Neetel Inside 文芸新都
表紙

ひとりなふたり
6.その日

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 ――その病室の窓にはカーテンがかかっておらず、窓際のベッドで横になっている若い女性は、太陽の光の温かさを、ゆったりと感じていた。
 すると、その病室に、ひとりの男が入ってきた。何やら嬉しいことがあった様子で、ベッドの女性に話しかけた。
「今、見てきたよ。」
「そう……」
 それだけ言うと、2人とも嬉しそうに微笑んだ。
「――ねえ、名前はどうするつもりなの?」
「うん、希望はある」
 お前がそれで良ければだけど、と男は続ける。
「ひらがなで『ゆう』なんてどうだ? 優しいって意味も、友って意味も、勇気――いや、女の子に勇ましいっていう字はあんまりないか」
「――いい名前ね」
 微笑んだまま、女性が言った。
「いいのか?」
「あなたが決めた名前なんだから、文句ないわ。それに、ホントにいい名前」
「そうか、よかった」
 それにしても――、さらに男が続けた。
「お前に似てたな。涼しげな目をしてる」
「そう?」
 彼女はふふっ、と笑みを声にして漏らす。
「――大事にしよう。それで、お前のこともこれまで以上に大事にする」
 ――男が、誓った。
「うん、よろしくね」
 女は、応えた。
 ――太陽の光が、揺れた。



 ――一見、完璧に見えるタイプの人間というのは、どこか一か所でも柱を崩されると、これまでの強固さが嘘だったかのように壊れていく。
 彼もまた、そのひとり。
 彼の荒んだ心境とは裏腹に、その日の昼間は、天まで突き抜ける五月晴れだった。
 だが彼は、家に篭ったまま過ごし、夕方になると、幼い子供の前で妻に酒を買ってくることを要求していた。
「酒、買ってきてくれ」
「もう、やめた方が――」
「買ってこい」
 二度目は、命令だった。女はビクッと体を過剰に震わせると、財布を持って家を出て行った。
「ゆうのこと、見ておいてね――」
 子供を気に掛けるセリフを残し、自分の妻が消えると、男は自身の娘に目をやった。
「お前のせいで、こっちも生活が大変だよ」
 まだ3つにしかならない幼子に向かって、生活苦についての愚痴を垂れる。
「……おとうさん、ごめんなさい」
 自分は何も悪くない、なんて主張できるような年齢には達していない。彼女の心は、謝るべきだと判断したようで、それっきり、その小さな女の子は、自分の父親のことを怯えた目で見て、押し黙ってしまった。
「ちっ」
 それ以上反応しない娘に、石に話しかけた方がまだマシだ、とばかりに男は舌打ちする。
 会社をリストラされてから、何もかもがうまくいかない。失業してから始めのうちは、職安に行って仕事を探していたものの、思うような職は見つからず、最近は職探しさえやめてしまって、一日中家に居て酒をあおっているか、それでなければギャンブルで遊ぶ。当たればストレス解消になるし、金にもなるが、負けたときの彼の機嫌は最悪だった。だから、彼の機嫌は大抵最悪だった。
 こんな、ドラマによくあるみたいな生活苦、失業者の設定に自分が迷い込むなんて――。ドラマと違ったのは、いつまで経ってもエンディングが訪れなかったことだった。
 正直、家族に申し訳ないと思っている。このままでは、ダメだ、腐ってしまう――、とも感じている。それでもこの圧倒的な喪失感、倦怠感に押し潰され、酒の力を借り、自分の心を重圧から一時的に解放する。それでもたまにむしゃくしゃすると、賭け事に走り、そして、最愛の存在だったはずの妻子に当たり散らす。

――大事にする、そう、誓ったじゃないか。

「遅いな、あいつ」
 酒が切れて、しばらく経った。未だに妻は帰ってこない。一定時間喉をアルコールが通過しなければ、多少、思考もしらふに戻る。
 さっきは、またキツく当たってしまった――。
 ――何の責任も義務もない、小さな女の子に謝罪の言葉を発させるなんて。身も最低な場所に置いておきながら、心も最低だった。
「ゴメンな、ゆう」
 部屋の隅で丸まっている娘に声をかけた。返事はない。
「ゆう?」
 立ち上がって、様子を見に行く。
 彼の視界に入ってきたのは、無垢な寝顔だった。その無垢さは、彼の心にこびり付いた汚れを、少しだけ洗い流してくれたようだった。
「……ゴメンな」
 もう一度謝ると、押入れから毛布を出して、その小さな体を覆うようにかけてやった。
 そして、彼はゆっくり立ち上がると、妻を探しに、サンダルをつっかけて外へ出て行った。

 それから、近所の酒屋、スーパーなんかを回ってみたが、妻がいる様子はない。すれ違っちまったかな、と諦めて家に帰ろうとすると、商店街の一角に佇む、花屋が目にとまった。自分と正反対の美しさを持つ花々を見て、心臓が痛む思いだった。店頭に貼られたポスターの、「もうすぐ母の日、日ごろの感謝の気持ちを花に込めて――」という文句が網膜を刺激した。
 無意識だった。
「――カーネーション、ください」
 ――気がつくと彼の手には、赤いカーネーションを入れたビニール袋が握られていた。

