「やぁ、僕の名前はヤス。生粋のチェリーボーイさ。みんなからはチェリーボーイのCをとって"C"と呼ばれている。」
Cは黒板にむかって、大きくさくらんぼの絵を書いた。
鮮やかな橙色の夕日が、ワックスをかけて間もない教室の床をきらきらと光らせている。
そこに伸びる、5つの影。
「そうだったんだ……」
彼女の名前は、ホワイト=カル=ピース。
だが、本名は三崎春子だ。だから春子と呼ばれている。
「そんなことをいうために、今日あつまったわけじゃないだろ」
隣の一人が、頬杖をつきながら退屈そうに呟いた。
視線は机に落としたまま、さもめんどくさそうに。
彼の名はジャスティス。IQ600超程あると、町内のおばさんがうわさするほどの天才児だ。だから、生後三ヶ月でも、今この放課後の教室で役員会議に参加できる。
夏の放課後の教室は、奥深い樹海にも似て静謐で、なお且つ涼しくもある。
オレンジ一色のグラウンドから時折聞こえる 部活に励む少女たちの、瑞々しい頻伽の声。 それだけが、今、彼らの日常と繋がっている。
「我々の目的にそぐわない用件ならば、退席させて頂くが」
耳にインカムをつけたメガネは、ムッツリとこちらを凝視する。
彼は実は群体だ。一見普通の、いや、わりかしハンサムな部類に入る彼は、実は栄養個体、触手個体、生殖個体、骨状固体、メガネ個体、秘密特務個体Xの6匹の個体からなる未知の生命体である。だから一人称は"我々"である。
だが、それは秘密をしる少数の人間の前でだけ。
ほとんどの者、彼が借りている6畳の部屋の世帯主ですらも 彼の正体を知らない。
「ったく、俺らだってヒマ人じゃねぇし」
そういってチューイングガムを膨らますのはビルと呼ばれる男子学生だ。
ビルのみは彼ら五人の中で唯一の、普通の黒人男性であり、身長は200cmほどもある。
戦闘力はスカウターで見られてこそ5、という比較的地球人としては普通の能力だが、空手有段者の彼は間違いなく5.999…だろうと女子連中から囁かれているほどに、強かった。
「まぁまぁ、"急いては事を仕損じる"って、いうだろ」
子孫汁か……。先人たちも全く好色なものだ。
そんな事を考えながら、Cは黒板いっぱいの、はちきれんばかりの瑞々しい白いチェリーを、黒板消しでかき消した。
桃尻のように柔らかな白濁の曲線で描かれたそれは、Cのあらん限りの腕力によって蹂躙され、ついには消滅した。
「今日君たち、役員に集まってもらったのは他でもない」
ゴクリ……夕日の差す茜一色の部屋に緊張が走る。
「おえええぇぇ………!!」
しかし、ビルは生唾を飲み込もうして誤ってチューイングガムを飲み込んでしまったが為に、その場で激しく嘔吐した。
「ちょっ、ビル君! 大丈夫!!」
真っ先に飛び出たのは、三崎春子。
彼女は将来の白衣の天使候補であり、学級文庫で読んだナイチンゲールに酷く心を撃たれていた。まさに言語、文字による半強制的な懐柔である。
それを読んだ小三の昔から、ペンは剣よりも強い、そして愛はペンよりも強いのだ、少なくとも今の三崎春子には、それが己の信念たるものの全てであった。
故に、苦しんでいる人を見れば助けずにはおれない。
彼女が、嘔吐している人間を前に真っ先に飛び出していくのは、当然だ。そしてその姿は、ある意味敢然としてすらいた。
「うう、せめて、この身さえ、自由に操れたら……」
生後三ヶ月のジャスティスは、下唇を噛み締め、苦虫を噛み潰したような声持ちで呻いた。
ジャスティスとは名ばかりの、獣欲の塊、劣情の信奉者である彼も、初めてこの学校に来て、プラトニックな恋、というものを知った。
その相手が他でもない。三崎春子なのだ。
恋という字は、元来”戀”と書く。これは、心という土台の上で、相手と自分を、「言葉」という糸で繋ぎあっている、正にその図そのものなのだ。そして愛、これは爪で心をつかみたい、という己の我侭が具現化した文字だ。
ジャスティスはそういった意味では、愛はいくらでも経験してきた。
