Neetel Inside 文芸新都
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ガラスの檻
始めないこと、始まること

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5、始めないこと、始まること

 1年5組では現代文の授業が行われていた。朝からの曇り空は6時間目になっても晴れることはなく、明かりのつけられていない教室は薄暗かった。

「つまりここでは筆者が『市民』という言葉をどう捉えるべきかを・・・・・・」

 国語教師のぼそぼそとした声が、どんよりとした雰囲気に拍車をかける。教室後ろの窓際の席に座っていた宮原亜季は、頬杖をつきながら眠そうな顔をしていた。教科書に並ぶ文字が眠気のせいで模様のように見え、傍から見て分かるほど、亜季の身体は前後に揺れ始めていた。
 一方、教卓のすぐ前に座っているあさみは、大半の生徒が猫背気味になっている中で、背筋をしゃんと伸ばしていた。国語教師の顔を真っすぐに見て『ちゃんと聞いています』といった表情をしている。

「・・・・・・そして能動的な市民としてのあり方がここでは述べられている訳ですね」

 国語教師は生徒たちに背中を向けて板書を始めた。あさみはその隙にちらりと腕時計を見る。なかなか進まなかった時計の針は、ようやくあと5分で授業が終わる時刻を指し示していた。
 現代文はつまらなくて意味がないとあさみは思っている。知らないことを教えてくれるでもなく、興味のない話を何時間もかけて読んでいくだけの授業。せめて問題演習の時間をもっと増やすようにすれば、ここまで退屈にはならないのにと思いながら、あさみは板書をノートに書き写していた。
 がたっ、という大きな音が教室の後ろから聞こえ、あさみは思わず音のした方を振り返った。そこには頬杖から頭がずり落ち、慌てて机にしがみついた亜季の姿があった。教室中の視線を集めてしまった亜季は、照れ笑いを浮かべながら国語教師に向かってぺこりと頭を下げた。国語教師は苦笑いを浮かべて板書を続けた。

(都築さん、びっくりした顔してたなー・・・・・・)

 亜季は気恥ずかしさを感じて、あさみの後姿に目をやった。華奢な背中に細い真っすぐな黒髪が伸びている。亜季の席からだと背筋の伸びたあさみの姿は一際目立って見えた。
 亜季が初めてあさみを見たのは入学式の時だった。新入生代表として壇上に上がるあさみは自分よりずっと大人びていて、同じ新入生とは思えなかった。中学時代の友人とは悉くクラスが分かれてしまった亜季は、あさみが同じクラスだと気付いて話しかけてみた。
 実際に話してみると、あさみは気さくで穏やかな印象だった。それでいて、やはりどこか大人びた雰囲気があり、優しい先輩と話しているような気がした。亜季はあさみとよく話すようになっていた。

 キーン、コーン、カーン、コーン
 キーン、コーン、カーン、コーン

 6時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、生徒たちは息を吹き返したように筆記用具を片付け始めた。起立、礼、という日直の声で長かった6時間目が終わり、椅子に座り直した亜季は、んーーー、と言いながらひとつ伸びをした。
 今日は放課後に各部活の説明会が行われる。亜季は、同じ高校に進学した2組の糸川美由紀を誘って陸上部の説明会に行くつもりだった。
 亜季は現代文の教科書を机にしまい、英語の教科書とノートを鞄に入れて席を立った。亜季の机にはすでに教科書がぎっしりと詰めこまれている。予習の必要がない現代文などの教科書は、このまま中間テストまで持ち帰られることはなさそうだった。

「やっちゃったよー、恥ずかしー」

 亜季はあさみの横で立ち止まると、照れくさそうに言った。あさみは嫌味にならないよう注意しながら微笑んだ。

「5時間目体育だったし、しょうがないよ」
「都築さんも授業中、眠かったりするの?」
「するよー。今だって結構眠かったもん」
「そうなんだ。ちょっと安心」

 屈託のない笑顔を浮かべている亜季を見て、何が安心なんだろうとあさみは思った。本当は授業中に眠くなったことはない。勉強ができる人は違うね、などと思われるのが面倒だから一般的なことを言っているだけだった。
 入学初日から話しかけてきた亜季のことを、あさみは少し鬱陶しく感じていた。自分のことを話し、いろいろなことを聞いて、どんどん近づいてくる。亜季と話していると、これまで作ってきた自分が崩されてしまいそうで、気を抜くことができなかった。

「そういえば、都築さんって何か部活やるの?」
「いまは決めてない。でも入るとしたら文科系かな。運動苦手だし」
「えー、運動神経よさそうなのに」
「ぜんぜん駄目だよ。宮原さんは何かやるの?」
「私は中学の頃から陸上部。走るの好きなんだ」
「あ、そんな感じする。今日って説明会あるんだよね。時間だいじょうぶ?」
「あ、そうだね、そろそろ行かないと」

