ホーの解
「葵 古都の解」
ーーーーーーー
志工香矢とだけ印字された簡素なプレートが垂れ下げてある病室には誰も居ませんでした。乱れ一つないベットにはあまり生活感を感じることができず、開け放たれた窓ではためいているカーテンからはどこか虚しさがあります。
志工先輩はどこへ?首をかしげ、病室に沿うように伸びる廊下の左右を見渡しました。今まで私が歩いてきた道には誰も居ません。後ろを見ると違いが分からない廊下がまた先に伸びています。
しかし違いがあります。左手沿いの遠方に上に上がる階段がありました。ここが最上階のはずなのになんで?そんな疑問を簡単に解決すると私はそこの下に近寄りました。踊り場を設けてある簡素な階段は、踊り場にある窓から入る光のせいで、幻想的な輝きを持っていました。
予感めいたものを感じて私はその階段を登ります。一歩一歩上るたびに病院とはいえない違う雰囲気があたりを覆い始めています。誰かに抱かれているかのような安息と、安らぎを得て、私は落ち着き始めました。
以前の私が自覚できないほどにぎくしゃくしていたのでしょうか。階段を上がる私の動きはいつもどおりのものでした。
ふと自分が志工先輩と再開したら何を話そうか何も考えていないことに気づきます。ここまでぎくしゃくしていたのもそれが原因なのでしょうか?自分のことなのに自分では分からなくて、本当に志工先輩に会いたいのかどうかも分からなくなっていました。
狩屋さんの話が今更になって私の肩に重たくのしかかっています。
だけど考えが纏まる前に結局階段を登りきってしまい、その先の屋上へと続く扉を開いてしまいました。
扉を開くと一面輝きの世界で、驚きで言葉を失った後に突風のような風が私の髪を揺らしました。目を閉じて先を見ると空は一面青で覆われています。クレヨンのような色をした空を久しぶりに見ました。
その空に折り紙で作ったような雲が浮んでいて、何メートルもあるフェンスが地面と空の境界を作っていました。
そしてそのフェンスの前に志工先輩が立っていました。フェンスと向き合い私を同じように空を眺めています。染み一つない真っ白い服と、スリッパを履いている志工先輩はこの屋上の世界と同じように、淡い光に包まれていました。
ずっと見ていても飽きることはない。ぐいぐいと引き込まれるほど先輩の姿は綺麗でした。太陽が雲に隠れて辺りが薄暗くなっても、先輩は輝いているようだと私は思っていました。私は扉の前で立ち止まったまま先輩の後姿から目が離せませんでした。
私が入ってきても先輩はフェンス越しに病院の向こうへと広がる世界を見ていました。私の気配には気づいていないと思いましたが、それは違うでしょう。私がここへ入ったときに先輩は確かにうろたえました。些細な微動でしたが私はそれを見逃しませんでした。
「先……輩」
「古都か」
ギチぃっとフェンスから手を離す音と共に、先輩が振り向きました。全身の毛が逆立つと同時に、全身の血が冷めていくような感覚を受けました。先輩の姿が私の想像の範疇を越えていたからだと思います。
先輩の顔を見たらいろいろと思うことはあるだろうと思っていました。だけどそれがない。先輩の顔が、先輩自身が目の前にいるのに私は無感動のままでした。
先輩の姿は綺麗だと思います。ですが、その清さが私には気持ち悪く映りました。先輩には何もにじんでいない。それは先輩が何も持っていないということと、同義のような気がしたからです。
そのまましばらく沈黙を破ることはできず、私は口をパクパクさせているだけでした。悲しい。こんなことをするはずに来たわけではないのに他に何もできません。
「古都の包帯……」
「え……」
そう呟きながら一歩一歩と先輩が歩いてきます。近づくたびに先輩の顔が細部まで分かり、記憶にあった私の想像との違いが目立ってきました。私が思っていたよりも髪の毛が伸びていました。夏が近づいているのに肌は透き通るほどに白かった。
小波一つない私の頭にぽつんと泡のような印象が湧き出て、先輩が私の手を取るとそれがぱちんとはじけました。
「その傷痕まだ治らないんだね」
「え……えぇ。私の身体にはまだあの虫の毒が残っていてそれの治療は平坂先生が何とかしてくれるみたいですけど」
「俺はもう治っているというのに……」
さりげなく口にしたその一言の後に先輩は私から目をそらします。私の手をなぞる先輩の指先が離れます。先輩がため息を漏らす音が私の思考を麻痺していました。手を広げながらくるりと回転すると、空を見上げています。うっすらと開いた口が他の言葉もいらないほど不気味でした。
そのまま空へと泳ぎにいってしまいそうで、ばからしいと思ってもそのイメージを払拭できなかった。投げやりな動作に私はここに来たことを後悔しました。私を前にしているから先輩がこんなことを言った。
だけど弱気になっている先輩を先輩だと思えなかった。
「治っているなら退院すればいいじゃないですか」
「治っている?ならかわりに誰がここに来ると思う?」
私の言葉にくすくすと笑う先輩を見て、私が知っている先輩のイメージとは徐々に離れていきます。覚悟していたとはいえ、真面目なことを話そうとしていたときにこう扱われることが私の胸に響きます。
そして先輩の言葉が理解できなく、そうであるから先輩の雰囲気に呑まれていくような感覚を覚えていました。先輩の代わりに誰かが来る?なぜそう言い切れるのでしょうか?