 マンションの自室に帰ると、外出時にかけたはずの鍵が開いている。
 ――ああ、よかった。もう帰ってきている。ちゃんと、謝らなければ。
「ただいま」
 返事はない。
「いないのか?」
 部屋の隅を見ても、寝ていたはずの娘の姿はない。テーブルに目をやると、さっきまではなかった缶ビールが6本、置いてあるだけだった。
「おーい……」
 なんだ、また買い物にでも行ったのか、とソファーに腰を下ろす。ビールを飲む気にはなれなかった。
 そしてソファーに沈めた体に宿る意識も、眠りの中へと沈んでいった――。

 目を覚まし、部屋にかかった時計に視線を送る。
 ――もう、夜中じゃないか。
「おーい、いるかー?」
 またしても返事はない。

 彼は、三日三晩、待ち続けた。
 そして、悟った。
 もしかしたら、酒を買いに行かせたときに見せた妻の横顔は、自分の見る妻の最後の顔だったんじゃないか、と。
 ――もしかしたら、無垢な天使に毛布をかけてやったあの時、あれが自分と娘の共有する、最後の瞬間だったんじゃないか、と――。
 妻と子供は、自分の夫、そして父の前から、姿を消した。



 妻は、子供を連れて、以前から相談に乗ってくれていた、高校時代の友人の元へと駆け込んだ。
 最初はその友人も驚き、受け入れることはできない、と拒絶したが、事情を説明されると、その妻子を匿うことを承諾した。独身だったから、受け入れは不可能ではなかった。マンション住まいの自分の部屋のうちの一室を、彼女らに与え、寝食を提供した。
 ――その友人は、名を、光谷 智悠(ともひさ)と言った。

 智悠は両親とほとんど絶縁状態だったが、生活は安定していた。彼は優秀な人権派弁護で、収入も多かった。
 子連れとは言え、同じ屋根の下で、同年代の男女が暮らす。そこに生まれるものは――恋だった。
 智悠は彼女も、ゆうも同じように愛してくれた。
 もともと、夫の元に戻ってやろうなんてつもりは塵ほどもない。後悔はしていない。しようがない。今や、あの夫との思い出は、ただのゴミも同然になっていた。
 夫とはあれ以来会っていなかったから、戸籍上はまだ夫婦のままで苗字も変わらぬままだったが、彼女は智悠と事実婚の状態にあった。

 ――そして、また彼女は病院のベッドの上にいた。
 前のようには光の差さない位置取りのベッド。それに、その日は曇りだった。人生二回目の体験を終えた彼女は、安らかな気持ちで天井を見つめていた。
 すると、今や聞き慣れた声がした。
「男の子か、よかったな」
「おかあさん、わたしにもおとうと、できたんだね」
 今や姉となったゆうも、嬉しそうに言った。
「……うん」
 今度は男の子が欲しい、彼女は以前からそう言っていた。
「名前は、もう決めてあるって言ってたな」
 聞かせてくれるか、と智悠は尋ねた。
「とも。ひらがなで、ともがいい」
「なるほど……『友』にも、そうか、『智』にもなる」
「ゆう……『悠』を足せば、智悠」
 そういうことか、と智悠は感嘆の表情を漏らす。

 前の夫が忘れられないから、ゆうと同じ、ひらがなの名前にしたんじゃない。ゆうもともも、この人と私との子だから――。

 この今日の日から、ゆうとともは、私たちの子。そして、私たちから生まれた姉弟――。

     

 ――僕たちの幼児期は平穏だった。薄れかけてしまった幼いころの記憶を辿ると、詳しいところまでは思い出せなくても、漠然とした幸福感が蘇ってくる。
 ああ、幸せだったんだな、と思える。少なくとも、今よりは何倍も幸せだったんだろう。
 その頃の記憶の中の姉は、いつも明るかった。弟想いの彼女に、幼い僕は甘えてばかりいたのは覚えている。
 幼児期を過ぎて、次第に僕たちが成長してきても、仲の良さは変わらなかった。
 それに、父も、母も優しくて大好きだった。たまに母に叱られはしたものの、今思えばその叱り方は愛に満ち溢れていた。母は、家族の中で一番強い存在だった。
 「どこにでもある円満な家族」なんて言葉があるが、そんな陳腐な表現じゃ表せないほどの円満な家庭だった。
 「どこを探してもないくらい円満な家族」が、僕は大好きだった。
 
 そんな幸せな暮らしが続き、僕が小学校を卒業するかしないかという時期に――その日まで僕は事実を知らなかった――母が、僕に、僕たち姉弟についての真実を話して聞かせた。

