1、2001年11月、あさみ
夕食が終わった後、都築あさみは姉の遼子とリビングでテレビを見ていた。ダイニングキッチンでは母がせわしなく動いて食器を片付けている。あさみはそんな母の方をちらちらと気にしながら、42型テレビの正面に置かれている4人掛けソファーの左端に背筋を伸ばして座っていた。
11歳の少女が家でくつろいでいるにしては、やけにおどおどとした様子に見える。1つ上の遼子があさみとは反対側の肘掛けに身体を寄りかからせ、ほとんど寝そべるような格好をしているのとは対照的だった。
テレビからはひっきりなしに大きな笑い声が溢れ出ている。あさみはテレビと同じタイミングで笑う遼子や、かすかに聞こえてくる食器を洗う音が気になって、どこで笑えばいいのかが分からなかった。
そんなあさみの素振りには理由があった。あさみはキッチンで洗い物をしている母の本当の子供ではない。この家に住み始めたのも、ほんの1ヶ月前のことだった。
あさみは都築家の父である浩一郎の愛人の子として生まれ、この家に来るまでは実母とマンションで暮らしていた。しかし、あさみの実母は3ヶ月前に癌でこの世を去った。
あさみの実母は自分の余命が少ないことを知ると、そのことをあさみに包み隠さず話し、自分が死んだ後にどうすればよいかをノートに書いて渡していた。あさみが呆然としたまま受け取ったノートには、都築家のことは一行も書かれていなかった。
実母の死後、親戚や頼る人がいなかったあさみは児童養護施設で暮らしていた。周りの暖かい対応で、ようやく新しい生活にも馴染んできた頃、突然、浩一郎があさみの父と名乗って施設にやってきた。
あさみは浩一郎を見知っていた。母が病気になる前、浩一郎は月に1度ほどのペースであさみと母が住むマンションに通っていた。浩一郎は無口だったが、時折、あさみを見て微笑むことがあった。あさみは浩一郎のことが嫌いではなかった。
だが、母が病気になってからは浩一郎が姿を見せることはなかった。そのためにあさみは浩一郎のことを思い出すまでにしばらく時間がかかった。
あさみにとって浩一郎はその程度の存在だった。当然、浩一郎が父であるなどとは夢にも思わず、母も、昔お世話になった人だとしかあさみに伝えていなかった。
あさみは訳の分からないうちに施設を出ることになり、都築家で暮らすようになった。その時に苗字も木原から都築に変わった。都築家はこれまで住んでいた場所からは離れていたため、小学校も変わることになった。母が亡くなった時に側にいてくれた友人とも会えなくなった。
新しい家にはあさみにとって他人でしかない母と姉がいて、唯一、知った顔の浩一郎は仕事が忙しいのか、殆ど家にいることがない。母も姉もあさみを優しく迎えてくれたが、それは他人行儀なものでしかなかった。
あさみは全ての慣れ親しんだものから切り離されて、ガラスの檻に閉じ込められたような気がしていた。
ルルルルルルル・・・・・・、ルルルルルルル・・・・・・。
電話の着信音が鳴っている。母は洗い物の手を止め、電話機を探した。
「遼子ー、電話どこにやったのー?」
キッチンから母が大き目の声で遼子に問い掛けた。
「あー、ごめーん、部屋に持ってったまんまだー」
「えー、しょうがないわねー」
母はそう言って、自分たちの寝室へ向かった。寝室は子機のある部屋の中で、キッチンから1番近い場所にあった。
「はい、都築でございます。
あらー、ご無沙汰しております。お元気でした?」
扉を開けたままにしているのか、いつもより1オクターブ高い母の声がリビングまで聞こえてきた。母の電話はいつも長くなる。この1ヶ月だけでも、1時間以上は話していたことが何度かあった。
あさみはソファーから立ち上がってリビングを出た。キッチンには、まだ洗われていない食器がシンクの脇に重ねられていた。
この家に来てすぐの頃、あさみが洗い物を手伝おうとした時、母はそんな気を遣わなくてもいいと言った。あさみにとっては、見知らぬ場所で何もせずにテレビを見ている方が、よほど気を遣う行為だった。
あさみはシンクの前に立ち、洗い物を始めた。スポンジも台所用洗剤も優しい感じがした。マンションに住んでいた頃、洗い物はあさみの仕事だった。当時のことを思い出しながら、あさみは慣れた手つきで食器を洗っていった。
やれることがあるのはいいな、と、あさみは思っていた。この家に来て、初めて落ち着いた心持ちになれたような気がした。
「いえいえ、とんでもありません。
ええ、本当にまたよろしくお願いします。ごめんください」
楽しげな母の話し声が止んだ。あさみはもう殆どの食器を洗い終えていた。母は喜んでくれるだろうかと、あさみはわくわくしていた。
「ちょっと!何してるの!」
キッチンに戻ってきた母は、洗い物をしているあさみを見ると、怒りの混じった鋭い声であさみを怒鳴った。あさみは胸の中で心臓が破裂したように感じた。世界が一瞬、真っ暗になる。その拍子にあさみは手に持っていた皿を落としてしまった。皿は派手な音を立てて、床に破片を飛び散らせた。
「ああ!もう!」
母は苛立ちのままに声を上げた。あさみは恐る恐る母の顔を見た。
母はあさみをどうしようもないものを見る目で見ていた。あさみは初めて母の本当の感情を見たような気がして、できることなら、今すぐにここから消えてしまいたいと思った。
俯くと、嫌でも割れた皿が目に入った。あさみは皿を拾おうとしゃがみこんで、破片に手を伸ばした。
「触らないで!」
再び浴びせられた母の鋭い声にあさみはビクリと身体が震え、そのまま動けなくなってしまった。
「もういいから、あっち行ってなさい」
母はそんなあさみを立たせてキッチンの外に追いやると、大きな破片を拾い上げて不燃用のごみ箱に捨て、細かい破片は掃除機で吸い取っていった。割れた皿は瞬く間に片付けられ、あさみはその様子を身動きひとつせずに見つめていた。
「お皿にはね、それぞれ洗い方があるのよ。
今度、教えてあげるから一緒にやりましょう」
真っ青な顔で立ち尽くしているあさみに、母はいつもの優しい口調で言った。
だが、あさみはもう母の優しさを信じることができなかった。あの時のあの目が、母の本当の気持ちだとあさみは思った。
この小さな事件があってから数日後、あさみは自分という存在が、母からすれば浮気相手の子供であるという事実を理解した。そして、やはりあの目が母の本心であると確信した。
あさみがキッチンに入ることは2度となかった。