Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「志工 香矢の転換」

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失くしたものを見つけることはそれが目に見えないものであるほど難しい。この世から跡形もなく消えていたら探しようがない。あるかどうかもわからないそれを探索することがどれほど難しいか香矢は必要以上に納得している。

だから古都の記憶を取り戻すことが成功するかどうかは正直わからない。自分の最善を尽くすことはゆるぎない意志として香矢の中にあるが、記憶のてがかりが古都の周囲に運良く転がっているということはあるのだろうか。

だけど香矢はあると信じている。少なくとも自分だけでも信じなければ見つかるものも見つからない。根性論は捨てたつもりだが事の困難さを前にして意気消沈するほど香矢は腑抜けているわけではない。

さて当面の問題のことだが、どうすれば古都のなくした記憶にたどり着くことができるのか。その手段を考えなければいけない。だが古都の家から帰ってきて一日中考えていたが、ついに何も思いつかないまま月曜日が始まってしまった。

認めたくないことだが士友の手を借りなければ香矢の次の行動を立てるのは難しいだろう。

士友との連絡場所はかねてから相談したわけでもなく屋上の隠れ個室に決まっていた。時間も指定していない。それでも香矢がこの部屋に来るときには士友も必ずといっていいほど顔を見せる。

まるで恋人同士のようにお互いを知り尽くしているから意思の交換を簡単に行えることができる。気持ち悪いことこの上ない。

連絡することは古都に関しての一点のみだった。それでも士友はあたりさわりのない雑談から始めるので結構ここに居座る時間は長い。香矢としては士友をさっさと追い返して塩でもまきたい気分なのだがそれを悟られると士友はよりのろのろと動くので何もいえないのだ。

現在のところ士友は香矢が古都を守っていると思い込んでいる。それはあながち間違いではないが士友の考えているほどに古都の隣にいるわけではない。あいつにだって都合というものがあるし、それは香矢にもある。

それにたまにはこうやって占いでもしなければこっちのストレスがたまっていくばかりだった。最もこういう憩いの時間も士友に潰されている。

「古都とは上手くやっているようだね」

屋上の隠れ個室で士友は香矢に向けて薄笑いを浮かべている。両手を机の上で組んで、それに顎を乗せて笑うものだから型にはまった悪役のようだ。香矢は鞄の中に入っていたぬいぐるみを取り出すと士友の笑いを軽くいなす。

上に吊り下げられている裸電球がちりちりと音を鳴らし自分の存在を主張しているが、香矢も士友もお互いのことしか目に入っていなかった。

「香ちゃんなら大丈夫だと信じていたよ。うれしいなー。香ちゃんがれっきとした女の子ならもうちょっと誠意を込めた御礼をするのだけど。これで我慢してね」

そして士友はゆっくりと手を伸ばした。士友の手が目指している場所は香矢の頭だろう。そこをなでるつもりだろうか。

香矢は頭を後ろに引いてそれを交わす。子ども扱いされることを嫌ったのではなく、単に帽子を取られることを避けただけだった。残念そうな演技をする士友はひとまず置いといてマントの中で体をすぼめると座りなおす。

「あなたに褒められることではない。そして私が要求することはあなたからの情報の開示」

士友は古都を巻き込んだ事件の元凶を探している。その犯人が分かれば芋づる式で古都の記憶も表層に出てくるかもしれない。それが香矢の考えている最短の方法だった。士友は右手の人差し指を天に向けくるくるとそれを回す。

香矢が気になっているうちに左手で学生服のポケットから何かを取り出していた。それは一つのよくみるインスタントカメラだった。まだフィルムは残っている。ファインダーを覗いてレンズ越しに士友に聞いてみる。

「中に何が映っているんだ?」

「現場検証が必要だと思って葵君が襲われた場所の写真を撮影しておいた。まだ使えるからあげておくよ。使いたかったら使えばいい。でもいらなくても受け取れよ。男からのプレゼントは笑いながら受け取るものだぜ」

