要するに触手の話なんだよ
第四話『君は泣いて私が笑って』
「お姉ちゃん、次はどこに行きたい?」
「そうねえ。天気もいいし、ちょっと外に出ましょうか」
「わかった」
きいきいと音を鳴らしながら、陽子さんが乗る車椅子を押す結。
白を基調とした建物。人間たちの声が反響し、独特の空気を形成している。……私と結は病院に来ていた。陽子さんが怪我をしてから一ヶ月、結の学校が終わり次第、毎日ここに来ている。鞄に入れられている私は、陽子さんの膝の上に居た。“ぎぷす”という硬い物を足につけている陽子さんの怪我は、話に聞くと完全に治るまで三ヶ月かかるらしい。それまでの間、何か特別なことがない限り、結は毎日行くことになったようだ。それというのも、怪我をした当日に家族水入らずで話をした結果こうなったとのことなのだが。
その日、何を話したのかは聞かされてないのだが、上で笑い声を交えながら楽しそうに話している二人の会話を聞いていると、底なしに安心できる。……私は知らなくていいさ。こうして今、二人が笑いあっているのだから。
『君は泣いて私が笑って』
時は一ヶ月前まで遡る。
触手が家で初めてのポテトサラダ作りに挑戦している頃、結はあまり使わない自転車に跨り、一人病院へ向かっていた。カゴに入れてある林檎が傷まないよう、少し緩めにペダルを漕いで。
病院に着くと、気持ち速めに足を動かし受付へ。姉の氏名を口にし、今の状態を聞く。返ってきた答えは“要安静”。いくら早熟とは言えまだ十三歳の結には、その、“要安静”がどの程度のものなのかがわからない。面会は出来るとのことなので、病室の場所を聞き、意識せずとも速くなる歩調を抑えながら、結は姉がいる病室へと向かう。ネームプレートが掲げられた病室の目の前まで来た結は、扉に手をかけたところで動きを止めた。プレートに書かれた名前は“茅山陽子”と、部屋を間違えたわけではない。
「すう……はあ……」
結はその場で大きく息を吸い込み、吐き出す。……何故なのかわからなかった。心臓が高鳴り、扉に触れる手は汗ばみ、体が動かない。それら全てが“初めて”の体験だった。鼻がツーンとするような、心臓をわしづかみされるような感覚。それに戸惑った結はここで引き返し、家に帰ることも考えた。でも、と。すぐさま踏み止まる。触手さんが言っていた、わからなくてもいいんだと。これが普通、これでいい、こうなったんだ。この辺りはまだ幼いと言うべきなのか、結は自らを動かすきっかけとして力強くまぶたを閉じた。眉間にしわが寄るくらいに、強く強く。これで目を開けたら部屋に入ろう、そして、いつもみたいに嫌な態度で困らせてやろう。
そうして、瞼を開いた。しかし、何かがおかしい。目の前にあった扉は消えており、代わりに背が高い白衣のおじさんが扉のあった場所に立っていたのだ。結は驚いて後ずさると、目の前の男を見上げる。
「おや、どうしたんだい。迷子かね?」
「……」
しわだらけの固そうな顔に似合わず、目の前のおじさんは柔らかく微笑みかけてきた。……たぶん、“こんなの”なのかな、と。結は目の前の男を見て、“触手さんが人間だったらこんな人なのかもしれない”と、どことなく雰囲気が似ていることで拍子抜けしてしまう。
「――あら、もしかして、結?」
「……お姉ちゃん?」
結が自分でもわからないが呆けてしまっていた。そんな時、病室の奥から声が届く。それは毎日聞いている、聞き覚えのある声で、思わず目の前にいる得体の知れない男のことを忘れて、無防備に答えてしまう結。
「おやおや。それじゃあこの子が今さっき話していた結ちゃんなのかい?」
「ええ、可愛いでしょう? 自慢の妹なんですよ」
「……」
何故だかわからないが褒められているのだと感じた結は、急に居心地が悪くなってしまう。扉の前で瞼を閉じた時の決意はどこへ消えたのやら、今では帰りたい気持ちでいっぱいだ。そんな結を気遣ってか、白衣の男は“それで、お邪魔しました。後は家族でごゆっくり”などと言い残し、この場から去ってしまった。……たぶん、あの人はお医者さんなのだろう。それをわかっていても、知らない人と話すことが苦手な結は、この場からいなくなってくれたことで安堵の溜め息を漏らす。
「なあに、結、そんなところに立って。早くこっちに来て頂戴よ、なんせ結からあたしに会いに来てくれるなんて久しぶりなんだから」
「大げさだよ……」
陽子に急かされ、結は扉を閉めながら病室に入る。白が目に付く部屋で、個室のようだ。壁が白、レースのカーテンも白、ベッドもシーツも白、近くに置かれた椅子、ご丁寧にもスリッパまで白。こうまでして白くするのには、なにか理由があるのだろうか。などと考えながら、結はベッドの脇に置かれてある椅子にちょこんと座る。
