それからの数日で何本走っただろう。
俺はいい加減慣れてきた筋肉痛とともに、着実にタイムを伸ばしていた。
「すごいすごい! どんどん速くなってるよ!」
マネージャーの顔もほころぶ。
「ちゃんと鵜飼トレーナーの言いつけ通りに走ってますから。肩の力を抜くこと。呼吸するリズムを崩さないようにすること。体の上下動を少なくして、前に足を持って行こうと意識すること。それから苦しい時は―――。」
「苦しい時は吸うよりも、吐くことを意識すること!」
言葉を遮られて俺がマネージャーの顔を見ると、タイムを記入し終わったマネージャーはこちらにむき直って、
「ちゃんと覚えててくれてなによりです。まあこれが正解かどうかは断言できないけど、タイムには反映されてると思うので今後も参考にしてくださいね。」
と言って、ぶいっ、とピースした。
「ふふ、ここまでの成果はトレーナーの指導力の賜物かしら、なーんて。」
「いやいや、まったくその通りだよ。マネージャーの指導は的確だと思う。なんていうか、前より楽に6キロを感じられるようになったから。きついのは変わらないけど、今までみたいに気持ちが切れたりすることもなくなったし。」
「そっか。」
「それに最近じゃ、なんつーか景色を楽しむ余裕? みたいなのも出てきた。走るのが楽しくなってきたのかも!」
「そっか!」
マネージャーはとてもうれしそうだ。
イヒヒ。
「俺、ちょっと長距離に目覚めちゃったかも……。陸上部に入りなおそっかなぁー。」
「そっか! って、ちょっと渡瀬君!? えええっ!? ホントに!!??」
あたふたキタコレ!!!!
「あはははっ! 嘘だよ。冗ー談。マネージャー驚き過ぎだってば! あっははははは!」
俺が期待通りの反応に大笑いしている横で、
「もうっ! 渡瀬君のバカぁーっ!!!」
と、からかわれたマネージャーは顔を真っ赤にしてプリプリ怒っていた。
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「ふふふっ……。」
皆様。只今、私はとても気分が良いです。すこぶるハッピーなんです。
その理由は、ここまで彼が大きなスランプもなく順調に記録を伸ばしてこれたから。
「残り2日、やっとここまでこれた。後は今の渡瀬君が体で感じているペース配分を本番でトレースしてくれさえすれば……。」
口元が緩んでしまうのを抑えられない。
どうしたってニコニコだよぉー。
だって、目標時間を渡瀬君は今朝遂に走りきってくれたんだもの。
「えへっ。19分48秒52ぃー♪」
私が記録ノートを見ながら幸せを声に出して表現していると、
「おいおいどうしたんだ鵜飼? 早起きしすぎてテンションおかしくなっちゃった?」
「ぎゃあああっ!!??」
同じクラスの横内君にバッチリ聞かれてしまった。うう、恥ずかしい……。
「お、おはよぅ……。」
「オハヨ。しっかし何という作詞と作曲だよそりゃ。まー伝えたいことはちゃんと伝わったけどな。」
渡瀬走れたんだな、と横内君はうれしそうに続ける。
「うん! 最近じゃ走るの楽しいって言ってるよ。すごい変化だよね。」
「ホントか!? ついこないだまで『この土地の隆起は、地獄だ……。』だの『誰かぁ、何かいい道具出してぇ~。』だのブー垂れてたヤツとは思えんな。何か変なもんでも食ったか?」
「あはは、そんなこと言ってたのー? でも、渡瀬君は本当に頑張ってきたよ。毎日ポイントごとで記録を計っては自分の感覚を調整してきたの。ここで少しペースを上げて20秒稼ぐ、この下りを利用して今より10秒縮める……そうやって自分の体に感覚を刻んできたの。」
「へぇー。そりゃまた随分緻密な作業だなあ。」
渡瀬君のすごいところは体の感覚と頭で考えたイメージのズレにほぼ誤差がないところだ。
彼の頭の中ではコースを走る自分の姿がテレビに映し出されていて、その中で見えている時間を頼りに走りさえすればいい、きっとそんな感覚なのだろうと思う。
イメージを思い通りに体現できる、か……。
そんな力があれば、練習しだいでどこまでもうまくなれるということになる。
私は授業中、先生の話を適度に聞き流しながらそんなことを考えていた。
