さて。
どうするべきだろうか?
理屈や辻褄の有無はさておき、僕にはある程度の選択肢があることは事実である。
このまま玄関のドアを閉め、これは夢の続きなんだとソファに寝転がり、夢から覚めるのもありだろう。
自分の頬を抓り、これは夢の続きなんだと認識して、玄関のドアに頭を叩きつけて夢から覚めるのもありだ。
少しばかりダウナーな選択ではあるが、目の前の女性……静良と名乗ったコイツを思い切り張り倒して、これは夢の続きなんだと認識して、逆に張り倒されて夢から覚めるという手もある。
──無論、それらを実行するほど、僕は現実逃避能力と思い切りの良さに定評があるわけではないのだが。
「──何だって?」
「家族だ。私は君の家族になるべく、ここに来たのだ」
結局、統計を取ったわけではないがこういった事象が起こった際に起こす行動としては最もポピュラーであろう「生返事を返す」という選択肢に落ち着いた僕に、静良と名乗った女性が、尚も非現実的な宣告をする。
私は
君の
家族になるべく
ここに来たのだ。
「──何だって?」
「壊れたレコーダーか、君は。私も先ほどの台詞を反復した方が良いのか?」
それは遠慮願いたかった。信じられないものは、何度聞いても信じられないものだ。ガンジーがK-1デビューしたなどと百回聞いても、それが現実味を帯びるわけではない。
家族になるべくここに来た?
「ボディーガードの間違いじゃないのか? 或いは女中とか?」
「どちらにも該当しないな。無論、そちらの方面の庶務も私の管轄になるのだろうが、私が御財閥から受けた指示は、『家族になれ』とのことであった」
「そんな話は聞いていない」
「聞いていないと言われても困るな。私とてここまで接触した以上、はいそうですかと歩を退くことはしたくない」
静良が形の良い眉毛を微かに持ち上げ不満が滲み出る声色を出すが、こっちだってはいそうですかと認めるわけにはいかない。
何が起こっている?
この女は、何を言っている?
あれだろうか、風が暖かくなり花々が葉を開く季節になったので、お約束のように可哀想な人達がちらほらと現れ始めたのだろうか?
様々な思案が脳内でピンボール大会を催す中で、とりあえず考えたこと……
「──すまない。はいそうですかと歩を退いて欲しい」
眉間に掌を当てながら僕が宣告し、静良が僕の顔を目で射抜いた。
──丁重に、お引取り願おう。
はっきり言って、事態が全く飲み込めていない。寝耳に水を一気に飛び級して、寝耳にインド洋とでも言っておこう。
そんな、九割九分九厘のことが理解出来ない中で、たった一厘だけ理解出来た事。
この女は、「いらないもの」を、僕に渡そうとしている。
いらないものを受け取る必要は無い。受け取る必要が無いのだから、お引き取り願うよりも他無かった。付ける熨斗が手元に無いことが相手に礼を欠かないかの心配をするべきだろう。
「家族の追加はいらない、間に合っている。むしろ削減を願いたいところなんだ」
「断る」
しかしそれでも、静良はその足を不動のものとした。
「こちらとて、子供の使いで来たのではない。冗談として取られたのならば、もう一度とは言わずに何度でも言おう、『はいそうですかと歩を退くことはしたくない』と」
「あのな……」
さながら、ドアに足を挟まれていて開けることも閉めることも出来ない主婦の気分だ。実際にドアを閉めていないだけで、状況としては何も変わらないのだろう。
家族の押し売りなんて聞いたことが無い。パラサイトシングルという言葉が流行った時期があったが、昨今ではそれは感染型になったのか?
いい加減、無礼を覚悟でドアを閉めて篭城でも図ってやろうかと画策し始めた頃。
携帯電話が、電波を受信したことを告げた。
無機質なその着信音は、僕のポケットから発せられている。
「出るといい、私は一向に構わない」
少女は、共に外出した友人の排便を容認するかのように、事も無げに言い放った。
ポケットを探り、ディスプレイを確認する。
「──っ!?」
有り得ない名前が、そこにあった。
何故だ!?
何故このタイミングで、この男から直接連絡が来る!?
──否。
このタイミングだからこそ、なのか?
狼狽した。それは前例が非常に稀であり、狼狽するに値するイベントの一つだったからだ。
既に着信音は、三回以上リピートを繰り返している。確認するでもなく、相手側のコール音もそれに比例するわけで、相応の時間、コール音を聞かせていることになる。
出なければならない。それを許す男ではない。
「──統也です」
《受信を確認した際、コール音が一回反復する前に反応しろと教えたはずだ》
「──すみません」
《相手に、着信されるまでの数秒の思案の間を与えるな。その思案は大いに勝率を変動させる。次は無いと思え》
「お久しぶりです」
《お前は受信した際、『統也です』と名乗ったな》
「はい」
《私の識別番号をショートカットに登録するなと言っておいたはずだ。私を識別する番号だからといって、相手が私だとは限らない。その瑕疵が数秒のスキを生むのだ、ショートカットに頼るな》
「──用件をお願いします、父さん」
《そうだ、それでいい。相手のペースに飲まれるな、己のペースを通すのだ》
「元気だったか?」も「体の調子はどうだ?」も、無い。
それが、この男だ。
芥財閥総帥 芥 正義(あくた まさよし)。
血縁上は「父」に該当するこの男から、その肩書きに相応しい台詞を聞いたことなど、過去に一度も無い。
否。
軍隊の指令室でも、もう少し温情のある会話が展開されるだろう。
冷え切った会話なわけではない。逆に、それは意義に満ち満ちた会話であり、不必要な要素は、欠片も見当たらない。
だからこそ、冷たい。温度の高い火ほど、青く冷たく燃え上がる。
《お前に、家族を与える》
「理由が解りません。説明を要求します」
《言ったところで理解出来ん。前提理解は求めていない、事後に理由を理解すればいい》
「拒否します」
《拒否する前に拒否権の有無を確認しろ。前例を見るな、今この場で与えられている情報に基づいて判断しろ》
「──解りました」
《いいだろう》
拒否権? 情報で判断?
