たゆたう
第六章 僕は平行線の夢を見た。
第六章
僕は漂っていた。ゆらゆらとたゆたう場所にいた。
たゆたう世界の中、僕はその世界の所々に穴が空いていることに気がついた。
最初に僕が気付いた穴、そこには覗くと海が広がっていた。
ありがとう
ごめんね
ずっとずっと好きだったよ
そう僕の声がして
そしてその穴は閉じていった。
次に僕が見た穴の向こうには病室みたいな部屋があった
僕はその穴の中に吸い込まれる
穴の向こう側で僕は加奈と、それから〈僕〉を幽霊のようになって見ていた。二人はどうやら海でのことを話しているようだった。
「でも…」
〈僕〉が言う。
「全部夢なんだよね?」
その〈僕〉の言葉を聞いて思った。そう、全部実際には起こらなかったことさ。僕らは本当は海へなんて行っていない。加奈だって神楽のままだ。本当は…でも僕は行ってきたじゃないか!僕は加奈の(いや神楽の?)方を見る。ねぇ!僕は君を抱いた。過去へ戻って君に好きだよと告げたんだよ!
「そうね…、夢だよ。」
………………
「実は今絵を描いているんだ。」
君が〈僕〉の言葉に答える。
「体は大丈夫なの?」
君が〈僕〉を見舞っている。
僕が死んで君が生きる?
そうか。でもこれはこれでいいのかもしれない。君が死んでしまうのを僕が見るよりは、僕が死んだほうがいい。僕が…。
「君がいるから。」
そう〈僕〉は言った。
僕が死んだら加奈は悲しむだろうか。悲しいよ、と彼女は言った。幻想かもしれない。でもきっとそうじゃない。周ちゃんが死んだら私は悲しいよ、と彼女は言ったのだ。
思う。僕が死んだら彼女は、彼女が亡くなった時の僕になるのだろうか?そうした結果が「君が死ぬより僕が死んだ方がいい。」と言うことはとても無責任なことじゃないだろうか?だって僕はただ君を失うことが怖いだけなのだから。そして思う。君には僕のようになって欲しくない。悲しい人間は僕一人だけで十分だ。
「君がいるから。加奈は僕のところに来てくれたから。だから僕は大丈夫だよ。」
そう〈僕〉は言うのだった。
そしてその世界も小さくなり閉じていった。しかし僕だけはそこに留まることを許されず、たゆたう世界へ戻されるのだった。
僕はまた別の穴を覗こうとした。
しかしその覗こうとした穴は僕が近づく前に小さくなって閉じてしまった。
穴が閉じる
ひとつまたひとつと
僕の周りを取り囲む〈入り口〉が次々に小さくなっては消えていく
たゆたう世界が暗くなっていく
僕はだんだん不安を掻きたてられていった
たゆたうこの世界に一人きり
それは嫌だな
そう思った
そしてそうした不安とともに別の想いが頭を過る
僕はなんでこんなことになっているんだろう?
その時キーンと音が鳴り響いた。
僕の頭ではなく、この世界全体に
僕の前に一人の老人が現れた。
老人は、なんと言ったらいいか、白いひげにローブを纏った、いわゆる聖人のような、そんな格好で、手には小さな金色の装飾された鐘(呼び鈴サイズだ。)を持っていた。
老人が鐘を鳴らす。
キィィィィィィィィィィン、キィィィィンと世界全体に〈音〉が鳴り響く。
やめろ!
僕は言う
おまえは誰なんだ?
キーンと鳴り響く音の中、僕は必死にその老人の顔を探っていた。
絶対者だ。おまえさんにわかりやすい言葉で言うとだが。
老人が口を開く。いや、だけど違う。これは言葉なんかじゃない。これは…この世界そのものの音
わしに名前なんてないのだ。この姿でさえおまえさんのイメージにすぎん。
その〈音〉の後、老人は老人ではなくなっていた。若者に、女性に、子供に、ゆらゆらと変わり
ここは選択されなかった未来
僕は目を見張る。そこにいた〈音〉は黒い猫。ラビスラズリだった。
ここはおまえのいるべきところではないのだ
そしてラビは…いや…あかりは…鐘を鳴らす
もう帰るのだ。おまえはたまたまここへ来てしまったにすぎないのだから
あかり…あ…加奈………
鐘が鳴る。でも鳴ったのはキーンいう音ではなかった。
カンカンカンカンカンカンと
踏み切りの音が
響いた
瞬間 ひときわ大きな〈穴〉が僕の頭に降ってきた!