「椅子取りゲームではあるまいし、誰も来ないですよ」
「いや。来る。絶対。それも俺が原因で」
「そんなこと……」
「俺がいるから、みんな絶望して、みんな涙して、みんな苦しむんだよ」
志工先輩はさっきから笑っています。笑い方は変わっていないはずだと思うのに、私が受ける印象が認識するごとに移り変わっています。
自嘲気味に笑う志工先輩なのに、その笑いを私に向けているようでした。そしてゆるがないものを味方につけているような自信を抱いています。
「俺見たいな奴はここでじっとしているのが他人にとって一番なんだよ。そしたら誰も傷つかなかった。みんな無事で過ごせたんだ。
みんな俺が悪いんだよ。俺がいたから士友だってあんなことしなかった。俺がいたから香が苦しんだのだし、俺がいたから古都が巻き込まれた。何もかも俺がいたから……俺がいたからなんだ。分かるか?俺が元凶なんだよ」
私は全身から血の気が抜けていくような思いでした。先輩が塞ぎこんでいるという意味が本当に分かった気がします。こんなに近くにいるのに先輩は私を見ていない。先輩は先輩自身を見つめ、そして自身を憎んでいる。そしてそれが正しいと思い込んでいる。
先輩は勝ち誇った笑いを続けながら私から離れていきました。私と先輩の距離が大人一人分、二人分と開いていきます。私は先輩を引き止めたくて必死に言葉を探しました。けれど先輩を励ますことができなかった。
先輩の自暴自棄の原因は私にあるから。どんな言葉をかけても、いや、かけるほど先輩が自分を非難していく。先輩からすれば私はただの巻き込まれただけ人間だから。そして私がそんな目にあったのも先輩のせいだと先輩が考えているからでしょう。
悲鳴のような低い音を立てて、フェンスに寄りかかった先輩はまだ笑っていました。私に言うことはないと。私が先輩から離れていくのを催促しているような笑い方でした。
私たちの間に隔たるものが何もない。だけど私は前を歩くことができなかったし、先輩も私に近づくことはしない。間を何度も風が流れて、頭上の太陽が爛々と輝き、建物の影が私と先輩を飲み込んでいます。
そのまま距離が開いたまま、私は今更になってなぜ先輩に会いに来たのかを考えていました。考えが纏まらないのではない。
先輩を元気つけたいからではない。初めからそのつもりではないのは知っています。先輩と再開できれば私の中に蓄積されていた滓のようなものが何か抜けていくだろうと思っていました。
だけど先輩と再開できたのに、私の思いの底は変わっていない。先輩が先輩ではないからだと思います。胸の中に冷やりとした衝動が私の中にたまっていきます。それは悲しみではない。
「そうやって全部から逃げるんですか?妹さんとの記憶からも、自分が引き起こしたこともそして私からも」
先輩はまだ笑っていました。その笑い声が私をすくみ上げそうです。だけど私は一歩足を前へと踏み出しました。ここまで来たのにその一歩を踏み出すことに躊躇うことはないはずです。
「先輩は初めから逃げてばかりだったではないですか。問題事から全て目をそらして、そして遠回りな方法でそれらを解決しようとしたことがいけなかったのじゃないのですか?なんで妹さんと直接話さなかったのですか?」
「直接話しても傷つくのは変わらないじゃないか?」
「私はそう思わない。妹さんから遠ざかっていくほど妹さんは余計に苦しんだはずです。その苦しみが妹さんを狂わせていったのではないのですか?