 ――その時の母は、何故か思い詰めた表情だったのを覚えている。
「――今からね、大事な話があるの」
「何?」
 いつもとは全く違う母の様子のせいで、僕は、声をかけられる前に夢中で読んでいた漫画のことさえもすっかり忘れてしまっていた。
「もう、ともも中学生になるから、その前に言っておきたいことなんだけど……」
「……」
 母がそこで言葉を切る。僕は黙って聞いていた。続きを促す沈黙だった。
「ショックを受けるかもしれないから、今まで言えずにいたの。ゴメンね」
 いきなり謝られても、何のことやらさっぱりわからなかった。沈黙を守り続ける僕。意を決した様子で、ようやく母が口を開いた。
「実はね、ゆうのお父さんは、とものとは別のお父さんなの」
 キョトンとした顔で、僕は目を瞬かせた。小学生の頭には、いささか理解するのが難しすぎた。僕の顔に浮かんだ多数のクエスチョンマークを読み取った母が、表現を変えて言い直す。
「ゆうもともも、同じ私の子だけど……、お父さんは違うのよ。今のお父さんは、とものお父さん」
 ゆっくりと、幼い回路に染み渡る言葉。事実は、母の口から空気の振動として僕の鼓膜に伝わって、耳の奥で電気信号に変換されて、脳に到達した。
 そしてその電流は僕の心を揺さぶった。空気の振動は一度電気信号になってから、もう一度見えない揺れへと姿を変えていた。
 ……驚いた。驚いたけど――。
「それが、どうしたの?」
「え?」
 正直な感想が僕の口をついて出た。
「驚いたけど、そんなの関係ないと思うよ」
 母が口を開閉させる。音はない。いや、あう……あう……とか、そんな感じだったかな。今となっては記憶が曖昧だ。
 ちょっと大人びてきた、もう少しで中学生の心。そんな心は、こういった照れ臭いセリフを言うのには邪魔だった。恥ずかしかったけど、子供心に、言わなきゃいけないな、って思った。
「僕も、姉さんも、今はふたりの子供でしょ? 気にしないよ」
「っ……」
 母は、顔を伏せていた。どんな顔をしているかは分からなかったけど、彼女がどんな気持ちかは何となく感じた。
「母さん?」
 呼びかけてみるも、ちゃんとした返事は返ってこない。
「ぐすっ……すっ……」
 代わりに、鼻をすする音が聞こえた。いつも強い母の嗚咽を聞くのは、なんだか罪深いことのように思えて、そんな母から逃げるように、僕は黙って部屋に戻ろうと背を向けた。
「んっ……う……とも……ありが……とね」
 僕は返事をしなかった。母の声は消え入りそうなほどに小さくて、聞こえないフリをするのは簡単だった。
「もっ……と、怒っ……たり、驚い、た、り、とか、する、と、お、思って……た」
 切れ切れになったその言葉に耐えきれなくなりそうになり、僕はますます早く部屋に逃げ込んでしまいたくなった。
 僕は、自分の部屋のドアまでの数メートルが途轍もないほどに遠く感じて、部屋に戻るまで涙をこらえるのが大変だったのを覚えている。
 そのあと、夕食の支度ができて僕が呼ばれたときには、母はいつも通りの様子に戻っていた。あれでは、姉は何かがあったなんて気付く由もなかっただろう。いつもと何ら変わりない食卓で、いつものように振舞う母親を見て、僕は、母親って強いな、なんて思って、そして、部屋に戻った後、また泣いた。
 
 その翌日、僕は、もう少しで書き上がりそうな、期限がギリギリに迫る卒業文集用の作文を最初から書き直した。みんなが大体そうしていたように、僕も「将来の夢」について書いていた作文。「将来の夢はまだ決まってませんが――」なんて、中途半端に将来について語る内容よりもずっといいお題を見つけて、僕は真新しい原稿用紙の一行目に「僕の大切な家族」と記した。

 僕が卒業した後に、その作文を読んだ母は「ありがとう」と言って僕の頭を撫でた。その時はさすがに泣いてなかったけど。
 もう子供じゃない、なんて思ってたまだまだ子供な僕は、こそばゆい感じしか覚えなかったけど、母はきっと、喜んでくれていたんだと思う――。



 ――僕が目を開くと、薄汚れたアパートの天井が目に入る。ひどく昔のように思える幸せな思い出を再生した夢。その幸せな夢は、寝起きの僕を陰鬱な気分にさせた。思い出は美化される。美化されるからこそ、余計に恋しくなって、余計に憂鬱になって――。
 僕の心は、未だに閉じようとする僕の瞼と同じくらいか、それ以上に重かった。

 六月も半ばに差し掛かった日曜日。もう梅雨入りを予感させる空は、僕の心に共鳴しているかのように暗い。今にも雨が降りそうだ。
 完全にはまだ空ききらない目で時計を見ると、もう昼近かった。
 ――何か食べようかと思ったが、食欲がない。胃は空っぽのはずなのに、胸には何かが詰まっているようだった。
(何だってこんな日に、こんな夢を――)
 僕は重い体に言い聞かせ、のっそりと起き上がると、身支度を始めた。

 なんで、こういう憂鬱な気分を、「ブルー」って言うんだろうか。絶対に、「グレー」か「ブラック」の方が正解だ。
 どうでもいいことを考えつつも、僕は、こんなに空が暗いのに、傘を持たずに自転車に跨って出発した。
 家に姉の姿はなかった。どこへ行ったのかは分からなかったが、大方、大学か、バイトか。最近通うようになった、近くの図書館かもしれないな。
 まさか、僕と同じ所へ向かってはいないよな。一昨年も、去年もそんな様子はなかったし――。
 今日は姉が帰ってきたら、何を食べさせてあげようか。そんないつも通りのことを考えつつ、僕はペダルを漕ぎ続けた。
 僕の、両親の元へ――。

 この礎の下に、焼かれて、あまりにも小さくなってしまったふたりが眠っている。決して目覚めることはない。二度と、僕ら姉弟に語りかけてくることは、笑いかけてくることはない。
 成長してからは一度も親の前では泣かなかった僕だけど、ここに来ると必ず、目から想いが雫となって溢れ出す。悲しみ、喪失感、渇望、そして、一片の憎しみも。
(カッコ悪いな)
 涙を拭って、ふふっ、とちょっとむりやりに笑ってみた。
 ――父さんが「男は人前で泣くもんじゃない」なんて言っていたっけ。どこでも聞く、ありきたりなセリフだけど。

