Neetel Inside 文芸新都
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たゆたう
第三章 たゆたうぼくら② 回帰現実

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九六年十一月十六日月曜日(晴れ)

 僕の世界が崩壊しかけている。所詮は小さい世界だけれども、でももう耐えられない。どこかへ逃げればいいのだろうか。でもそれができない。僕はここにいるしかないのだ。逃げてどこに行けって言うんだ。誰か助けて。誰にも助けを呼べない。僕には僕しかいない。

九六年十一月十四日土曜日(曇り)

 あかりが泣いている。理由を聞いてみた。だめだ。なぜ僕はこんなところにいるのだ?この世界で僕だけがなぜこんなにも…。もう嫌だ。終わってしまいたい。でも死ぬのは怖いよ。
九六年十月十日土曜日(少し曇りのある晴れの日)

「………………………」

 僕は机の引き出しの中をかき回し、何かカセットテープを捜す。(この時代僕は、音楽といえばレンタルしたCDを録音したカセットテープだ。)僕はたまたま手にあたった一枚をデッキに挿入する。今の僕の音楽の趣味はこの当時の僕とかなり違うけど、まぁ何かが流れていればいい、そんな気分だった。
 僕は学校を終えて自宅に戻ってきてから、この頃の、すなわち中学生の頃の僕がどんな人間像であったかを、今後のために思い出そうとしていた。そこで出したのがこの〈日記〉である。まぁ、日記といっても毎日というわけではなく、書きたいことがあった日だけに闇雲に書き連ねたものである。だけどこの日記は今(というか六年後の未来)に至るまで続けられているのだ。
 日記を数ページ読んで思ったことは「はっきり言って使えない。」であった。我ながらよくもまぁこんな恥ずかしいものを書いていたなと思う。中学一年生の書く文章ということで字体の汚さや、多少の文章構成には目を瞑るにしても、
「事実を書け。事実を。」
 と思う。まぁ嘘は書いていないのだろうけれど(書いた覚えもない。)自分の思想ばかりで、肝心の〈何が起こったのか〉ということがすっぽりと抜けている。書きたくなかったのか、無意識的にそうなったのかは定かではないのだけれど、
「天気必要ないだろ。この日記に。」
 なぜお天気だけは詳細に書き込まれてるんだ?気象情報士か、おのれは。

はぁっ

 僕は溜息をつく。この日記から当時の僕の様子を探ることはかなり至難の業であるな。……しかし一つだけわかったこと。
こいつは底辺だ。
 日記の内容はどれもかなり暗い。下手をすると「死」とか「殺」だとかいう文字も出てくる。この頃の僕が人間としてかなり下のほうだったのは間違いないだろう。まぁ今の僕もそんなに(というか全く)、この時の僕を馬鹿にはできないのだけどね。つまり今も昔も僕はあまり成長していないわけか。悲しいものだな、人間の一生なんて、と思ってしまう。
「お兄ちゃん?」
 僕が自分の日記を読みながら一喜一憂(主に憂だけど)しているところに、小さなあかりが(いまのところは)僕の部屋のドアを開けて入ってきた。
「あのね、夕ご飯。」
 あかりは僕のところまで歩いてきて来てボソッとそう言う。そういえば朝、僕はかなり混乱していたからこのあかりと碌に話もしていなかったな。
「うん。ありがとう。今行くよ。」
 僕はそう言って日記を閉じ、そしてまだ幼い小学生のあかりの頭をポンと叩いた。それだけで機嫌が治ってくれたのか、あかりは
「うん。行こ!」
 と明るい声になって答える。僕はあかりの手を取って、二人で母と父の待つ食卓へ行く。
 僕はこの幼いあかりの手の温もりから、昨日の中学生のあかりをぼんやりと思い出していた。そういえばまだ謝っていないなぁ。あいつ、どうして怒ってたんだっけ?いや、なんで僕は怒ったんだっけ?記憶の中では昨日のことのはずなのに、もう何年も昔のことのような、そんな気がした。

