それから、どのくらい時間が経っただろうか。
という感想は、限りなく誇大化されている。経ったのは、おそらく一、二分程度。
しかし、無理もない。
「入谷・・・観念しなさいよ」
相川が戸を開けたその刹那から、俺の時間観念は不調をきたしている。
俺の時空が、緊張と焦りによって、加速度的に膨張していく。
「・・・何の用だ?」
お世辞にも、この切り替えしは自然とはいえない。
だが今のこの心理状態で、言葉を選んでいる余裕もなかった。
「ここは、お前が来るべき場所じゃない」
相川の激情は鈍らない。
それどころか彼女の纏う覇気は、俺のノドもとまで喰らいつかんばかりだ。
「スカしてんじゃないわよ。もう全部わかってんのよ!」
彼女が叫ぶ一方で、黒峰も、霧野も、口を開く様子を見せようともしない。
・・・試されている。
俺がどのように動くか。俺が「コスモスとして」どう振舞うか。
コスモスの中で使える部類に入るか。
あるいは、「コスモスを潰す」という決意に違わぬ器量を、持ち合わせているか。
それを量るには、この全くの不測の事態こそ、格好の試金石。
「・・・・」
汗が頬をつたうのがわかる。心音も鼓膜まで届いている。
この不協和音を、耳触りの心地良い響きに変えられるか。
変えられるか、ではない。変えなくてはならない。
誓ったのだ。俺に。俺の世界に。そしてそこにはもういない姉さんに。
「・・・やってやる」
小さく、誰にも聞こえないようにつぶやく。ここが最底辺で、ここがスタート地点だ。
戦いの、始まりの、合図。
「ふう・・それで、わかっている?何がだ?」
しかし、俺にも幾ばくかの意気が充填されていた矢先に、それは、音を立てて、
「言ってあげましょうか?」
発汗とともに、あわや全身から飛散していった。
「あたしに・・あんなことしたのはっ!向井なんでしょう!?」
呼吸が、乱れていく。
自分を統制する調整器のようなものが、バラバラと体から抜け落ちていく感覚。
それを拾い上げる間もない。落ちていくのを、感じるだけ。
「へえ・・・どうして?」
もはやあちらの言い分に合わせることしかできない。
冷静さなんて、どこから掻き集めても足らなかった。
俺はこれまで・・どんな状況に相対したとしても、
それを切り抜けられるに値する沈着さが、自分には備わっているものだと思っていた。
その点において、自分の無能さにもいくらか箔が付いているのだと信じきっていた。
だが、その命題は偽でしかないことが、露見した。
それは、慢心に過ぎなかった。どんな心の間隙からも、焦燥が入り込んでくる。
今この瞬間。俺は何をしている?何ができている!?
「あたしは・・見たんだよ!自分のあの写真が貼られていた側に、変な鍵があった!」
相川もあれを見ていた?
いや、他にだって、見ていた奴はいるはずだ・・焦ることなんかじゃない・・!
焦ることなんかじゃ・・・待て、そうか、相川はあの黒板の鍵を入手して・・
ここに入ってこれたのか・・。こうやって、鍵は流通する・・?
だがそれでも・・・なぜ、この場所を・・?
「何か変だと思ったのよ!当然よね・・今考えれば!」
わななきながら、吐かれる台詞。
相川の震えと、俺の震えは決して近似値をとらない。
彼女のそれは、憤怒の証。俺の震えは、俺の焦りそのもの。弱さ・・・そのもの。
そう・・俺はまさしく弱い。こうやって、過ちを遡及することしか、できない。
どこに・・・
どこに・・落ち度があった?どこから間違っていた・・!?
「そして今朝!あんたと並んでいた向井の手に!」
どこからやり直せば・・俺は正しかった・・?