 ダメだ、ここに来ると、やっぱり昔のことを思い出して――、ダメだ。ダメだ。

 幼い日のこと幸せだったこと悲しかったこと怒られたこと反省したことなんでもない日のこと、ぐるぐるぐるぐる頭の中で回る。

 そして最後に行き着くのだ。
 ――ふたりが居なくなってしまった、「その日」、三年前のこの日のことに。

     

 その日も今日みたいな天気で、どんよりとした雲が空を覆っていた。今にもいたずらな水滴を降らせてきそうな空。
 土曜日の半日授業が終わって、雨の中を帰るのは嫌だったから、もともと部活にも入っていなくて帰りが早いところをさらに急いで帰った。
 中学に上がって二か月。さすがに慣れてきはしたものの、依然として友達は出来なかった。内気で、みんなが楽しそうに過ごしている輪にも入っていけない自分。そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、それを姉に笑われるのもまた、嫌だった。

「ただいま」
 半日授業で、早い帰宅。早く帰ったところで、家で迎えてくれる人もいなく、マンションの部屋は静かだった。母はこの時間パートに出ていていないし、父は事務所で仕事をしているはずだ。
 半日分の、いつもよりは軽い荷物を部屋に置いて食卓の上をチェックする。やっぱり、昨日の残りのカレーか。
『カレーは一晩寝かせた方がうまい』。どこかで聞いた文句が一瞬だけ頭の中で浮かぶ。
 さて、レンジで温めて食べようか、とカレーを手に取ったが、そこで思いとどまる。
(どうせだったら、姉さん待つか……)
 僕たちが進学してからは、土曜日は姉の部活もなく、姉弟ふたりで昼食を取ることが多かった。
 姉はそう僕を待たせなかった。待ち始めてから数分して、玄関先で物音がした。
「たっだいまー」
「おかえり」
 あ、とも居たんだ、と姉が言い、部屋に荷物を置いた。
「帰りに雨降り始めちゃって、ちょっと濡れちゃったよ」
 そう言って洗面所からタオルを引っ張り出して、濡れた長い髪を拭き始めた。
「母さんがカレー用意してくれてるから、温めるよ?」
「うん、よろしく」

 カレーを温め終えると、姉も着替えて食卓へとやって来た。
「カレーはさ、一晩寝かせるとおいしいって言うよね」
「それさっき、僕も考えてた」
 どうでもいい話を姉が振って、どうでもいい返答をする。
 銀のスプーンでルーとライスを一緒にして口へと運ぶ。ちょっと意識して味わってみはしたが、まぎれもない、昨夜のカレーだった。
 もぐもぐ、と小さな口を動かしていた姉も同じことを考えていたようだった。
「……変わんないねえ」
 と、おかしそうに笑った。
「うん、変わんない変わんない」
「そんなんじゃダメダメ。ともは違いの分かる男にならなきゃ」
 自分だって分かってないクセに、と僕がツッコむ。
「そうだけど、私はいいのよ」
 理由のない彼女だけの理屈を通される。
 こんな他愛のないやり取りが僕らの日常で、これがずっとずっと続くといいなと思っていたし、続くと思っていた。そんな思いは、母に僕らの父親についての真実を聞かされた時から、さらに強くなっていた。
「せっかくの土曜の午後なのに、雨か」
 わざとらしいため息をついて、姉がボヤいた。
 姉は晴れていたら友達と遊びにでも行くのだろうが、僕はそんな友達さえいない。小学校で仲の良かった友達は、みんな部活で忙しく、疎遠になってしまっていた。
 そんなことを考えていた僕のことを見抜いたのか、姉が意地の悪いセリフを吐く。
「ともも、早く友達作って、暇な日は遊びに行けばいいのにねー」
「うるさいなあ」
「私は雨さえ降ってなきゃ、こんな弟のお守りじゃなくて、もっと有意義に土曜の午後を過ごすのに」
 やれやれ、と、気取った風にかぶりを振って姉が言う。
「どうしてそう、トゲトゲしい物言いするのかな」
 僕が文句を垂れる。気にしていた人間関係に関してのコンプレックスをつつかれ、ちょっとムキになる。まだまだ幼い。
「まあまあ、寂しかったらこの優しいお姉さんが相手してあげるから、ね」
 よく言うものだ。さっきまで人を散々バカにしておいて。
 ――でも、僕は知っている。こんな軽口は、僕に対する愛情の裏返し。半分しか血の繋がっていない僕を大事な弟として普通に接してくれる優しくて、明るくて、友達がたくさんいて、頭もよくて、まあ、少しは外見だって可愛い姉。
 少しは、なんて言ったけど、客観的に見れば相当可愛い。でも、あまりに姉が完璧すぎるから、ちょっと粗を探してみたくなるんだ。
 勉強も教えてくれるし、悩みがあれば相談に乗ってくれるし、僕が体調を崩した時は、仕事に出ている両親の代わりに看病してくれたりもした。そういうときの姉はいつも優しかったし、普段のどうでもいい会話だって、そういったものの延長なんだ。
 そんな姉が、僕は好きだった。

