Neetel Inside 文芸新都
表紙

ホーの解
「白崎 思織の目線」

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群青色の夜空に浮ぶ星たちの光に照らされて私と大都井さんは校舎の裏側を歩いていた。大都井さんが持つ懐中電灯の光はあまりにも頼りない。しかし大都井さんは特に迷いもせずに暗闇の中を歩いていった。懐中電灯に頼っているというよりも自身の身体の記憶に頼っているように、私はそう感じ取れた。

大都井さんのおしとやかな足音の後ろで私のとことことしたあどけない足音が続いている。ときおり枝葉を踏む音や石ころをける音でびくつくのは私だけで大都井さんは動じる気配すら見せていない。しかしその歩き方はやはり思いつめたものがあった。

それが針金のようにぴりぴりとしているから私は大都井さんに声をかけることを躊躇われていた。校舎の裏手には人の気配は感じるはずがない。しかし人との生活と自然の縄張りがはっきりしているこの校舎の裏手で私は何かを感じていた。

梟だけというわけではない。もっと野性的な獣の気配。気配の主は見えないけどそれは気のせいではないはず。それを全身に感じて私はその気配に何度も引き込まれるそうになった。

「この学校は自然が多いと思いませんか」

大都井さんが足を止める。いきなり尋ねられて、しかもなんだか重要ではない雑談のようなことだった。自身もそう思っていたのか大都井さんは私が答えるのを待たずに先に進み始めた。私は大都井さんが進み始めた方向にあっけにとられて大都井さんの質問のことを忘れてしまった。

校舎の裏手を今まで進んでいた大都井さんは校舎の壁に背を向けた。大都井さんが見ているのはうっそうと雑草や木が生えている森林である。学校を囲むようにして生えているその森林を大都井さんは食い入るように見つめていた。

腰ほどの長さのある雑草の中で、秩序を知らないように好き勝手に生えている木々の迫力に私は思わず沈黙せざるを得ない。まるで巨大な壁のようにそり立っている木々の間には文字通り真っ黒な暗闇が停滞している。

その暗闇には何もない。ただの空間が広がっているのは分かるのだが、私は目の前にはっきりと境界線のようなものが引かれているのを感じていた。

大都井さんは一つ小さく呼吸をする。私が見守る中その壁に向かってそっと自分の体を吸い込ませていった。風にあおられて草木が暴れるように揺れている。それは大都井さんの進行を必死に抵抗しているようだった。だけど大都井さんは動じずにその先へと進んでいく。

私はまだ進むのに抵抗があったけどすぐに前に進む意志を持ち直し大都井さんの後をついていくことにした。

進んだ先は人の手が加えられていない森。獣道のようなものがかろうじて残っている。私と大都井さんは躓かないように注意しながらその先を進み始めた。大都井さんは懐中電灯を使っていない。この場所で小さな光がなんの役に立つのだろうかといわんばかりだった。私ははぐれないように精一杯の努力で大都井さんの手を握って背中を付いていく。肌寒い夜に大都井さんの体温はちょうどよい暖房だった。

ふと大都井さんがさっき口に漏らしたことを思い出す。確かに意識はしなかったけど今こうして体験していると大都井さんが言ったのも頷ける。確かにこの学校は自然が多い。もしかすると学校の近くに森林があるというよりも、森林の中に学校があるといったほうが適切かもしれない。それくらい学生は自然と寄り添って学園生活をしているのがここでは当たり前なのだろう。

「まぁ都会から離れているからね」
「しかも山の中にある」

大都井さんはすぐに私に相槌を打つ。その言葉が大都井さんが初めに漏らした疑問を別方向から照らしてみるきっかけを私にくれた。

枝葉が空を隠している。ここに入るときにはかろうじてあった獣道も今は見えづらくなっていた。どこからか迷いこんだ風がそこかしこを走り回り、それに仰がれて木々の枝がざわめく。その音が幾重にも重なり、その迫力に肌がぴりぴりと痺れているようだった。何も見えないから逆に誰かに見られているような不特定な視線を感じてしまう。

私はどこを歩いているのかさえ分からなくなっていた。大都井さんが居なかったらこの山の中で遭難してしまうだろう。それくらいこの山は規模が大きく、そして未知なる部分が多かった。大都井さんが山という単語を口にしたのは私にそれを意識させたかったからかもしれない。薄皮がはがれていくように大都井さんが何が言いたいのかがはっきりしてくる。