傷つかせてもその苦しみを救えるのが志工先輩だけだったのに先輩がそれをしなかった。それが間違いだったんです」
「お前に分かるわけないだろ。香のことなんて何も知らないくせに」
「私は分かります。だって知っているから」
一度一歩踏み出すと次の一歩は驚くほど軽やかな足取りでした。考えあぐねて何もいえなかった口も開くのを止められなかった。一度遠ざかった先輩の姿がまた大きくなって、私は私が思い描いていた先輩の姿が、もうここにはないことを知りました。
また近くにいる。また胸が苦しくなりそうです。何の感情も抱かずにこちらを睨んでくる先輩の姿を見ているのが辛い。だけど私は先輩から離れたくない。
「先輩と妹さんとの記憶を坂堂先輩が教えてくれてました。志工先輩が何をしたのかも、そして何に失敗して、誰を傷つけたのかも。
取り返しのつかないことだということが私にも分かります。そしてその原因が先輩だったということも反論はできない」
先輩が何の反応を示さないまま私はずっとしゃべり続けます。その前で私がしゃべり続けるのは独り言を話しているようでした。だけど私は気にしなかった。ただ先輩が振り向いていて欲しい。それだけの願いを胸に、次々とあふれてくる衝動をひたすらに言葉にしていました。
自分が話していることが先輩の心に響くか自信がありませんが、私は自分が抱いていた思いを、全部先輩にぶつけていました。今の先輩の姿を見ていたらそうしないと気がすみませんでした。そして私の思いを伝えることができる人間も先輩ただ一人でした。
「けど今は違う。みんな元に戻ろうとしているし、変わろうとしている。それなのに志工先輩だけが変わらない。志工先輩はずっと同じなままです。そんなだから、自分の問題にそっぽを向けているからいつまでも先輩が誰かを傷つけてしまうのではないですか?」
先輩はフェンスの前でただ立っていました。フェンスを掴む力が強くなり、先輩の心の悲鳴と呼応してフェンスの悲鳴も強くなる。先輩が私の言葉を拒絶している。だけど私は話すのをやめませんでした。
「それに先輩がいないと悲しい。今までいろいろと言いましたけど本当はそれが一番いやだ」
「以前言いました。私が心を開けるのは先輩以外にいない。それは私が先輩を利用していると思うかもしれないです。だけど先輩の代わりは誰もいない。
私には先輩しかいないの。こういうのは自分の利益のためかもしれないけど先輩がいないと辛い人がここにいるの。だからお願い。私を一人にしないで!!」
暗闇に向かって手を伸ばしているような無抵抗さの前で私は自分の全てを告白していました。周りの色が絵の具で塗ってあって、それが濡れて周囲の景色が滲んでいくのかと疑いました。自分が泣いていると分かる前に相対する空虚さが私の気力を奪っている。
本能的に自分が追い詰められているということなのでしょう。泣いているということは分かっていても、決壊したダムのようにどうすることもできなかった。ただなすがままに自分の激情に流されている。
だけどこんなに叫んでも先輩は答えてくれないのでしょうか。私のやっていることは全部無駄なことで、私はもう取り戻すことはできない。
先輩にとって自分はそれくらいの人間なのかもしれません?ひざをおってその場にへたり込みました。もう何をしていいのか分からない。
先輩に何を訴えたらいいのか分からない。力なくうなだれて、私は誰に話しかけているにでもなく、壊れたカセットテープのように呟いていました。
「お願い。私を一人にしないで……。不安なの。私の思いを伝えられる人がいないと、いつまでも一人だと思っちゃう。みんなが私を好いていても私はいつまでも一人なの。だから……私の傍にいて」
「……」
志工先輩の視線をずっと感じていました。私を見ています。だけど言葉はありませんでした。時々息を吐くような音と私の涙を飲む音と風が泣く音が私の耳の中でぐちゃぐちゃに交じり合っていました。フェンスが金切り声で叫んでいる。
なんだか自分が惨めだと思わされているようで、私は呟くのをやめました。
「今日は……。もうここには来ません。今の先輩の姿を見るのはつらい。それに私が話すことももうないから。だからこれからは待つことにします。あなたしか知らないあの部屋で」
跳ね上がるように立ち上がると私はそのまま先輩から逃げるように走り去りました。前から感じる向かい風と、背後からくすぐってくる先輩の視線を全部無視し、私は屋内へと走っていきました。
顔はまだ濡れて、せっかくのおめかしが台無しだったかのような気もします。でも私がやれることはやりました。そういう手ごたえを感じただけでもこうやっておめかしして病院に来たのも悪くないと思いました。
まだ何も変わっていない。だけど今日のことでいくらか胸のつかえが取れたような気がしました。それだけでもここに来てよかったと思いました。
後ろを振り向かずそのまま病院を後にします。もう私がやることは何もない。後はただ待つことにしました。病院から伸びる道路は木漏れ日にが差し込み、光の帯が幾重にも重なっています。
私は目じりにたまった涙の粒を指で掬い取りそれを払うと、自然のトンネルの中を歩いていきました。