 気だるい半休日の午後はゆっくりと過ぎて行き、僕はいつの間にやら午睡を貪っていたようだった。
 次に僕の意識が覚醒したのは、日が傾いてから、母の声がした時だった。
「ただいま」
「おかえりー」
 出迎えたのは姉で、僕はまだリビングのソファーの上でまどろみながら、意識の隅で彼女らの会話を聞いていた。
「あら、とも寝てるの?」
 返事をするのが面倒なくらい眠くて、僕は寝ているフリをした。
「夕飯の支度、しちゃわなきゃ」
 いいながら、母の足音が台所の方へと向かう。
「私もなんか、手伝おうか」
 姉が申し出た。
「そうねえ……それじゃあ――」
 そんな風に我が家の夕飯の支度が進んでいく。
 まな板と包丁が規則正しいリズムでぶつかる音が心地よくて、僕はまだボーッとしたままそれを聞いていた。

 しばらく経って、インターホンが鳴った。インターホンのおかげで、僕の意識はぐっと現へと引っ張られ、とうとう僕は上体を起こすことにした。
 誰かな、と母がバタバタと受話器の方へ向かい、訪問者へと話しかけた。
「はい、どちら様ですか?」
 話している相手の声は僕には聞こえなかったが、母の様子が一変した。
「え……?」
 見る見るうちに顔色が代わって、冷や汗をかいているようにも見えた。
「ど、どうしてここが?」
『とにかく、話させてくれ』
 受話器から男の声が漏れた。少し大きな声で言ったに違いない。
 母が受話器を置いて、玄関へと向かう。扉を開けると、さらにはっきりと声は聞こえてくる。
「相談があるんだ。ちょっといいか」
「だ、ダメよ。何を今さら」
「ちょっと、ちょっと話を聞いてくれるだけでもいい」
「ゆ、ゆうもいるのよ」
 会話に姉の名が出たことで、僕の意識も姉の方へと向いた。姉はといえば、何も言わずに黙りこくっている。
「……!!」
「……!……!!」
 ふたりの口論はエスカレートしていって、声は大きくなったはずなのに、かえって何を言っているかは聞き取りづらくなった。
「とにかく、あがらせてもらうからな」
「ちょ、ちょっと、いい加減に……」
 きゃ、と母の声が聞こえる。ズカズカと男が踏み込んでくるのがわかった。
 正直、僕は恐怖を感じていた。きっと、姉も同じだったと思う。僕たちふたりは固まっていた。
 男は僕たちの前にそのみすぼらしい姿を現すなり、こう言った。
「ゆう、ゆうだな……? 久しぶりだ」
 姉は何も言わない。いや、きっと言えないんだ。
「覚えてるか? お前の父親だ」
 父親。彼は確かにそう言った。
 何をバカなことを、『僕たちの』父さんは――、そう思おうとしたところで、僕の思考回路はフリーズした。
 違う、それは『僕の』父さんだ。姉の本当の父親のことなんて、僕は知らない。それをしてからは早かった。
 ――じゃあ、この人が、本当の……。
「ゆうに話しかけるだなんて、一体どういうつもり!?」
 母は怒っていた。僕たちを叱るときの剣幕とは違い、本能をむき出しにした、獣の怒りに近いものだった。
「いいじゃねえか、俺の娘だろ?」
「もう違うわ。この子は私と智悠さんの――」
「ほう、じゃあこれが息子ってわけだ」
 男が僕を指差した。僕の心臓は早鐘のように波打っていたが、それと同時に怒りも感じた。
「そ、そうよ。あなたには関係ない。この子も、ゆうだって」
 母が言った。できるだけ冷たく言い放とうとする努力が感じられた。
「冷たいな」
 男の声には感情がなかった。
「当たり前じゃない! 昔の妻の所に、十年以上も経ってからいきなり現われて、『また仕事クビになって、女房と子供たちに逃げられたから一緒に住まわせてくれ』? 笑っちゃうわ!」
「自分勝手ってのは十分わかってんだ。だけど、本当に切羽詰まった状況でもなきゃ、こんなことは頼みに来ないぜ? 本当に困ってるから、頼りに来たんだ。頼む……」
 さっきまで冷静に思えた男が急に崩れた。いきなり、懇願し始めたのだ。
「私には、子供も、それに夫もいるの。ダメよ」
 男が急に態度を低くしたことで余裕が生まれたのか、母はそれこそ母親が子供をたしなめるような口調で言った。
「なあ、頼む――」
「出て行って、くれませんか」
 男は途中で言葉を遮られて、声の主の方を見た。言ったのは母ではなく、姉だった。
「出て行って、って――。俺はお前の――」
 実の娘に出て行けと、しかも他人行儀な敬語で言われた衝撃が彼を打つ。幼いころから会っていないのだから当然といえば当然の仕打ちなのだが、感情的になった男にショックを与えるのには十分なセリフだったようだ。
「いいえ。私はあなたの娘なんかじゃない。過去にそうだったことがあったとしても、今は違う! あなたのことなんか、覚えてないわ」
 凄まじい剣幕で、女子高生とは思えないほどの啖呵を切る姉。感じる必要はないはずなのに、僕までもが背筋に寒気を覚えた。
「……そうか……」
 男は、そう言うなり口を閉じた。
 しかし、足だけは姉の方へと向かって行った。台所に立ちっぱなしだった姉はじりじりと後ずさりして、壁際へと追いつめられる。
 男の放つ雰囲気は異様だった。異様というか、異常で――。
「ちょ、ちょっと」
 今度は母が制止しようとする。この時点で気付くべきだった。
 ――男は、切れていた。
「……だめなら、お前だけでも、連れて……行く」
 うわ言のように、姉に向かって呟く男。
 ――ダメだ、立ち上がらないと。止めないと。
 しかし、どうやら僕の脳と、下半身の神経はもはや繋がっていないようだった。
「ちょっと、いい加減に――!!」
「――母さん、危ない!」
 やっとのことで僕は叫んだが、遅かった――。