「ナー」

 その時、外から猫の鳴き声が聞こえた。
「あっ、猫さんの声がする。」
 あかりが言う。
「ナー」
 また猫が鳴いた。
「もう、うるさい野良猫ねぇ。あっ周一、ご飯よ。」
 母が二階から降りてきた僕とあかりを見てそう言った。だが僕は母の言葉には応じずそのまま食卓を通り抜けて、そして窓を開けた。
「なー」
 そこには黒猫がいた。けれど黒猫は僕の姿を見ると一目散に逃げて、闇の中へと溶け込んでいってしまう。その黒猫は僕の知っている猫ではなかったと思うけど…。
「猫さん逃げちゃったね。」
 僕の後ろからあかりが来てそう言った。僕はしばらく黒猫の消えたその闇から目が離せなかった。。

カチャカチャカチャコトンカタ

 食器の音だけがそれを告げていた。それ―家族の食事―が始まる。父、母、それに兄、妹の揃った、それだけなら微笑ましさすら感じさせるだろうこの構図。だがここに団欒はない。そして僕はそのことを食卓に着く前から知っていた。いや、思い出していた。 僕の家に「ご飯を食べる時はしゃべってはいけない」というような家訓があるわけではないが、ここに言葉を発する者は一人としていないのだということ。僕の日記を暗くしている原因の一つでもある、家庭崩壊の図。
 僕の家がなぜこうなってしまったのかはわからない。それは十九歳になった僕にも、未だにわからないことである。けど何も珍しいことじゃあない、両親が健在で離婚もせずにいるということはむしろ稀なことなのだ、ということを十九歳の僕は知っている。
親と子供のような血のつながりは父と母の間にはなく、ふたりは他人でしかない。その他人同士が一生を一緒に暮らすことなんて果たして可能なのだろうか、というようなことも十九歳の僕は考えられるようになっている。
 ただ…僕はこうなった理由として、両親から「価値観が違うようになってしまった。」ということを聞いたことがあった。価値観。その言葉の意味するところは未だによくわからない。カチカンノチガイとやらによってこの家は何が変わってしまったのだろうか。わからない。
 父はいつからか家にいるあいだ何も話さないようになった。僕やあかりとならまだしも、母とは本当に何も話さなくなった。母はそのストレスを僕に愚痴るようになった。僕は――この家で起こったことの全てを自身の内に封印しようとした。そして三人はあかりの前では平然を保とうとしていたのだった。
 いつからか僕は(いや、おそらくこの家の全員かもしれないけど。)この家に家族団欒らしいところがあっても、それは演技でしかないような、そういうふうに思ってしまうようになっていた。
 僕はこの頃からよく笑うようになった、と思う。それはあかりがいたからかもしれないけれど実際どんな表情をしていたのかは自分ではわからない。ただ他人や母親から「楽しそうだね。」と言われるようになって、とても悲しかったことを覚えている。この家で僕は怒るわけにはいかないと思っていた。寂しさを家族や他人に気取られたくないとも思っていた。もうどうしようもなく壊れていた家族ではあったけど、僕は僕が原因でそれが悪化するのだけは避けたかったのだ。だから僕は自分の感情をなるべく出さないように、出さないようにとした。そして僕は偽りの家族団欒を作ることが必要だったので、感情を封印した無表情の上に笑顔を被せることにしたのだ。この頃僕は確か鏡を見ながら笑顔の練習をしていたと思う。まるで役者みたいだ。自分の本当の生活の中で役を演じる時、僕の現実はどこにあったのだろうか。舞台裏はどこにあったのだろう。そう思った。
 六年後の未来、父と母は結局離婚をしていない。度重なる「家族会議」の結果、少なくとも表面上は元どうりの関係に戻った。だけどこの状態は悪化しながら実に五年は続くこととなるのだ。僕は離婚を始めとする様々な家族の亀裂に加害者はいないと思う。みんなが被害者だし、それはそうなるようにしてそうなった結果の一つだとも思うのだ。だけど親の問題で子供を被害者にすることだけは悪いことであると思う。罪ではないが悪いことだと思う。親になった人にはそれを知って欲しいと思うのだ。これは今の、そして昔からの僕のお願いだ。