つまり、一方通行な抱きたいという欲求を、うまく相手に通してきたことは何度もあった。しかし、三崎春子としたいのは肉体的かつ一方的な交歓ではなく、感情の双方向の交叉、戀なのだ。
生まれてこの方三ヶ月、ついにジャスティスはその感情の根本に行き着くに当たった。
だから、三崎春子の前では「いいかっこしい」になってしまう。いくらIQが600超あると町内のおばさんに噂されていても、所詮男性として生まれたからには男性なのだ。そう、自嘲してしまう一人きりの夜をジャスティスは幾つも過ごして来た。
だから、ジャスティスはいまだ二本足で立つことすらできない己が身を呪い、一人ごちたのだ。
「何故だ、何故これほどまでに吐く、ゴブオォォ!! このガム、なんかおかしいぞブォ!!」
なおも嘔吐を続けながら、ビルは喘ぎつつも無理やり台詞を吐く。
「まて、少し調べる。時間をくれ……」
メガネはインカムに向かって何やらブツブツと言葉を紡ぐ。
たちまち、その言葉は電気信号に変換されて、中空へと飛ばされた。
実は、大財閥の御曹司であるインカムメガネは、その耳を覆う程度のサイズのインカムにサテライトシステムを内蔵している。
このサテライトシステムは、成人男性が扱うと、脳内にあまりに苛烈な電気信号が発生する為にショック死してしまう。しかし成人女性なら80%近い確率で生き残ることができた。
女性のオルガスムと同じ快楽を男性の脳に与えると、ショックで死んでしまうといわれ、恐らくそこに何か関連があると思われるが、現時点では、サテライトシステムによるショック死の原因は未だ明確には解明されていないのが現状だ。
そこで研究所からモニターとして、彼が一日インカムをつけっぱなしで時給2000円という高収入高危険度のバイトとして選ばれてから、早5年が経った。
未だに彼以外の被験者で死亡しない者は無かった。この事実を秘匿するために、彼はこのバイトをやめることができない。しかし、研究所の人間にも群体である事がばれていない彼にとっては、それは逆に好都合だった。
サテライトシステムは今や、彼の体内組織と融合し、群体内に欠かせない一構成システムとして機能していた。それが結果、栄養個体、触手個体、生殖個体、骨状固体、メガネ個体、秘密特務個体Xの6匹の個体に加え、世界中の通信網の末端にあるコンピュータを個体として吸収したといえる電脳群体を生み出しているということになる。
その力を駆使して、大財閥の御曹司という肩書きも得た。今、彼の親という事になっているオーナーは、彼が金で雇った傀儡に過ぎない。
そして彼自身は、その驚愕のサテライトシステムをもってしても尚、自分の存在のルーツがわからない。
というより、サテライトシステムもまだ、完璧に使いこなせてるわけではないのだ。
そしてそういった、彼のもろもろの事情とは一切無関係に、「インカムを付けたまま、なるべく普通に生活してくれ」という研究所の治験バイト規定により彼はこうして高校に通っていた。
やはりどんなに金があっても、時給2000円は譲れなかった。残念な事に、彼は根っからの貧乏性なのだ。
家が6畳一間なのも、その性格が所以だ。
「表面材質データ、送信……」
ビルの吐瀉物に混じるガムのゲロまみれの表面を、赤外線スコープでサーチすると、まとめて宇宙(そら)へ送る。
即座に、本田技研にある常冷却超伝導スパコンが解析結果を返してきた。
「これッ……はっ………!!!!」
目を点にして、表情筋を硬直させるインカムメガネ。
「どうしたのォッ!!」
三崎春子が、ビルを介抱しながらグイッと振り返る。この状況を打開するには彼の得た新情報が必要不可欠だったからだ。
「た、たた……炭疽菌だ」
本田技研にある常冷却超伝導スパコンが解析したガム表面の顕微鏡写真からは、あまりにも鮮明に炭疽菌が映し出されていた。
「何ぃ!! ということは……これは……」
ジャスティスが呟く。