志工香矢とだけ印字された簡素なプレートが垂れ下げてある病室には誰も居ませんでした。乱れ一つないベットにはあまり生活感を感じることができず、開け放たれた窓ではためいているカーテンからはどこか虚しさがあります。
志工先輩はどこへ?首をかしげ、病室に沿うように伸びる廊下の左右を見渡しました。今まで私が歩いてきた道には誰も居ません。後ろを見ると違いが分からない廊下がまた先に伸びています。
しかし違いがあります。左手沿いの遠方に上に上がる階段がありました。ここが最上階のはずなのになんで?そんな疑問を簡単に解決すると私はそこの下に近寄りました。踊り場を設けてある簡素な階段は、踊り場にある窓から入る光のせいで、幻想的な輝きを持っていました。
予感めいたものを感じて私はその階段を登ります。一歩一歩上るたびに病院とはいえない違う雰囲気があたりを覆い始めています。誰かに抱かれているかのような安息と、安らぎを得て、私は落ち着き始めました。
以前の私が自覚できないほどにぎくしゃくしていたのでしょうか。階段を上がる私の動きはいつもどおりのものでした。
ふと自分が志工先輩と再開したら何を話そうか何も考えていないことに気づきます。ここまでぎくしゃくしていたのもそれが原因なのでしょうか?自分のことなのに自分では分からなくて、本当に志工先輩に会いたいのかどうかも分からなくなっていました。
狩屋さんの話が今更になって私の肩に重たくのしかかっています。
だけど考えが纏まる前に結局階段を登りきってしまい、その先の屋上へと続く扉を開いてしまいました。
扉を開くと一面輝きの世界で、驚きで言葉を失った後に突風のような風が私の髪を揺らしました。目を閉じて先を見ると空は一面青で覆われています。クレヨンのような色をした空を久しぶりに見ました。
その空に折り紙で作ったような雲が浮んでいて、何メートルもあるフェンスが地面と空の境界を作っていました。
そしてそのフェンスの前に志工先輩が立っていました。フェンスと向き合い私を同じように空を眺めています。染み一つない真っ白い服と、スリッパを履いている志工先輩はこの屋上の世界と同じように、淡い光に包まれていました。
ずっと見ていても飽きることはない。ぐいぐいと引き込まれるほど先輩の姿は綺麗でした。太陽が雲に隠れて辺りが薄暗くなっても、先輩は輝いているようだと私は思っていました。私は扉の前で立ち止まったまま先輩の後姿から目が離せませんでした。
私が入ってきても先輩はフェンス越しに病院の向こうへと広がる世界を見ていました。私の気配には気づいていないと思いましたが、それは違うでしょう。私がここへ入ったときに先輩は確かにうろたえました。些細な微動でしたが私はそれを見逃しませんでした。
「先……輩」
「古都か」
ギチぃっとフェンスから手を離す音と共に、先輩が振り向きました。全身の毛が逆立つと同時に、全身の血が冷めていくような感覚を受けました。先輩の姿が私の想像の範疇を越えていたからだと思います。
先輩の顔を見たらいろいろと思うことはあるだろうと思っていました。だけどそれがない。先輩の顔が、先輩自身が目の前にいるのに私は無感動のままでした。
先輩の姿は綺麗だと思います。ですが、その清さが私には気持ち悪く映りました。先輩には何もにじんでいない。それは先輩が何も持っていないということと、同義のような気がしたからです。
そのまましばらく沈黙を破ることはできず、私は口をパクパクさせているだけでした。悲しい。こんなことをするはずに来たわけではないのに他に何もできません。
「古都の包帯……」
「え……」
そう呟きながら一歩一歩と先輩が歩いてきます。近づくたびに先輩の顔が細部まで分かり、記憶にあった私の想像との違いが目立ってきました。私が思っていたよりも髪の毛が伸びていました。夏が近づいているのに肌は透き通るほどに白かった。
小波一つない私の頭にぽつんと泡のような印象が湧き出て、先輩が私の手を取るとそれがぱちんとはじけました。
「その傷痕まだ治らないんだね」
「え……えぇ。私の身体にはまだあの虫の毒が残っていてそれの治療は平坂先生が何とかしてくれるみたいですけど」
「俺はもう治っているというのに……」
さりげなく口にしたその一言の後に先輩は私から目をそらします。私の手をなぞる先輩の指先が離れます。先輩がため息を漏らす音が私の思考を麻痺していました。手を広げながらくるりと回転すると、空を見上げています。うっすらと開いた口が他の言葉もいらないほど不気味でした。
そのまま空へと泳ぎにいってしまいそうで、ばからしいと思ってもそのイメージを払拭できなかった。投げやりな動作に私はここに来たことを後悔しました。私を前にしているから先輩がこんなことを言った。
だけど弱気になっている先輩を先輩だと思えなかった。
「治っているなら退院すればいいじゃないですか」
「治っている?ならかわりに誰がここに来ると思う?」
私の言葉にくすくすと笑う先輩を見て、私が知っている先輩のイメージとは徐々に離れていきます。覚悟していたとはいえ、真面目なことを話そうとしていたときにこう扱われることが私の胸に響きます。
そして先輩の言葉が理解できなく、そうであるから先輩の雰囲気に呑まれていくような感覚を覚えていました。先輩の代わりに誰かが来る?なぜそう言い切れるのでしょうか?
