれようとして、ちょうどいいタイミングで俺が起き上がって、これまた絶妙なポイントに箸があったわけなんだな。多分そうだと思う信じたい。
「だっ、大丈夫ですか? その、今すぐ保健室に――」
 黙りこくってしまった俺を心配してか、杉林さんが立ち上がる気配がする。保健室に行こうとする杉林さんがいるだろうと思われる方向に向かって、俺は手で制する。それとなくジェスチャーで俺は大丈夫的なことを伝えて、深呼吸。まだ涙は止まらないが、痛みは段々と引いてきた。……さすがに目が見えなかったら解決も何も無いからな、大事になっていたらと思うとぞっとする。
「あの、ごめんなさい……」
 涙で濡れた目を乾かすように瞬きをしていると、杉林さんが申し訳なさそうに、再度謝ってきた。痛みも引き、ぼんやりと見えるようになり、安心しながら俺は杉林さんに応える。
「気にしなくていいよ。あれだ、腹を空かせた俺のために何かをくれようとしたのは伝わったから。まあその、自分は食わないのに誘った俺も悪いわけだし、ごめん」
「そんな、私だって――」
「――ここで止めとこう。なんかついさっき同じやり取りをした気がする」
 俺が少し笑いながらそう言うと、杉林さんも思い出したみたいで、二人で控えめに笑ってしまう。……なんか、楽しいなあ。
「武田さん、やっと笑ってくれましたよね」
「え?」
 二人で一通り笑い合うと、落ち着いた杉林さんがそんなことを言ってきた。俺は何を意図してそんなことを言われたのか混乱してしまい、疑問符を付けた一字を言ってから、杉林さんに続きを促す。
「いえその、ここ数日、まるで人が変わったみたいに考え込んでることが多かったじゃないですか。ですから、その、私もそうですけど、早紀さんも心配していたんです」
「そう、だったんだ……」
 遠慮がちに言う杉林さん。俺は返す言葉が見つからなくて、黙り込んでしまう。
 だって、何も言えないじゃないか。俺が武田智和なのには変わりないけど、事実、みんなは違う武田智和と接していたのだから。それは同時に、俺にとってもみんなは違うということでもあって。……どうしようもない現実を突き付けられて、何度目かわからない混乱を覚える。
「まあ、そうだな、最近は色々とあったんだよ。うん」
 なるべく明るく言いながら、俺は笑う。……だと言うのに、杉林さんは“いつか”のように無表情なまま、何も言ってくれない。……俺が“違う”ということに気付くわけがないんだ。そう確信に至ったとしても、“ありえない”という常識の前では何の意味も持たない。けれど、杉林さんの目を見ていると、実は全部知っているのではないかという疑問すら浮かんでしまう。
「……武田さんが無理をしてないんなら、それでいいんです。その、佐藤さんが死んでしまってから、みんな少なからず“無理”をしていると思うので……」
 そう言って表情を曇らせる杉林さんを見て、なるほどと、急に納得してしまう。今、目の前にいる杉林さんがここまで表情豊かになっているのは、佐藤が死んだことと関係していて、さらに“自分も”無理をしているのだと。……そして、俺が俺である以上、“ここ”の俺も佐藤が死んだことで“無理”をしていたんだろうと。
 みんなが“違う”のは当たり前のことなんだと、今になってやっと納得出来た気がする。
「ごめんな、杉林さん。多分俺が少し暗くなったのは、君の言う“無理”に疲れて止めていたからだと思う。だから、もうちょっと待って欲しい。明るく部活が出来るように頑張るから」
「いえ、そんな……私こそ、急にこんなことを言って、すみません」
「別にいいさ。それよりも、弁当、少しわけてくれるならください。お腹が空いて死にそうです」
「すみません、もう無くなってしまいました……」
 ぐう、と。腹の音が虚しく空へ吸い込まれる。
 結局、申し訳なさそうに顔を俯かせる杉林さんをフォローするだけで、今日の昼休みは終わってしまった。



 相も変わらず気温を上昇させている太陽。気休め程度の風。校庭で声を上げる生徒達。開け放たれた窓の向こう、そんな光景を眺めながら、俺は徒然とした授業の内容を右から左へ流していた。