「そうなると森の中には外からでは見えない死角になる場所が多い。実際校舎さえ木々に隠れて遠くから見るとそこにあるかどうかさえ分からない。そう思いませんか?」

返事はできなかったけど私は納得せざるを得なかった。学校が山の中にある。そのため遠くから見ると周りの森が学校を隠してしまう。それは日常でよく見かけることだけどあまり気に留めないことだった。私の生活に深く浸透しすぎていて私にとってはそれが当然のことだったのだろう。

「確かによく夕食の件で買出しとかするときに学校の外観を見ることはなかったこともあるけど……」
「私が言いたいことはこうです。この山には学校以外の何かがある。その死角にすっぽりと収まる何かがある」

横たわる大きな幹を乗り越えて大都井さんはさりげなくそう言った。大都井さんの枝葉の隙間から漏れるように差し込んでいる月明かりが彼女の髪の毛を群青色に彩る。彼女が幹を乗り越えるときにふわりと広がり、ゆっくり纏まっていく。

確かにこの場所は人の手が加わっていないことは明白であまり人が寄り付かない場所でもある。それなら死角になっている場所に何かがあったとして誰も気づかないのもあながち起こりうることかもしれない。

しかし私にはこんな未開の土地に人工的なものがあるということがなぜか容易には受け止められなかった。そんなものがここにあるのは場違いにもほどがあるだろう。

まぁ事実は私の印象とは反しているかもしれない。それに私が感じたとおりこんな場所に場違いなものがあるわけがないと思う人間が多かった場合、逆にそれを隠すことは簡単だろう。誰もここには寄り付かないし、そのようなものがあると考える人間も居ない。絶好の隠し場所だということだ。

私も幹を乗り越える。私が乗り越えるのを大都井さんが待っていた。私は小さく息を吐いて腕を横に広げる。

「むやみには信じられないことね」

私はさっき乗り越えた幹を椅子にして座る。なんだか聞きなれないことを耳にしていると胃がもたれてくる。屍のように冷たいその幹を触り、木の肌がまるでかさぶたがはがれるように剥がれ落ちる。私は小さく欠伸をすると少しだけ胃が軽くなった気がした。

大都井さんは困ったように笑う。口ではああ言ったけど私は大都井の言っていることを信じていないわけではない。大都井さんも多分それを感じているからはにかんでいるのだろう。私もつられてぎこちない笑みをこぼす。

「それでそこには何があるのさ?」
「温室です」
「温室?」
「はい。温室です」

驚く私に反して大都井さんはいたって冷静な受け答えをする。温室というからには何か栽培でもしているのかな?私の予想通りこの森には似合わない設備だ。だけど温室があるということはやはり予想外だった。

私の頭の中でいろいろと疑問が上がる。だけどどれよりも初めに聴いてみたいことがあった。

「そこに七子がいるの?」
「はい。それと……」

大都井さんは大きくうなる。瞳は憂いを帯びている。閉じた目の奥で何を考えているのだろう。大都井さんはため息をつくと目を開いた。やはり憂いのレンズをつけているのは変わらない。

「たぶん志工さんも……」

遠くで梟が鳴き、ばさばさと羽根が羽ばたく音が聞こえている。斜め前方で小枝が空から落ちていた。大都井さんはその枝を見て口元を手で隠す。口を隠していた手は小刻みに震えていて大都井さんの瞳孔も左右に振動していた。

私は香矢の名前を聞いた瞬間に私の中で記憶の欠片が零れ落ちる。保健室で寝ていたとき、そして私は肩口に張られている絆創膏を服の上からなぞる。夢の中に出てきたあの姿のことを思い出した。

「香矢が?なんで?」
「あんまり驚いていない節ですね」
「大都井さんとあいつが時間をずらして私のところにきたら、何か関係があるかもしれないと脊髄でも考えられるよ」

大都井さんは一瞬硬直して、少し時間がたち何度か頷いた。そして私はそんな彼女の反応を見てふとあることに気づいた。香矢と大都井さんが何か関係あるとしたら、大都井さんは香矢の寄行の理由を知っているかもしれない。