「椅子取りゲームではあるまいし、誰も来ないですよ」
「いや。来る。絶対。それも俺が原因で」
「そんなこと……」
「俺がいるから、みんな絶望して、みんな涙して、みんな苦しむんだよ」
志工先輩はさっきから笑っています。笑い方は変わっていないはずだと思うのに、私が受ける印象が認識するごとに移り変わっています。
自嘲気味に笑う志工先輩なのに、その笑いを私に向けているようでした。そしてゆるがないものを味方につけているような自信を抱いています。
「俺見たいな奴はここでじっとしているのが他人にとって一番なんだよ。そしたら誰も傷つかなかった。みんな無事で過ごせたんだ。
みんな俺が悪いんだよ。俺がいたから士友だってあんなことしなかった。俺がいたから香が苦しんだのだし、俺がいたから古都が巻き込まれた。何もかも俺がいたから……俺がいたからなんだ。分かるか?俺が元凶なんだよ」
私は全身から血の気が抜けていくような思いでした。先輩が塞ぎこんでいるという意味が本当に分かった気がします。こんなに近くにいるのに先輩は私を見ていない。先輩は先輩自身を見つめ、そして自身を憎んでいる。そしてそれが正しいと思い込んでいる。
先輩は勝ち誇った笑いを続けながら私から離れていきました。私と先輩の距離が大人一人分、二人分と開いていきます。私は先輩を引き止めたくて必死に言葉を探しました。けれど先輩を励ますことができなかった。
先輩の自暴自棄の原因は私にあるから。どんな言葉をかけても、いや、かけるほど先輩が自分を非難していく。先輩からすれば私はただの巻き込まれただけ人間だから。そして私がそんな目にあったのも先輩のせいだと先輩が考えているからでしょう。
悲鳴のような低い音を立てて、フェンスに寄りかかった先輩はまだ笑っていました。私に言うことはないと。私が先輩から離れていくのを催促しているような笑い方でした。
私たちの間に隔たるものが何もない。だけど私は前を歩くことができなかったし、先輩も私に近づくことはしない。間を何度も風が流れて、頭上の太陽が爛々と輝き、建物の影が私と先輩を飲み込んでいます。
そのまま距離が開いたまま、私は今更になってなぜ先輩に会いに来たのかを考えていました。考えが纏まらないのではない。
先輩を元気つけたいからではない。初めからそのつもりではないのは知っています。先輩と再開できれば私の中に蓄積されていた滓のようなものが何か抜けていくだろうと思っていました。
だけど先輩と再開できたのに、私の思いの底は変わっていない。先輩が先輩ではないからだと思います。胸の中に冷やりとした衝動が私の中にたまっていきます。それは悲しみではない。
「そうやって全部から逃げるんですか?妹さんとの記憶からも、自分が引き起こしたこともそして私からも」
先輩はまだ笑っていました。その笑い声が私をすくみ上げそうです。だけど私は一歩足を前へと踏み出しました。ここまで来たのにその一歩を踏み出すことに躊躇うことはないはずです。
「先輩は初めから逃げてばかりだったではないですか。問題事から全て目をそらして、そして遠回りな方法でそれらを解決しようとしたことがいけなかったのじゃないのですか?なんで妹さんと直接話さなかったのですか?」
「直接話しても傷つくのは変わらないじゃないか?」
「私はそう思わない。妹さんから遠ざかっていくほど妹さんは余計に苦しんだはずです。その苦しみが妹さんを狂わせていったのではないのですか?
傷つかせてもその苦しみを救えるのが志工先輩だけだったのに先輩がそれをしなかった。それが間違いだったんです」
「お前に分かるわけないだろ。香のことなんて何も知らないくせに」
「私は分かります。だって知っているから」
一度一歩踏み出すと次の一歩は驚くほど軽やかな足取りでした。考えあぐねて何もいえなかった口も開くのを止められなかった。一度遠ざかった先輩の姿がまた大きくなって、私は私が思い描いていた先輩の姿が、もうここにはないことを知りました。
また近くにいる。また胸が苦しくなりそうです。何の感情も抱かずにこちらを睨んでくる先輩の姿を見ているのが辛い。だけど私は先輩から離れたくない。
「先輩と妹さんとの記憶を坂堂先輩が教えてくれてました。志工先輩が何をしたのかも、そして何に失敗して、誰を傷つけたのかも。
取り返しのつかないことだということが私にも分かります。そしてその原因が先輩だったということも反論はできない」
先輩が何の反応を示さないまま私はずっとしゃべり続けます。その前で私がしゃべり続けるのは独り言を話しているようでした。だけど私は気にしなかった。ただ先輩が振り向いていて欲しい。それだけの願いを胸に、次々とあふれてくる衝動をひたすらに言葉にしていました。
自分が話していることが先輩の心に響くか自信がありませんが、私は自分が抱いていた思いを、全部先輩にぶつけていました。今の先輩の姿を見ていたらそうしないと気がすみませんでした。そして私の思いを伝えることができる人間も先輩ただ一人でした。
「けど今は違う。みんな元に戻ろうとしているし、変わろうとしている。それなのに志工先輩だけが変わらない。志工先輩はずっと同じなままです。そんなだから、自分の問題にそっぽを向けているからいつまでも先輩が誰かを傷つけてしまうのではないですか?」
先輩はフェンスの前でただ立っていました。フェンスを掴む力が強くなり、先輩の心の悲鳴と呼応してフェンスの悲鳴も強くなる。先輩が私の言葉を拒絶している。だけど私は話すのをやめませんでした。