 ……まあなんとかなるだろう、と。昼休みに杉林さんと話してから、成せば成るというなんの根拠も無い考えで部活までの時間を無為に過ごしている。思えばそれは油断以外の何物でもなく、この、何が起こっても不思議ではない状況の中でのそれは、まさに自殺行為と言ってもいい。平和な空気にあてられたのか、俺のやる気が無くなっていたのか、今となってはどうでもいいこと。
 ――――そう、それは、突然起こった。
 板書する気にもなれず、欠伸を漏らしながらクルクルとシャープペンシルを指で回していた時のこと。不意に、外の“気配が無くなった”。
「え?」
 何が起こったのか把握しきれず、先程まで存在していただろう“景色”を見ようと、窓の向こうへ視線を向ける。そこにはただただ黒い色。まるで校舎全体を暗幕で覆ったような。……そうとしか表現しようが無かった。さっきまでBGMと化していた生徒達の掛け声が、グラウンドから消え失せたのだ。あんなにまで暑さを感じさせた日差しが届くこともなく。まるで抜け落ちてしまったかのように。慌てて教室のほうに視線を移して、そこで混乱する。先程まで教鞭を振るっていた教師の姿が無い。さらにクラスメイトの過半数が姿を消していて……そう、最初から居なかったように。
 見れば数人、残っている奴がいた。俺と同じように周りを見渡しては、何が起こったのか把握しようと必死になっている。……三島と、杉林さん。そして、本堂。
 偶然だとは思えない。
「ね、ねえ武田クン、“これ”、何が起こってるのかな……」
 一人では答えが出なかったんだろう、三島が席を立ち、俺の傍に来るなりそんなことを言ってきた。……常識で考えて、同じ状況にいる俺が答えを知っているはずがないと思うんだがな。しかしながら、生憎と下手に知っているがために、俺は答えに窮してしまう。
 他の二人も何かの流れを感じたのか、席を立って俺の傍に来る。……別に全部知っているわけじゃないが、ここで話してしまってもいいのだろうか。この状況も含めて“解決”なんて言われたら、それこそどうしようもなくなってしまう。……視界の端を見れば、影は居ない。そうだ、こんなことが出来るのはあの女くらいしか思い当たらない。と言うより、“こんな”ことが出来る奴がそうそういてもらっては困る。
 視界の住人がいないことを把握して、自分を落ち着かせるように深呼吸、三島の問いに応える。
「いや、俺もわからない。気付いたら、“こう”なっていた」
 俺だけ座っているのも居心地が悪い。席を立ち、窓際に寄りかかる。俺の言葉を聞いて、“そうだよね”と漏らす三島。杉林さん、本堂も同じような反応で。
「それよりも、なんというか……お前ら、冷静なんだな。こんなことになってんのに」
 一様に不安な表情を浮かべながらも、決して泣き叫ぶような反応を見せない三人に、俺は話しかける。……俺が初めて“あの”光景を目の当たりにした時は、何をしていいのかもわからずに一人で怒り狂っていた。だが、三人を見ればそんなことはなく。少しばかりの驚きと感心を抱く。
「そ、そんなこと、ないです。ただ……あまりにも突然すぎて、どうすればいいのか、わからないだけで……」
「そうだな。むしろ、武田にその言葉をそのまま返したい。貴様の口調を聞く限りでは、“慣れ”すら感じるほどだ」
 おどおどと返す杉林さんとは真逆に、本堂が棘を含んだ口調でそんなことを言ってくる。……べつに“慣れ”ているわけじゃあないさ。ただ、知っているだけ。まあ、知っているからこそ、こうして冷静にいられるのだが。そういう意味で言えば、本堂の言っていることに間違いは無い。
 本堂自身、突然の事で混乱しているのだろう。落ち着きの無い挙動で窓の向こうと教室に視線を行き来させている。
「そりゃあ買い被り過ぎだ。俺だって内心は混乱してる。……そう、俺のことはどうでもいい」
 問題はお前らなんだよ、と。言いかけたところで踏み止まる。さっきから考えている通り、無闇に俺の知っていることを話すのは危険すぎる。……これが単なるゲームならいくらでも無鉄砲なことをしてやるさ。しかし、佐藤という目標があり、詳細がわからない手前、下手なことは出来ない。
 この状況で俺はどうすればいい。あの女が言うに、葛藤を“解決”することが俺がやるべき目的だと言っていた。だというのに、この状況。……もし佐藤を消すことで生まれる問題を無くすためにあの女が“ここ”を“調整”したのならば、わざわざ俺以外の人間にこんな非現実的な状況へ巻き込むことへの必要性を感じない。こんなことをするくらいなら、最初から佐藤を死んだことにする必要なんて無いからだ。