これだけはまだ、父から与えられる課題の中でも難易度が低いものだと言える。
そんなもの、あった試しなど無いからだ。
《理由の開示が必要か?》
心底、背筋が凍った。
芥正義が、相手に後手を取らせるような言動をした?
「──願わくば」
《返答は『応』か『否』に統一しろ。そのような曖昧な返答で自らの意図を濁らすな》
「要求します」
《私は、お前の父だ》
手が、震える。
何を言っているのだ、この男は?
芥正義は、何を考えている? 父だと? そのようなことを口走る男ではないはずだ。
脂汗が、後から後から止め処なく吹き出てくる。しかし、悟られるわけには行かない。過去にそれを悟られて忠告を受けたばかりだ。
二度、同じ失敗を許容する。
それが、僕が父から受けている、親子としての唯一の温情なのかもしれない。
──許容するだけだ。ペナルティが与えられないわけではない。
《しかし私がお前に、父として適切な態度を取っているかと言えば、それは『否』だ》
「はい」
《故にお前は、家族愛を知らない》
「はい」
《そこにいる女は、その為に派遣した女だ。その女を家族とし、家族愛を知れ。以上だ》
「質問の許可を所望します」
《認めよう》
「それは必要なものなのですか?」
《必要だから授ける。だが良い質問だ、私を信用してはならない。必要性の有無の判断はお前に委託する、お前が自分で判断すれば良い》
「容認します」
《容認を確認した。これよりその女を芥静良(あくた せいら)とする》
「父さんに、伝えたいことがあります」
《発言は認めない》
「僕は、貴方の人形ではない」
《考慮に値しない》
電話が、切れた。
・
「大丈夫か? 何があった?」
ようやく、女の表情が、動いた。それは微妙な変化だったが、眉が確かに変化している。
おそらくは「疑心」。
それもそうだろう。先ほどまで喜怒哀楽をごく一般的に表現していた少年が、電話に出るなり機械のような語り口調になったのだ、脂汗を滲ませながら。
「父からだ」
「何?」
指で汗を拭きながら僕が言うと、今度ははっきりと女の表情が動いた。目を見開いて、眉を八の字に変形させる。
「驚愕」だ。
「今の会話は、父親と交わしていたものだったのか?」
──そうだ。それがどうした。
「そうだ。それがどうした?」
「今のが、親子の会話だと言うのか?」
「お前には関係無いと言いたいが、今を持って関係を持ったようだ。お前を家族とする」
「質問に答えるんだ。今のが、親子の会話だと言うのか?」
「一般の家族がどういう会話を交わすのか、僕は端的にしか理解していない。だからお前が来たんだろうな。僕と父の会話は、常にあんな感じだ」
「馬鹿な……」
僕は、芥静良という女についての認識を誤っていたようだ。
仏頂面で無表情だという印象は、正しい認識ではなかった。芥静良は、ちゃんと表情を持っている。微妙な変化ではあるが、こうして今も尚、驚愕と困惑を繰り返して表現しているのがその証拠だ。
──些細な問題だ。考慮に値しない。
「静良、だったな」
「あ、ああ」
「お前を家族として迎え入れる。今日からは芥静良と名乗るといい、僕はお前を静良と呼ぶ」
「何? 君は……!」
「部屋に案内しよう。今日からそこがお前の部屋になる」
「待て!」
停滞することなく部屋に戻る僕の肩を、静良が掴んだ。
「質問を認める。何だ?」
「君は、その……君は……」
「質問をする時は内容をまとめてからにしろ。その行動は僕にとってもお前にとっても時間の無駄でしかない」
「っ!?」
静良が僕の肩を離し、踏鞴を踏んで後退る。
「何だ?」
「君は……」
「さっき言ったことが理解出来なかったのか?」
机が床を引きずるような音の息を呑んで、静良が顔を青ざめさせる。口を金魚のように開閉させ、何か必死に言葉を探している。
──歪んだ、限りなく黒に近い感情が、胃の下に溜まっている気分だ。
──これは、知っている感情だ。
──黒とも青とも言えぬ、故に絶対に認識の揺らぐことは無いこの感情。
──これは、「冷静」だ。「冷酷」とも言えるし、「非情」とも言える。
──それが、どうした。
そうした状態が五秒ほど続き、ようやく静良の口から、風に吹かれれば掻き消えてしまいそうな小さな音が漏れた。
「君は……誰だ……?」