「あかり、学校では今どんなことをやっているの?」
 僕は食卓の沈黙を破った。本来ならば僕がこういうことをできるようになるのはまだかなり後、二三年は先の話、なのだけれども。
「え?」
 あかりはかなり驚いたようだった。まぁ、当たり前といえば当たり前である。あかりと僕は家族がこういうふうになるまでは必死に話題を作り、会話を引き出そうとしていた。小学生のあかりにだって、自分の家族が何かおかしくなったということに気付かないはずなかったのだ。健気に、本当に健気に、あかりはなんとかしようとしていた。しかし僕らのそういった試みは全て空虚に消え、その結果僕らは逆に食事中は音をたててはいけないと思うようになったのだ。だけども食器の音も咀嚼音も、沈黙の中では全てが響く。それで僕らは音をたてることに次第に罪悪感を持つようになったのだった。
「学校でだよ。あかりはなんの教科が好きなの?」
 僕の声ももちろん沈黙の空間に響き渡る。だけれどいい。僕は母とも父とも話す気はない。あかりとだけ話すのだ。かったるいしがらみなんて無視してしまえばいいのだ。
「うん。ボクはね…」
 あかりは少し笑顔になって「それでね、それでね、」といった感じで話し始めた。家族の崩壊は僕にとって正直かなりのストレスだったけど、幼いあかりは僕の比ではないぐらいのものを抱えていたのかもしれないと思う。子供にとって親とは絶対なのだ。神と同等の存在であるとすら思う。子供が不満を持とうが口答えしようが、決定的な力はつねに親のものなのだ。子供にとって親のすることはつねに絶対で正しいことになる。だから親が人間として落ちた時、子供は「自分が悪い。」と思うようになるのだ。幼ければ幼いほど、そう思い込むようになるのだ。
「あかり、あなたは女の子でしょ、いいかげんボクはやめなさい。」
 母が僕らの会話に入ってきてそう言う。
「あ…はい。」
 あかりがそう答える。
「いいんだよ、あかり。女の子だからって女の子の言葉を使わなきゃいけないなんてことはないんだ。それに僕は自分の好きな言葉で自分を表すことは大切なことだと思うよ?」
 僕は言った。まぁ、ことの是非はともかく僕が親に口答えをするのは昔からわりと良くあることだったりする。
「でも、周一…。」
 母が言う。そんな僕らを見てあかりはまた不安を思い出したのか、押し黙ってしまった。
「いいんだよ。それがどうしても必要なことなら、社会が教えてくれるのだからね。」
 あかりに対して言った言葉だったけど、僕はその言葉を心の中で母と、それからしゃべらない父へと向けた。逃げたい時は逃げればいい。見たくないものがあるなら見なければいい。認めたくなければ認めなければいい。だけどいつかそういうものを清算しなければいけない時が来ますと。そう伝えたかった。

 そしてそれは僕もなのだと思った。だけど今はまだ夢を見させて・・・

 僕も過去の清算をしなければいけない時が来るのだ。いつまでも引き摺り続けているわけにはいかない。しかし、あぁ、しかし…。この世界に来たからにはしなくてはいけないのだろうか。いや、だが別の見方もある。過ちはそもそもなかった、ということもできるかもしれない。

変えられるのか?未来を――

 そう思った。僕はそこから自分の世界へ入ってしまい、食卓にはまた沈黙が流れた。「ゴホンッ」という父の咳払いだけがその後聞こえた唯一の音だったような気がする。コミュニケイションは言葉だけではない。人は話そうと思えば字でも手でも話すことが出来る。だからその「ゴホンッ」も不器用すぎる父の、父なりコミュニケイションの方法だったのかもなぁ、と少し思った。でも悲しいかな。言葉だろうがなんだろうが誰かに伝わらなければコミュニケイションは成立しない。厳しいけれど誰にも伝わらない言葉は寝言と同じだ。