大都井さんは唇を弱くかみながらも肩にかかっている自分の髪の毛を指先でいじくっていた。彼女自身も意味を理解していないその動作は大都井さんがぐらついていることを表しているようだ。彼女の背後の暗闇がより大きくなっているように空気が私に伝えてくる。私はそれがすごくいたたまれなくなってくる。

「本当は志工さんとも同行したかったのですけど、そう思い通りにはいかなくて。とにかく連絡だけでもできればいいのですが」
「そっそれなら香矢の番号なら知ってるよ。なら私が電話かけてみようか?」

私はとりあえず大都井さんを励ますために彼女の不安を混ぜた声を遮って提案してみた。だけどこれがあまり上手くいくかどうかで考えると、私はあまり上手くいかない感じがする。場所が場所だけに文明の利器が通用するとは思えない。

大都井さんはどこか苦い顔をしながらも私を止めなかった。あまり期待はしていなさそうだけどそれ以上のことは何も言わなかった。立ち上がって軽くストレッチをするとなるべくさりげなさを装って携帯電話を取り出す。

まだ学校に近いというだけあってか電波はかろうじて生きている。香矢の携帯が電波の届かない場所にあるということもあるかもしれないが、そうでないということも十分ありえるかもしれない。

私も大都井さんと同じ心情だが諦め半分でかけてみることにした。私の携帯電話の向こうで身体全体をざわつかせるような機会音が響いている。それと同時にどこかで見ている梟がざわめいていた。私は携帯電話から耳を離す。

私の携帯電話からも呼び出し音が響いている。だけど私のはるか背後からも同じような呼び出し音が響いていた。何度も響くにつれて私はその音がだんだん大きくなっているのが分かってきた。

誰かが来る。草木を分ける音や、枝葉を踏む音、それらのペースがその誰かが歩いているとは到底思えないものだった。大都井さんは訝しげに口を曲げると、ポケットから黒ぶちの眼鏡を取り出し、かける。

風の流れが変わった。私に向かって流れてくるそれは暴風のように私の髪を揺らす。

それを起こしているのは誰なのだろう。私は風とその音の迫力に落ち着きはしなかったけど私と大都井さんは動けなかった。そして風が止む。それと同時にさっきまでのことが嘘みたいに無音になる。

「思織。見つけた」

私の背後で無機質な声が私の名前を呼んだ。私は震えている携帯電話を握り締めたまま振り返った。大都井さんは何も見ていないような表情だったが、そのさらに奥でやるせなさを光らせている。

七子が闇の中から浮かび上がった。彼女とは思えないような柔らかい笑いをこぼし、両目は爛々と輝いている。そして右手には香矢の携帯を掴んでいた。

     

ーーーーーーー

私を呼ぶ七子の声はこれ以上ないほどに澄み渡っていて、その透明さは夏に聞く風鈴のようだった。そこだけぽっと空に穴が開いていて、そこから差し込む月明かりがスポットライトのような働きをしている。七子はそこに立って、妖しげな笑い声を上げていた。

私に会えたのがそんなにうれしかったのだろうか。保健室で泣きそうになっていた七子の顔が頭の中に思い浮かぶ。七子は私に会えたうれしさの余韻に浸るかのように深呼吸を繰り返していた。

月明かりに照らされている七子の影が小さく伸びていた。その影が波打っている。私はただその場に立っていた。七子を見つめながらその場に立つことしかできなかった。

七子であるのには間違いないのに七子とは思えなかった。七子の顔をはっきりと見るまで、七子だとは気づけなかった。それは暗闇で視界がはっきりしないからだけではなくて、私が七子に違和感を抱いているからだろう。

たぶん今の七子に私が奇妙なものを感じているのは、絶対に七子がその手にしているもののせいだ。震える声のまま私は恐る恐ると七子に尋ねてみる。

「ねぇ七子。その携帯電話どうしてもっているの?」

七子は何時もよりも目を開いて全体としてくりっとした顔つきになる。私の言うことを素直に受け止めている。だけど私がなぜそのようなことを聞くのかには少しも分かっていないような純粋すぎる表情だった。私はさらに違和感を感じる。どこがとは考えられないけど確かに違和感を感じていた。

うっそうと茂る雑草が前よりも大きく揺れ始める。砂を斜面に流すような綺麗な音が上から降り注いでいるのに、地面では不透明な音がそれをかき乱していた。暗闇に目が慣れてきているためか、七子の姿がよく見えるようになっている。