 もしかしたら、俺の知らない所での予想していなかった事態なのかもしれない。……女が姿を消しているとは言え、三人がこの場にいる以上、“消し”に来るとは思えないしな。ならばこの状況を起こしている原因を対処している? ……わからない。
 なんにせよ、この三人とはなんら関係無いように思えて仕方が無い。
「わたし達以外にも人がいないか、探してみない? みんながわからないままじっとしているよりは、その方がいいと思う」
「いや、それはどうだろうな。俺達以外に人がいるという確証はどこにも無い。加えて、動き回ることで何らかの危険を被るという可能性も捨てきれないのではないのか」
 三島の案に、本堂がすかさず却下の言葉を吐く。……癪だが、確かに本堂の言う通りだ。俺が知っている事とこの状況、二つが繋がる情報は一切見当たらない。つまり、結局は俺も何も知らないということ。誰が何のために俺達四人を残したのかはわからないが、関係があるとすれば“解決”すべき対象と実行している俺。言わばゲームの登場人物に当てはまる者が残されている、と。……わかるのはこれだけだ。
「とりあえずみんなはここで待っててくれないか。俺が教室の外を見てくる」
「武田さん一人で、ですか?」
「ああ。全員が同じ確立で危険な目に遭うよりかは、よっぽどいいと思う」
 このままでは埒が明かないと、俺は一つの提案をする。心配なのか制止してくる杉林さんには悪いが、俺一人の方が何かと好都合な部分も多い。……そう、俺が一人だとわかれば、あの女が姿を現すかもしれない。それに、間違ったことは言っていない。……みんなは考えているのか、俺の言葉を最後に黙ってしまった。こんな状況だからこそ、身勝手な行動をするわけにはいかず、俺は返事を待つ。
 ……外が黒いにも関わらず、不思議と夜のように視力を奪う暗さは無い教室。依然として耳を刺激するのは近くにいる三人の服が擦れる音だけ。学校という場所では不自然すぎる沈黙が流れる。
「……貴様だけでは心もとない、俺もついていくぞ」
 静か過ぎる所為だろうか、かなりの時間が経ったように思えた。別に急かされているわけではないので、ゆっくり待とうと思っていた矢先、本堂がその沈黙を破ったのだ。
「いや、それは。その、やっぱり女の子二人だけを残すというのも危険じゃないのか。それに、二人の意見も聞かないと」
「わたしは別にいいよ。見る限りここは安全みたいだし」
「私も……教室から出るほうが怖いので……」
 どうにかして一人で出たい俺は二人の返事に期待するも、すっぱりと否定される。予想外にも、三島と杉林さんは本堂の意見を肯定した。……まいったな。
「わかったのなら武田、動くぞ。確かに今は安全に見えるが、この教室もどうなるかはわかったものではない」
「本当に本堂はここで待ってて欲しいのだが」
「なんだ、俺が同行してはまずい理由でもあるのか?」
「……そりゃあ、無い、けど」
 止める俺の言葉も聞かずに、本堂は我先にと教室の外へ出て行ってしまった。俺は三島と杉林さん、二人に目配せして確認すると、駆け足で本堂のことを追いかけた。



「おい、待てって! 本堂!」
 ずんずんと先を行く本堂を、俺は走って追いかける。向こうは早足で歩いているだけだというのに、中々追いつけない。……そうですね、アイツは足が長いですね。俺はお世辞にも長いとは言えませんよね。そもそも俺は運動が得意じゃないですよね。くそ。
 暗いのに見えないわけじゃないという矛盾した状況の中、本堂の後姿を見失うことはなくとも追いつけず。第一、アイツが何故率先して動いているのか。行き先は決まっているのか。その辺りが全くわからない。本堂が余計な口出しをしなければ、今頃、あの女が出てきていたかもしれないというのに。
 本堂が階段を昇る。遅れて、俺も昇り始める。ここまで走ってきたが、生徒や教師の姿は一つも見当たらなかった。やはり、あの女が関係しているとしか思えない。
 だとすれば、だ。……杉林さんはともかく、本堂に関しては何も解決していない。本堂が佐藤のように消されることはないだろう。……本堂は放っておいて、俺は杉林さんの傍にいるべきではないのか。階段を上りきって、本堂の姿を確認できなかった俺は、そうするべきだと自分に言い聞かせる。