「間違いない……テロだ……」
時間が、凍りついた。いつのまにか、夕の茜の中に戯れていたグランドの女子生徒の姿は無く、故に窓からも静けさしか入ってはこなかった。
「そんな! ありえないわ…… こんな、こんな個人を無差別に狙ったテロなんて……」
大粒の涙を零しながら、三崎春子は泣いた。
それでも、腕の中に横たわって苦しんでいるビルを、決して、決して離そうとはしなかった。
「ありえないって、俺だってそう思うさ! でも目の前のこれが、これがひとつだけの現実なんだ……」
ジャスティスの下唇は噛み締めすぎて、今や紫色に滲んでいた。
意外にも、この5人の不可解な連携を一番楽しんでいたのはジャスティスだった。
どんなクラス、いや、どんな組織にあっても派閥は分かれる。大抵は二つ、普通組と、アウトサイダー組だ。スポーツができて、テレビを良く見て、話すのが好きな人間は、何かと華やかな"一軍"、普通組に配属される。
一方、本をよく読んで、何かを作るのに時間を割き、一つの事物を追求する人間は"二軍"、アウトサイダーで群れを作っている。
数々の組織に身を置いた過去、負け組アウトサイダーになるのが嫌で、かといって普通&没個性を尊ぶ一軍になるのも嫌だったジャスティスは、無理やり自分をリベラルな無党派だと偽っていた。しかし隠しきれないその本質はアウトサイダーのそれだと、自分も気付いていたのだ。
この5人の中にいるうちは不思議と真実の自分を開放できた。こんな気持ちは初めてだった。
あらゆる女を抱いた記憶のうちにもない安らぎを感じていた。その一つが今、壊れた。
「へへッ、意外と俺、愛されてたんだな……っ」
表情が褐色のそれ、から真っ青になり、血色の絶えたその顔でビルはやっと言葉をだした。
「ビル、しっかりして! 今、ペニシリンを取ってくるから!!」
しかし、春子はその自身の言葉に、捉えようの無い虚しさを感じていた。
―――知っているのだ。この間、保健室の先生と看護について語っていたときに、偶然……
「ペニシリン切れちゃったから注文しないとねー、ASKULに頼んどこーっと。ホントなんでもあるなーASKULは。晩めしとかもないかなー? 作るのめんどいんだよねー。ああ、今日頼んだら明日来るのか。意味ねー(笑)」
と言っていたのを。
―――間に合わない。
それを知っていて、三崎春子は今、嘘をついた。気休めだけの、嘘。その事実に耐えられる程、彼女の精神はごん太にできてはいなかった。
「わかるぜ、春子……。もうダメなんだろ……俺……」
春子の腕の中で、ありありと弱っていくビル。
「ううん、そんなこと、ないっ!! ビル君が、しっ、死んじゃうなんて、そんな、こ、事、絶対無いからッっ!!!」
しゃくり上げながら勇気付けようとしたのに、春子はハッとして口をつぐむ。言っちゃった……。
「はは、お前、看護師むいてねぇよ……、嘘、下手すぎ……あは、あはははは」
逆に勇気付けられてる、私、どうしようもないよ。なんにもできないよ―――。
春子の顔はもうぐちゃぐちゃで、今まで生きてきた中で一番ブサイクと言えた。
しかし、ビルにもわかっていた。彼は、「せめて死ぬときくらい笑顔を見せてくれ」、なんて無粋な言葉をいう男ではない。春子自身の思い、中身が一番顔に表れたそのぐちゃぐちゃの顔が何より、嬉しかった。自分を思って泣いてくれている、彼女の心の一部に自分という存在があった事の証明。故に欠落する事が悲しくて悲しくて泣く。それを隠さず出してくれている事は、無理な笑顔で覆い隠す感情よりも、ごく自然な愛情の表現に思えた。
「そっかー……何したのかな……俺、なんか恨まれること……した………か……な……」
もう終わりは誰の目にも見えていた。
インカムメガネも何もしていないようで、必死に、ビルを生き永らえさせる情報を片っ端から検索していたのだ。
その過剰な電流が元で、彼の一部を成すメガネ個体が死に、メガネが弾けとんだ。
