夏、過ぎ去ってから
第二十二話『結果から答えへ:杉林心』
やってしまえば、それはどうしようもなく淡白な出来事だった。屋上に一人残された俺は、そうすることが自然なようにフェンスから手を離して、そのまま仰向けに倒れる。
空が黒い。いつか見た空は濃すぎるほどの青で、そこに一筋の飛行機雲。夏らしく、遠くには入道雲が居座っていて。……佐藤に面倒なことを告白されたのはここだった。本堂に初めて殴られたのもここ。三島と出合った時もここ。三島と本堂、それに佐藤と部活を作ろうだなんて言ってたこともあった。杉林さんと一緒に昼飯を食べたこともあった。
――ここは、現実なんだろうか。
目を瞑る。瞼と黒い空の境界が曖昧になって、いつの間にか俺の視覚には過ぎ去った日々の光景が映し出されていた。
こんな俺に“おっけーです”と言ってくれた三島。面識なんてほとんどなかったのに何故か一緒に登校してしまう本堂。俺の嫌な噂を聞いても普通に接してくれていた杉林さん。俺が憧れて止まなかった、主人公然とした佐藤。
みんな、俺にとってかけがえのない奴らなんだ。
今になってそんなことを思い出すのは、ここがあまりにも非現実じみていて、もしかしたらもう自分は死んでいるんじゃないかと考えてしまうからなのかもしれない。じゃあこんな状況じゃなかったら、みんなのことは考えなかったのか? そうじゃなかったよな。“葛藤”だとか“解決”だとか、わけのわからないものを知る前にも、俺はみんなのことを考えていた。そう、出会った時から、俺は既に振り回されながらも考えていたんだ。“解決”するためじゃない、認めたくない時もあったけど、俺はみんなのために考えていたんだ。
「は、はは」
乾いた笑いが漏れる。そりゃあそうだ、そんな俺が三島を消したんだから。自分だけがこの黒い場所から逃れるために、視界に住み着いていた見知らぬ女の言うことを鵜呑みにして。
結局、冷静を欠いてしまえば人は自分を最優先にしてしまうんだ。そして、こうやって“人”という括りをつけて、他と比べながら言い訳を作る。みんなのことをどれだけ大切に思っていたとしても俺は、“自分本位で他人のことを考えない武田智和”は、自分を最優先に考えてしまうわけだ。……だから、悲しくはない。目頭が熱いのはすぐに収まる。……三島を自分の手で消したというのに、薄情な奴。そんな自分を傍観していれば、楽なんだよ。
そうだ。ここで寝転がっている暇はない。あと一人、杉林さんを消せば、この悪夢は終わる。
「消したんですか?」
意を決して起き上がろうとした時、その声は聞こえた。上――扉の方から聞こえた声は、間違いなく杉林さんの声だ。……何も言わずに置いてきてしまったんだ、ついて来ていたとしても不思議じゃない。
「ああ……」
半ば自棄になっていたんだろう。俺は、正直に肯定の意を吐くことしかできなかった。
『結果から答えへ:杉林心』
起き上がる気は、とうに失せていた。だってそうだろう、捜しに行かなくとも杉林さんはここにいる。“消した”ということが前提でここにいるのだから、三島のように逃げることはないだろう。……だからこそ、俺は杉林さんの考えていることがよくわからなかった。
さっきの一言は俺の話を信じたからこその言葉だ。ということは、杉林さんは俺に消されることをわかりながらもここに来たということになる。自殺にも等しい行為だ。
ここにいる杉林さんは、“俺が思い出していた杉林さん”じゃない。佐藤のために無理な笑顔を作るくらいの強さは持っている。だから、わからない。今も無言で立っているだろう彼女はまるで、“自分も消せ”と言っているような気がしたから。
頭が朦朧としている。現実と非現実、俺の中では既にその区別をすることが出来そうにない。どれだけ考えても、俺にはこの状況を説明することは出来ないからだ。考えるだけ無駄。考えることをやめたい。そんな、不安定なものを俺は抱えているというのに、杉林さんはいつかのように俺の隣に座った。予想外の行動に俺は懐かしさを覚えると共に、どう反応していいか困ってしまう。そんな俺を見透かしたかのように、杉林さんは口を開いた。
「ここは、現実なんでしょうか」
風は吹かない。首を曲げ、杉林さんを見れば、ウェーブのかかった栗色の髪は重力に引かれるまま、屋上の地面に擦り付けられている。……現実であるはずがない。それは考えなくてもわかる事実だった。
だけど。
「現実じゃなかったとして、じゃあ、ここにいる俺たちはなんなんだよ」
現実を否定することは簡単だ。“ここ”に来た時から、俺はずっと否定し続けているのだから。でも、それじゃあ俺も現実じゃないことになってしまう。
今まで考えたくなかったことだ。結局のところ、俺がここにいる時点でここが現実ということを。