 ――男は流し台にあったまな板の上の包丁を素早く手に取ると、接近していた母の胸に突き立てた。

 時が止まった。
 母が固いフローリングへと倒れていく様子が、スローモーションで流れていった。赤い血しぶきも、機能を停止してしまった僕の眼には、黒い点々にしか見えなかった。

 頭の中で、ガンガンという音がする。そして、玄関の方からはドタドタと――。
「おい、どうした――どうした!?」
 ちょうど今帰ってきたのだろうか、父親がリビングへと走って入ってくる。
 この特殊な状況を見て、彼は一瞬パニックに陥ったかのように見えたが、そのあと、妻の体を抱き抱えて叫んだ。
「おい、おい! 大丈夫か!?」
「さあ、ゆう。一緒に行こう」
 ――ダメだこの男、もう正気じゃない。
 110番でも119番でも何でもいい、早く、助けを――。父の叫びのおかげで僕の下半身の感覚は戻っていた。僕は急いで電話まで駆け寄ると、ボタンを押す。
 「1」、もう一度「1」、と押したところで、思考が止まった。
 ――あれ、「0」だっけ、「9」だっけ。
 僕の頭の中では、「0」と「9」、二つの数字がぐるぐると回った。どっちだ、どっちにすれば――。
「おい、お前! 誰だ、こいつに何を――ぐっ!」
 父の叫びで、ハッと我に帰る。どっちでもいいじゃないか、助けを呼べれば!
 結局、警察に連絡したのか、救急車を呼んだのかは覚えていない。だけれど、どうにかして助けを呼んだ僕は、父を呼んだ。
「父さん!? 今、助けを呼んだ――」
 あれ、さっき――、父さんが、「ぐっ」とか、そんな、ことを――。
 僕の両親は、ふたり並んで、血の海の中に倒れていた。
 吐き気がした。
 ――そして、怒りと、憎しみと、殺意を覚えた。
 僕はわけのわからない叫びを上げながら、男に飛びかかったんだと思う。そこの記憶もまた飛んでいて、次の鮮明な記憶は、冷たい金属の感触が脇腹を貫いて、そこから痛みと熱が広がっていったところだった。
 自分の体から血が噴き出す様を見るのは、不思議な感覚だった。体から力が抜けて行って、僕はその場で膝を折った。
「お前の家族は、これでもういなくなった」
「……」
 姉の瞳は、光を失っていた。
「さあ、これで俺と一緒に――」
 男がそう言った次の瞬間、また新たな血しぶきがあがったかと思うと、僕の隣に人の体が倒れこんできた。
 ――姉さんが、姉さんが?
 ボンヤリする意識の中、隣を見ると、そこには目を見開いた男の顔があった。
 ――死んでいる。背中を刺されている。
 ああ、そうか。姉さんが――。仇……を……取って、くれ……た……ん、だ、ね……。

 僕の意識は、深い深い闇の底へと、沈んでいった。

     

 ――目を開くと、病院のベッドの上にいる。こんな経験を、本当にするなんて考えたことはなかった。いつも寝起きしている自室とは明らかに違う感覚。真っ白で高い天井、独特の匂い。
 覚醒の瞬間、人は何も考えられないようにできている。意識がある時の中では、最も、無防備な時間。
 この、幸せな空白の一瞬。何も考えずに、夢現を彷徨える幸せ。永遠に何も考えずにいることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。そんな考えが、寝起きの頭に浮かぶ。
 このまま、ずっと、ずっと、思考回路が止まったままで生きていたい。そんな欲求を感じた。どこからそんな欲求が湧いてくるのか、無意識のうちに僕の心は探った……そして、探り当ててしまった。
 僕の寝ぼけた無防備な心に、強烈で凄惨、衝撃的な、最新の映像がフラッシュバックして、冷たい金属の感触そっくりに蘇り、刺さる。
「ッ……!」
 赤く染まった記憶。ひどく頭が痛む。鼓動が速くなる。呼吸が乱れる。
 ――きっとこれは悪夢だ、そうに違いない。
 悲劇の主人公にでもなったみたいなセリフを心の中で唱えた。残念なことに、こういうことを物語の主人公が言ったときは、大抵、悪夢では片づけられない現実が待ち構えている。
 確か、知らない男が、母さんを刺して、それで、父さんを刺して、僕を刺して、姉さんを……姉さん……が?
 姉さん、が、刺して……。
 何もかも、真っ赤で――。
 思い出したくない、と精神が拒否しているというのに、僕の脳細胞は非情だった。僕の脳はもはや、表層に刻まれた皺の一本一本まで赤く染まってしまっているんじゃないか、と思えた。
 最後の食事を摂ってからしばらく経って、空っぽのはずの胃が、激しく揺さぶられた。胸の奥の方から、強烈な酸が逆流してくる。喉の奥が痛む。
「……とも」
 誰かが僕を呼んでいた。赤い記憶の奔流に飲まれていた僕は、さっきから何度もこの声を無視していたようだった。
「とも、大丈夫?」
 ――僕の、父方の祖母だった。

 しばらくして、やっとのことで落ち着きを取り戻した僕は、体を起こそうとして、脇腹に痛みを感じた。
(そうか、僕も刺されたんだっけ)
 まるで他人事だった。
 祖父母とは、これまで数年会っていなかった。親戚の法事のときに顔を合わせたきりで、父も彼らの話はあまりしてくれなかった。でも、絶対に僕は彼らを好きになれそうにないことだけは分かっていた。
 
 起きるのはまだ辛かったから、横になったまま話を聞かされた。
 どうやら、事件が起こったのは一昨日のことで、連絡を受けた僕の祖父母が病院に駆け付けたらしい。そういう事情を淡々と説明された。
 ――どうでもいいんだよ。そんなことは。
「父さんは、母さんは!? 姉さんは……」
 取り乱す僕の言葉を遮り、祖母と一緒に居た祖父が口を開いた。
「……お前の姉は、お前とは別に入院してる。別に命に別状があるわけじゃない。療養してるんだ」
 ただ事実だけを伝える言葉。祖父は特に何も感じちゃいないように見えた。
「……療養? じゃあ、一応大丈夫なんだね?」
「ああ、まあ、ちょっとな――」
 ちょっと、何なんだ。説明するのが面倒だとでも言いたげな様子の祖父に、僕は追加の質問をぶつけようとする。
「ちょっとって――」
「それより、とも、果物でも食べない?」
 途中で話を遮る祖母。
「……気分じゃない、わかるでしょ? そんなことはどうでもいいんだ! それに――」
 とりあえず姉は生きている、そう聞いて安心した僕がいた。
 でも、でも。
「父さんと、母さんは?」
 答えは分かりきっていた。だって、あんな刺され方をしたら……。
 でも、聞かずにはいられなかった。この冷たい祖父の口から「生きている」の一言を聞きたくて、縋った。
 祖父の応答は簡潔だった。
「死んだ」
 ――死んだ。祖父は、淡白にそう告げた。彼の顔からは何の感情も読み取れなかった。他人がこの様子を見ていても、まさか彼が死んだ僕の父の実父だなんて思いやしないだろう。それくらい、淡白だった。
 ああ、聞かなきゃよかったものを。
 祖父の口から、そのセリフを聞かなければ、もしかしたら、僕の両親は生きていたかもしれない。
 そんな馬鹿げた錯覚に陥った。「死んだ」という一言が、僕の両親の死を確定させてしまった。現実のものとしてしまった。

 『死んだ』。
 『僕たち姉弟を残して』?
 『まだまだ若かったのに』?
 『最近まで幸せだったのに』?
 『いきなりやってきた男に殺されて』?
 ――とにかく、『死んだ』らしい。

 心に、決して埋めることのできない、黒くて広くて、絶望的なまでに深い穴が空いたようだった。たぶん、その穴ができるまでは両親がそこにいたんだと思う。僕の心はもはや、決して完成しないジグソーパズルになってしまった。

 祖父の宣告を聞いても、涙は出なかった。代わりに、口から呟きがこぼれた。
「……母さん……さっきまで、姉さんと一緒に夕飯作ってたのになあ」
 自分でもおかしいことを口走っていると、分かっていた。
「週末だったから、父さんも帰ってきて……、家族4人で食事するのに」
 あの日の夕食はいつまで経っても作りかけのままで、決して僕たちの食卓に上ることはない。
 あの日の食卓には、いつまで経っても、4膳の箸も、4杯の茶碗も、皿も、週末しか飲まない父さんのジョッキも、用意されることはない。
 それを意識した瞬間、堤防が決壊しそうになった。
 だけどこの爺さん婆さんの前では泣きたくなかったから、こらえて話の続きを聞いた。
「とも、今後のことだけどな」
 今後。今後なんてものが、まだこの世にあったなんて信じられない。僕の両親には、もう今後なんてないのに。
「お前は、うちに来い。うちに来て、将来は俺を継げ」
 ……巨大な企業の跡取りに指名されているという事実も、僕にとっては面倒くさいことでしかなかった。反対する気力も、賛成する気力もなかったから、気にかかることだけを言った。
「……姉さんも一緒なら」
 当然のことだった。
 そう、姉さんが一緒だったら。せめて、姉さんが僕と一緒にいてくれるなら、僕はまだやっていける。
 でも、祖父の返事は違った。
「それは、ダメだ」
「……ダメ?」
 ダメ、ってなんだ。
「もともとあいつは俺たちの実の孫じゃない」
「……」
 何を言っているんだ、こいつは。
「それに智悠は、弁護士になるのが夢だとかほざいて、俺の跡取りになるのを拒否した挙句に家を出た」
 ――だから関係ない、って言いたいのか。それに父が家を出たなんて嘘だ。あんたが追い出したんだろ、僕は知っている。
 血が沸騰してしまうんじゃないか、血圧で脇腹の傷が開いてしまうんじゃないか、と思った。
「それでも跡取りは欲しいからな。お前だけでも」
「姉さんがいないなら、僕は行かない」
 僕は自分を貫いた。
 正直、このときは姉のことは考えていなかった。僕と一緒に来ないと姉が一人になってしまうから、とかそういうことじゃなくて、ただ単に、一緒に来てほしかったから、僕は折れなかった。
「……お前の姉は、人を殺した」
 祖父は矛先を変えた。今までもそうだったが、祖父は決して僕の姉のことを、名前では呼ぼうとしなかった。今気にすることじゃないのかもしれないが、非常に気に食わなかった。
 ――人を……、ああ、あの男か。あいつのことをまだ人間だと言えるならの話だ。僕に言わせれば、あんなのはもう人じゃない。
「それが、何の関係があるんだよ」
「大ありだ」
 僕には話が見えていない。人を殺したから、一緒に暮らせないとでも言いたいのか。自分たちが殺されるなんて思っているのか。
「あれは、正当防衛だった。刺さなきゃ、刺されてた」
 声が怒りに震えるのを抑えるのがかなり難しくなってきていた。
「正しい、正しくないの問題じゃない。どうあれ、殺したことが問題なんだ」
「何が問題だって言うんだ!」
 叫んだ瞬間は夢中だったが、そのあとの数秒の沈黙で我に返り、病室の中を見回した。相部屋のようだったが、幸いにも今は人がいなくて安心した。
「日本を支える経済界のトップ、血が繋がってないとはいえ、その孫娘が人を殺したなんて知れたら、俺は失脚する」
 祖父は重々しく言った。
 ……怒りを通り越して呆れ果てた。父の夢を無視して、自分を継がせようとして、拒否されたから実の息子を勘当した、そんな男に流れる血は、ここまで冷たかったのか。
「……それにな」
 まだあるのか、もううんざりだ。出て行ってよ、そう言おうとした。
 けど、次の一言が、僕にとって一番衝撃的だった。
「お前の姉はな、もうお前の知ってるような人間じゃなくなったんだよ」
 ……どういうことだ?
 言っている意味がよく分からない。
「やつは、両親を目の前で失って、しかも自分の実父をその手で刺し殺した」
 そんなことは分かってる。きっと、精神的にショックを受けてるだろう。
 だけど、今はちゃんと静養しているはずだ。なのになんで――。
「その精神的ショックで、やつは、感情を失った」
「……どういうこと?」
 事態がよく飲み込めない。感情を、失ったって?
「担当の精神科医によると、精神があまりのショックを受けたから、平衡を保つために、感情を捨てることで自衛したんだそうだ」
 感情を、捨てた、だって?
「姉さんは、姉さんは――! いや、姉さんに会いたい!」
「それはできない、お前もケガしてるし、お前の姉は面会謝絶状態だ」
「でも!!」
「とにかく、お前が俺たちと一緒に来ないなら、長居するつもりはない」
 そう言って、2人は帰ろうと背もたれのない椅子から立ち上がった。
「待って! もっと姉のことを詳しく――!!」
「いいか、お前が家に来ない以上、俺たちはお前たちの世話をしない」
「――僕の、話を、聞け!!!」
 僕は声帯が千切れんばかりの大声で叫んだ。
「俺の話を聞け」
 祖父は、厭味なほど冷静に僕をあしらった。
「住むところとお前の分の生活費は与えてやる。お前の退院が決定したら諸々連絡する」
 意味のないことを喚いている僕を尻目に、祖父は言った。
「最後の情けで、お前の大事な、大事な姉にもお前の新しい住所を教えてやる」
 僕にとって、彼の言葉は意味のないノイズでしかなかった。姉の状態を知りたくて、喚いて、叫んで、声を嗄らした。
「それと、俺たちはお前に後を継がせるのを諦めてない。定期的に様子を見に行くからな」
 そして、病室のドアは閉まった。



 結局、僕は退院するまで姉に会うことができず、事件後、最初に僕らが顔を合わせたのは、今住んでいるアパートだった。僕は、姉が退院した三日後に追って退院し、その日、アパートへ直帰した。
 今より幾分かマシではあるが、当時すでに十分ボロかったアパートには、いつの間にか僕たちの全財産が運び込まれていた。
 その大量の荷物に囲まれながら、久々に会った姉は、寝ていた。
「姉さん、姉さん」
 駆け寄って、必死で呼びかける。もう一月近くも会っていなかった。
「……ん」
 体を揺さぶられた姉は、眠たげに眼をこする。
「僕だよ、ともだよ、分かる?」
 ――記憶を失くしているわけではない。そんなことは分かっていても、感情を失くした姉が僕を分かってくれるか、不安だった。
「……とも」
 まだ眠いのだろう。かすれた声で、姉は僕の名を呼んだ。
「ああ、よかった」
 名前を呼んでくれたことで、僕の不安は薄れた。もしかしたら、祖父が僕を脅すために嘘をついていたのかもしれない。
「……私ね」
「うん?」
 とにかくその時は気が緩んでいて、もしかしたら微笑んでさえいたかもしれない。
 でも、僕を絶望の底に叩き落としたのは、他でもない、姉の言葉だった。
「……あれから、何も感じないの」
「……え?」
「怖くないし、悲しくもない」
 僕は、固まった。
 ――嘘だ。
 姉さん、それは冗談だよね?
 僕たちの両親は殺されちゃったんだよ。僕は悲しくて、喪失感でいっぱいだよ。
 きっと、姉さんも、そうだよね?
「今ともと会ってても、別に嬉しくない。変だってことはわかるのに」

 ――この日、僕は両親が死んでから初めて、泣いた。



(さて、そろそろ帰ろうかな)
 最後にもう一度両親の墓標に向けて手を合わせると、僕は立ち上がった。
 記憶を辿っているうちに、雨が降り出していた。すでにだいぶ濡れてしまったが、そんなことはお構いなしに、僕は大きく伸びをして、振り返る。
 すると、そこに傘を差した人影があった。
「……え?」
 振り返った先に、予想外の人物が立っていたのだ。
 去年も一昨年も、両親の命日に墓参りをすることのなかった姉が傘を差して、しかも僕の分の傘も持って、僕の目の前に立っていた。

       

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Neetsha