: :
夕暮れ時だろうか。部屋には赤い光が差し込んでいた。目を覚ますと十一月だというのに何もかけずに雑魚寝をしていたのだと気がつく。そして部屋がいつもより散らかっていた。開かれたスケッチブック。中が空のネコ缶。食べかけのスパゲッティと、そしてサラダ。
そこまで見回してからさっき妹と喧嘩をしたことを思い出した。だがそれ以上は何も考えずに立ち上がる。眠る前にあった現実を全て投げ捨てて、そして部屋から出る。
出る前に、ドアの鉄の部分を感情にまかせて殴った。「ゴッ」という鈍い音とともに右手に痛みが走る。続けてもう一度、今度は左手で。
そのままそこで拳を痛め続けていたかったが余計な意識が邪魔をした。ここはアパートだ。両隣の人が迷惑な音は出さない方がいいぜ。それに万が一、壊してしまったらどうする?修理代は自分の懐から出さねばいけない。等々。
家から出た後あてどなく彷徨いだす。昼もこうして彷徨ったが今度は違う。どす黒い感情を率いて、それで彷徨うのだ。原因不明の殺気が膨らみ、そしてその行き場のない殺気は通行人に向けられた。
殺してやる。
そう僕は思う。見ず知らずの通行人達に対して、そう思うのだ。そんな中、かろうじて感じる痛みだけが理性を持たせてくれる。ギリギリの所での境界線になってくれる。さっき痛めつけた右手と左手。その痛みに何か懐かしいものを感じながら思い返すのだ。「ああ、またあの痛みを…」と。
僕は多分人が殺せるのだろうな、と思う。理由はなく、大義名分もなく。殺すという行為において。そして思う。世の中には人が殺せる人間と殺せない人間とがいて、僕は前者だ。人が殺せない人間は例え殺してしまっても、本質的には殺せない人間のままで。だけど人が殺せる人間は多分、人を殺していなくても本質的には人殺しなのだ。
そういうことを考えていると頭にもやがかかる。そして精神が跳びかける。もやがかかった瞬間、僕は拳を壁、いやたまたまそこにあった硬いもの、に叩きつける。走る痛みがもやを晴らしてくれるから。「硬いもの」というのは最後の理性で、僕なんかの非力な力じゃ絶対に壊れない、そんな硬さを求める。すぐに壊れてしまうようなものは怖くて殴れない。例えば子供。例えば小動物。
街中で拳を使ったせいか何人かの通行人がこちらを向いた。だけど殴るのなんて一瞬だ。それにそんな危ない、いかれた奴と関わりを持ちたい人間なんてことなかれ主義の日本ではまずいないだろう。僕はいつものように知らん振りして歩き続けた。
気がつくと僕は繁華街に来ていた。人がたくさん、たくさん、羽虫のようにわらわらといる。もしここに焼夷弾を投げれば何人の人が死ぬだろうか。何人の人が僕を恨むだろうか。何人の人が愛する人を失うのだろうか。そう漠然と思う。そんなことを漠然と思うのは嫌だけど、思ってしまうものは仕方が無い。そしてそんなことを思うなら最初からこんな人間がたくさんいるところに来なければいいのに、とも思うけど、これも「来てしまった」のだから仕方が無いと考える。もし僕が焼夷弾を投げたら?投げてしまったものは仕方が無い。大切なのは過去より今さ、とか。ダメな人間だ。まぁ「人間」である内はまだいいんだけどね。そう思う。