光がないこの場所でも七子の輪郭は驚くくらいはっきりとしていた。長く伸びる彼女の手足は白く、そして輝いて私たちを照らしているかと見まごうくらいだった。

七子はそしてまたさっきと同じ笑い方をする。一連の七子の動きから私は眼を話すことができなかった。七子の息づかい。目の輝き。服のゆれ。肩の上下。笑い声。私の眼は七子しか見えなかったし、私の耳は七子しか聞こえていなかった。

「拾ったの」

特に悪ぶる様子もなく七子は香矢の携帯を開く。液晶の明かりが七子の顔を変に明るくさせて、七子は携帯の画面を一瞥する。私は何もできないまま、七子は一瞬口元を緩める。顔の知らない持ち主を安易に同情するような目つきをして七子は携帯をしまった。

月が雲にでも隠れたのか、辺りが一段と暗くなった。私はその明暗の変化に目を奪われて、目の前に居る七子がその空間に隠れる。一瞬だけ七子を見失いそして月明かりと共にその姿を現す。

私が見失っている間にも、七子は何の変化もなかった。前と同じように私を見て微笑んでいる。私はなぜかその微笑を返すことができなかった。

「とことん不器用ですね」

振り返る瞬間に大都井さんが私の傍を通り過ぎた。

うっすらと細く開いた目つきは七子を軽蔑しているというよりも同情しているように見える。しかし残念だが七子は大都井さんとは目を合わせていない。七子は私のことだけを見ていた。

前髪が私の額を優しくなでる。七子の前髪も同じようになびいていた。その髪の毛の隙間から七子は私を見ている。大都井さんの言葉など初めから聞いていないかのように私から目を離さない。私に対する執心を感じていた。

大都井さんは自分が無視されていることに気づいているながらも何も言わなかった。ただ七子を哀れむ瞳の色をより濃くしていく。はらはらと何枚か葉っぱが舞い降り、そして地面の葉と交じり合って区別が付かなくなる。

たまたま走っている風に葉っぱが横向きに流されて、七子の目がその葉の向きを追う。その後でやっと七子が大都井さんのほうに顔を向けた。

「んっ?いたの?」

七子の簡潔な口に大都井さんが肩を落とす。七子は大都井さんに何の価値も求めていないような言い方で、そして私を見る目つきとは対照的に大都井さんを見る七子の瞳は距離が離れていても、私を見ていなくても冷え切ったものであるものだと分かっていた。

私はだんだん信じられなくなっていた。目の前にいる七子がどうしてこのような顔をしているのか、あのようなことを口しているのか、どうして私にだけは好意を向けてくれているのか。

七子は大都井さんにはただ一睨みしただけで何も口をせず、自分の後頭部をなでながら目を開く。何かを思いついたかのようにわざとらしく自分の両手を合わせ、小さく舌を出した。

「そうか。あんたが連れてきたのね。まぁいいわ。寧ろありがたいことね。だって思織を連れてきてくれたもの。ありがとう。じゃあ大都井はもう動かなくていいよ。これからは私が思織を連れて行くから。私のほうが詳しいしね」

連れて行くというのは大都井さんが話していた温室のことだろうか。それについて七子は何か知っているかもしれない。だけど七子が本当に何を言おうとしているのか少しも分からない。七子の異様な雰囲気が私の知っている七子とは違いすぎて。

それに心なしか七子の口数が上がっているような気がする。

「だから思織。私と一緒に行こうよ。私のほうが一杯教えてられるもん。私だって思織にいろいろ教えたいからさ」

大きく開いた手を私に差し出して七子は私を誘い込ませるかのようににこりと笑う。だけど私はその手を掴もうとはしなかった。

そういう意志があるわけでもないのに……できない。七子の行為は彼女自身から来る好意だとは分かっている。けど私はやはり確信した。その手に持っていた香矢の携帯に抱いていた違和感ではない。七子は私の知っている七子ではない。

「七子どこかおかしい」

私は率直な意見をこぼす。七子は頭に疑問符を浮かべて、無邪気な瞳を私に向けてくる。だけど七子は何かの予兆のように警戒の糸をその場から張り巡らせた。まるでそれに拘束されるように私は動けなくなる。指先がふるふると震えて首は締め付けられるような圧迫感があった。