つまり現像などはこっちで行えということかよ。軽蔑しながら感心するようなごちゃまぜの感情を込めた視線で士友を睨みつけながら学生服の内ポケットにそれを滑らす。

「一つ尋ねたいことがある。葵 古都は事件に巻き込まれた当日からその数日前までの記憶を欠落している。もしかしたらその記憶があなたの目的を成し遂げる助けになるかもしれない。こちらで調べてみたいと思うのだが何か効率的な方法はないだろうか」

自分のためだとは言わなかった。まだ士友に香矢はまだ古都を守っているだけだと思わせておくほうがいい。士友は軽くうなりながら口で手を隠す。こいつはいちいち典型的な動作をしなければ上手く頭が働かないのだろうか。

二人はそのまま椅子に座り続ける。動いているものとしたら部屋の中で散っている埃ぐらいしかない。机の上で指を叩く回数が三十階ほどを越えたとき、士友がまず動いた。舌で唇を濡らすと語り始める準備を終えた。

「簡単に言えばきっかけを与えてやればいい。彼女が記憶をなくしたのではなく、何かが足かせとなって思い出せないのならそれで何か思い出すかもしれない。その写真でも見せてやればどうだ。実際の場所に行くよりも彼女の負担が少ないかもしれない。いい練習になるだろう。他に考えられるものは自分で考えろ」

士友は立ち上がる。香矢の頭をなでられなかった代わりに熊のぬいぐるみの頭をなでると隠し部屋から出て行った。扉が完全に閉まるのを確認して香矢は深く椅子に座り、大きく肩を落とす。

古都に刺激を与える方法として思いつくものといったら会話しかない。士友の言うとおりに写真を見せるというのも効果的な方法なのかもしれないが、すぐに行えることではない。それなら会話のほうがいいのかもしれない。思い立ったら吉日というものだろう。ぬいぐるみの頭をぽんぽんと叩いて気分を入れ替えると香矢は思い立ったことを実行に移す。

     

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しばらくして現れた古都は見るからに落ち着きなさそうに辺りを見回していた。この部屋で目に入るものなどたかが知れているのに古都は自分の瞳を動かすことをやめない。古都の顔に対してその体は金縛りにでもあっているかのように一ミリたりとも動いていない。

もう少し気を楽にしてもらったほうが香矢としては話しやすいのだけどこの場所でそれを言っても無駄だと予想をつけて、帽子をかぶりなおした。とんがり帽子の先がぺこりと折れて香矢の顔の前に垂れ下がる。

つばの切れ目から古都の様子をずっと見ていたが、目が合うことがなかった。本当にこの部屋に興味が向いている。口は薄く開いたままで何か感想を言うのも忘れているみたいだ。この部屋の主にしている香矢に興味が向く前にころあいを見計らって香矢はため息と共に言葉を吐く。

「お前も暇なんだな。こんなに早く来るとは思わなかった」

古都は答える言葉を見つからずに苦笑していたが相手が香矢なためか、少し不機嫌なように唇を曲げる。目だけはかわいく笑っていたから香矢はそれが本気ではないことを分かっていた。

たが古都がこの部屋をどう考えているのかは分からない。夏の熱気にうつりつつある春の陽気もここまでは伝わってこない。だけどこの部屋にはそれを遥かにしのぐ暑さと息苦しさを持った空気が充満している。動いていなくても自分の服に汗がしみこんでいくのが分かる。

香矢はそれがこの部屋ではありふれたことであり、ここにいるなら耐えなければいけないことだと割り切っていた。限られた空間に座り続けるのは香矢はもう慣れていることで古都もいずれ慣れるかもしれない。しかしそれがすぐだとは限らない。心配はしている。

話し場所を変えたほうがよかったと古都が来るまで何度も考え直した。だけど一般人がこの部屋に何を感じているのかのほうに香矢の意地悪な好奇心が傾いていた。頬杖を付いてにやにやする香矢の動作を挑発と読み取ったのか古都は反論を始めた。