繁華街に来たものの、特にこれといってすることはなかった。服でも見るか。そんな気分でもなし。何か食べるかな、でも食欲もなし。グルグルと周りながら僕が行ったのは結局レンタルビデオショップで。でもシリアスものもアクションものもバイオレンスも、ましてや恋愛ものなんてという感じで。足を向けるはアダルトコーナー。アダルトコーナーで砕けたタイトルを目に入れながら思い出すのは、僕がこういうビデオを見ると罪悪感を持つということ。まぁ、そういうことがわかっていながら結局は借りたりするのだけれどさ。
人間には三つのどうしても抗えない欲望があるという。食欲、睡眠欲、そして性欲。キリスト教の七つの大罪にもたしか似たようなものがあるけど、そんな中、僕は食欲と睡眠欲はある程度抑えられると思う。だけど性欲だけはそういかないのだ。女の子も性欲はあるけれど、男はそれの比じゃないというようなことを聞いたことがあって、それは僕が今いるここが証明していることだけども、そんな理由で僕は女の子になりたいとたまに思うのだった。性欲は本能だ。食欲や睡眠欲と同じレヴェルのもので、だから性欲を満足させるための自慰は朝コーヒーを飲むのと同じ意味でしかないはずなのだ。そして僕はコーヒーを飲むことに罪悪は感じない。だから性欲にも罪悪を感じるべきではない、はずなのだった。
だめだ。今はアダルトビデオを見られるような気分でもないな。それどころか少しでも気を抜くと、すぐにもやがかかってしまいそうだ。僕は早々にビデオショップを後にして、暗くなってきた繁華街を再び彷徨い歩きだしたのだった。
ゴッ
壁を殴る。
ゴッ
もの言わぬ壁。それを殴り続ける。人気のない路地裏で、殴り続ける。
ゴン
強く、確かな形の憎しみが僕の心を燃やす。コロシテヤル。そう心の中で唱え続けながら拳を振るう。コロシテヤル。誰を?コロシテヤル。なんのために?そんなこともわからないまま、ただただ機械のように拳を壁に叩きつけ続ける。
ゴッ
拳から血が飛ぶ。でもなにも感じない。心のほうがずっと痛い。足りない。全然足りない。
ゴン
頭の中を真っ白に。誰かと会った時、笑顔のままでいられるように。
ゴン
感情にまかせて今度は頭を叩きつける。鈍い痛みと共に思考が晴れる。そして想う。
死のう。
僕―佐々原周一は橋の手すりの上に乗る彼、いや〈僕〉を見ていた。僕は〈僕〉を少し上、すなわち手すりの反対側、から見下ろして真っ暗なを下にゆらゆらと浮かんでいた。
そう、これが現実なのだ。〈あの日〉あかりと別れた後、僕はこうして……飛び落りるのだ。頭を真っ白にして、殺意と憎しみで自身を満たして。そして渇いた涙を顔に浮かべて。
〈僕〉は僕の記憶に同調して体を前へと傾け、そして重力に従がって頭から真っ暗な水面へと落ちていった。そして僕は〈僕〉となった。いままで〈僕〉を見ていた視点が急激に水面へと近づく視点へと変わる。落ちる!
そうだ。これが真実だ。落ちている途中の悲しい願望を叶えた夢の世界。そう、現実では彼女は亡くなり僕は残った。彼女はどこにもいない。どこにも。何人いるかわからない世界の人間の中で、どこまで広がるかわからない世界の中で、けれど彼女はどこにもいないのだ。僕が死んでも彼女には会えないだろう。でも!それでも僕は…………………!
そこまで思った時、水面に向かって落下していた僕の体が突然止まった。いや、僕だけじゃない。僕を捕えようとしていた水のうねりが、風の耐圧が、その全てが止まっていた。何も動かない、動かせない。
突然、今度は体が上へ引き戻された。落下していた時よりも速く、体が戻される。重力を無視して僕の体が急速に水面から遠ざかる。そして水が逆にうねり、体を潰していた風が僕から離れていく。
時が巻き戻る!