「あの鍵があった!!」
・・完全に・・油断していた・・
黒峰の視線が痛い。その、面白半分の視線が、今は逆に辛い。
辛いのは、その油断が俺の慢心の発露だとしかいいようがないからだ。
今朝・・委員長とともに、教室へと戻ろうとした時。
委員長は、俺が受け取らないでいた鍵を、確かにその手に持っていた。
そして、そこにいた相川が見せた、何かに感づいたような挙措。
あれは・・決して意味のない行動なんかじゃなかった。現にこうして、繋がっている。
俺の、動揺と戦慄に、繋がっている。
「あれから向井に・・・問い詰めてやったわよ・・」
相川が口を細めて笑う。
黒峰の笑みとは、違う。何ら装飾を伴わない、純然たる脅迫を持った笑み。
そこでやっと、冷静さの一欠けらが、俺に追いつく。
「委員長に、何かしたのかっ!?」
彼女に、何かがあっては・・・いや、どうしてそう思う?
違う!何を言っている!?彼女だって・・俺にとっては・・・
果たして・・・そうなのか?違う・・待て!そんなことを考えている場合じゃ・・
「吠えてんじゃないわよ、偽善者が!黙りなさいよ!」
偽善者・・・?
「あははっ!ただ、ちょぉっと強く聞いただけよ」
偽善者・・・・
「・・・・」
似ている・・そう思った。
それは、何かに、強く、似ていたのだ・・。
そう、相川の今の姿勢は・・数日前・・黒峰を問い詰めた俺に・・・似ていた。
相川は高笑っている。自分が立っている場所は、俺の遥か彼方、上空であるかのように。
全くもって、感情の起伏が激しい。焦りから抜け出せず、平行線を辿る俺をよそに。
「でもね、全っ然吐かないんだもの・・!イラついたわよっ!!めちゃくちゃ!!!
けど・・今じゃ、あそこでボコにしてやんなくて正解だったと思うわ」
「何だと?」
委員長は・・そんな目に合っていたのか・・!
しかも・・間違いない。
彼女は、俺をかばう意味で、一切コスモスのことを吐かずにいたんだ!
それなのに、俺は・・何を・・・
「それで、しょうがないから」
相川がズイと近づく。
「あんたを、つけてきたのよ」
「!!」
何を・・・やっていたんだ・・!
尾行!?そんなことが!?
バカか!何をやっていたんだ俺は!何で気付かなかったんだ!
何で・・委員長の抵抗を無駄にするようなマネを・・・!
「向井と一緒にいた、あんたをね。何か知っていればいいかと思ったけど、
知っているどころじゃないわ!全部・・・全部聞いたわよ・・あんたたちの会話!!」
自分の無力さが沁み入る。沁みこんで、あらゆる思考を不可能にさせる。
今考えつくことは・・失態・・その二文字だけ。
「あの鍵は、この機関のもの。最近の騒ぎも、依頼を受けて。・・そういうことだったのね!
向井の奴も、依頼をしたってことでしょっ!?全部わかったのよ!!」
霧野がこちらを見る。
「・・・おや」
「京ちん、だっさ~」
黒峰にいたっては、他人事のようだ。
「黒峰ぇ・・・」
すると、相川が黒峰に矛先を向ける。
この二人の・・・関係性?
「雪村をいじめるように持ちかけてきたのは、確かあんただったわよね!」
雪村?いじめ!?
「先月までは、影であんたも一緒だったじゃない・・!
それがいつの間にかあんたがやめて、あたし一人でやるようになった・・」
黒峰も・・加担していたのか!?
「あれは・・あのふざけた事件は、あんたのせいでもあるのよ!!」
相川は、依頼を受けたのが黒峰であること、そこまでは辿り着いていないようだ。
しかしそれにしても、黒峰のせい・・?