「――本当にそれでいいのかな、武田智和」
「……!?」
 不意に、背後にある階段から話しかけられる。振り向けば、あの女が立っていた。夏だというのにクソ暑そうな服、杉林さんとはまた違った“なにを考えているのかわからない”目。見間違えるはずはない。
 そもそもこんな状況で、こんな人の神経を逆なでする声で、こんな非常識な現れ方をする奴は一人しか知らない。
「予想通り現れてくれたな、この野郎。今起こっていることをちゃんと説明してもらおうか」
 開口一番に喧嘩を売る俺は、間髪いれずに疑問を口にする。やれやれといった風に女は首を振ると、俺の悪態を無視し、口を開く。
「慌てるな。これは私も予想だにしていなかった……そう、イレギュラーというやつだ。全てを話すことは出来ないが、もうじきこの状況は改善されることだろう」
 人を苛立たせるように過剰なボディランゲージを交え、女は応えた。いつかの俺を見ているようで、どうしようもなく腹が立つ。
「話されないことにはもう慣れたさ。それより、みんなは安全なんだろうな。俺はまだ何も解決していないぞ」
 教室に残っている二人が気になる。本堂は腐っても男だし、一人でもなんとかなりそうな感じはするが、女の子二人というのは安心できない。
 階段の踊り場に立つ女を見下ろす形で、俺は返事を待つ。
「……申し訳ないのだが、安全は保障できない。今、この場は私の管理下ではないのでね。先に言うべきことだったが、私が今こうして武田智和と話している間にも、彼女達や彼は危険に晒されていると言って
もいいだろう」
「なっ、じゃあこんなところで俺に姿を見せている暇があったら――!」
「私の姿を見たかったのだろう?」
 …………待て。待てよ。よく考えろ。見落とすな。あまりに自然な流れで気付かなかったが、コイツは、もしかしなくとも俺の考えていることがわかるのか? 口に出した覚えはない。口に出してどうにかなる問題ではないということを、俺自身がよくわかっているからだ。
 思えば“視界の端”に住み着いているということもおかしいんじゃないのか。校内でも見えている時はあったのに、騒ぎにはなっていなかった。つまり、俺にしか見えていないということ。……目ではなく、俺の頭、ということなのか。
「半分正解とでも答えればいいのかな」
「……プライバシーもクソもあったもんじゃないな」
「私は観察する必要があるのさ。ただ武田智和が解決する様を見ているだけではない、その心理状況や感情の揺れなども全て記録している。……さあ、考えたまえ。武田智和はどうするのだ、この状況を。私を。そして、答えるんだ」
 考えろ。観察だろうが記録だろうが、俺に害はない。多少の羞恥心は芽生えるというものだが、こんな時だ、気にしなければいいだろう。とにかく、言葉通り“何でも”出来るような奴が危険というからには、相当のことなんだろう。依然として俺は何も知らされていない。ならば、まずはこの女に安全を確保してもらわなければならない。
 女の向き質な目を見据えて、ささやかな仕返し、答えを頭で思い描く前に声を出した。
「さっき言ったとおり、危険だとわかってるのなら早く安全にしろ。お前だって“解決”してほしいのなら、その対象が、その、なくなるのは避けたいはずだ」
「その通りなのだがね、武田智和。私は一人だ」
「だからなんだよ」
「つまりはだ、私には“彼女達”と“彼”の両方を守ることが出来ないということさ。それくらい、わかるだろう?」
 女は動かない。じっと、俺のほうを無言で見つめているだけ。
 ……そうか。この女は、俺に選べと、そう言いたいのか。杉林さんと三島、それに本堂。二人か一人、どちらかを選べと。……最初から、この女はこの選択をさせるがためだけに現れたと、そう考えてもいいだろう。なんせ、俺の考えや感情を記録しているなんて言うくらいだ、そう考えたほうが納得がいく。
 おおかた、その選択で葛藤する様を見たかったのだろう。……だが、俺はその選択に関して、少しも悩んではいなかった。俺が悩むことを期待して投げかけたのならお生憎様、いや、今まで記録していたのなら誰にでもわかることだ。……俺は本堂を好いていない。そんなことくらい、“見てきた”のならわかるだろう?