巻き戻った果て、橋の手すりの上に僕はいた。
海へ行った記憶。病院での記憶。そして今、自殺をした記憶。その全ての記憶を携えて、そして僕はこの世界へ戻ってきた。
その僕は手すりから反対側―歩道の方へ―飛び降りる。そして数歩歩いてこの世界の感覚、十九才の僕の感覚を確かめた。でも今はまだ何も考えられない。
僕はすぐに走り出した。
夜の橋を、夜の街を、がむしゃらに突っ走った。
僕は泣いていたのだ。
泣きながら走っていた。
思った。
前へ行きたいだなんて思ったわけじゃない。
だけど人が皆、後ろ向きにでも前へしか行けない存在なら
精一杯走ろう、と。
彼女にはもう永遠に会えないけれど、
僕が精一杯生きでもしなければ、
彼女には絶対に会えないような気がしている。
そんな気がしている。
: :
「ただいま、ラビ。」
一人暮らしの家に帰ってきた僕は久し振りに見る友人―ラビスラズリ―に帰宅を告げた。ラビスラズリは居間のテーブルの上で置物のようになって僕を待っていた。彼は「ニャー」と僕の言葉に反応してこちらを向く。
「ラビスラズリ。僕はね、長い間旅をしてきたよ。」
ラビスラズリにしてみれば僕は久し振りでもなんでもない存在だ、多分昼間から六時間ぶりくらいの再会にすぎない。しかし彼は僕のその言葉に何も言わず、じっと僕のほうを見ていた。そして僕が近づくと突然甘噛みをしてきたのだった。ラビがこんなことをするのは珍しい。こいつは普段あまり甘えない奴なのだ。
「もしかしておまえ、あの世界で会った?」
僕が僕にしかわからない言葉でラビにそう言った。あの世界で僕はラビのことを何度か思い出していた。そしていつかは黒猫にラビ本人を重ねたこともあったっけ、と思い出す。
「ニャー」
口を離してラビがそう言った。僕は思う。多分……あの時の黒猫はこいつだ。証拠も何もないけれど、多分こいつなのだ。
「心配かけたね。ラビ」
ラビの頭を撫でながら僕は言った。そして僕はもう一人心配をかけている人がいることを思い出す。僕はテーブルの上の携帯を取って、発信履歴からその人に電話を掛けた。さっきは繋がらなかったけど、僕は今ならきっと繋がるような気がしていた。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル ガチャ
「あかり」
電話は繋がった。そして僕は妹の名を呼ぶ。
「……」
だけど向こうから声は聞こえない。
「あかり、ごめんね。僕は思い出したよ。僕とおまえは今日、遊園地へ行くべきだった。そう約束したのだからね。」
後数時間だけども2003年の十一月十六日はまだ続いている。だけど僕がどうあっても約束を破ったことに変わりはないのだ。そんなことは当然承知の上である。だけど僕とあかりにとって大切なのは十一月十六日という日付じゃないはずだ。大切なのはそれを覚えているということなのだ。
「……」
僕も無口になる。だけどこの電話を僕から切るわけにはいかない。そう思った矢先ピンポーンとインターホンが鳴った。
「あかり…」
ドアの向こうはあかりなのだろうか、と思う。昼間と同じように。でも今度は自信がなかった。昼間の「私とお客さんのどっちを取るの?」という意地悪げな子供っぽい声が蘇る。でもまぁ携帯電話だ。なんとなくずるい手だけどこのまま行くよ。
僕は携帯電話を持ったままドアを開けた。ドアの向こうには、あかりが立っていた。中学生のあかりが立っていた。僕らはお互い言葉を失い、戸惑いそして見つめあう。
「あのね、お母さんには今日泊まってくるって言ったからさ。実は他に行くとこないんだよね。」
先に口を開いたのは中学生のあかりだった。僕はあかりの言葉を聞きながらも、彼女の成長ぶりに感心していた。そう。人間は成長するものだ。あかりは今も昔も成長し続けている。そう思った。そして僕はあかりの手を引きそのまま抱きしめる。
「あの…お兄ちゃん?」
あかりを抱くことで彼女を思い出すわけにはいかない。あかりはあかり。僕の妹。そして彼女…神楽は…神楽だ。