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メイを散歩に連れてった帰り、俺は同じく犬の散歩をしていた寺岡先輩にばったり会った。
「よっ。そっちからってコトは、折り返して家に帰る途中ってワケだねっ。」
「ご名答です。って、先輩もですよね。うちの方角からだし。」
俺がそう返すと同時に、メイがリードをぐいっと引っ張った。
見ると、テメーコラ空気よめよ、とばかりに息をハァハァ言わせている感じがしないでもない。
「……。これはどうやらミックと遊びたいようです。」
「ふふ、じゃーそこの公園で遊ばせますか。」
こうして、2人と2匹は公園に向かった。
もう大分日が落ちてきている。が、メイとミック(ともに♀)は一向に離れようとしない。
どうやら犬にもご近所づきあいってモノがあるようだ。
うちの飼い主は散歩短くてストレスたまるわぁー、なんて罵ってなければいいのだが。
「どうした? ぼーっとしちゃって。」
たわいもない雑念を膨らませてメイたちに目を向けていると、先輩にそう尋ねられた。
いかんいかん、先輩と一緒なのに何どうでもいいこと考えてんだ俺は!
「いや、何でもないです。それより、ミックってなんていう犬種ですか? あまり見たことのない成りをしてますけど……?」
「イタリアン・グレーハウンドよ。」
「へぇー。」
俺の極めて淡白な反応を見るや、先輩はやっぱりとばかりに首をすくめ、説明してくれた。
「えー、コホン! イタリアン・グレーハウンドは『イタリア・ルネッサンスの誇り』と言われる犬種で、16世紀のイタリアを中心とする南ヨーロッパ、トルコで絶大な人気を集めていた犬です。光沢のある短く滑らかな被毛が特徴的で、抜け毛が少なく体臭はありません。それから感覚がとても鋭く、温和で従順な性格の、とってもきゃ・わ・い・い子なのよぉー。」
「おおーっ……!」
「わかりましたか、渡瀬くん?」
「なるほど、もう忘れません、ムツゴロウ先生!」
「はい、よろしーいっ!」
そう言って、俺たちはくすくすと笑いあった。
そして、いよいよ運命の朝を迎えた。
昨日は今日に備えた軽めの調整だけだったので、とても体は軽い。
やり残した事はない筈だ。大丈夫、マネージャーと恵姉たちにもお墨つきをもらっている。
何より、ここまで練習を重ねてきた体の感覚が俺を安心させる。
「よし……! 我ながらすごい充実感だな。こんなに自信を感じる自分は初めてだぞ……。」
練習以上のものは出せない。だから、練習どおりにやろう。練習は、裏切らないはずだ!
「やるっきゃないっしょ!!」
そう気合を入れて、ウェアに着替えた俺は自分の部屋を出た。
下に降りると、恵姉と希さん、それから日曜で会社が休みなのにも拘らず、猛さんが起きていてくれていた。
「おはようございますっ。」
「「「おはよう。」」」
……すごく嬉しかった。
家族とは言っても血のつながりもない居候の身の俺を、温かく見守っていてくれている。
「功ちゃん、軽いもの用意したから、よく噛んで食べてね。」
「はい。」
いただきます、と言って朝ごはんを一口頬張ると、じわっと感情が染み出してきて涙があふれ出た。
「あれっ。何で泣いてんだよ、俺。まだ泣くのは早いだろ! ってか課題をクリアしても泣いたりなんかするわけないのに……。これ、めちゃくちゃおいしいです……。」
泣きながら食べ続ける俺を見て、3人とも優しいまなざしを浮かべて微笑んでいた。
「じゃあ俺学校まで走って行くんで。頑張ってきます!」
出発前、玄関先でみんなにそう伝えると、
「功君、これを持って行きなさい。」
と猛さんが俺に赤いものを手渡した。
「昨日夜中探して、やっと見つけたんだ。これはな、絶対に功君を助けてくれる幸運のハチマキだ。なんてったって、それをつけて俺は昔マラソン大会で優勝したんだからな! がっはっは!」
「えっ!? 本当ですか!」
俺がびっくりしていると、
「まあ! まだそんなの持ってたのー? 何か思い出しちゃうなー、それつけて走ってたアナタがカッコ良く見えちゃったのよねぇー、って、あらやだ私ったら! もう、恥ずかしいじゃなーい!」
と言って、希さんは昔を懐かしんでは照れていた。
よぉーし、じゃあ俺もこれを着けて負けるわけにはいかないでしょう!!!