「こんな哲学的なことを話している場合じゃないだろ。わかると思うけど、俺は三島を消した。次は杉林さんだ。なのに、なんでわざわざ消されに来るようなことを」
沈黙を守る杉林さんに、俺は続けざまに語りかける。そうしながら、右手に持つ球体を強く握り締めた。そう、今ボタンを押せば、確実に消せる。それで終わる。……そう思うのに、俺は杉林さんが応えることを待っていた。
これで最後という余裕があるのかもしれない。それに、いつかのように宙ぶらりんな会話を楽しみたい、そんな場違いなことも思っている。
「消してもらうことを望んでいるとしたら、どうですか?」
「……なんで」
「私にとって、どこも変わらないからですよ」
いつの間にか俺は上半身を起こし、杉林さんの顔を見つめていた。そこに、“ここ”の杉林さんのような強さは見られない。無表情で呆けたような、何を見ているのかもわからない。俺の記憶に強く焼きついたままの彼女だ。
……杉林さんは、本当に強くなっていたんだろうか。そんな疑問が胸に芽生え始めた頃、杉林さんは話し始める。
「父は世界一のシェアを誇る車メーカーの社長なんです。その娘である私は、生まれた瞬間から全てを手に入れていました。優しい母、仕事で忙しくも私を気にかけてくれる父。義務教育に身を任せ始めて、親しい友人が何人も出来ました。そこには何の不便も無く、苦痛も無いんです」
いつか三島に聞いたことがある。杉林さんは有名な車メーカー、SUGIBAYASHIの社長、その娘だと。話に聞く限り、とても恵まれた環境に思える。けれども、三島が話していた通りならこんなにも恵まれているのに、杉林さんは留年することになる。
話が長くなりそうなことを少し嬉しく思う。三島のように流されるまま消すのではなく、せめて、自分で決断して消したい。完全に自己満足だけど、それが許されるなら、そうしたい。
「いつからでしょうか、私は自分を取り巻く現実がとても希薄なものに思えてきたんですよ。何をしても褒められ、何を言っても喜ばれ。ある種のテンプレートに則って返されたような言葉を聞き続けている内に、自分以外の全てが“薄く”見えてしまう」
「……それは、贅沢なんじゃないのか。世の中にはそれを望む人が大勢いる」
「それは、わかっていました。でも、私はもっと贅沢者だったんです。……きっかけはほんの些細なこと、ある日、私は自分の手首を切りました」
リストカット。自殺するためではなく、自分を傷つけるために行う“それ”。そんな、いつか保険の授業で習ったような言葉が頭に浮かんだ。次いで杉林さんの手首に視線を移すが、傷跡は見当たらない。……話を聞こう。
「高校に入ったばかりの時です。女子高に入学した私は、義務教育が終わっても周りの環境が変わらないことに幻滅していました。そして、今まで感じることが出来なかった“苦痛”というものを、自分で自分に与えてみようと思ったんです」
淡々とした口調。しかし、そんなことを大して親しくもない俺に対して話すという状況は、今までにない重さを感じる。……遺言、とでも言うのか。杉林さんを見てきた限り、この話を誰にでも話すとは思えない。最後だから誰かに聞いて欲しい、そんなところか。
冷めた気持ちで杉林さんの言葉を聞きながらも、俺は考えてしまう。どこか懐かしい行動。今日はまだ半分も過ぎていないのに、屋上で見る懐かしい青空を思い出しながら、俺は考える。
「でも、肉体的な痛みなんて結局は刹那的なものでした。その日から過保護な親は私を臨床心理士に押し付けて、心の治療をしてもらおうと躍起になって、それは今も続いてます。もうそんなこと、する気もないのに」
杉林さんは感情のこもっていない瞳で自分の手首を見つめる。
そうか、杉林さんは最初から、俺たちのことなんて見ていなかったんだ。何も見ていない。いつかの放課後で一人残っていたのも、的の射ない会話も、全部そういうことだったんだ。
今までのことに納得の行く理由をもらい、俺はまた空を見上げるよう仰向けになる。……バカらしいな。
「くだらねえ。ご大層な理由を付けるのは構わないけどな、結局、杉林さんは構って欲しいだけじゃないか」
「そう、ですね。簡単に言ってしまえば、それだけのことです。……だから私は、武田さんに惹かれていたのかもしれませんね」
「どういうことだよ」
杉林さんが既視感を覚える目で俺を見ていた。いつだったか、杉林さんに“人に依存しろ”と言った時に向けられた目だ。それを突き放すように、俺は口調を荒くしながら問いかけた。そんな口調に嫌な顔をするわけでもなく、杉林さんが答えようと口を開く。――その時、不意に金属が擦れる音が耳に届いた。屋上の扉が開いた音だろう。
……おい、待てよ。この校舎には、もう俺と杉林さんしかいないはずだろう。風すら吹いていないんだ、扉が開くはずない。――いや、いるじゃないか。非現実を表したような奴らが。