 夕食を食べ終えた僕はそのまま部屋へと向かった。数秒後あかりが僕の部屋のドアを開ける。
「あの…」
 開けはしたがそのままあかりは口篭もって入って来ない。そして少し開いたドアの隙間から顔だけ出してこっちを見ている。僕は「ノックぐらいしろ。」とあかりに言おうかとも思ったけど、この家で自分の部屋のないあかりにそれをいうのは酷なことだし、なによりこの部屋はもうあかりの部屋のはずである、という僕の記憶がその言葉を留めた。
「なんだい、あかり?」
 僕はそう言った。感じ優しめ。コーヒーに砂糖二杯の牛乳入りぐらいの優しさ。
「あのね…ここにいてもいい?」
 あかりはそう答えた。その言葉に僕は少しだけ戸惑う。僕はこれからこの世界の住人になるために、この部屋で僕の記憶をどうにか引き出そうと思っていたからだ。しかしあかりはここ以外に行き場はないだろう。まぁ、あかりは小学生だしすぐに寝る時間になるだろうな。そう思った。
「いいよ。ここはあかりの家なんだからあかりのいたい所にいな。」
 僕はあかりにそう言った。
「…でも…昨日は…一人になりたいから入ってくるなって…。」
 あかりが言う。昨日の話を持ち出されるのはとても困る。しかし僕はそんなことを言ったのか。幼いあかりを見て〈昨日の自分〉に腹が立つ。
「ごめんよ、あかり。兄ちゃんが悪かった。」
 僕は素直に謝ることにする。そしてあかりの頭をポンと叩き、それからこう言った。
「でも兄ちゃんは勉強があるから一緒に遊んではあげられないよ?」
「じゃあボクも勉強する。一緒に勉強しよ?それならここにいてもいい?」
「うん。じゃあそれで決まりだ。教科書持ってきな。」
 そしてあかりは教科書を取りにタタタタと階段を降りていった。あかり個人のそういった道具はその殆どが居間―父と母が普段いる場所―にある。だからあかりは僕以上に両親の目の届く場所に――いや、そういう表現ではないな―僕以上に両親のつくる重い空気の中に―置かれていることになる。だから僕があかりを拒絶したら、あかりにはこの家での居場所がなくなるのだ。けれども僕は…

「おまたせ、持ってきたよー。」
 あかりが手に教科書を持って戻ってきた。社会の教科書である。自分で言っておいてなんだが、あかりはどうやら本当に勉強する気らしい。仕方がないので僕も勉強をすることにするかな。
「えへへー。」
 あかりはニコニコしている。僕が「遊ぶ気はないよ。」と言ったことをまだ覚えているだろうか。
「あかりが机を使っていいよ。」
 僕はそう言ってあかりを椅子に座らせる。
「いいの?」
「うん。僕は教科書とノートを読むだけだから。」
 僕はそう言って机の後ろにあるタンスに腰掛けた。そして眼鏡の位置を正して教科書を――。忘れていた。僕は眼鏡を掛けていないのだ。
「お兄ちゃんさ。」
「うん?」
「お兄ちゃんさ。今日何かいいことあった?」
「どうして?」
「うん…なんか…明るくなったから。」
「…昨日までの僕は暗かった?」
「うん。」
「フフ、そっか。そうだね。あったよ。いいこと。」
「どんなこと?」
「好きな人に会えたことかな。」
「お兄ちゃん、誰か好きな人いるの?」
「そうだよ。」
「誰?」
「あかりの知らない人。」
「……」
「怒った?」
「……別に。」
「なぁあかり。」
「何?」
「世界にはたくさんの人がいるけどさ、その世界の誰の心も僕はわからないんだ。」
「…あかりのことも?」
「うん。完全にはわからないよ。僕はあかりではないからね。」
「…うん、そうだね。」
「けどさ、そういうことっていうのは逆に、世界にいる一人一人に違う何かがあるってことだとも思うんだ。」
「うん。」
「だから例え同じことであっても、そこにいたひと一人一人の見かたによって同じことは同じことではなくなるのかもしれない。」
「う~。」
「例えば今日の晩御飯の様子を小説に書くんだ。」
「…うん。」
「僕を主人公にした時とあかりを主人公にした時とでは感じ方や見かたが違うかもしれない。今日のおかずはエビフライだったけど、僕はどうせフライものならナスも欲しいと思った。あかりはどう?」
「え…。うん。えびさん。…赤いしましまと白いしましま…お顔はどうしたのかな…とか。」
「えびさんの顔はえびの国へ行ったんだ。」
「えー。」
「まぁ、とにかく僕がなすのことを考えていた時あかりはえびさんの顔のことを考えていたんだ?」
「うん、そう。」
「ほら、僕とあかりは違うだろ。」
「…うん。」
「もっと考えてみようよ。母さんはどうだったか。父さんは何を考えていたか。父さんを主人公にしたら多分僕やあかりとは全然違うものになるのかも知れない。」
「うん。どんななんだろうね。」
「だからさ、あかり。もしあかりに嫌いな人や何を考えているのかわからない人ができてもさ、その人を主人公の物語を書けば少しはそんな人達の心がわかるようになるかも知れないね。」
「うーん。」
「反対に好きな人なんかができて、その人の気持ちを知りたくなったらさ、その人が主人公の物語を書けばその人の気持ちがわかるようになるかも知れない。」
「うん。」
「難しいかな。こういう話は?」
「うん。よくわかんなかった。」
「ハハ、ごめんね。」
「ううん。よくわかんなかったけど、最後の好きな人の気持ちがわかるっていうところはステキだったよ。」
「そっか。ありがと。」
「…ねぇお兄ちゃん?」
「何?」
「今日一緒に寝てもいい?」
「え……………」
「ダメ?」
「いや、いいけど…」
「やった。決まりね。キロロも一緒だからね。」