 思えば、これは二度同じことを伝えることになるんだよな。間抜けな話だ。
「俺の考えていることがわかるのなら、さっさと動いたらどうなんだよ。無駄なことはしたくない」
「……答えるんだ、武田智和」
「っ! 杉林さん達が危険に晒されているのなら、さっさと助けに行けよ! 向こうは二人、対して本堂は一人、被害は少ないほうがいいだろうが!」
 俺が言い終わるか終わらないか、瞬きする暇も与えずに、女は目の前から姿を消した。残ったのは、行き場のない怒りと、何故か後悔。……なんでだよ。
 もうそんなことは考えないようにと思っていたのに、現状を取り巻く“理不尽”に挫けそうになる。何故俺がこんなことをさせられて、何故佐藤が消えてしまって、何故俺の知らない場所に俺はいて、何故内藤はいなくなって、何故学校はこんなことになっている。何故、こんな悪い夢のようなことが次々と起こる。
 ……一通り心の中で“弱音”を連ねて、深呼吸。言ってみれば、それらを“解決”するために、俺は動いているんだろう。
 心の内で弱音を吐露し尽くし、落ち着いた俺は目の前で続いている廊下の先を見つめる。……中途半端に止まるわけにはいかない。そう、“解決”しなければならないんだ。それは本堂も例外じゃない。あの女が杉林さん達のほうに向かったのなら、俺はこの廊下を進むべきではないのか。それが最善で、且つ今俺に唯一出来ることのはず。
 階段を背にして、面倒なことを考え始めない内に、俺は廊下を全速力で走り始めた。



 事実、俺は嫌な奴でも助けたいと、本気で思っていた。いや、思っている。
 たとえホモで嫉妬しやすく、口よりも手を出すほうが速く、変に人を勘ぐる奴でも。だとしても、意味は違えど同じ相手にひかれていた奴。何度か心の内に秘めたことを言い合った奴。
「くそ……くそ……!」
 陰鬱とした空気が流れる廊下。その曲がり角で、目を瞑ってしまうくらいの強烈な光が何度もちらつく。床を見ればその度に伸びる黒い影。……予感はしていた。だからこそ、俺は残った二人を優先したいと思っていた。だが、“しこり”が残る。
 まだ何もアイツのことは知らない。今日になって初めて、アイツのことが少しわかったと思う。手ごたえがあったんだ。これからゆっくりと、夏休みの間に“解決”しようと、そんな悠長なことさえ考えていた。
「本堂!」
 廊下の先、曲がり角で俺を待っていたものは、何も無かった。息を切らして、肩を上下させて、体を支えるように膝に手を突き。荒い呼吸音が響くだけ。
 辺りを見回しても、暗い階段が目に付くだけ。さっきまで頻繁に光っていたのはなんだったのか。それが嘘のように何も変わっていない、暗い場所。……ふと、床に見覚えのあるものが落ちていた。
「これは……?」
 手に取って、間近で見て、初めて記憶を刺激する。それくらいに俺はアイツのことを見ていなかったと言われているようで、胸が締め付けられる。……本堂のメガネだった。初めて見たとき、絶対にコイツはがり勉キャラのハカセ君だと俺に思わせた、太いフレームのそれ。
 涙は出ない。そりゃあそうだ、俺はこうなってもいいと思っていたのだから。むしろ、“解決”する際に最も面倒な奴が勝手に消えてくれたんだ、誰かは知らないが感謝の念すら覚える。
 ――ここまで理屈で抑え付けようとしても、震える手は止まらなかった。胸は相も変わらず締め付けられている。感情が奮い立つ。
「遅かったようだな」
 背後でさっきも聞いた声が廊下に響く。沈黙したまま振り返ると、もう見慣れた一人の影。……佐藤の時はコイツに行き場の無い感情をぶつけていればよかった。ほんの少しでも楽になったさ。でも、わかってしまう。コイツじゃない。
 そうやって目を放している隙に、手に持っていたメガネから閃光が迸り、一瞬の内に俺の手は宙を掴んでいた。……何も考えないまま、口を開く。