体を起こして、振り返る。その前に、声が聞こえた。
「――おやおやあ、とっくに消去《デリート》を終えていたと思っていたんですがねえ、どうやら武田智和は相当なお人よしらしい」
「お前は……!」
振り向き、その姿を確認した俺は、反射的に杉林さんを庇うように前へ出ていた。……ついさっき教室で会った仮面の男。“気にするな”なんて女の言葉を信用した俺がバカだった。全然抑えられていないじゃないか。
焦る俺に対して、男は仮面の向こう側から人を小馬鹿にしたような笑い声を響かせる。
「ひゃへへへ、私も運がいい。これでコールマン様に叱られずに済むというものです。――おっと、そこを動かないでくださいよ。ひとまず貴方の後ろにいるメモリアを回収させていただきますからね」
わけのわからないことを言いながら、男はローブに隠れた腕を現す。色素が薄く、所々の皮膚が剥がれた醜い腕。やけに長い指が持つ“それ”は、見覚えがあった。
「俺が持っている物と、同じ物か」
「ええ、マネージメント・デバイスと言うのですがね、いやあ、あの女が持っていなくて助かりましたよ」
マネージメント・デバイス。そう呼ばれた物は、俺の右手にも握られていた。……これを使えば、あの男を消せるかもしれない。そう考え右手を動かした時。
「おかしなことを考えないでくださいよ。貴方が私に右手を向け終わる前に、私は貴方を消せるのですからねえ」
文字通り目の前に、鈍色の光を放つマネージメント・デバイスがあった。俺が瞬きする一瞬で、男の仮面に付いた傷を見分けられるほどまでに近付いていたってことか。……佐藤が消えた日、女は俺の目の前で瞬間移動じみたことをやってのけたことを思い出す。同じような奴らだとは思ったが、こうまでとは。
どうしようもない。ゆっくりと体を離す男を見ながら、俺は諦めるしかなかった。こいつらは理不尽すぎる存在なんだと、前と同じように諦めの気持ちが溢れる。もう、わけのわからないことを考えたくはない。
「――武田さん、私を、消してください」
そうして諦めかけた時、後ろから聞こえた声は、もっとわけがわからなかった。
「俺が消さなくても、そいつが消すだろ」
間、髪入れずに応えると、杉林さんではなく、少し距離をとった男が応える。
「少し意味合いが違いますが、その通りですねえ。ですが、もうちょっと待ってくださいね、メモリア用にデバイスを調整しますので。いやはや、久しぶりですよ、こんなに楽しく“会話”出来るのは。ひゃへへ、へへ」
男は笑いながら、マネージメント・デバイスを弄り始めた。それを見てか、杉林さんが後ろから俺の服を掴む。……動くなといわれてる以上、振り返るわけにはいかない。俺は男を凝視したまま口を開く。
「だから、さっきから言っているように」
「お願いします。もう、終わらせてください」
聞く耳を持たないとはこのことだ。俺が喋り終わる前に、杉林さんが切実な声で俺に消せと言う。
確かにマネージメント・デバイスを少し後ろに向け、ボタンを押すだけで終わる。消すことは簡単だ。だからって、そんな簡単なことじゃないだろう。人を一人消すんだぞ。三島のように、あっけなく消えてしまう。
……俺は結局どうしたいんだ。消せる、消そうと思う。だけど躊躇してしまう。そうだ、三島を消したのだって不可抗力だ。本当は消そうだなんて、思って、思っていた。……考えがまとまらない。結局、俺はまた流されるまま消さなきゃいけないのかよ。
「武田さん。私は、気にしませんから」
そっと、右手に温かいものが触れた。それが後ろから伸ばされた杉林さんの手だと気付いた時、ゆっくりと、俺の右腕が動いた。いや、動かされていた。
「……なんのつもりだよ。自殺願望も大概にしろ」
「そんなものじゃありません。ただ、あの人に消されるくらいなら、武田さんに消されたい、そう思っただけです」
そう言って、杉林さんは俺の右腕を引き寄せる。その力は思っていた以上に強くて、考えてしまった。……理不尽なんだ、なにもかも。俺達は普通の学生だってのに、こんな、今時の三流映画でもやらない陳腐な決断をさせられている。
杉林さんは既に諦めているんだろう。自分が何をしてもこの状況は変わらない、と。それは俺も同じだ。何をやろうが、変わるとは思えない。既に俺たち“が”常識の手助けが無い所に立っているのだから。どこまで考えたとしても、行き着く先は“無駄”という一言の答えのみ。……だから、せめて俺の我侭に、付き合ってもらいたい。
何も言わずに杉林さんは俺の右手を握っている。俺は、それを振り払った。
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