神は死んだ。
しかし既にその価値観は浸透しつつある。
科学の力によって素粒子までも暴きつつあるこの世界には、
永劫回帰の調が響き渡り、誰もが二度と同じ調の上で踊るのだ。
それにしても幼女パンツは良い物である。なぜだろうか?
この黄色い染みと、ほのかな酸味が混じる香りの広がりは、
まるで文明を築き上げた河川の様に雄大で母性に溢れている。
仮に、この幼女パンツを河川と仮定し、文明は発達するのか?
するのだ。私には確信できる。この素晴らしい幼女パンツならば。
芸術というのは、人の生に必ず寄り添ってきた。
まるで我々を見守る親の様であり、教えるべき子の様でもある。
言葉おぼつかぬ原始の時代ですら既に絵画の文化は開花しているのだ。
そう考えれば、この幼女パンツという芸術を種としてまけば、
必ずやその種は地に根は張り、空に枝と草は生え張るのだ。
ここで言っておきたい事がある。幼女ブラはありなのだろうか?
幼女といえば、個人差があるとは言え、その絶壁とも呼べる胸、
要するにツルペタが非常に重要になってくる訳である。
そもそも幼女と呼べるのは小学校高学年、学者によっては、
低学年、またはそれ以下とも言える年齢の少女だという論がある。
少女は中学生になるとブラを付ける、これは当たり前である。
しかし、小学校高学年でも異常な発達を遂げ、周囲の好奇の目にさらされる、
巨大な脂肪胸を育て上げる者が居るのも事実だ。
乳首の痛みに耐える姿や、巨大な胸に恥じらいを感じる恥辱。
それらも捨てがたい。非常に取捨の難しい問題と言えるだろう。
そして次いでとして言えるのは、ここでロリ巨乳が立証されたのだ。
それは小学校高学年にて早期に発育期に入る幼女を指す。
さて、話は戻るが、ここに来て重大な失態が私にある事を認めよう。
そう、ロリ巨乳の弱点、そこにあるのは、陰毛の発育なのだ。
この陰毛論に関しては、とかくして無毛派の推進が目覚しい。
その昏倒振りは産毛一本も許さぬと言うほどのものであるのだから。
ここで一度、話を纏め、例を挙げるとしよう。
全能の神の父であるクロノスは、己の地位を奪われる恐怖から我が子を喰らう。
しかし母レアはゼウスの変わりに石を飲み込ませ、騙したのだ。
ゼウスは勇敢に成長し、後に兄弟を救い上げ、父クロノスを倒す。
幼い我が子までを食らうこの残酷な話のどこに幼女パンツとの一致性があるのか?
女であるレアに対し、欲情を感じろなどと言う事は無い。
最も言えるのは、既に我が文章に表れているという事だ。
高みにのぼれば君たちにもその真髄が見える筈である。
だから言うのだ、『我輩は超人である』、と。