 僕はそれからも色々なことをあかりに話した。なんでこんな話をあかりにすることになったのか、自分でもわからない。多分僕もあかりも話しがしたかっただけなのだろうと思う。
 そして結局僕もあかりも当初の目的(あかりは勉強、僕は…自省?)はそっちのけで話しをしていた。あかりは僕の小難しい話にうんうんと相づちを打ってくれ、そして時には自分の考えや、父や母に対する思いをたどたどしくもポツポツと話した。夜眠る時になっても僕らはヒソヒソといつ絶えるとも知らない話を続ける。あかりが眠ってしまった後も、僕はあかりがベットに連れてきたキロロ(キツネのぬいぐるみ)と話続けていた。僕は眠ることが怖かった。明日起きた時はまたなんでもない昨日の繰り返しになるような気がして……………


 僕は地元の町役場にいた。周りがなんだか騒がしい。けれど嫌な感じの騒がしさではない。嬉々とした声でつくられる騒がしさだ。「春うららかな」とでも言えそうな天気にそぐわしい歓喜の声と人々の笑顔がそこにはあった。
 僕もこうした声と笑顔のひとつになれるのかな。そんなことを思いながら約束の場所へ向かう。――誰との約束だっけ?誰かが僕を待っているのかな。それともこれから僕がその場所で約束をした誰かを待つのだろうか。そこで彷徨っていた視線が足取りと一致して動きを止める。「約束」を見つけた。僕は、その視線を定めたまま悠々と視点の先へと向かう。約束の場所の町役場の入り口に五六人が正装で立っている。僕は自然に笑顔になり、騒ぎをつくっている集いのひとつに到着した。その集いの中、それまで誰かと話していたある女性が僕に気付いて振り返った。僕らは数秒の間なにも話さずにお互いを見詰め合う。過去のお互いの記憶を今、目の前に存在するその人と結びつけるために。それは静かに、とても静かに流れた時間だったと思う。

「久し振り。」
 僕は言った。
「うん。」
 君は答える。
「君の着物姿も見てみたいな。」
 着物の話が出てくるあたり今日は成人式なのだろう。そういえばここにいるのは皆正装の人ばかりだ。僕も背広を着て精一杯の背伸びをしている。
「ホント?じゃあ今度見せてあげるよ。また会おうよ。」
 君は言う。そして僕はふと思う。あぁどうしてあんな嫌な夢を見ちゃったのかな。君が死んで…僕が壊れて……あぁ、でも夢で良かった。本当に良かった。
「じゃ、そろそろ中へ入ろ。」
 君が言った。そして君――彼女―と彼女と一緒にいた人々は僕から遠ざかって行った。僕も後を追わなくてはいけない。彼らとの距離はどんどんと遠ざかっていく。僕は歩を速める。けれど追いつかない。おかしい。僕は走る。届かない。それどころかますます距離は遠ざかっていく。彼らはゆったりと歩いていて僕は必死に走っているというのに。体が重い。だめだ。離れていく。待って。僕一人だけが追いつかない。待ってよ。

「―――――!」

 僕は叫んだ。けれど誰も気付かない。
「加奈!」
 いや、違う。
「神楽っ」
 あれ、僕は彼女をなんて呼んでいたんだっけ?思い出せない。遠ざかる。だめだ。行ってしまう。もう殆ど見えなくなってしまっている。なんて呼べば君は止まってくれるんだ?………遠い。