わけがわからない。パズルの抜け穴を埋めようにも、ピースを持つ手がおぼつかない。
事態に事態が重なって、考察の入り込む余地すら無くなる。
「・・・おやおや」
霧野の目つきが、多少鋭くなった気がした。全く動じない、黒峰に代わって。
「まあいいわ。あんたのことは、後でいい!もっと重要なことがあるわ。
ここで依頼を言えば、叶えてくれる。そうよね?」
悪い予感がした。絶望的な悪寒。事態に、最悪の方法で、終止符を打つような・・
「制裁を加えてほしい奴がいるわ」
「・・・ふむ・・どうぞ、ご自由に」
霧野が、それに答える。
「向井よ!向井の奴を・・・徹底的に痛めつけてっ!!!」
予感が、あったにもかかわらず、その壁を貫かれた。
「くそ・・・」
この状況は・・この胸の痛む閉塞感は・・!
・・ひとえにわかる。これは、負の連鎖・・。
劣情が憎しみを呼び、憎しみが、更なる憎しみを呼ぶ、悪夢の連鎖。
「どうする・・」
ここは・・ここは、最大の分水嶺・・!
そうだ・・あがくしか、方法はない!その鎖に巻かれようとも、それしか方法は・・・
「待て相川!」
「京ちん」
黒峰の声。
それは、夕闇を静かに煽った。ひっそりと、それでいて、芯に響くように。
「今のところねえ・・こっち側に、断れる理由は無いのよねえ」
断る理由!?余りあるだろ!
いくら相川が委員長を恨んでいるといっても、そんな依頼からは何も生まれない!
オマエには理解されずとも、俺にはわかる!この思考は偽善の正義なんかじゃない!真理だ!
委員長のしたことが、彼女が償おうとしているにもかかわらず、彼女に還ってきてしまう!
それだけは、それだけは防がなくては・・彼女も・・・俺も・・・!
「ええ・・そうですね。機関のこと、必要以上に・・すっかり知られちゃってますしね」
「・・・!」
そうか・・そういう、ことか・・
「そういうことよ、京ちん」
「あいつは・・・見せしめよ!」
相川が、唐突に、語った。俺に、考える余裕ではなく、ただ怒涛を与えて。
「あたしが雪村をいじめていた頃は、クラスはあたしのものだった」
「!?」
何を・・言っているんだコイツ!?
「そう、あたしのものだったのよ。クラスの連中は皆あたしに怯えて」
クラスが、オマエのもの!?
「でも・・あいつがフザけたことをやったせいで・・あたしは失墜した!」
ふざけてるのはオマエだろ・・・何なんだよ・・
「まずは向井から痛めつけて!向井を見せしめにして!あたしは、クラスを取り戻すのよ!」
何で・・・こんな奴らばかり・・
「あたしの世界を取り戻すのよっ!!」
「!!」
一つ、間を挟んでから、俺の脳に達するその言葉。
その台詞で・・気付かされた。
彼女は・・やはり皮肉にも、俺と似ている。
思想も、やり方も違えど、「目的」は、俺と一緒だった。
自分の世界を奪った奴らへの、報復。
その「目的」は、同一だった。
「報酬はどうなさいます?」
霧野が相川に呼びかける。
「報酬?面倒くさいわ。後でいいかしら。そんなのいいから、さっさとしてよ!!」
「・・・おや」
霧野は少し、困った様子だった。しかし、そこに助け舟を出すつもりでも、なかった。
「相川ち~ん。“ぎぶあんどていく”なのよ~?」
「いや」
黒峰の呆けた声を遮断する。
「いらない」
「あら?京ちん?」
霧野の困り顔も、若干色合いを変える。
「入谷君?」
「報酬なんかいらない」
相川も、自分に都合のいい話に、それほど喜ぶわけではなかった。
「は?そうなの?じゃあ・・そうさせてもらうわよ」
「ただ・・一つだけ頼みがある」
後に続くのは、似たもの同士からの、忠告。
願うのが得意な同類からの・・切なる、願い。
「もう二度と・・この機関に関わるな・・・!」
もうそれ以上、罪を重ねないために。
罪を重ねた同類からの、悲痛な、叫びだった。