「志工先輩と一緒にしないでください」
「じゃあなんだ。友達がいないのか?」
「だから志工先輩と一緒にしないでください」

机の上にあるぬいぐるみを抱えてすねるようにそっぽを向く。横を向いたときに垣間見た古都の首筋と、何時もよりかすかにツンとつりあがった目じりが逆にかわいく見えてしょうがない。

古都がそういう仕草を見せるのは香矢だけなのかと聞きたかったが、それを古都が答えることはないだろう。それよりも古都の勘違いを正すのが先に違いない。今度は香矢が口をへの字に曲げる番だった。

「失礼な。俺にだって友達ぐらいはいるさ。どうしてそう思ったんだよ」
「こんな狭くて、陰気な場所で座り続けているのにどうやって友達作るのですか」

古都は香矢の言い訳を自分の誇大妄想だと考えているのか、半ば呆れているのが言い方に出ている。香矢は古都を圧倒するように着ていたマントを翻すと体を横に向ける。ぬいぐるみの耳をいじりながら古都は無言の圧力を加えてくる。香矢はマントの中で腕を組んで臆することなく言い放った。

「友達ならそこにいる」

香矢は古都の胸を指す。一瞬だけ古都がひるんだようだったけどすぐに香矢が指しているのが自分が抱いているぬいぐるみだということに気づいて思わず失笑をこぼしていた。古都は少し乱れた前髪を整えるとそのぬいぐるみを少し強めに抱き直す。

「そういうのは屁理屈といって、そして先輩はかわいそうな人ということになるのですけど」

その後二人は笑いあった。ただその笑い方は目に見えて差異がある。香矢は声を漏らすように低く笑い、古都は気持ちよく口を円く開いて笑っていた。二人は何がおかしくて笑っているのかは二人に各の原因があると見ていいだろう。しかし二人とも目が笑っていなかったということは一致していた。

「ところで前置きはこのぐらいにして今日はどういう用事なのですか?」
「別に。こういう会話をするのが目的だった」

古都からぬいぐるみを奪い取り机の上に座らせる。バランスが悪かったのかぬいぐるみはくてんを横になり、香矢に背中を向けた。古都は香矢がいきなり英語をしゃべったのかと思うほどに首を傾けて疑問符を浮かべていた。

「お前の記憶を探すと約束したろ。けどなんというか具体的な方法があまり浮ばないからさ、まずは小手調べということで会話でもして何かきっかけになりそうなことを古都がつかめるかと考えた」

何気ない会話でこういう裏の意図を持っていることを知られるのはマイナスになると予見していた。ただ古都に教えておけば古都も何かに気づくかもしれない。二つの意見が相反して香矢はこれを言うのを最後まで躊躇っていた。

「そういうことですか。まぁでも付き合いますよ。少し暇を持て余していたので」
「なんだ。やっぱり暇だったのかよ」
「友達がいないと思われるよりはましです」

古都は深く椅子に座りなおすと自分の髪を手でかきあげる。香矢の髪の毛よりもすこし長い古都の髪の毛が一箇所に集められると、香矢はその姿に自然と別のイメージができた。髪型を整えた古都はさっきよりも肩から力が抜けているように見える。

今の古都は彼女の実家に帰ったときの古都の顔に似ていた。これが古都の素顔なのだろう。居心地がいいということだと香矢は解釈する。そういえば古都はもともと密室が好きなようだった。

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何気ない会話だったから時間が立つのも早かった。その日は古都と日が落ちるまで話していた。次の日になってから香矢はそのことを授業中に振り返る。ノートに描かれる文字が文字のようなものになることは気づいていたが振り返ることをやめはしなかった。

香矢と古都の会話は古都の趣味から始まり、机の上にあるぬいぐるみの名前決め、そしてどう発展していったかのベイズの定理の証明方法になっていた。香矢はこれが古都のためになるのかと終始疑問を抱いていたが他にやることがないので話の腰は折らなかった。