 亜季は腕時計を見て言った。ちょうどその時、廊下から亜季を呼ぶ声がした。

「亜季ー」

 廊下には美由紀が立っていた。後ろには真山満と、もう1人亜季の知らない男子が立っている。あさみは声のした方を見て、一瞬、息を呑んだ。
 そこには将範の姿があった。将範もあさみに気付き、2人の視線が重なった。あさみは反射的に目を逸らしてしまった。

「中学の友達。ずっと陸上部で一緒だったんだ」
「え、あ、そうなんだ」

 あさみは懸命に平静を保とうとしていた。幸い、亜季はあさみの変化に気付かなかった。

「じゃあ、私行くね」
「あ、うん。じゃあね」
「バイバイ」

 ひらひらと手を振る亜季にあさみも小さく手を振り返す。教室を出ていく亜季を見ていれば、また彼と目があってしまうかもしれない。そう思ったあさみは視線を自分の鞄に落とした。教科書を確認しているふりをして、廊下に出た亜季の声が遠ざかっていくのに集中していた。
 完全に亜季たちの気配がなくなってから、あさみはようやく教室の扉に顔をむけた。当然、そこに将範の姿はなかった。
 あさみは小さく息をついた。緊張がなくなると頭の中にいろいろな思いが浮かんでくる。中学の友達、ずっと陸上部で一緒……。わざわざ迎えに来るんだから仲がいいんだろうな。宮原さんのことだから、ちょっと聞いたらいろいろ話してくれるかもしれない……。

 そう思った時、あさみは自分の考えていたことが急に恥ずかしくなった。

(そんなことをわざわざ聞く必要なんてない。彼のことは入学式の時に目が合ってなんとなく覚えていただけ。それだけなんだ)

 あさみは鞄に教科書を入れ終えるとそっと教室を出た。
 あさみの机の中は空っぽになっていた。

     


「お待たせー。えっと・・・・・・」

 教室を出た亜季は美由紀たちに声をかけると、満の後ろに立っている将範の顔を軽く見上げた。将範は背が高く、がっしりとした身体つきをしている。目が合っても無表情なままの将範に対して、亜季はかすかに戸惑った様子を見せていた。

「あ、こいつ同じクラスの小島。俺とおんなじ110mハードル。大会で見覚えあるなと思って声かけてみたら、やっぱそうだった」

 満に紹介された将範は、亜季に向かって表情を変えないまま口を開いた。

「小島です、よろしく」
「あ、宮原です、よろしく」

 将範が低い声で亜季に自己紹介をすると、亜季もつられて取ってつけたような自己紹介をした。ぎこちない2人のやり取りを満が茶化した。

「小島、かたいって。宮原怯えてるよ。ただでさえ顔怖いんだから自重しろ」
「そうか?」
「いやいやいや! 全然そんなことないよ!」

 亜季は慌てて首を横に振った。

「そんな、気ぃ遣うなって。な、小島」
「ああ、よく言われるんだ。『何か怒ってる?』って」

 将範はほんの少し笑顔を浮かべた。無理に作ったような笑顔だったが、それだけで亜季の戸惑いは綺麗になくなってしまった。表情の柔らかくなった亜季は将範に言った。

「ほんと、そんなことないって。小島くんってどこ中だったの?」
「一中」
「一中って結構いいコーチがいるところだよね?」
「いいかどうかは分からないけど、厳しかったよ。おかげで記録も伸びたと思うけど」
「いいなー、私たちなんて練習メニューから全部自分たちで決めてたよ。ねー」

 亜季は美由紀に言った。美由紀は当時のことを思い出して眉間に皺を寄せた。

「そうそう。顧問も適当でさ、その癖余計なことには首突っ込んできて、私たちで直談判しに行ったこともあったんだよ」
「ああ、それ、真山から聞いた。宮原さんが切れたんだろ?」
「?! ちょっと、真山! なに話したの?!」
「あったことをそのまま」
「ちょっと・・・・・・もー!」
「いいじゃん、俺たちの武勇伝なんだし」
「よくない、バカ真山」