「それに先輩がいないと悲しい。今までいろいろと言いましたけど本当はそれが一番いやだ」
「以前言いました。私が心を開けるのは先輩以外にいない。それは私が先輩を利用していると思うかもしれないです。だけど先輩の代わりは誰もいない。
私には先輩しかいないの。こういうのは自分の利益のためかもしれないけど先輩がいないと辛い人がここにいるの。だからお願い。私を一人にしないで!!」
暗闇に向かって手を伸ばしているような無抵抗さの前で私は自分の全てを告白していました。周りの色が絵の具で塗ってあって、それが濡れて周囲の景色が滲んでいくのかと疑いました。自分が泣いていると分かる前に相対する空虚さが私の気力を奪っている。
本能的に自分が追い詰められているということなのでしょう。泣いているということは分かっていても、決壊したダムのようにどうすることもできなかった。ただなすがままに自分の激情に流されている。
だけどこんなに叫んでも先輩は答えてくれないのでしょうか。私のやっていることは全部無駄なことで、私はもう取り戻すことはできない。
先輩にとって自分はそれくらいの人間なのかもしれません?ひざをおってその場にへたり込みました。もう何をしていいのか分からない。
先輩に何を訴えたらいいのか分からない。力なくうなだれて、私は誰に話しかけているにでもなく、壊れたカセットテープのように呟いていました。
「お願い。私を一人にしないで……。不安なの。私の思いを伝えられる人がいないと、いつまでも一人だと思っちゃう。みんなが私を好いていても私はいつまでも一人なの。だから……私の傍にいて」
「……」
志工先輩の視線をずっと感じていました。私を見ています。だけど言葉はありませんでした。時々息を吐くような音と私の涙を飲む音と風が泣く音が私の耳の中でぐちゃぐちゃに交じり合っていました。フェンスが金切り声で叫んでいる。
なんだか自分が惨めだと思わされているようで、私は呟くのをやめました。
「今日は……。もうここには来ません。今の先輩の姿を見るのはつらい。それに私が話すことももうないから。だからこれからは待つことにします。あなたしか知らないあの部屋で」
跳ね上がるように立ち上がると私はそのまま先輩から逃げるように走り去りました。前から感じる向かい風と、背後からくすぐってくる先輩の視線を全部無視し、私は屋内へと走っていきました。
顔はまだ濡れて、せっかくのおめかしが台無しだったかのような気もします。でも私がやれることはやりました。そういう手ごたえを感じただけでもこうやっておめかしして病院に来たのも悪くないと思いました。
まだ何も変わっていない。だけど今日のことでいくらか胸のつかえが取れたような気がしました。それだけでもここに来てよかったと思いました。
後ろを振り向かずそのまま病院を後にします。もう私がやることは何もない。後はただ待つことにしました。病院から伸びる道路は木漏れ日にが差し込み、光の帯が幾重にも重なっています。
私は目じりにたまった涙の粒を指で掬い取りそれを払うと、自然のトンネルの中を歩いていきました。
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何に憤慨しているのか分からない夏の太陽は、毎日その熱線を私たちに発射しています。学校内ではもう見ない方が珍しい梟も、その灼熱に目を回しているのか昼は静かでした。それでも夜はサボっていた仕事を全部消化するかのように鳴き狂っていますが。
だけどそれらはここには届きません。夏の暑さも、梟の歌も届かない。本当に私だけの場所。正確に言えば私と志工先輩の場所です。
夏休みは私なりに楽しい期間だったと思いますが、傍目から見ればあっさりしていたのかもしれません。毎日私がいる場所はいつも同じでしたから。階段をのぼり、屋上へと続く扉の前にやや広がる踊り場で、今日も私は座っています。
夏休みに私がやりたいと思うことはそれだけ。ただ待つこと。証も残らない、それが報われるのかも分からない不毛なことですが、私はこの夏にそれだけをやると決めました。
それでも他のことにも巻き込まれたり、付き合ったりはしています。たまに校内合宿をする部活のために、成り行きでマネージャーまがいのことをしたり……。たまに白崎先輩の趣味である天体観測を覗き見したり。狩屋さんの小説を盗み読みしたり。
でもそれ以外の時間はずっとあの場所の前で待っていました。屋上へ続く扉の近くにある、何のためにあるのか分からない、秘密の小部屋です。だけど私にとって、それは何よりも大切な場所でした。
その部屋に続く扉の前で私は床に腰を下ろして待ちます。少しばかりの暇つぶし道具。それと黒い三角帽子とマントを膝に落ち着かせて。普通の布で出来た魔女の衣装の重さを私は両手で感じ取っていました。
布の重さとは断然違うその重さは、この衣装が色々な人を見ていたことを示しています。学校の噂話に引き寄せられて、ここを訪ねた人の話を聞いた分だけこの帽子が重たくなっていると感じてしまうのでしょう。
魔女なんてもうどこにもいないのに。あるのはその抜け殻だけ。三角帽子を適当にいじくるとつばの部分に小さな穴が開いていました。そこから私の指が突き出て、私はわけも無く口を緩ませていました。
魔女なんて都合のいいものがいたら、志工先輩の妹さんの行方も簡単に分かってしまうのでしょうか?目をつぶって少しだけ集中すると、私の記憶に残された妹さんの最後がよみがえってきます。
