Neetel Inside 文芸新都
表紙

ひとりなふたり
4.『感情論』

見開き   最大化      

 五月も半ばに差し掛かると、ちょうど春の花々が散って葉をつけていくのと同じように春の浮かれた気分から、安定した生活へと意識もスイッチしてくる。
 僕はというと、これまでの人生で最も楽しい学校生活を送っていた。華こそないが安定していて、少ないけど友達もできて、僕にとっては凄く過ごしやすい。反対に姉はいつも通り、単調に、感情を表に出すことなく日々の暮らしを送っていた。僕は家に帰っても倉木たちとメールしたりする機会が増えたから、姉にはあまり自分のことを話さなくなっていた。

「――私の苗字? あれ、知らなかったっけ」
 倉木が下の名前を呼んでるのしか聞いたことない、と僕が言うと、
「東堂。東の堂って書くの――食堂の堂ね」
 ユリは、いや、東堂はわざわざ空に指で文字を書きながら言った。
「というか、赤外線で人に送る自分の名前くらい、フルネームで入れときなよ」
 ようやく手に入れた、電話帳の東堂の項目。その名前の欄に、手動で苗字を足しながらツッコむ。
「面倒だし、なんだか、私って昔から下の名前でばっかり呼ばれるから」
「まあでも、俺は東堂のこと、苗字で呼ぶし」
 まるで、にわかスポーツファンが覚えたての専門用語を使いたがるかのように、僕はセリフの中に彼女の苗字を織り込んだ。
「んー、むしろそっちのが違和感あるなあ」
「なんて呼ばれるの? 呼び捨てだけじゃないでしょ」
「ユリ、ユリちゃん、ユリさん、とか」
 たぶん、それぞれ同級生、先輩、後輩、からの呼称なんだろう。もうちょっと特徴のある愛称を持ってるかと思ったら、そうでもないようだった。
「ちゃん、はないな。イメージと違う」
 ――今やそんな口を叩けるくらい、僕たちは打ち解けていた。
「部活の先輩にはそう呼ばれるの」
 ひどい、と笑いながら口にする東堂のそのセリフで、僕は今気づいた。
「そういえば、マネージャーなのに部活あんまり出てないよね? いいの?」
「ホントはよくないけど、いいの」
 マネージャーは一人だけじゃないしね、と彼女は言う。
「そんなもんか?」
「そういう条件だったからね。三井君に強引に勧誘されて、それで週3回ねって」
 ああ、そういうことか……。でも三井、よっぽどマネージャー勧誘に熱心だったんだな。
 その後もなんてことのない会話を重ねつつ、僕たちは家路を進む。そして話題は、今日、珍しくここにいない人についてに移った。
「――そういえば、倉木、今日は風邪で休んだんだよね? 大丈夫かな」
「昼休みにメールで様子聞いてみたけど、ちょっと寝てたら良くなったみたい」
 そっか、よかった、と言った僕に、彼女はさらに続けた。
「これから、一緒にゆうの家来る?」
「え?」
「いや、私これからお見舞いしに行くからさ、一緒に行こうか、って」
 ――それはマズい。いや、マズくないんだろうけど、なんだかそう思えた。
 女の子の家だからか、男が僕一人しかいないからか、理由はともかく、行くのはためらわれた。
「いや、遠慮しとく。お大事に、って言っといて」
「そう、わかった」
 彼女にとっても予想通りの返答だったのか、東堂はそれ以上何も言わなかった。
 そして住宅街の中の歩道のない、車もあまり通らない十字路で僕たちは別れた。

 ――その日、僕は夕飯のあとから、倉木と他愛のない、声を電波に変えた会話を続けていた。前は散々戸惑っていたことでも、一度始めてしまえばどうってことはなかった。どうでもいいような会話を友達と、しかも女の子とできるのは、正直楽しかったし、彼女の外見から受ける印象なのか、元気な姉と話しているような感じがしていて、それも僕が彼女とのメールを楽しみにしている要因だった。
 風邪ひいてるとは思えないくらい元気だな、という旨のメールを返信したところで、僕は、本物の姉の方へと目をやった。テレビが点けっ放しだったから、てっきりそれを見ているかと思っていたが、姉は何やら分厚い本を読んでいる。
 ちょっと気になったから、僕は尋ねた。
「ねえ、何読んでるの?」
「心理学の本」
「なんでまた……。姉さんは文系だろ?」
「……ちょっと興味、あったから」
 意外だな、姉がそんなものに興味を持っていただなんて。それに、姉が何かに興味を持つこと自体が珍しい。
 字がギッシリ詰まった本に目を走らせる姉を見る。なんて返せばいいのか、よくわからなかった。そして、予想外の返答に戸惑ったせいか、僕はそれ以上その話題に触れるのをやめてしまった。
「へえ……最近、大学とかバイトとか、どう?」
「別に、普通」
 会話の進路を強引に捻じ曲げてまで、中途半端に姉の近況を気にかける僕のセリフは、どこか精彩を欠いていて、ちくはぐな感じがした。
「普通、か。よかった」
 当たり障りのない返事をして、また沈黙がこの狭い部屋に訪れる。会話が途切れたところで、僕は携帯の液晶画面に目を落とした。そこには『メール一件』の文字が、いかにも開けて欲しそうな手紙のアイコンと一緒に表示されていた。
 姉が何も言ってこないのを再度確認して、メールの本文を読んだ。
 今度、ユリも三井も連れて一緒に遊びに行こう、とのことだった。彼女の体調の話はどこへ流れてしまったのか、理解に苦しむが、これも彼女の特徴で、話題がコロコロ変わる。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりで落ち着かない。
 ――そのおかげで退屈することがないから、僕はその特徴が好きだった。
 僕は、「三井も一緒なら行ってもいいかな」なんて気のなさそうな返信をしてはいたが、心の中では、大きな楽しみが一つ膨らんでいた。
 