 じゃれ合う亜季たちを見ているうちに、将範の表情も柔らかくなっていた。自然に表情が変わるのは将範にとって珍しいことだった。
 父に殴り倒されたあの日から、将範は感情の起伏が少なくなった。目の前で起こっていることに現実感を感じられなくなり、ガラスを隔てて世界を見ているような感覚になった。それに合わせて表情も乏しくなり、周りから怖いと言われることが多くなっていった。
 自覚のあった将範は、嬉しいと思った時には嬉しい顔を、悲しいと思った時には悲しい顔をするように意識していた。数は少ないながらも、そんな将範を理解してくれる友人は何人かいた。高校に入ってから出会った満も、そんな友人の1人になりそうだと将範は思っていた。

「それじゃ、そろそろ行きますか」

 頃合を見計らったように美由紀が言い、4人は説明会が行われる第2理科室へと歩き出した。その時、将範は教室にちらりと目を向けた。視線の先には、下を向いているあさみの姿があった。



 4人は男子2人を前にして歩いていた。亜季たちは、満が将範にあれこれと話しかけ、将範が言葉少なに答えている様子を後ろから見ていた。

「真山、小島くんのこと、ずいぶん気に入ってるんだね」

 昔からの友達同士のように話す満と将範を見て、亜季が言った。

「教室でもずっとあんな感じ。やっぱりハードル同士、話が合うんじゃない?」
「そっか」
「亜季の方は友達できた? さっき話しこんでたみたいだったけど」
「うん、都築さんっていうんだけど、ほら、新入生代表だった」
「あー、スラっとした綺麗な人でしょ。さっきはよく見えなかったけど、覚えてる覚えてる」
「そうそう、大人っぽくて雰囲気違うんだよねー」
「でも、おとなしそうじゃない? なに話すの?」
「普通だよ。どこ中? とか、部活やるの? とか」
「話にのってくる?」
「どっちかっていうと合わせてくれてる感じ。あ、もしかして私って今の真山みたいなのかな・・・・・・?」

 亜季はまじまじと前を行く2人を見つめた。その視線に将範が気付いて振り返った。

「何?」

 将範はまた、微かな笑顔を浮かべて言った。将範の顔が次第に優しく見えてきて、亜季は初対面の時とは違う戸惑いを感じ始めていた。

「あ、えっと、小島くんって大っきーなーと思って。何センチ?」
「185」
「へー、それだけあったらハードル有利だね」
「おいおい、タッパある方が有利なんて都市伝説だっての。日本記録の為末が169だって知らねーの?」

 171センチの満が話に入ってきた。改めて見てみると将範と満は身長にだいぶ差があり、将範の肩のあたりに満の頭が位置していた。

「知ってるけど、歩数少ない方が有利なのは確かでしょ?」
「そんなん、ストライド大きくすれば問題なし。問題は大きなストライドを維持するだけの筋力をつけられるかどうかだって」

 満がムキになって言った。それを聞いて美由紀が笑いながら言った。

「真山、真山。それって前、亜季が真山に言ったことじゃん」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ。『記録伸びねー、足短けーからかなー』ってあんたが言ってた時に、亜季がアドバイスしてたでしょ?」
「あー、そうだったわ。なんだよ、宮原も忘れてたのか?」
「・・・・・・忘れてた。言われて思い出したよ」

 亜季は照れくさそうな笑顔を浮かべた。

「ま、そのアドバイスのおかげで、俺は順調に記録を伸ばし、全国一歩手前までいった訳だ」
「真山の自己ベストって俺と殆ど変わらないだろ」

 調子に乗ってきた満に将範が言った。

「一歩手前は一歩手前だ」
「じゃあ、俺も全国一歩手前だったのか。惜しかったな、もう少しで宮原さんと全国行けたのに」
「え? 小島くん、私のこと知ってたの?」

 亜季は驚いて将範の顔を見た。本人に自覚はなかったが、将範はとても自然な笑顔を浮かべていた。

「俺たちの代で陸上やってて、宮原さんのこと知らない奴はいないと思うよ」

 亜季は将範の顔を見つめながら、みるみる頬を赤くしていった。満はそんな亜季を見て呆れたように言った。

「宮原ってほんと自覚ないのな」

 そう言うと、満は下半身のトレーニングについて将範に話し始めた。満の方を向いてしまった将範を見て、亜季は複雑な顔をして下を向いた。

「小島くんさ、亜季の話をした時に珍しく食いついてきたの。あんまり顔にでないタイプだと思うけど亜季に会うの楽しみにしてたんじゃない?」

 美由紀が頬を赤くしたままの亜季に言った。亜季は何かを考えているようで、押し黙っている。

「・・・・・・亜季? 照れてんの?」
「・・・・・・私さ、真山の気持ちがちょっと分かった」
「は?」

 美由紀は亜季の顔を覗きこんだ。亜季は美由紀に真っ赤な顔を近づけると、そっと耳打ちをした。

「・・・・・・小島くんって、いいよね」

       

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