「なあ、なんなんだよ。お前は俺に“解決”して欲しいと言ったはずじゃないか。なあ、本堂が消えたぞ」
「そうだな」
「……どうするんだよ。俺は、何をしたらいいんだ」
「聞かないのか? 先程のように。今を取り巻く状況を、“誰が”本堂恵を消したのかを」
「聞いたって答えないだろ。もうお前との言葉遊びはこりごりなんだ、どうしたら本堂を戻してくれるのか、さっさとその条件を言ってくれ」
 段々と苛立ちを隠しきれなくなってきた俺は、棘を含んだ口調で女を問いただす。しかし、女は答えない。無機質だと思っていた目には、いつの間にか憐憫の光が灯っている。
 堪らなくなり、俺は女のローブを乱暴に掴んで引き寄せる。お互いが黙ったまま、俺は怒りを露に女を見つめて、女は俺から目をそらす。……予感はしていた。
「……本堂恵は、私達の管轄外で消えた。つまりだ、武田智和。私達では本堂恵を“戻す”ことは出来ないということだよ」
「なにを……」
「いいか、この場所は先程も言った通り、私の管轄外だ。言うなれば国が違うんだよ。ここでは私の理屈は通じない」
 そのまま、わけのわからないことを女が喋っていた。元々非常識なことを語っていたんだ、わけがわからないのも当然だろう。そのわけがわからない口車に乗せられて、俺は動いていた。わけのわからない方法で佐藤が消されたからだ。
 当然俺は理解出来ていない。しかし、それはこの女もわかっていることだろう。なんせ俺の考えていることがわかるのだから。……だというのに、女は喋ることを止めない。口調は冷静なのに、まくしたてるような。まるで、焦っているように。
「……わかった。理解はしてないが、わかった。お前が焦っているということがよくわかった。だから、お前が落ち着いてくれないと困る。この状況をなんとか出来るのはお前だけなんだからな。……俺がわかる程度に、どうやったらこの状況を終わらせることが出来るのか、説明してくれ」
 よく、目の前の人間がパニックを起こしていると、逆に自分は冷静になると聞く。現に、それは正しかった。怒りも焦りも落ち着いた俺は、ローブから手を離す。そのまま女は少し後ずさり、俺の言葉を否定することもなく、無機質な瞳を床に向けた。考えているんだろう。
 何より冷静になった俺は、今も教室に残されているだろう二人が心配だった。
「――心配はない。二人は安全だ」
 二人をどうするか考えようとした瞬間、女がいつも通りの風貌で俺を見つめながら答えを言った。
「……じゃあ、心配無いんだろうな。それで、説明してくれる気になったのか?」
「もはや計画は変更するしかないだろう。まさかアメミットの連中がここを嗅ぎ付けているとは思わなかったからな。……結論から言わせてもらえば、武田智和、最終的に君を“起こす”」
「待て、そのアメミットってのはなんだ。それに“起こす”ってのは」
「事細かに説明している暇はない。とにかく、武田智和は教室に戻り、三島早紀、杉林心両名を“消してもらう”」
 わけがわからない。
「待て」
「手順はこれから説明する。とにかく、今はこの方法しか――」
「――待てって言ってるだろうが! なんだそれ、なんで俺が二人を消さなくちゃいけないんだよ! 逆だろ? 佐藤と本堂を」
 ずい、と。俺の言葉に応えることなく、女が手を俺に突き出した。手には、見たこともない球状の物体。
「使い方は簡単だ。対象に向けたら、中央の突起を押すだけでいい。それで終わる」
 女が背を向ける。俺は慌てて女の肩を掴んだはずなのに、もう、姿を消していた。……吸い込まれるような暗さがまとわりつく廊下に――何度目だろうか――、残ったのは俺一人。手には妙に持ちやすい球が一つ。
 何もかも、はやすぎる。





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