翌日登校してきた松崎に、昨日出合った3人組のことを話した。
「まじで。モフモフ大人気だな」とだけ言って彼は席に着こうとしたが、ふと何かを思い出した様子で僕に「なあ、ツガのほうは知ってるか」と聞いてきた。
「ツガ?」
「知らないか――なら、昼休み時間あるか」
もちろん、僕にはモフモフさん以外の用事なんて特にない。
「大丈夫だけど?」
「ちょっと見せたいものがある」
松崎のほうからアクションがあるなんて何だろう。ツガとはいったい何だ、と僕は首を傾げたが、彼は「大したことじゃねえよ。一応、気になるかと思ってな」とだけ言い置いて着席してしまった。
ガラリとドアの開く音がして、「おはよう、諸君」という高辻藤子の眠そうな声で一日が始まった。
……。
そして時は経ち。
窓の外では、猫の形をした雲が豹へとゆっくり変化していた。
微睡んだような気だるさの中で、緩慢な時間だけが流れていく。
朦朧とする意識の外から、何かが聞こえる。
「あ~、つまりこの利己的な遺伝子同士が互いに有利に働く状況でだな、結果的に協力しようとすることがある。共生、といわれるのはそういう例のひとつだな。それから、一方的な利益であっても、相手に依存することでより有利に自らを増殖させようとする者もいる。寄生といわれるのはこれだな。極端な例だと、ウイルスなんかがこの性質だけを……お、もう時間か。では来週。予習しとけよ~」
タイミングを合わせたかのようにチャイムが鳴った。
目を覚ます。
午前の授業が終わったらしい。
僕は大きく欠伸をする。
脳が覚醒するのを待っていると、松崎が傍に来て「行くぞ」とだけ言うとそのまま後ろのドアから出て行った。やはり松崎に呼ばれたのか、物井さんの姿もあった。僕は慌てて追いかける。
「行くってどこに」
「図書室」
急に本でも読む気になったのかと思ったが、そうではなかった。図書室には、生徒が自由に使用できるパソコンが数台置かれている。パソコンはどれもインターネットに繋がっていて、松崎のお目当てはそれらしかった。
目的のサイトを彼が探し出すまで、僕は近くに置かれていた小冊子を手にしていた。この間発行された『モルフォ』だった。何見てんの、という風に覗き込んだ物井さんが「そういえばさ、佐倉くんが校内で有名になったのも『モルフォ』がきっかけだったよね」と思い出すように呟いたので、僕は思わず「何それ」と聞き返した。
「あれ、知らなかったの?」
彼女の説明によると、以前発行された『モルフォ』に、「ある生徒の日常」と称する物語形式の文章が掲載されたことがあるのだという。僕が文芸部に出入りする前の話だ。そこに描かれていた主人公の男子生徒は、印象が僕そのものだったそうだ。「書いたのは多分、成田先輩だと思う。最初はただの架空の生徒のお話かと思ってたから、佐倉君が本当にいるって知ったときは吃驚したわ」と愉快そうに言う。僕はそんなに愉快な気分にはなれなかった。いったい、ハルカ先輩はなんだってそんな文章を……。まあ、どうりでモフモフさん情報が集まりやすかった訳だ。そういえば昨日の連中も僕のことを知っていた。
「お、あったぞ」
松崎の一言で、僕達はとりあえずパソコンのほうに集中した。モニタには、日記形式のようなサイトが表示されていた。ブログ? と物井さんが聞くと、SNSってやつだと松崎が説明した。メンバーの名前は『TSUGA MAYUMI』だった。ツガというのはこのことか。漢字で書くと、都賀真弓だろうか? 檀や麻由美かもしれないが、真弓のほうがなんとなくしっくり来た。いずれにしても本名ということは無いだろうけれど。コミュニティに石崖高校の名前がある。うちの高校の名前だ。ということは、うちの生徒だろうか?
松崎が指し示した記事は、つい数日前に投稿された日記だった。日記のタイトルは『ただいま寄生準備中』となっている。まあ寄生は『帰省』の誤変換だろう。しかし、帰省? 遠距離から通っている生徒や一人暮らしの生徒も少数ながらいないことはないが、冬休みまではまだ時間があるし……と僕が考えていると松崎が「いいから読んでみろって」と促した。
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なんかもうすっかり秋だね。
今日もいい天気でした。
ところで、今、学校にモフモフさんの噂が広がっているよね。
あれって結構ヤバイの知ってた??