意外にも香矢は古都の記憶云々の話とは別として古都との会話を楽しんでいたようだった。自分が唯一口笛でふける「信念」を知っていたときは同属感を感じた。古都にも同じようにいえることで香矢との会話におもしろいほどにのってきた。

ただ香矢が古都のことを聞き出そうとすると彼女は教えてくれる。しかしそれがある程度まで掘り進んでいくと古都は別の話題に逃げようとする。古都は誰にも見せたくないものを防波堤のようなもので他人と遮っている。

それが何かなのかは分からないが香矢はそれを壊すつもりはなかった。誰だってそれは持っているものだった。けどもしそれが古都の記憶の手がかりだったとしたら、そうだとして、それに確信がもてたとき自分はその防波堤を乗り越えることができるのだろうか。

鐘が鳴って香矢の回想は打ち切られる。現実に戻ると授業は終わっていて、皆帰る用意をしていた。香矢もそれにならって鞄に少ない荷物を詰め込むと誰よりも早く立ち上がる。今日も一応古都と連絡を取ってみるべきだろう。

場所も帰るべきに違いない。あの場所が一番やりやすいのだけど場所を変更すれば古都が何か思い出すかもしれない。手荷物であるカートと鞄を持ち香矢は一旦支度をするために自分の寮部屋に戻る。

「あの。志工さん」

呼ばれたのに気づいて振り返ると大都井がいた。ほんとうにいたとしか表現できなくて、香矢よりも大きな体なのに小さく立っている。そしてスカートの裾を両手で握り締めてたどたどしくしゃべる。何時も香矢を見ている大都井が話しかけてきたのは珍しい。

そのことが香矢の気を引いたのか、立ち去ることはせずに香矢は大都井が次に口を開くのをずっと待っていた。

香矢が教室で一番早く帰ろうとしたのにいつの間にか一番長く教室の中にいる。大都井が何を躊躇っているのかは香矢の知る範疇ではないがいつの間にか教室には二人しか残っていなく、外から聞こえてくる顔も知らない人の声が香矢と大都井の間の空気をゆがめていく。そこまできてやっと大都井が話を続ける。

「お話があるのです。お時間よろしいですか」

そしてはにかんだ笑いを香矢に見せ付けた。香矢はその動作を客観的に、そして冷静に観察していた。

     

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学校の体育館は少し特殊な場所に位置している。その場所のおかげで体育館は校舎に寄り添うようにあるべきだと香矢は常々不満に思っていた。体育の授業でわざわざ長い距離を歩くのはかなり心が折れて疲れる事だ。

この学校の体育館はなぜか地下にある。校舎の階段を降りて廊下をまっすぐ歩くこと数分。面白みのない廊下の終点に待っている観音開きの重たい扉を開いた先が体育館だ。だけど香矢はその扉を開かずにすぐそばにある別の扉を押した。

体育館の中へと続く扉が錆び付いているように茶色で銅の匂いが鼻をツンとつく。触らなくても分かるその重圧さに比べて香矢が開いた扉はかなり軽い。

開いた扉の隙間から光が入り込み、これまで薄暗かった廊下が照らされる。香矢はその明るさに思わず手で顔を隠す。地下という事に間違いがないのに陽光を拝める事に一瞬不可思議さを感じて混乱してしまうが何もおかしい事はない。

学校が元々山にあるので地下といっても地中に体育館があるのではない。高さからして山の麓にあるぐらいなのである。とはいうものの体育館が特殊な場所にあるということは変わらず放課後に人は寄り付かない。幸いにも今日は部活で使う人がいないためか体育館の中で何かやっている様子も感じ取れない。

ここ体育館の外は大都井と香矢以外には生物の気配は感じられなかった。この状況は数十分は変わらないだろう。

だから大都井が選んだこの場所はありふれた所とはいえ二人だけの話をするときには絶好の選択肢だったということだ。もっとも大都井が今から自分がする事に慣れておらず、典型的な場所しか思いつかないということもありうる。香矢は壁に寄りかかって大都井の顔からどちらであるのかを推測する。