「ありがとう、猛さん。絶対レギュラーになって帰ってくるから!」
「ああ。楽しみに待ってるよ。」
「頑張ってね。」
「はいっ。いってきまーす!」
そう言って、俺は勢いよく玄関を開けた。
外に出ると、先に出ていた恵姉がメイを抱いて待っていて、
「私も後から行くから。がんばれぇー功!」
と、招き猫みたいに抱かれているメイの前足をひらひらさせた。
「おう! 恵姉のサポートを絶対に無駄にはしないからなー!!」
俺は走り出しながら振り返って、手を振る恵姉にそう応え学校に向かったのだった。
「では、これより外周6キロ走のタイム測定を行う!」
キャプテンが皆に伝える。
男子部だけではなく、女子部もこの課題を見に正門まで来ていた。
だが俺はこの緊迫感の中で、逆に至って冷静だった。
ただ走る。それだけだ。
「ストップウォッチはこれまで通り鵜飼に計ってもらう。大丈夫だな、マネージャー。」
「はいっ!」
「よし。それから、公正に記録として認められるかを確かめるために、俺も渡瀬と一緒に外周コースを走る。」
キャプテンの言葉に、俺を含めた周囲がどよめいた。
「まあ渡瀬が不正をするとはここまでの課題への態度を見る限り考えられないが、一応の対処だ。俺は渡瀬の後ろから、渡瀬の集中を乱さない距離を保って追いかける。いいな、渡瀬。」
「はい、大丈夫です。自信ありますから。」
「ん。その心構えが大切だ。では始めるが、皆は戻って練習を……、いや。各々の判断に任せる。好きなようにしていてくれ。それじゃあ真理子先生、始めますがいいですか?」
キャプテンが先生に尋ねると、先生はしばらく間を置いて告げた。
「渡瀬くん、キミはやれば必ず出来る子よ。何があっても、自分を信じなさい。いいわね?」
「ハイ!!!」
「オッケイ。じゃ、岩崎くん、後はお願いね。」
「わかりました。」
キャプテンはそう言うと、ホイッスルを持って準備の整ったマネージャーに目で合図した。
「では行きますっ! 位置について、よーい、ピッ!」
「「「頑張れー!!!」」」
みんなの声援を受けながら、俺はスタートした。
足はまだまだ動けている。息もそれほど弾んじゃいない。
もう半分過ぎたってのに、俺は笑っちゃうくらいに余裕だった。
思い描いたイメージ通りに動く自分の体。
流れる景色はいつもと同じスピードで。
うん、この速さで間違っていない。
「よし、ちょっと自己新狙ってみるか……!」
俺は、最後の上りを越えると、一気にギアをトップに入れて加速した。
もう学校まではわずかの距離しか残っていない。
しかもこれは時間に追われてのスパートではなく、残りの自分の体力と距離を計算しての、完全なる余裕を持ったスパートだ。
「でも心は平静に。体は情熱に任せて……。」
もう少しだ。
そう思いながら下り坂を駆け下りていると、
「ガシャーン!!!! ズザザーッ!!!」
俺の瞳に自転車に投げ出された子供の姿が飛び込んできたのだった。
「おいおい、ヤバイ倒れ方じゃねーかよ!!!! 大丈夫かーーっ!!!???」
そのまま猛スピードで駆け寄ってみると、自転車は大破していて、
「うっ……!!」
大泣きしている子供の足からは、大量の血液がにじみ出ていたのだった。