不幸が人を歪めるのなら、人を正すのは出会いという幸運。
けれどその幸運は、不幸の波にすべてかき消される。
「あれ……彩お嬢さん。早いですね」
いつもは私が朝食の用意を終えてから、私自身が目覚まし時計になって起こしにいくのに、その日は彼女は既に起きていた。
「おはよう。秋乃さん」
ただなんとなく起きただけでなく、きちんとした意思を持って起きたということがはっきりした声からわかる。
それだけでなく、なんだか上機嫌であるようだ。
「お弁当つくってるの」
すこし照れて言った。
ああ、今日も〝彼〟とか、と私は思う。
「へぇ、そうなんですか。じゃあ、デートですね」
私がそう言うと、彼女は普段滅多に見せない少女らしい素直さで、「……うん。そう」と呟いた。
彼女がここまで素直になったのは、すべて彼――酒井翔平のおかげによるものだと思う。
彼との幸運な出会いが、彼女を変えた。
彼女はいわゆる、強気でワガママで、絵に描いたような〝お嬢さま〟だ。
だがそれは、彼女の表層でしかない。
その勝気な性格の、もっと深いところには、本人にしか判りえない孤独感がある。
その孤独を取り除き、彼女を、その生来素直で優しい性格へ引き戻してるのが、件の酒井翔平の存在だった。
「嬉しそうですね」
私が見たままを伝えると、彼女は驚く。
「え?」
「べ、別にそんなんじゃ……」
以前なら「そんなことないわよ!」と、なんでもない言葉を買うようにしてらっしゃったかもしれないのに。
本当に、素直になっていっていると私は心の中で安心して、彼女の、その素直な表情を、少し昔の自分と重ねて見る。
自分が十代の頃、悩み続けた自己存在のこと――
〝親の子供〟であるということ。その紛れもない事実。
家、血、そして何より愛情。
様々なものに縛られて悩み考え抜いた青春の頃。
心――ひとりで生きられるように、足掻いてもがいたあの頃。
その忘れようにも忘れられない部分が、彼女を見ているとうずく。
日本有数の大財閥である神上グループの会長、神上晃(アキラ)の一人娘、神上彩。
自分で望んだわけでもないのに張り付いた肩書き、それは少女の小さな肩にはあまりに重過ぎる。
私が神上家のメイドとして働き出すと、まず驚いたのは、お嬢さんのワガママな振る舞いに対してだった。
当時十歳の、その堂に入った暴君ぶり。
支離滅裂で滅茶苦茶に、目に見たもの全てに対して無理難題を言う。
少しでも気に障ることがあれば大声で囃したて、様々な意地悪を執拗にくり返す。
それに耐え切れず一人、また一人とやめていくメイド達。
それでもけっして止めようとはしない。
彼女はメイド達が困惑し、その心が自分から離れていく様子を嬉々として見ており、新しいメイドを雇うことも断固反対し、とにかく自分の周囲の目を減らそうとした。
何が彼女をそうさせたのか、皆は不思議に思ったが――簡単なことだ。
本当に見て欲しい相手と違うからと、私だけはすぐにわかった。
ある日私は、お嬢様が神上家のメイド長と口論しているのを同僚たちと目撃した。
「彩お嬢様! 悪ふざけも大概になさってください!」
「いや! いやよ!」
激しい口論であり、広い屋敷のいたるところに二人の声が聴こえた。
お嬢様の、エスカレートし続けていく悪戯を見るに見かねて、普段は何も口を出さないメイド長までが遂に咎めたのだ。
「私たちは、あなたのために働いてるんですよ!」
「そんなの、知らないもん!」
叱りつけられてもなお、子供のように駄々をこねる……いや、実際に子供なのだが、それでもその姿は年齢よりも、もっと幼く見えた。
「どうして、そんな……!」
非難のような、諦めのような、ないまじった表情をしたメイド長。
しかしそれでも、最早ワガママなんてものじゃなく、お嬢様は叫ぶ。
「お父さんかお母さんじゃない人は、このお家にいらない!」
その言葉は、痛烈だった。
彼女の母親、神上弥生(ヤヨイ)は、今はもう父親と離婚して旧姓になっており、彼女とも会おうとはしない。
そして、父親は、彼女の母親がいたときからそうなのだが、仕事の虫であり、家には滅多に寄り付かない。
彼女の、肉親からの愛を求める心――あまりに生の感情。
それに、さしもの長年務めたメイド長も、声を失った。
彼女を咎めることができる者は、屋敷の中に誰もいなくなった。
今、彼女の側に仕えているのは私しかいない。
そうしてメイドが私一人になると、彼女の父親はそれまでの屋敷に比べて小さな(それでも豪邸には違いないが)家を購入し、そこに彩お嬢様と私を住まわせた。
私一人になると、彼女が癇癪を起こす機会はぐっと減った。
熱しやすく、冷めやすい。