大都井は香矢を教室で呼び止めたときと同じようにセーラー服のスカートの裾を握りしめていた。頬を赤らめて、目には小さな雫がたまっている。血が通っていないように指先が真っ白でこのまま見守っていたら倒れてしまうのではないかと思うほどに大都井から生気が感じ取れなかった。

香矢は大都井が倒れることが現実に起こりそうで少し不安だった。面倒な事に巻き込まれそうだからである。ただ大都井は倒れなかった。目にはちゃんと光が宿っている。

唇を噛み締めていた大都井の汚れ一つない小さい歯が口の中に隠れる。スカートから手を離すと、そっと胸を握りしめる。そして大都井は息を吸い込み、吐き出すと同時に口を開いた。

「私。志工さんのことが好きなんです。ずっと前から見ていました。いつも近くにいました。だけど志工さんをもっと知りたい。もっと近くにいたい。だから……つきあってください」

彼女のしゃべり方は大きな声を出そうとして無理しているようだ。大都井はしゃべればしゃべるほど声量を落として最後あたりでは香矢は何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。ただ別に言い直す事を要求する事もないと考えていた。

香矢に対する告白とだけわかればそれでいいだろう。大都井はまだ何か言い足そうに空を目で追って言葉を探していたが香矢が大きく咳をしてそれを無理矢理中断させた。

やっぱりこういう話だったかと自分の感の良さを改めて確認した。それと同時に胸くそが悪くなる。ポケットに手を入れて香矢は大都井と向き合った。大都井のような周囲の視線に敏感に反応する奴をにらんでは行けないと心で何度も自分に言い聞かせているのに眉間にしわが寄ってしまう。地面をぐりぐりと踏みしめて香矢はため息をついた。

「あのさ、そんな事言われても困る。俺は大都井には何も感じていない。そして大都井の気持ちを俺に伝えたところで俺の気が変わるなんてない。んでさ、大都井から好きだと言われてもそれがどうかしたとしか俺は言えない。正直近くにいられるのは迷惑だ。そんなに俺を知りたいとか言うなよ」

大都井に聞こえるようにはっきりと口にする。このような人を人とも感じていないひどい言い方を香矢は躊躇する事なくしゃべり続けた。大都井には何も感じていないというのは間違いではない。

「悪いけど大都井の申し出を受ける気にはなれない。俺よりも素敵な別の男性をみつけてくれ」

少し後悔はしている。しかしそれは大都井の告白を受けなかったというものではなく、大都井に教室で呼ばれたときに断ればよかったという後悔だった。そうすれば香矢は大都井に非情なことを言わなくてよかったし、それで大都井も傷つかなくてよかった。

しかしそのような事を考えても後の祭りである。それにそう問題を先送りにしておくのは完全な解決策にはならない。結局のところこうするのが一番の方法だった。これなら悪いのは香矢だけになる。

大都井はうつむいて前髪で顔を隠している。両手をだらんと下げ、前屈みになっていた。電池を抜かれたかのようだ。香矢は何も言わずにその場を立ち去る。大都井とすれ違ったときに彼女が何かつぶやいた気がしたが香矢は聞き取れなかった。

扉のドアノブに手をかけようとしたとき生暖かい風が背中を優しくなでた。耳鳴りがする。梟が鳴いた。香矢が今まで聞いた事のない警笛のような鳴き声だった。嫌な予感というより、ぞっとする寒気がして香矢は振り返る。

大都井が眼前三センチ前に立っていた。太陽を背にしているので表情が見える訳がない。だけど眼鏡の向こうの両眼は光っている。まるで梟の瞳みたいだ。大きく振りかぶった大都井が両手に持つ物が何か分からない。

だけど香矢はこのとき自分がどれほど危ない状況に立たされているのかを分かっていた。考えたのではなく感じたことで自分の本能がここにいては危険だと悲鳴を上げている。大都井は香矢に考える暇を与えず薄ら笑いを浮かべながら振り上げた物を息を吸うようにふり下げた。戸惑うこともなく香矢に向かって。