それを見た陽子は微かに微笑むと、上半身を起こす。
「よっこらせっ、ぐおっ、足いてえ」
「お姉ちゃん、言葉づかい。それに、動いちゃ駄目だよ」
「んもー、口うるさいわねえ。どうせあたし達しかいないんだからいいでしょうに」
そう言って悪態をつきながら、一息。陽子は足の痛みを無視しながら、結に向き直る。まさか交通事故なんかに当たってしまうとは、季節ごとに買っている宝くじにその運を使って欲しいわよね、と軽い口調で結に話しかける。しかし、結は姉の容態がどのていどのものなのか未だに把握しておらず、姉をこのまま喋らせておいていていいのか、しばし考える。そんな結の態度が気に入らなかったのか、陽子は身を乗り出して結のこめかみをグーでぐりぐりと押し始めた。
「いたたたたたたたた」
「お姉ちゃんが痛がってどうするの……。やっぱり寝てなきゃだめだよ」
「だって、ねえ」
ちょっと後悔しながら、陽子はギプスで固められている足を憎らしそうに見つめる。それから今度は首だけ結に向けると、自分の怪我がどの程度なのかを淡々と話し始めた。ナイスダンディな医者の話では、それはもう綺麗にポッキリいっているとのこと。それだけに治るのは早いが、リハビリにはそれなりの時間がかかると。もちろん会社は休まねばならず、入院している間、結は家で一人で過ごさなければならないということ。
そこまで聞いて、結は“触手さんがいるから大丈夫”、と。少し怒ったような口調で話の腰を折る。陽子は一瞬まるで母親のような穏やかな笑みを浮かべると、“そうね”と一言だけ。
「触手さんはあたしから見ても、とてもいい人よ。いえ、人って言うのはちょっと違うかもしれないわね。けど、触手さんがもしも人だったら、あたしったら本気で恋しちゃうわ。それくらい、いい“人”」
「……お父さんみたい、だよね」
「……そうね」
少しばかりの沈黙が流れる。さっきまでお互いの顔を見て話していた二人は、いつの間にか別々のところを見ていた。しかし、考えていることは一緒なのだろう。
「あの「あのね」」
「「……」」
新たな話、前々から続いていた話、終わらない話。その、“一つ”の話を切り出そうと思ったが、それは二人とも同じだった。不意に被ってしまった二人は、またも沈黙を許す。……なにをやっているんだ、と。陽子は心の中で一人ごちる。
こうじゃないだろう、今はまたとない機会なんだ。今言わずして、いつ言うんだ。あたし一人の偽善のために、結が苦しむことはない。知ったとしても、何も変わらない。だから、言ってしまえ。“あたし達の親はもう死んでいるんだ”、って。…………その一言が言えないで、あたしは何年過ごしてきたんだろう。もう言わなくてもいいんじゃないのか。このまま時が流れれば、結も大人になる。その頃には、あたしなんか目に入らないくらい、いろいろな人と知り合って、そんな人達の中の一人と結婚して――それでいいじゃないか。今、言わなくても。
「――いいよ、言わなくても。わたしは、気にしないから」
「え?」
「なんとなくわかってた。お姉ちゃんはお父さん達のことを何か知ってるって。それが、あまりいいことじゃないこともわかる。お姉ちゃんは気にしなくていいんだよ、わたしが“こう”なのはわたしが自分で選んだことなんだから。お姉ちゃんなんて関係ないんだから。お姉ちゃんは、いつも通りだらしなく起きてきて、慌てて会社に行って、そうしてればいいんだよ。お姉ちゃんは、お姉ちゃんは、どこにも、行かないでよ……」
わからなかった。自分の口から零れ落ちる言葉、頬を伝う熱いもの、しゃっくりのように喉がひきつく感じ。そのどれもがわからなくて、だけど、全部言いたかったことだった。つまらない好奇心で、お姉ちゃんが“それ”を話してしまったら、どこか遠くへ行ってしまいそうで。だから、早くよくなってほしい。家に帰ってきてほしい。いつも通りでいたい。
気が付けば、結は陽子の腕の中で泣いていた。結にここまで言葉を発されたのは久しぶりで、陽子は戸惑うも、結の頭を撫で続ける。そうしなきゃいけない気がしたから。……正直、驚いた。結はあたしのことなんて嫌いで、話もしなくなくて、避けられていると思っていた。それにつられて、あたしも結との接点を少しずつ無くしていた。最近じゃ、触手さんが来るまで食卓の場でさえもバラバラになっていた。けど、それを変えようとも思わず、このままでいいと、そんなことすら考えていた。……結は話したんだ。固まっていたものを、自分の力で壊してくれた。だからこそ、あたしは、言わなきゃいけないと思う。
「結、ごめんね。あたしも言いたいことがあるんだ」
「それはっ、いいよぉっ」