 夢から覚めた時僕は学校の教室にいた。昨日全然眠れなかったせいか、僕は太陽の光の下ウトウトとしてしまったらしい。隣を見ると神楽が僕を見ている。僕が小声で「おはよう。」と言うと、神楽はあきれたのかそっぽを向いてしまう。しょうがないので僕は黒板を見ると、そこでは先生と思われる人物が一生懸命に何かを話していた。
 僕はどうやらまだこの世界にいて大丈夫らしい。もうずっとこのままなのか、それとも何かの調子にまた戻るのかはわからないけれど、とりあえずはまだここにいて大丈夫らしかった。
 僕は頭の半分で授業を聞きながら、もう半分で考える。未来の知識や経験を持って過去に遡るというのは実際かなり有利なものだ。学業のことだけでも、それだけでかなり上位になれるだろうと思う。しかし僕はどこまで有利になれるのだろうか。もしかしたら僕は未来を変えられるんじゃないだろうか、とも思ったけれど、実はもう十分に変えてしまっているんじゃないだろうか。実際より少し頭がいいだけで、実際より少し何かを知っているだけで、未来は簡単に変わっていってしまうものじゃないだろうか。例えば僕が実際行った高校とは違う高校へ進学したとしたら、それだけでもう僕の知っている未来から大きくはずれていくことになると思う。だから変えられる未来があったとしても、それは限りなく今の、中学一年生の時点でどうにかなること、でなければいけないと思う。それ以降は「変化」ではなく、そもそも「新しいこと」なのだから。
 しかし半分の頭の中で別の僕が考える。そもそも僕がこうして過去へ来たことに意味はあるんだろうか。これはたまたまこういうことが起こったのが僕というだけで、意味なんて「リンゴは何故落ちるのか」という程度のことでしかないのかもしれない。皆の投げたリンゴが落ちていく中、たまたま僕の放ったリンゴは宙に浮いただけということなのかもしれないのだ。
 僕は自分の人生に概ね後悔はしていない。だってそれはなるようにしてなったものなのだから。その時は悲しいことで、終わった後も「良かったこと」とは絶対に言いたくはないものだってあるけれど、それでも「そのことがあったおかげで今の僕がいる」と言えるようなことだってあると思うのだ。悲しさを乗り越えて人は強くなれるのだ。なんか人生悟った感じで嫌だけどもそう思うのだ。
 永く続いた家族会議。様々な人との別れ。けれどそれらがなかったら僕はどうしようもないほど甘い人間になっていたかもしれない。今でも十分甘いかもしれないけども、それはともかく、そうなっていたかもしれないと思う。そうだ。僕は思い出す。僕は変わることを望んでいた。昔の僕ではない僕として、大人になったとか、そういうことでもいいのだけれど、こういう何かがあったから僕は変わったのだという結果を僕は欲しかった。

 彼女が死んだのも?
 彼女が死んだのも望んだ結果?
 良かったことなの?

 頭に矛盾や支離滅裂が生まれてくる。僕の頭なんてそんなものだ。一般論と自意識がせめぎ合うのだ。
でも考える。彼女はここにいる。僕の隣に。生きて。箱の中ではなく。動いている。これは真実だ。どんなに嘘ばかりでもこれだけは真実なのだ。
 そうだ。僕がこの世界で変えられるものがあるとするならば、それは彼女を死なせないことなんじゃあないだろうか。

「ひとはよし 思ひ止むとも玉葛 影に見えつつ忘らえぬかも。」

 無意識に僕の口からボソッと言葉が出る。彼女がいるのは真実だ。彼女が死んだのは事実だ。ならば僕がその事実を変えてやる。なぁ、それでいいんだろう、神様?
「おー万葉集か。よく捜したな。佐々原。」
 先生が僕の思考を遮る。どうやら先程無意識に出たと思っていた短歌は、僕の思考から取り残された頭半分が答えたものらしい。頭半分は聞いていただけなので、頭に入ってはいても理解はしていない。頭をひとつに戻してまとめて考えると、どうやらこの時間は自分の捜してきた短歌や俳句の一節を発表するというものらしい。中学一年生らしい内容だ。
「佐々原はなんでこの歌を選んだんだ?」
 先生から質問が来る。この少し禿げた頭で、少し太っていて、おおらかそうな、いかにも国語の先生、といった感じのこの人はたしか母が癌を患ってその看病のために教師を辞めることとなる。もしこの人が今の時点で母の癌がわかったとしたらどうなるのだろうと思う。どうなるのだろう。
「この歌にロックの原点を感じました。」
 僕は答えを茶化した。教室から少しの笑いがこぼれる。まぁ僕がこのくらいの年齢の時にロックと聞いてピンとくるような奴は周りにあまりいなかったと思うから笑いはこんなものだろう。かくいう僕もロックを聞いたのは高校に入ってからなのだ。
「よし、じゃあ次神楽。」
 僕の答えは先生には見事に流された。冗談の通じない先生だ。しかし席順に行っているところをみるとこの歌詠みは成績にはあまり関係ないらしい。多分これから始める授業のための余興のようなものなのだろう。だけど神楽の出番と聞いて僕はいったん自分の思考を中止する。そして神楽の声に集中した。