     

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初対面のときは少しお茶目なぐらいでかわいい奴だと思っていた人間がその化けの皮をはぐとお茶目からじゃじゃ馬に進化することはある。だけどただ振ったぐらいで暴れだす人間を見たことは初めてだった。

心臓が大きく跳ね上がり、そして握り締められるように収縮する。血の流れは際限なく加速していき、全身が炎に包まれているかのような熱さに香矢はどうすることもできないまま呆然としていた。頭の中で言葉がどんどん目の前をよぎりその速さに混乱している。

それなのにその言葉が何一つ残らない。自分の脳内は最悪なことに真っ白でそこから変化は見られなかった。だが香矢の二つの瞳は淡々と目の前の景色を映していく。

体育館の脇道で二人だけで立っている。周りには体育館以外に建物らしいものはなく、それを囲むように広葉樹が数え切れないほどそびえ立っているだけだった。天気は雲ひとつない快晴で見上げるだけでも気持ちがいい。ただ風ですなぼこりが舞い、ちょっとだけ視界が悪くなる。

だけど香矢は大都井が目の前にいることを理解していた。霞がかかっているように大都井の姿ははっきりと見えないが彼女が今香矢に何をしようとしているのか体で感じていた。

大都井が体を振り子のごとく揺らしながら香矢に迫ってくる。大都井の存在よりも、大都井が持つ石の方がまがまがしい威圧感を香矢に飛ばしていた。香矢は口が半開きであることを忘れて何も考えられず、大都井が振る石から逃げている。

とにかく大都井が敵意を向けてくることは分かる。何も言わないまま大都井はがむしゃらに石を振り続ける。息を荒げることもせず、奇声を発することもせず、彼女は流れるような動きで香矢を襲っていた。

その顔を見れば戦慄が走りそうで香矢は大都井を直視することはできなかった。不気味に光る大都井のめがねの向こうでどのような目をしているのか考えるだけでも頭がくらくらする。

さて、どうすればいい。さっきから数多の策が香矢の頭の中で飛び交っているがどれもこれも実現不可能なものばかりで香矢の考えは少しも纏まらなかった。大都井の動作は緩慢としているとはいえ直撃したらしばらく立てないだろう。そしたらそのまま相手になぶり殺しにされるだけだ。

この場をどうするか皆目見当がつかず、香矢は大都井から逃げ続けるだけだった。何か活路を見出したくてあたりをせわしく見回す。

優しい風に仰がれて小さく体を揺らす木々の枝に梟がとまっているのが目に入った。梟は見物客のように遠くから香矢たちを見下ろしている。梟はその羽根をしまい枝の上で首をかしげている。梟の視線は香矢に絞られていた。干渉はしないのに自分たちのことを面白おかしく見られて香矢は苛立ちを高めていた。

しかしそれが幸いしたのか、苛立ちが香矢の中で起爆剤となってこの場を乗り越えるためのやる気を生み出したらしい。

横からなぎ払う大都井の一撃をしゃがんで避ける。立ち上がると同時に香矢は大都井に飛び掛った。石を振り回した拍子に大都井はまだ体制を崩している。このまま香矢が押し倒す拍子に両手を掴んでしまえば大都井は何もできない。

大都井のあまりにも予想できなかった豹変に初めは動揺から立ち直れなかった香矢だが、元々喧嘩なれしていたためか、一瞬でその判断を下し、そして実行に移した。

大都井の体は意外にも軽く、そして簡単に香矢に掴まれて押される。倒れた拍子に大都井が持っていた石が数秒間中を舞い、そして二人から少し離れた場所へ鈍い音と共に落ちる。抵抗もせずに簡単に倒れた大都井に香矢は心の中で謝りながらも、手際よくその両腕を掴んだ。

今更になって心臓の鼓動がドラムのように耳の内から絶え間なく響く。まだ動揺していて、安心感と一緒に混ざり合い香矢の体からどっと汗が噴出した。荒い息をしている自分の下ではやはり無表情の大都井がいる。