破片が、春子の腕に突き刺さる。
それでも、血の滴る春子の腕は一切微動だにせず、今、旅立とうとしているビルを離すまいとしていた。
「ビル君……」
かける言葉が見つからず、宙に放たれた空気の振動は形を成さない。
「なぁ、春子……」
「何!?」
聞き漏らすまいとする春子の意思が、自然と語気を荒くした。これが最期の言葉になることはその場の全員に明らかだった。
「アラバマのマムに伝えといてくれ……、今度帰ったら農場の牛より先に、マムの乳を搾ってやるよ……って……な………」
英語で言った。春子に対してのビルなりの気遣いだ。
「本当に搾られたいのはお前のミルクだろ! AHAHAHAHAHAHAHA」
溢れる涙をそのままに、ジャスティスが英語で適切な相槌をうつ。
……しかし、ビル自身から返ってくるはずの笑い声は、―――もう無かった。
「最低の……マザーファッカーめ………っ!!!」
ジャスティスはまだ唇を噛み締めて泣いた。壊死して落ちそうだった。
「ビル君……」
最期まで気丈だったビルの姿に、彼なりの自分への励ましの意を見取った春子。
さめざめと崩れて、亡骸となったビルの傍で彼を抱いて泣いた。
「………ゆるせねぇ」
ジャスティスが真っ先に言った。
「誰なんだよ!! ガムに炭疽菌仕込んだ奴ぁ!! ありえねぇよ!! 何でビルが……ビルが犠牲になんだよ……大体即効過ぎんだろ……」
一度、ジャスティスは、IQ600超と町内のおばさんに噂されているその英知を狙われ、中東に誘拐された事があった。戦時中だったそこで見た生の人間の残虐。
今、目の前で繰り広げられた行為は明らかに、ここで起きてはいけない事だ。平和な放課後の、夕暮れの一教室で起きていい事じゃない。
「といっても、そのガム、学食で売ってる奴だろ。内部の人間の犯行じゃ無い限り特定なんて……内部の……犯行……」
インカムの推察はそこで止まる。
………。もしや。
「インカム!! もしかしたら、犯人は犯行現場に戻っているかもしれない! 行って確かめなきゃ、気がおさまらねぇ!」
「……了解した。」
インカムはジャスティスを持ち上げると、脱兎のごとく走り出した。
本来、まだはいはいもできない生後三ヶ月のジャスティスを運搬するのは、常にビルの役目だった。
この腕は、柔らかすぎるな……。
互いに、アラバマなまりの英語で、アメリカンジョークを飛ばしながら廊下を歩いたあの日。
褐色で筋肉質の、固いビルの腕を思い出しながら、そして、もうもどらないその記憶を確かめながらインカムとジャスティスは教室をあとにした。
春子も決意を胸に、続いて教室をあとにした。
ビルの瞼を閉じて、白いハンカチをかけるのも忘れずに――――――。
Cはひとり黒板消しを持ったまま、茜色に染まる教室に立ち尽くしていた。
なにやら中空に向かって、ぶつぶつ呟いている。
「今日君……役員に……まってもらっ……もない……今……君たち、役……集まってもらったのは……他……ない……今日……君たち、役員に集まってもらった……のは他でもな……い……」
先ほど消したさくらんぼの絵の白い粉が、黒板消しにこびり付いて取れない。いつのまにか、静まり返った教室は、一番濃い茜色の所為で全てが燃え盛っていた。
炎に包まれた部屋の中で一人、Cはこぶしを握り閉めてぷるぷる震えていた。
「俺たち……一体、何の『役員』なんだよ…………」
Cの閉じた瞼から大粒の涙が落ちて、足元でミルククラウンのように弾けた。
当たり前のように集まっていた五人の役員。
学校から任命された筈の、特別な力を持っていそうなやつとそうでないやつの五人。
でも、俺たちって、一体、何役員なんだ。
そう思いついてから、半年が経った。
しかし未だ、誰の耳にも、この僕の、画期的で誰も思いつかないような疑問を、伝えられてはいない。
それを話しあおうとする時は、毎回不思議と、必ず邪魔がはいるのだ。
そう、こんな風に―――――――――
僕はもう動かないビルを見つめた。