「こういうの恥ずかしい?」
あかりの頭を撫でながら僕はそう尋ねる。
「…うん。」
多分そう言うんだろうな、とは思っていた。僕はすぐにあかりから離れる。
「入りなよ。寒かったろ?」
そう言って僕はあかりを中へと入れた。そして僕はあかりの温もりに彼女を思い出していたことに少し反省する。でも思う。あれは結局夢なんだろうか。でもあの世界の後も前も、彼女がいたということだけはいつだって真実だ。今はそのことだけを大切にしよう。
「お兄ちゃん。」
家へ入る僕を後ろからあかりが呼ぶ。「何?」と僕は振り返った。
「なにかいいことあった?」
そうあかりは聞いてくる。ちょっと考えてから僕は、
「あったよ。」
と答えた。「どんなこと?」とあかりが続けた質問に僕は笑って、
「好きな人に会えたんだ。」
と言うことができた。好きな人に会えた。そう言った時、僕は久々に心から笑えたような気がした。僕のその言葉にあかりはちょっと戸惑った顔になったけれど、
「そう…。良かったね。」
と笑顔で返してくれたのだった。
「はい、佐々原です。」
「もしもし、母さん?周一だけど。」
「あら、周一?久し振りね。元気してるの?」
「ああ、大丈夫だよ。それよりあかりは無事着いたから。」
「ああ、そう。良かった。あの子突然お兄ちゃんの家に行きたいだなんて言い出すのよ。迷惑じゃなかった?」
「いや、問題ないよ。ずっと前から約束していたことだから。」
「そうなの?あの子最近私達には何も言わないから。」
「そういう年頃なんだよ。あかりとは代わる?」
「いいわ。一応あの子にとっては旅先だからね。おとなしく帰ってくるのを待つことにするわ。」
「そう。まぁ子離れ、親離れは互いに必要だからね。わかったような口で悪いけど。」
「全くだわ。あ、そうそう。」
「何?」
「そういえば家にあなたの成人式の案内状が届いているわよ。」
「そう。成人式か…。まぁそのうちそれは取りに行くよ。それより父さんはいるかい?」
「いるわよ。ちょっと待ってて。お父さーん。」
「…………」
「…もしもし周一か。」
「うん。」
「そっちでは問題なくやってるのか?」
「うん。大丈夫、心配ないよ。あかりも見に来ていることだしね。ちゃんとやるさ。」
「そうか。正月には帰ってくるのか?」
「どうかな。レポートやテスト勉強が溜まる時期だからね。バイトもあるし。でもできるだけ帰れるようにするから。」
「まぁ、あかりもいるし三が日くらいは帰ってこい。」
「うん。まぁ、そのことはまたおいおい連絡するよ。」
「母さんとはもう電話はいいのか。」
「うん。だいたい話したよ。」
「そうか。じゃあまた電話しろよ。」
「うん、それじゃ。」
僕は携帯電話を下ろし、通信を切る。電話とはいえ久し振りにまともに両親と話しをしたような気がする。特に父とはもう何ヶ月ぶりになるのだろうかと思う。あの人とは電話のほうが話しができるのかもしれないな、とも思った。
「電話、終わったー?」
いままで居間でタイヤキを食べていたあかりがこちらを向く。タイヤキはさっきあかりと夕飯を食べに外へ行った帰り、道で見つけた屋台で買ったものである。ちなみに僕の今日三度目の外出である。昼起きにしては色んなところへ行ったものだ。そう、色んなところへ行ったものだと思う。
「お母さん、何か言ってた?」
あかりがそう聞いてきた。
「いや、とりあえずは帰ってくるのを待ちますってさ。父さんとも話したよ。」
僕は正直に電話の内容をあかりに話す。
「ホント?どんなことを話したの?」
父さんと話した、ということにあかりは興味津々のようだ。あの人はもともと無口な人で、多分今もそうなのだろうと思う。
「そうだね。正月には帰ってくるか、とかかな。」
僕はちょっと脚色しようかとも思ったけど、一瞬考えてから、やめた。父との会話もありのままにしておこう。あかりはもう中学生なのだ。嘘は見破るだろうし、ちゃんと自分を持っている。
「ふーん。」