でもそれが彼女の末路ではない。私が知っているのは坂堂先輩から見た彼女だけ。だから彼女がどうして坂堂先輩の前から姿を消したのかも分かりません。でももしかしたら……志工先輩と妹さんが双子だから……志工先輩が体験したのと同じことを、妹さんもなぞっていたら……。
私の体は右腕を軸にして三角帽子の穴の中に突っ込みくるくると回していました。その間私は淡い希望のような、ひとつの仮説を考えていました。志工先輩と同じように妹さんも誰かに助けられていて、どこかで治療を受けているという妄想じみた期待です。
いったい誰がそのようなことをするの?そして助けたとして、なぜ誰にも知らせないのだろうか?前提自体が推論なのでそこから先はもう分かりません。
そのとき頭の中を平坂先生の顔が通り過ぎました。そして私に注射したあの薬のことも。ですが、私は笑ってそれを否定しました。というより考えるのをやめたというほうが正しいです。平坂先生を問い詰めても、あの人はするりと話題をそらして逃げてしまいそうですから。
その様子が容易に想像できて、私は口を手で押さえ、漏れる息を必死にふさいでいました。夏にしては季節はずれの静けさを持つこの場所で、私はいつまでも笑っていました。その間も誰かが階段を上ってくる気配は無く、秘密の小部屋の扉が開くこともありません。
沈黙を貫いている扉の取っ手に私は手を伸ばしました。けどすぐに思いとどまると私はその手をところかしこと動かし、おずおずと元に戻します。見ている人がいなくても、恥ずかしさに自然と頬が染まります。
私が待っている場所は扉の前です。その先では待っていません。今日だけではなく、昨日もおとといもそれは変わりません。
私が秘密の小部屋に入らない理由を厳密に考えたことは無いです。ただなんとなく……。入りたいのか入りたくないのかで考えたら、入りたくないのが私の純粋な思いでした。それは帽子とマントを身に付けない理由にも、当てはまるのかもしれません。
この先は私の場所だと思いますが、今はまだそのときではないような気がしてならないのです。この扉を開いたら中に魔女が待っている。そのときが私がここに入るときだと信じています。
だから私はこの扉の前で待っているのです。いつか響く足音と、先輩の息づかいを待ち望みながら。それだけを考えて私はずっと待っていました。
私はこの夏毎日待っていました。私を邪魔するものは何も無く、そして私がその決意を揺らがせることもありません。そして夏休み最後のこの日も、私は待ち続けていました。
志工先輩が来てくれなければそのときはそのときです。もう決心はついています。自分の中に秘めた思いをずっと胸に秘めたまま、私は残りの高校生活を過ごすと決めていました。救われたい自分を自分で殺す。それもある意味合理的でしょう。
「ふわぁ」
まぶたが重たくなり、電流のような感覚が私の体中に走り回りました。耐えられない眠気に口を開き、あたりを流れるあくびの音を、ごまかすように頭をかきむしりました。反射的に時間を確認すると、正午を過ぎたあたり。
直射日光が届かない場所とはいえ、暑さはぶ厚い皮のように私にまとわりついています。だけどそれが逆に程よく眠気を誘ってきます。思えば今日はいつもよりも早くここに座っていた覚えもあります。寝たり無さがあいまって、私はこの眠気を跳ねのけることが出来ませんでした。
意識するとあくびがとまりません。目をこすろうとする手のひらが揺れています。最後のこの日に眠ってしまうと今までここで待っていた努力が無駄になるような気がします。
けれども体は落ちていくように床に沈んでいきます。気が緩んだのか。それとももう先輩が来ないということにしたのか。鈍い色を見せる今の脳細胞ではそのあたりの判別がつきませんでした。
何に憤慨しているのか分からない夏の太陽は、毎日その熱線を私たちに発射しています。学校内ではもう見ない方が珍しい梟も、その灼熱に目を回しているのか昼は静かでした。それでも夜はサボっていた仕事を全部消化するかのように鳴き狂っていますが。
だけどそれらはここには届きません。夏の暑さも、梟の歌も届かない。本当に私だけの場所。正確に言えば私と志工先輩の場所です。
夏休みは私なりに楽しい期間だったと思いますが、傍目から見ればあっさりしていたのかもしれません。毎日私がいる場所はいつも同じでしたから。階段をのぼり、屋上へと続く扉の前にやや広がる踊り場で、今日も私は座っています。
夏休みに私がやりたいと思うことはそれだけ。ただ待つこと。証も残らない、それが報われるのかも分からない不毛なことですが、私はこの夏にそれだけをやると決めました。
それでも他のことにも巻き込まれたり、付き合ったりはしています。たまに校内合宿をする部活のために、成り行きでマネージャーまがいのことをしたり……。たまに白崎先輩の趣味である天体観測を覗き見したり。狩屋さんの小説を盗み読みしたり。
でもそれ以外の時間はずっとあの場所の前で待っていました。屋上へ続く扉の近くにある、何のためにあるのか分からない、秘密の小部屋です。だけど私にとって、それは何よりも大切な場所でした。
その部屋に続く扉の前で私は床に腰を下ろして待ちます。少しばかりの暇つぶし道具。それと黒い三角帽子とマントを膝に落ち着かせて。普通の布で出来た魔女の衣装の重さを私は両手で感じ取っていました。