自分でも、加減ができないと気付いているのだろう。
彼女の苛立ちは、手に取るようにわかった。
そしてそれは、確かに彼女の性格のせいではあるけれど、それだけじゃない。
その性格が形成されるまでの環境に問題があったのだ。
彼女が中学生になると、外から見て落ち着いたように思えたが、症状は悪化していた。
彼女は、熱くも冷たくもなく、大人びた雰囲気を纏いはじめた。
名門の私立中学に通っていたが、毎日をつまらなさそうに過ごし、やがて自分でも気付かないうちに、彼女の性格は固まっていった。
学校でも行事などの日は休むようになっていたし、家の中でも部屋に閉じこもってばかりいた。
元々頭がよく、どんなにワガママを言いながらでも、英才教育を受け続けている彼女である。
パッと見ただけでは優秀な、おしとやかな少女であるように見えるだろう。
だが同じ学友としては、彼女の他人に興味を持たない態度は、クールなどというだけでなく、他者を見下しているように感じられたかもしれない。
幸いにしてイジメには遭わなかったが、それでも彼女は学校内で浮いてしまい、三年間で一人も友達ができなかった。
私は、家の中ではできる限り彼女に話しかけるようにしたが、それでも結局三年間で彼女が本音を私に対して言ったことは、一度もなかったように思う。
彼女が高校へと進学するとき、年に数回も会えない父親とゆっくり話す機会があった。
いつもは顔を見るだけだったりしたが(それすら彼女が部屋に閉じこもって会わないことも多かった)、その時ばかりは、娘と話す時間を設けたのだ。
彼女の進路をどうするか――それも、どちらかといえば彼女付きである私にばかり話すように、会合は進められた。
肉親同士の、和気藹々な雰囲気ではない。
裁判や何かのように重苦しく、広いテーブルを挟んで私とお嬢さまは並んで座り、その面談は行なわれたのだ。
ずっと私の隣で、うつむいていた彼女だったが、ゆっくりとある決意を持って、口を開いた。
「私、普通の学校に行くわ」
実の父親に対し、毅然とした口調と挑戦的な瞳で、なにか、それまでの関係のすべてを穿つように言った。
それは、彼女の初めての決意だったのだと思う。
距離を感じている父親に対する、初めての反抗。
自立を求めて、手を伸ばした最初の行動。
自分でも環境を変えたい、と思っていたのだろう。
毎日の何もない倦怠、堕落を一番よくわかっていたのは彼女だった。
私からも彼女の父親に嘆願し、その願い出は許しをもらえた。
塾に通い、成績は常に全国でもトップレベルを維持し続けるように、というのが条件だった。
私は彼女に専属の家庭教師も兼任し、大手塾に無理を言って模擬テストに形だけでも参加できるように手配した。
彼女の自由意思をどうしても尊重したかったからだ。
そして、彼に出会った。
心優しく、彼女のワガママに触れても、いち早くその本質に気付き歩み寄った、同学年の異性の学友。
酒井翔平。彼もまた、己の家に対するコンプレックスがあるために。
彼と、彩お嬢様の仲睦まじい姿には、私は安堵していた。
どんなに外面上は刺々しくても、その本心を理解ある心で包む、気弱ではあるが心優しい少年。
彼と知り合うことで、彼女の閉塞的な世界に一条の光が射し、道を照らしたようにすら思われた。
隣で卵焼きを焼き、十代特有の溢れんばかりの輝きを持った瞳を動かす彼女を見て、私はそんな過去を思い出していた。
今こうしている限りには、どこにでもいる幸せそうな少女なのだ。瑞々しく、なんら他者と比べる必要もないただの子供。
この子にはあまりにも、良い思い出が少なすぎる。
それが私には辛い。彼女に変わって欲しいと願いながら、しかし変える力を持たない私としては。
「大丈夫ですよ。きっといい思い出になります」
彼とのデートに期待を抱く彼女。
私は切に、その邂逅が彼女の心の傷を埋めるものと成り得ることを願って言った。
出ていく間際の彼女に話しかけ、部屋の上着を持っていかせる。
それは、彼女にとって特別な意味を持つものだから。
彩お嬢様が、自分で早起きしてお弁当を作り、出かけていった後のこと。
あの子はなんだかんだと男性の世話を焼く良妻になるわ、などと自分のことを棚上げにしつつも、私が上機嫌でいた時に、その電話は鳴った。
酒井翔平くんの、両親からの急な電話。
彼が事故に遭い、市内の救急病院に運び込まれたこと。
侍女としての分を守り、私はこれまでどんなに目の届く範囲で監視するようでも、彼女のプライバシーには踏み込まなかった。
そのせいで携帯電話の番号も知らず、ただ家にいて、酒井翔平くんの容態の無事と、早くお嬢様が帰ってくるのを待つことしかできなかった。