そして七子は噴出す。こらえきれずに大げさに笑いだす。涙ぐんだ瞳と腹を抱えながら七子は口を開いた。私はそのときに七子の肩が上下に激しく揺れているのを見ていた。

「そんなことないよ」
「でも、違う。七子じゃない。七子らしくないよ」
「私らしい?」

そうだ。私がよく知る七子は目の前のような人ではない。私はなんども思いなおす。それは私にとっても抵抗があることだったがだけどやめることはなかった。目の前の七子は楽しそうだ。大都井さんが保健室の前で話したように苦しんでいる様子は見られない。

突然今まで笑っていた七子は急に無表情になる。最高速から急ブレーキで停止したときのような、激烈な変化だった。

「じゃあ前の私のほうが私らしいというの?地味で、口下手で、内気で、人見知りで、部屋から滅多に出なくて、小説で殻に引きこもっているだけの私が正しい私なの?言いたいこともいえなくてしたいこともできない私が一番お似合いだというのね」

胸を握り締めて七子はため息をつく。そんな七子を見ているのがいたたまれなかった。私が言いたいことはそうではなくて。

何時も一緒に居るから違うと分かる。理由のないめちゃくちゃな私の考えだけど七子はもっと別な笑い方をしていた。それを今の七子は忘れてしまったのだろうか。

私は七子に分かってもらいたくて、七子に手を伸ばす。だけどその距離はかなり遠かった。今日ほどこの短い身長を呪ったことはないかもしれない。

「やっぱり……思織も私を受け入れてくれないのね」
「そうじゃない。そうじゃなくて」
「もういいよ」

俯いて七子はぽつりとそれだけ言った。軽い一言なのに私にはとても重苦しくのしかかる。私の手は虚空を掴んだままだった。七子の拒絶に身体全体が麻痺しているというよりも今の七子に何を言えばいいのか分からなくなってしまった。

七子を傷つけたくないのに、今の七子を否定しなくてはいけない。私が硬直したままでいて、七子はゆっくりと顔を上げる。その目は私を診ているようで見ていなかった。

「そうか。今気づいた。思織変わっちゃったんだ。誰がやったの?大都井?」

大都井さんは何も答えない。それでも七子はその顔から何かを読み取ったのか今までの表情の豊かさを全て捨てて無表情になる。だけどその鉄の仮面の裏側では目もそらしたくなるほどに憎悪の炎が燃え盛っていた。

大都井さんが半歩後ろに下がる。眼鏡に隠れている目線は変化がないけど、私はこのときに初めて七子に大して感じる違和感をやっと受け止めた。だけどそれはうれしいことでもなんでもなくて、私にとってやっぱりつらいことだった。

七子はしゃべり続けていく。七子が何を言おうとしているのが私にはまだ分からない。それを知らなければ七子を救うことはできないのだろうか。七子はそしてまたため息をつく。何かを諦めたかのような決別を意識するため息。

「どうも可笑しいとは思ったんだよ。今の思織は軽いもん。私のことを好きだといってくれた思織とは違う。私にキスしてくれた思織とは違う!!」

七子は一歩一歩近づいていく。役者のようにその長い足をゆっくりと動かして私に近づいてくる。そして私の傍に居る大都井さんを睨みつけていた。ただの憎しみではなく、彼女に本気の殺意をみなぎらせている。

七子の言っていることが分からなかった。私がそのようなことを言った覚えもないし、したこともない。だけど七子が嘘をついているとは思えなかった。それに私が記憶していることが本当だという自信もなかった。なんだかそのようなこともあったかもしれない。

七子が叫んだときから、生物、非生物に限らず全てのものは動けなくなっていた。七子の動きを起点にして辺りが瞬くまに凍りついたように静止する。七子だけはその中を歩いている。私に向かって近づいてくる。

「本体じゃないけどちょうどあまりもあるし、元に戻してあげる。私を好きになってくれる思織に」

七子は粛々とした動作で服のポケットから小瓶を取り出す。手で隠せるほどの大きさの小瓶の中には炭酸飲料であるようなクリアブルーの液体が詰まっていた。月明かりを通してきらきらと輝いているそれは不気味ながらも綺麗だった。

見たという記憶はない。だけどそれはどこかで見た気がした。七子はくすりと笑う。

       

表紙

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Neetsha