 さっきまでの静かな会話さえもなくなってしまった部屋には、無機質なテレビの音声と、姉が本のページをめくる音だけが聞こえる。そしてたまに、マナーモードにしっ放しの僕の携帯電話が震える。
 さっきの姉との会話は変なタイミングで途切れていたが、僕は別に、姉に対して返事を求めていない。だから、これでいい。
 向こうからは僕のことをめったに聞いてこない。でも、それでいい。今までもそうだったし、これからもそうだろう。
 それに、今はこうして話ができる友達がいる。だから、姉と話をしなくてもストレスがたまらない。それで十分だ。
 僕は、そう思っていた。
 ――でも、この日、姉の様子は違った。
「……最近、よくメールしてるね」
 姉が、ポツリと、唐突に言った。小さくて、か細い声だったけど、何故か僕の鼓膜に鋭く突き刺さった。
 姉の声には例によって抑揚がないから、このセリフにどういった意図や感情が内包されているかなんてことを読み取るのはとても難しい。姉の言葉に込められたものは、いつもその言葉の奥の奥に小さく丸めてしまってあるようであり、ひょっとすると、包みを開ければそこは空、なんてこともあり得たりするのだ。
「仲のいい友達が、何人かできたからね」
「そう、楽しそうね」
 楽しそう。その言葉を聞いて、僕の心臓は小さく跳ねた。
 図星だったからじゃない。別に隠すようなことでもないから、今は素直に楽しいと認められる。
 だけど、姉の口から「楽しそう」なんて言葉が出るのは違和感があった。

 ――姉はとっくに、そんなもの、忘れてしまっていると思っていたのに。

 姉がいきなり立ち上がった。何事か、と僕が質問しようとしたところを、姉が先に答えた。
「お風呂、入ってくる」
 彼女は持っていた本にしおりを挟むと、食卓の上に置いていってしまった。
 ――なんか、変だ。いつもの姉と違う。
(何ていう本だろう)
 そんな姉が読んでいる本が無性に気になって、手に取った。
(タイトルは――)
 ――『感情論』。それがこの本の題名だった。
 
 そのあとしばらくパラパラめくって読んでみたが、有名な心理学者が、「感情とは何か」について説いている内容だった。喜怒哀楽について、文章だけで学術的に述べられている様は、感情とは正反対な印象を与える。
 どういうつもりで、姉はこれを読んでいるのだろうか。それに最近、この本に限らず、姉の読書の量は増すばかりだった。
 いつもの姉とは何か違う。これが何の兆候かはわからないが、なんとなく、悪いことじゃないような気がした。僕が慣れていないだけなんだ、きっと――。

 そのとき脱衣所の扉が開く音がして、僕はビクッと震えて、あわてて本を元の位置に戻した。なんだか、黙って読んではいけないものだったような気がしたから。でもそんな心境とは裏腹に、僕はわざと、元の置き方と上下を逆にして本を置いた。
 「姉さんのこと、少しは興味持ってるよ」って、最近のそっけない態度に対するフォローだったのかもしれない。
 風呂から上がった姉は、本の向きなど気にもせずに、再び本を手に取った。

 最近僕が姉から離れてきているように、姉もまた、僕から離れて行くのだろうか――。
 その方がいい。このままお互いに一緒にいないと安定できない状態よりは、独立して、ひとりで暮して行けた方が。でも――いや、やめておこう。僕には『でも』が多すぎる。心の中には、常に対極である二つの感情が同時に湧き上がってきて、どっちつかずになる。このままじゃ、いけない。いつか、僕たちが別々に暮らす日が来るんだろうから。

 さっきの本を著した心理学者は、迷いについては述べていなかった。
 ――迷いだって、立派な感情の一つなのにな。
 僕が一番知りたい感情については、『感情論』に載っていなかった。

 倉木からの誘いで膨らんだ楽しげな気持ちも今やすっかり萎んで、それからしばらく、僕は自分の中の混沌とした感情と向き合うはめになった。

       

表紙

NAECO 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha