ある一人の男の話をしよう。
男はどこかに出かけるときは、必ずハーモニカを持ち歩く。人気の少ない静かな場所で、男はそっと音を出す。
ハーモニカの音が耳に触れると、男は決まってとある情景を頭に浮かべた。
その情景がどこから来、どこへ去るかはわからない。男はただその情景がやってくるのをただ待っていた。
男は独り、椅子に座ってハーモニカを吹いていた。電球の、淡い光に包まれて。
気が付くと、そこは見知らぬ場所だった。
シダが足元に生い茂り、頭上では、名もない鳥が飛んでいる。
うっそうとした木々に囲まれて、沈黙と静けさがひっそりとたたずんで男を見据えていた。
男はすぐにそれらから、逃げるように足を運んだ。
何故自分がここにいるのかは、あるいはわかっていたのかもしれない。
深い木々の隙間から、細い河が見え隠れしている。
その河のほとりの大きな岩に、独りの老婆が腰掛けている。古い映画で見たような、そんな想いが漂っている。
真っ白な髪を後ろで束ね、目を閉じ座るその姿、まるで遥か太古からそこに根付いていたかのような気さえした。
水は小さなせせらぎの音を残して去ってゆく。
その情景をしばらく眺め、ポケットの中にそっと男は手を入れた。冷たい感触が懐かしかった。
男はハーモニカを取り出すと、静かにソレを口にあて、いつものように、音を出す。
ハーモニカから出るその音は、河の流れと混ざったせいか、いつもより澄んで、透明だった。
老婆はゆっくりこちらを振り向き、「それはなんだ」と、口を開いた。
あるいは男の空耳だったのかもしれない。けれど男はそれに答えた。
「ハーモニカという楽器です」
けれどその声はかすれて、老婆に届いたかわからなかった。
老婆はしばらく動きをとめ、男が手に持つハーモニカを、じっと見つめて座っていた。あるいはハーモニカではなく別の何かを見ていたのかもしれない。
「ハーモニカ、吹けますか?」と男は尋ねた。
その声はやはり、どこかかすれていた。
老婆はゆっくり顔をあげ、そして男をみつめ、呟いた。
「・・・わからない」
老婆の視線の先に、何があるのか男にはわからない。
そして、彼女は「吹けない」とは言わずに、「わからない」と言ったのだ。
そう、確かにわからない事ばかりだ、と男は思う。
名もない鳥が、どこかで小さく鳴いている。