「えっと…白い手紙がとどいて…明日は春となる……うすいがらすも磨いて待たう。」

カランとした声で神楽は言った。「カラン。」意味はないけれど、なんとなく透き通っていて優しそうな、そんな感じの声。
「聞いたことないな。誰の歌だ?」
「えっと、ちょっと待ってくださいね。……え~と、あった。サイトウ…フミヒトです。明治四十二年、東京生まれ。」
「明治か…まぁいいだろう。神楽はこの歌のどこが気に入ったんだ?」
「え・・いや、なんとなくなんですけど…白い手紙とか薄いガラスとかいう表現がなんか淡い感じで素敵だなって。そう思って。」
「そうか。よし、じゃあ次、三浦。」
 自分の番が終わった神楽は少し恥ずかしそうにしていた。シロイテガミガトドイテアシタハハル…。白い手紙か。なんだか僕にとってはあまりいいイメージじゃない。何も書かれていない白。何か死をイメージさせられる白。でもいい歌だ。神楽はこの歌に何を思ったかな。
 そしてその後も五十分の授業の中、一人一人が自分の捜してきた歌を詠む。だけどそんな限られた時間の中にあっては一人一人に多くの時間を割くことは難しい。僕も神楽も一瞬の出番だ。古文ではこういうことを表す素敵な響きの言葉があったと思う。「たまゆら」だ。一瞬という意味だけど日本人らしい情緒が感じられる言の葉だと思う。僕はそんなことを思い出しながら、手元に教科書と一緒に置いてあり、授業で使う予定の古語辞典をパラパラとめくる。その辞書をめくりながら思う。僕はこの辞書を知っている。だけどそれはこのままの姿ではない。少しボロボロで、ページが黒ずんでいて、使い古された辞書として、である。ページをめくる。白い。そこには僕が赤い線を引いたハズのところもほかの所と同様に白くなっていた。過去に戻ってきて僕には未来の記憶があるけれど、それ以外の現実はゼロに戻ったのだ。おかしな話だ。経験はしているのにやっていない。僕が大学に行って一人暮らしをする家や場所に行けばもっとそう思うのかもしれない。知っている、経験している、その出会いや別れが、すべてゼロになった。ラビスラズリともまた出会うのだろうか。だけどもしラビに出会えても、その時僕はその出会いを知っていることになる。「何か悲しい。」僕は漠然とそう思う。