「……あたしはどこにも行かないわ。そんなことがあってたまるもんですか。結、これはね、一つのけじめなの。あたし個人のわがまま。だから、結は耳を塞いでてもいいし、部屋から出て行ってもいい」
結は滅茶苦茶になった頭を必死に冷静にしようと深呼吸を繰り返す。大丈夫、お姉ちゃんはどこにも行かない。わたしは一人にならない。わたしが勝手に思い込んでいたこと。だから、大丈夫。聞こう。
落ち着いた結を見て、陽子も深呼吸。別に大したことじゃない。たった一言話すだけでいい。
「あのね、お父さん達は――」
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「どうですかね、その後の具合は」
「順調ですよー。この調子なら一ヶ月は縮まりますね。ああもう! このあたしを轢き逃げってった飲酒野郎を早く捕まえて民事で色々な物を根こそぎ奪いたい気分ですわ」
「その元気があれば、言うとおり一ヶ月くらい早く退院できそうですな。まだその運転手は捕まってないようですが、まあ、足一本で済んだと思えば安いものですよ」
はっはっは、と。快活な笑い声を空に響かせながら、私の頭上で楽しげな会話が繰り広げられている。私はそんな心が軽くなる声を聞きながら、息を潜めて物思いに耽る。
“りはびり”という行動をしている陽子さんは、結の話を聞く限りとても順調とのことだった。三ヶ月かかると言われていたそうだが、この分ならば二ヶ月ないし一ヶ月とちょっとで家に帰れると。……多分、私の与り知らぬ所で二人は頑張ったのだろう。“あの日”、結が病院から帰ってきた。頑張ったがやはり失敗してしまった私の料理を、腫らした目を細めながらおいしいと笑ってくれた結。あの日から、結はまるで人が変わったように明るくなった、学び舎へ行くことに文句を漏らさなくなったし、昼食は一人で摂らなくなったし、なにより教室ではほんの少しだが、話せる人間も増えた。家に帰ってくれば今日楽しかったことや陽子さんのことを笑いながら話す。……私の、理想。
「……さん、触手さん」
「……む」
「ちょっと向こうの方で遊んでこようよ。お姉ちゃんったら、なんかあのおじさんと話し始めると止まらないんだよ」
無い耳でも遠くなったのだろうか。ぼやけた無い頭を振って、“今ならいいよ”という言葉に従い、鞄から少し体を出し、結の体の影から車椅子の傍に立つ男を見る。遠めに見ても優しげな雰囲気をまとっていて、朗らかな笑顔は人でない私でさえ安らかな気持ちにさせてくれる。陽子さんは口に手を当てながら楽しそうに笑っていて、なるほど、これは“邪魔”をしたくないな。私が上を見ると、丁度結と目が合い――私には目がないが、そんな感じだ――、ね? といった風に再度結は陽子さんの方に視線を移す。だが、それも飽きたのだろう。数瞬もしない内に、結は“向こう”とやらへ歩き始めた。
少し歩いた先に開けた場所があった。丘の上に建っているからだろう、裏手には一望とまではいかないが、それでも目前に町並みが広がる景色が目に映った。……だが、遊ぶところではないだろう。私は鞄から器用に腕を使って地面に降りると、いつの間にか地面に腰を下ろしている結の隣に落ち着く。じめじめとした“すーぱー袋”とは違い、爽やかな風が体を撫ぜる。
何か話したいことがあったんだろう。なんだかんだと、私はそれなりの時間を結と過ごしている。なんとなく結のやりたいことはわかるし、何を考えているのかもわかる。当の本人である結は、以前に戻ったように、呆けた表情で遠くにある海を見つめている。そろそろ寒くなる季節だ、潮風に当たっていては風邪を拗らすかもしれない。私は早く結に話をしてもらおうと思った瞬間、結が口を開いた。
「触手さん、外って楽しいよね」
「……そうだな」
「わたしね、外が楽しいのは知ってたよ。海に行くのも好きだし、森に入るのも好き。小さな虫や動物が好き。……でも、人が嫌いだった」
何かが吹っ切れたような表情。もう結は心配要らない。私が何もしなくとも、結は陽子さんと一緒なら、元気でやっていけるさ。……私なんていなくとも、結なら上手くやっていたと、今なら思える。
「わたしにはお姉ちゃんしかいなかった。そんなお姉ちゃんが、わたしに隠し事をしていた。中身もそうだけど、なによりもわたしはそれが嫌だった。気付いたら、“あんな”になっちゃって」
ふふっ、と、おかしそうに笑う結。そんな結につられて、私も精一杯“笑って”みようと、体を歪める。
……風が吹いた。強くはない、弱々しい風が一陣、私の体を通り抜ける。そのまま、私は地面に転がってしまった。おかしい、腕に力が入らない。何も聞こえない。声が出せない。
「……! …………!」
結が何か喋っている。聞こえない。何もわからない。
意識が……。
▼
つづく