興味があるのか。全然ないのか。わからない答え方だったけどあかりはとりあえずもそう言うのだった。
「ねぇ、ところでお兄ちゃん。新しい絵を描くの?」
あかりは居間に並べられた僕の油絵の道具を眺めてそう話題を変えた。
「うん。久々に油絵でも描くつもり。」
僕が普段描くのは主に水彩画である。持ち運びや道具的に色々と都合が良いのでそうしているのだけど、本気で「描く」という行為がしたい場合はなんとなく油絵の方がいいような、僕はそんな気がするのだ。だから今回僕が描こうとしている絵は油彩にしたのだった。
「いつ描くの?」
あかりは僕の絵の具箱から絵の具を取り出し、並べながら僕にそう尋ねる。
「あかりが帰ってからかな。でも別に急ぎじゃないから気にしなくていいよ?」
と僕はそう答えた。
「いいよ、ボクのことは気にしなくても。」
あかりは今度は筆を猫じゃらしの代わりにしてラビをからかいながら言った。硬筆のガチガチした筆はラビにとってさぞかしいい迷惑であろうと思う。
「いや、油は慣れていない人には結構いやな匂いかもしれないしさ。それに僕は描くとなったら集中しちゃってあかりと遊ばなくなる。」
それにこれは今あかりを邪魔者扱いしてまで描きたいような、そんな絵ではない。
「まぁ、とにかくゆっくりやるつもりだからさ。」
だから僕はそう言葉を繋げた。
「そう、つまんないの。どんな絵を描くか見たかったのに。完成したら見してくれる?」
あかりのその質問に僕は「うん。」とだけ言う。
「ホント?約束だよー。」
さて、この約束は守ったものかな、と僕は思うのであった。
次の日、あかりは帰っていった。昨夜は特に何事も無く過ぎた。めでたしめでたしだ。何もないのが一番いいことだと思う。安寧と安らぎが何も無いということの中にはあると思う。まぁ、そういうことがわかるのはいつも何かがあってからなんだけどね。うまくいかない、本当にうまくいかないものだ、人生ってやつは。齢十九にして人生を語るのもおこがましいことだとも思うけどね。
あかりを駅まで見送った後、僕はそのまますぐに自分の家へと帰ってきた。そして今は筆を握って部屋の真ん中に立っている僕がいる。部屋の真ん中で、キャンバスを前に見据えて、そして今から描くべき絵のイメージングする僕がいるのだ。
あの世界、あの夢、あの時のことを考える。今も僕には神楽を抱きしめた時の感覚が残っている。本当にはなかったはずの記憶達。でもその記憶達は今あるどんな彼女の記憶よりも明確に僕の中に存在していた。
神楽!
心の中で僕はそう叫ぶ。
それとも僕は加奈と呼ぶべきかな。君はそう呼んでくれと言っていたしね。
キャンバスの中のイメージに僕は語りかける。語りかけながら僕は筆を取り、そして地を染め始めるのだった。そんな中、漠然とだけど思ったこと。
あの世界は僕の過去の「一つの可能性」だったのかもしれない。僕の現実では確かに彼女は亡くなり、そして僕は残った。けれどそれと同一線上の世界ではそうでない別の「可能性」もあるのではないだろうか。例えば僕と加奈が付き合ったという未来もあるってことで、それはその後すぐ振られるか、案外僕のほうから振ったりとか、そういう選択もあって………。
そして最後に僕が見た世界、僕が病気を患って加奈が絵を描く世界、あれは多分、僕が死んで彼女は残る世界だったのだと思う。
赤く、赤く。僕は真っ赤にキャンバスを染め上げていく。
彼女が死んで僕が残る世界。僕が死んで彼女が残る世界。だけどそれと同じ価値できっと僕と神楽の二人がいる、二人が生きている世界もあるだろうと思う。そう思うことは罪じゃない。その世界で僕らはどういう関係なのかはわからないけれど、でもそういった可能性を思うことは僕を強くしてくれるのだった。僕を優しくしてくれるのだった。
僕は彼女の絵を描く。
カンカンカンカンカンカンカンカンカアンと
その時遠くどこからか踏み切りの音が鳴り響いた
この音はきっと平行線上の、僕と同じ十九歳の彼女も聞いていると
なぜか僕はそんな気がしたのだった