モフモフさんを捕まえようとして行方不明になった話しとか、どっかで読んだことあるけど、
実は、姿を見ただけでも不幸になるらしいよ!
大怪我とかするらしい。
呪われているんだって。
怖いよね~。
アタシも学校では絶対見ないように気をつけなきゃ。
もし見ちゃったら「カリカリさん」って言わなきゃいけないんだよ。
おぼえといてね!
そろそろ次の犠牲者が出そうな予感がするよ。
みんなも気をつけて!
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正直な感想は「なんだこれ」だ。前にも都市伝説のまとめサイトで似たような内容の文章を見たことがある。見ただけで不幸になるとか、変な対処方法とか微妙な要素が付け加わってはいるが、いずれにしても、また単に便乗して話を広げようとする性質の悪い悪戯だろう?
「いや、そうには違いないんだが」と松崎は保留しつつ「なんか、この文章がきっかけで、モフモフさんの悪い噂が学校にけっこう広まってるんだよ」と言った。
そういえば、確かに日記にはコメントが沢山ついていた。ほとんどが日記の内容に同意するものや怯えるものばかりで、中には批判的なものもあったが、影響力があることは間違いなさそうだ。
「そういえば、うちのクラスの女子の間でも話題になってたよ。都賀さんって誰だろうって」
と物井さんもいう。
「オレは知らないな」
「僕も知らない。本名とも限らないからなあ」
自分が蒔いた噂がどんどん一人歩きしていくのが怖い、と物井さんは哀しそうな顔をした。どっちにしても、次の犠牲者とか穏やかじゃないな。何も起こらなければいいが。
その願いは、あまり効果が無かったようだ。
犠牲者が出たのは二日後のことだった。
「あー、忘れてた」
出席を取り終わって教室を出て行く前に、高辻先生がそう呟いた。面倒くさそうに、頭を掻いている。授業の準備をしようとしていたクラスメート達が、何だろう、と教壇のほうに注意を向ける。
「えーとね、モフモフさんの噂話が校内に広まっているが、あれはただの架空の話なので生徒は以後、極力関わらないようにすること――との教頭からのお達しだ。ちゃんと伝えたぞ」
なんだなんだ。
教室がざわめいた。
僕も頭をひねる。どういうことだろう。
どう考えてもおかしな指示だった。架空なのに、関わるな。そんなことを言われれば、何か隠そうとしているんじゃないかと邪推するのは当然だろう。あまりにも意味がない命令だ。
案の定、教室中では皆口々にひそひそと会話を始めた。
事故らしいよ。捕まえようとしたらしい。例の呪いだろ。馬鹿馬鹿しい。私怖いよ、どうしよう。カリカリさんって言えばいいらしいよ。何それ。いいから早く授業しようぜ。
だから逆効果だって言ったんだ、あのハゲ教頭め――と、高辻先生は小声ながら際どい独白を吐いてから、僕に向かって「ああ、それから佐倉。悪いんだが、残ってるポスターも剥がしといてね」と付け加えた。
そのまま教室を出て行こうとする先生を僕は呼び止める。
「分かりました。でも、いったい何があったんです?」
口外禁止なんだけどね、まあ今更か――と前置きしてから先生が説明する。
「怪我人が出たんだよ」
「怪我人?」
「そう、馬鹿な連中がモフモフさんを捕まえようと追いかけていて、階段から転落したらしい」
咄嗟に、昨日の都賀真弓の日記を思い出していた。
――次の犠牲者が出そうな予感がするよ。
モフモフさんの呪い。まさか。
「ま、命に別状はないから良かったけどしばらくは入院だろうね。とにかく、これ以上馬鹿な真似をして更に怪我人がでるといけないから、妙な噂はとっとと忘れなさいってことよ」
「怪我とモフモフさんに関係が?」
「んー、まあただの不注意ね。関係は無いでしょ。でも余計なことに関わるとロクなことがないわ。大人しく勉強でもしてなさい勉強。いい、あんたたち?」
先生が去った後、教室のあちこちで類推や邪推の類が飛び交わされた。