「しゅういちー。」
 国語の授業が終わり休みの時間。昨日、クラスの皆は僕の神楽に対する突然の行動のためか僕を敬遠していた。それは昨日中学生になったばかりの僕にとっては好都合であったことだけど、しかし今日はもう違うらしい。親しげに声を掛けて来る奴がいた。
「となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ。はい十回。」
 ゆうさく、僕が昨日教室まで案内してもらった少年、は僕の返事も待たずにそう切り出す。
「となりのかきは…」
 僕は突然の彼の要求に普通に対応する。多分僕らは昔からこういう会話をしているのだろうな。
「違う。柿が客を食っているぞ。」
「わざとだよ。」
「真面目にやれよ。ほら次は…」
「すももももももももものうち」
「え?」
「ほら二十回。言えなかったら大声で好きな女の子の名前を叫んでくれ。」
「なんだと。じゃあ俺が言えたらおまえが好きな子の名前を言え。」
「いいよ。」
「やめてよ。」
 彼女がそう言って僕とゆうさくの会話に入ってきた。神楽も休み時間に席を離れていなかったから、僕らの会話は聞こえていたのだろう。僕とゆうさくは会話を止めて二人で神楽の方を見る。
「あ…え……と。その…。」
 どうやらつい口から出てしまった言葉らしい。
「あ・・違うの。周ちゃんに言ったんじゃないよ?」
 嘘だ。僕らが神楽を見た時完全に目が合った。僕はなんとなくおかしくなって笑いそうになる。
「周ちゃん?神楽って周一のことそう呼んでいたっけ?」
 ゆうさくが言う。そういえばそうだ。神楽は僕のことを普段なんて呼んでいるのだっけ?佐々原君、周一、いや、でも今は…
「あ…あ、や、違う。そうじゃなくて」
 ゆうさくの言葉に神楽はますます動揺する。僕は助け舟を出すべきか。しかし昔の、というか中学生の僕ならこんな時神楽と一緒になって恥ずかしがっていたんだろうなぁ、と思う。
「神楽は周一のこと好きなの?」
 ゆうさくは小学生なみのイジメモードに入った。しかし僕は黙って静観している。
「違うよ。」
 神楽は少し怒ってそう言った。そんな力一杯否定しなくても…と僕は思う。
「じゃあ嫌い?」
 ゆうさくが言う。こうなると本当にエスだな、この少年は。
「嫌いじゃないけど…」
 ああ、この会話のパターン。思い出した。ゆうさくのみならず色んな人にやられたな。「嫌いじゃない。」「じゃあ好き?」「うう・・」「どっち?」
「じゃあ…」
 ゆうさくがマニュアルどうりに会話を進めていくので僕はとりあえずゆうさくの頭をパゴーンと叩く。別に悪いとはいわないけれど、僕が神楽を好きになってしまった理由はそうしたおまえらの行動にもあるんだぞ。

「いってー!」
「すまん。頭にハエがいたから…」
「嘘つけ!」
「いやぁ。いたんだよでかいのが。なぁ神楽?」
「え…あ…うん。」
「ほら、証人二人。」
「…まったく、バカになったらどうするんだ。」
「心配するなよ。そうならないようにぶったんだから。」
「…やっぱりぶったのか。」
「いや、今のは言葉のあやだよ。ゆうさくさん。」

 ゆうさくと話しながらもチラリと横を見ると、神楽はクスクスと笑っていた。君はやっぱり笑っている時が一番いいよ、と思ったけど僕はそれを口には出さなかった。言って笑顔がなくなるのが嫌だから。思えば君に言おうとして言えなかったことはたくさんたくさんあった気がする。
「ねぇ神楽。」
 僕はゆうさくと喧嘩の真似をしてじゃれあいながら横目に神楽を見る。
「なに?」
 神楽が微笑みながらそう言う。
「その髪型、似合っているよ。」
 僕は言った。その言葉の後ゆうさくが、そして神楽が一時止まる。あぁ、やっぱり言わないままのほうがよかったかな?
「…うん。ありがと。」
 神楽は少し恥ずかしそうに手で髪をいじってからそう言う。
「あーもう見てらんねえ。」
 ゆうさくはそう言って今度は僕の頭を叩く。「パコーン」といい音がした。ほのぼのとした日常にうかれている僕の中、冷静な僕がこう言う。本当に大切なものは亡くしてみないとわからないものだね。これは僕が一度亡くした光景。幸福とか、そういうもの。十九歳の僕にも友達とかそういうものはあったけれど、でもこの頃のような友達には巡り合えていない。神楽が死んだ後、およそ一年間か二年、僕は孤独を彷徨って。だけどそれは僕が望んでそうした結果であり、完全に僕のせい、というか「運命」だった。まぁ自宅に住んでいたし、人と最低限の話しはしたから本当に孤独というわけではなかったのかもしれないけど。

「幸せってなんだろう」と思ったこともある。けれど僕の幸せなんてものはなんでもない、なんてことはない日常にあったのかな。

 そう思った。そう思った途端「ゴン」という音が鳴った。そしてその「ゴン」という音と同時に僕の視界は急にぶれ、頭に鈍い痛みが走ったのだった。僕の後頭部に何かが当たったらしい。椅子に座っていた僕はバランスを崩して前のめりに倒れる。僕は何が起こったのかわからず、二秒ほど思考が停止してしまっていたので、それが誰かに殴られたのだと理解するのにはしばらく時間がかかった。ゆうさくじゃない。彼は僕の前にいた。それに…それにこれは本気で殴った拳だ。











       

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