眼鏡がずれて大都井の瞳が見えた。濁っているという表現以外思いつかない。その瞳は目の前にいるはずの香矢を映していなかった。元より何も映していなかった。香矢は怖くなった。ありもしないはずの幽霊を見たときのようなどうしようもない恐怖が香矢を塗りつぶす。そしてそれを作った原因が自分だと認めることも怖かった。

香矢が口を開く。何が言いたいのかも分からないまま自然と口が開いた。だけど言葉は出なかった。大都井は急に苦しそうに顔を歪ませると、香矢の両手の拘束をあっさりと解き、そして心臓の辺りを抑える。

直感的に香矢はそこが何か大都井の体に影響を与えているのかを考えた。その箇所を握り締めている大都井はますます苦しそうに口をあえいでいる。何かの病気なのだろうか。しかし香矢にはそう思えなかった。大都井の苦しみ方はそこが苦しいのではなく、まるでそこから何かを受けているかのようだった。

香矢はしばらく逡巡し、大都井のセーラー服を脱がす。そして大都井の露になった上半身を見て香矢は絶句した。

大都井が手で押さえていた箇所には何かの痣のように肌が青黒く豹変していて、そしてその中心では肌の下で何かがうごめいている。血管とかではない。動きが不規則だし、それに一部の血管がそこまで浮き上がるなど一般常識からいってもおかしい。

香矢はポケットに入れていた筆箱を取り出すとそこから鋏を握り締めた。大都井の口を塞ぎ、もう片方の手でうねっているそれに鋏の刃をあてる。

一気に大都井の肌を切ると、そこから緑の血が鋏の刃を伝って大都井の白い肌を汚す。香矢は生理的な気持ち悪さのせいで鋏を投げ出すと、その切り口をまじまじと凝視する。緑の血というのは単なる誤認で切り口からまた何かが飛び出した。

こう自分の常識では測りきれないことが起きている中で飛び出たものが何かなど香矢には分からないことだった。だけど自分の知識を総動員して似ているものを探す。毛虫にしては毛がそれほど豊かではない。ミミズにしては色が緑に近い。ムカデにしては足の数が足りない。結局それが何かは分からなかったが、虫であることには変わりないと思う。

もはやなぜ大都井の体からそのようなものが出てきたということに頭が回らず、本能のまま香矢がそれをつまもうとした。そのときに、木々の中で隠れていた梟が一斉に飛び立った。香矢が気づいたときにはもう遅かった。

梟が大都井に群がる。香矢もそこから逃れたかったが梟の数が予想以上に多くて立つことすらままならなかった。だが何よりもまず自分が体験しているこの状況をまだ信じられないということが香矢の足を引っ張っている。

だから香矢は手を振り回して梟を追い払うことしかできなかったが、梟はそんな香矢の必死の抵抗を軽々と交わし、そして大都井の上半身へと集まってくる。香矢はもう自分がどれほど意味のない行動をしているか悟り、そしてその気力を完全に失っていた。

大都井が絹も引き裂くような悲鳴を上げる。香矢に告白したときとは何倍も大きな声量で校舎にまで届いてもおかしくないかのようなものだった。大都井が梟に何をされているのかなんて考えたくもない。廊下から足音が聞こえてくる。彼女の悲鳴を聞きつけて誰かが来る。分かっていても香矢はその場から動けなかった。

後ろの扉が開く。香矢は振り向くとそこには何人かの生徒と教師が扉の前で皆一様に同じ顔をしていた。多分香矢も同じ顔をしていただろうが自分がどういう顔をしているのか分からなくなっていた。

人気のない建物の裏。意識のない女の子に集まる梟の群れ。半裸の女の子上を手を押さえるようにして座っている自分。そして香矢を見つめてくる顔も名前も知らない他人たち。この状況をどう説明すればいいのだろう。何か画期的な方法があれば教えて欲しかった。

       

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