その中には、都賀という名前もちらほら聞かれる。既にあのサイトを見た人もかなりいるのだろう。無関心でいろというのは無理な忠告だ。それに、僕は既にモフモフさんを見ている。今更忘れろと言われても難しい。
事故と都賀の日記はただの偶然だろうと信じつつも、あまり気持ちのいい出来事ではなかった。
「なんか槍だか銛だか持って追いかけてたらしいよ。はぷーん、とか叫びながら」
「怪我したのは長髪のほうじゃないよ、体格のいい男の人だって」
女子同士のそんな会話が聞こえた。
あいつらか……僕は頭をうな垂れた。
「ますます、変なことになったわね」
溜息混じりにハルカ先輩が呟く。
数日たって、一週間経っても、騒ぎは収まるどころかどんどん広まっていった。
それまで無関心だった、あるいは無関心を装っていた生徒まで噂話に加わるようになったのだ。
それはそうだろう。単に見た見ないの幽霊話ではなく、現実に怪我人が出るとなると都市伝説としての重みが増す。あまり歓迎したい重みではないけれど。そして、モフモフさんの呪い、という言葉も堂々と語られるようになった。
学校で怪我人や、不幸な事故に会う人が出るたびにその勢いは増していった。無論、それはおそらくただの偶然の寄せ集めに過ぎないのだが、一度、先入観として呪いと結び付けられるとそう見えてくるのが人間というものらしい。明らかに、モフモフさんの話題を「避ける」生徒や、逆に調子に乗って尾鰭をつけて吹聴する者などが出始めていた。教頭の通告が逆効果だったのは間違いない。
いまや、モフモフさんイコール呪われた存在であり、巷に出回る不吉な都市伝説と少しも変わりはなくなっていたのだ――僕をはじめ、姿を実際に見ている生徒が多くいること以外は。
いまや状況は混沌としていた。
いったい、何がどうなってるんだ。
僕は状況にただ流されるだけの自分を疎ましく思った。
「呪いとモフモフさんは分けて考えるべきだ」というのが松崎の意見だ。彼の言葉を借りるならば「モフモフさんは(正体は何であれ)現実の現象だが、『呪い』は便乗して広まったガセ情報にすぎない。都市伝説というべきは、むしろ『呪い』のほう」である。
「でも放っておくわけには行かないわ」
物井さんが神妙な顔つきで言う。責任を感じているのかもしれないが、それは僕も同じだった。
「けれど何をすればいいんだろう」
「オレには何も出来ないぜ。手を出すべきことでもないと思う。先生の言うように、皆が忘れるまで待ったほうがいい」
それは、当分先のことだろうな。でも松崎の意見ももっともだ。
「その前に、モフモフさんが生徒に襲われたらどうするのよ」
「そっちを心配してんのか、お前は」
しかし、恐怖心を煽られた一部の生徒が、逆に積極的に『モフモフ狩り』を始めたのも事実なのである。肝試しと同じ心理状態なのだろうか。本人達は勇敢のつもりだろうが、あまり利口とは言えない行動だ。
「だって、モフモフさんは『呪い』とは関係ないじゃない。 可哀想よ」
「そこまで気にしてたらキリがねえよ。やるなら勝手にやれ」
まあまあ、とハルカ先輩が止めに入る。
「佐和ちゃんの気持ちも分かるけど、なんとなく嫌な感じがするのよね。しばらく様子見ということで、捕獲作戦は中止しましょ。ごめんね、みんな振り回して」
僕も、そのほうがいい気がして頷いた。松崎も異存はないという。彼は巻き込まれただけで、元々何の責任も無いわけだから当然だろう。だが、物井さんだけは思いつめたような表情で「わたし独りでも、モフモフさんを捕まえます」といって部室を飛び出していった。責任感が強すぎるのか、ただの意地か、それとも生みの親としての母性なのだろうか。
けれどその行動は少し心配だ。
「和貴、ごめん、追ってくれる」
ハルカ先輩に言われずともそのつもりでいたが、勝手にやれと言ったことに後ろめたさでも感じたのか、松崎まで「オレも行く」と立ち上がった。ひとりよりは心強い。
とにかく今は物井さんを追いかけないと。そんな気がした。
ドアを開ける。
既に日が落ちかけて、校舎内は暗くなっている。
廊下の端まではっきりと見渡すことが出来ない。
嫌な雰囲気だ。
「行ってくる」
「お願い」
僕達は部室を後にした。