何時間かおきに、病院の様子が報せられる。混乱しているのだろう、彼の両親から断片的な情報を聞くのだが、どれも良いものではない。
「……ただいま」
彼女が帰ってきたのは、結局夕方だった。
その時にはもう、私には伝えるべきことは一つしかなかった。
「酒井くんが……亡くなったそうです」
今にも消えてしまいそうな彼女の細い指を握り、私は病院の中へと駆けこんだ。
車の中で携帯電話のストラップを握り締め続ける彼女に、私は何も言えなかった。
あまりにも残酷すぎる宣告……それだけでなく、今から直視せねばならない現実のために。
「ここです……彩お嬢さん」
そこはもう、生者のために用意された場所じゃない。
彼女が、入る直前躊躇ったのがわかった。
その手が、宙をさ迷う。
私の服に、遠慮がちに触れ、確かめるようにぎゅっと握り締める。
「翔平……」
最愛の恋人を失くす痛みに、年齢なんて関係ない。
彼女が、どのような視点で彼を見ているのか――私は思わず、目を背けた。
「翔平……起きてよ」
ふらりと立ち寄り、手を伸ばすのを阻んだ。
病院に担ぎ込まれた時点で彼は内臓破裂、手足や肋骨の数箇所が骨折していたと聞かされていた。
「彩お嬢様」
彼女は、現実の悲劇を知った――そこで初めて、実際に確かめることで実感したのだと思う。
崩れ落ち、さめざめと泣いた。
震える咽喉の音が、私の中にまで響いてくる。
悲しみが伝わり、背に手を回すと、余計に彼女の振動が伝わってきた。
「お嬢様……!」
彼女の背中が、私にはまた小さく見えた。
その後、彼女に代わって酒井くんの遺族の方々に会い、後ろに立つ彼女の心中を思いながらも、挨拶を済ました。
彼女はまるで生気を失っていた。
これが本当に現実であるのか……夢でも見ているのではないか、という程に瞳が虚ろだった。
酒井くんの家族相手に頭を下げた時もその挙動にまるで人間味が感じられず、私はひとしおに不安を感じた。
「まことに申し訳ありません! ごめんなさい! 私のところの翔平が……翔平が……!」
酒井の妻が平伏するように彩お嬢さまの手を取ったときも、彼女はそれを茫然として見守るだけだった。
決定的な事柄は、彼の葬式の日に訪れた。
静けさに水を差すようとはいかず、雨が余計に悲しみを増させるような一日だった。
私がスーツ姿で、彼女には黒の和服を着させ、化粧もするとまさに人形のようになった彼女に私はぞっとしていた。
彼女が、ほとんどまとまった睡眠もとれぬままで式までを過ごし、その顔にはもう、生気などというよりも妖しい気配が漂ってさえいる。
そんな彼女は、同級の生徒たちが皆帰った後で、一人でまた翔平くんの下へと向かった。
「お嬢さん」
私が言うと、彼女は瞳を伏せた。
「秋乃さん。その呼び方、今はやめて」
彼女からそのようなことを言われるのは、二度目だ。
いや、前はもっと抽象的で、もっと一方的に私が責められたか。
彼女は次の日の告別式には出席しなくていいと言われたらしい。
おそらく、こちらの体面を気遣ってのことだろう。
彼の家と彼女の家には、どうしようもない隔たりがある。
彼女が、雨に打たれる車の窓を見ている。
私はまだ、車を出さず、彼女が自分で「家に帰ろう」と言うのを、半ば期待して待っている。
小さな音を立てる雨が、無感動に流れていくガラス。
そこに映る自分の顔を見て、なにか思っているだろうか。
「死んじゃった」
話の流れの中で唐突に、彼女はポツリと呟いた。
あまりに突然で、私は何のことかわからずにいた。
「あの日、待ち合わせに来なかった翔平に何度も『死んじゃえ』って思ってたら、本当に死んじゃった」
そう言ったのだ。
あまりに自然に、自然すぎて不自然なぐらいに。
彼女の言葉に、あの日以来私の中で膨らんでいた危惧の念が、実体を伴って現れる。
「死んで、せいせいするわ……あんなやつ」
「お嬢さま!」
怖れていたことが、現実になった。
この子はまた、心を閉ざしてしまう。
また、あの頃のように、
私には、抱きしめることしかできなかった。
強く、祈りをこめて、どこにもいかないようにと。
「そんなことをおっしゃらないでください……」
何も、言葉が見つからない。どうすれば、彼女の痛みを和らげることができるのか?
彼女はこんな時でも精一杯、虚勢を張ろうとしているのだ……自分を保つために。
「秋乃さん……言ったじゃない。お嬢さまって、呼ばないでって」
その冷たい響き。侍女でしかない私と、お嬢さまでしかないこの子。
ああ――また、そこへ戻ってしまったのね、彩。
現実に訪れる、避けがたい運命――それに伴う痛み。
不幸が、再び彼女を歪めた。