布の重さとは断然違うその重さは、この衣装が色々な人を見ていたことを示しています。学校の噂話に引き寄せられて、ここを訪ねた人の話を聞いた分だけこの帽子が重たくなっていると感じてしまうのでしょう。
魔女なんてもうどこにもいないのに。あるのはその抜け殻だけ。三角帽子を適当にいじくるとつばの部分に小さな穴が開いていました。そこから私の指が突き出て、私はわけも無く口を緩ませていました。
魔女なんて都合のいいものがいたら、志工先輩の妹さんの行方も簡単に分かってしまうのでしょうか?目をつぶって少しだけ集中すると、私の記憶に残された妹さんの最後がよみがえってきます。
でもそれが彼女の末路ではない。私が知っているのは坂堂先輩から見た彼女だけ。だから彼女がどうして坂堂先輩の前から姿を消したのかも分かりません。でももしかしたら……志工先輩と妹さんが双子だから……志工先輩が体験したのと同じことを、妹さんもなぞっていたら……。
私の体は右腕を軸にして三角帽子の穴の中に突っ込みくるくると回していました。その間私は淡い希望のような、ひとつの仮説を考えていました。志工先輩と同じように妹さんも誰かに助けられていて、どこかで治療を受けているという妄想じみた期待です。
いったい誰がそのようなことをするの?そして助けたとして、なぜ誰にも知らせないのだろうか?前提自体が推論なのでそこから先はもう分かりません。
そのとき頭の中を平坂先生の顔が通り過ぎました。そして私に注射したあの薬のことも。ですが、私は笑ってそれを否定しました。というより考えるのをやめたというほうが正しいです。平坂先生を問い詰めても、あの人はするりと話題をそらして逃げてしまいそうですから。
その様子が容易に想像できて、私は口を手で押さえ、漏れる息を必死にふさいでいました。夏にしては季節はずれの静けさを持つこの場所で、私はいつまでも笑っていました。その間も誰かが階段を上ってくる気配は無く、秘密の小部屋の扉が開くこともありません。
沈黙を貫いている扉の取っ手に私は手を伸ばしました。けどすぐに思いとどまると私はその手をところかしこと動かし、おずおずと元に戻します。見ている人がいなくても、恥ずかしさに自然と頬が染まります。
私が待っている場所は扉の前です。その先では待っていません。今日だけではなく、昨日もおとといもそれは変わりません。
私が秘密の小部屋に入らない理由を厳密に考えたことは無いです。ただなんとなく……。入りたいのか入りたくないのかで考えたら、入りたくないのが私の純粋な思いでした。それは帽子とマントを身に付けない理由にも、当てはまるのかもしれません。
この先は私の場所だと思いますが、今はまだそのときではないような気がしてならないのです。この扉を開いたら中に魔女が待っている。そのときが私がここに入るときだと信じています。
だから私はこの扉の前で待っているのです。いつか響く足音と、先輩の息づかいを待ち望みながら。それだけを考えて私はずっと待っていました。
私はこの夏毎日待っていました。私を邪魔するものは何も無く、そして私がその決意を揺らがせることもありません。そして夏休み最後のこの日も、私は待ち続けていました。
志工先輩が来てくれなければそのときはそのときです。もう決心はついています。自分の中に秘めた思いをずっと胸に秘めたまま、私は残りの高校生活を過ごすと決めていました。救われたい自分を自分で殺す。それもある意味合理的でしょう。
「ふわぁ」
まぶたが重たくなり、電流のような感覚が私の体中に走り回りました。耐えられない眠気に口を開き、あたりを流れるあくびの音を、ごまかすように頭をかきむしりました。反射的に時間を確認すると、正午を過ぎたあたり。
直射日光が届かない場所とはいえ、暑さはぶ厚い皮のように私にまとわりついています。だけどそれが逆に程よく眠気を誘ってきます。思えば今日はいつもよりも早くここに座っていた覚えもあります。寝たり無さがあいまって、私はこの眠気を跳ねのけることが出来ませんでした。
意識するとあくびがとまりません。目をこすろうとする手のひらが揺れています。最後のこの日に眠ってしまうと今までここで待っていた努力が無駄になるような気がします。
けれども体は落ちていくように床に沈んでいきます。気が緩んだのか。それとももう先輩が来ないということにしたのか。鈍い色を見せる今の脳細胞ではそのあたりの判別がつきませんでした。
ーーーーーーーー
白崎先輩が言うように愛情が一方通行なら、私の志工先輩に対する愛情も一方通行なのでしょう。なら志工先輩は誰に向けて愛情を向けているのでしょうか?白崎先輩?私?それとも妹さん?
私であって欲しいとは思います。わがままじみた私の駄々ですが。一方通行の愛情がそうやって循環しているのは奇跡だと思います。だけど奇跡というのは起こそうと思って起こすものではなくて、それを望んでいる私は現実が見えていないのでしょうか。
夢の中にいると最近こんなことばかり考えてしまう。奇跡を起こせるほど自分は特別な人間ではない。だから志工先輩が私の前に現れないのではないかという不安が、ゆっくりを鎌首をもたげてくる。
その度合いが強くなるとたいてい悪いことばかり夢見てしまう。例えば今開いていない扉の向こうでは、見知らぬ人が三角帽子とマントを羽織っていたり。もっと悪いと志工先輩が私ではない人を待っていたり……。
そんな光景を見せ付けられて、私は叫びたいのに、夢の中では叫ぶことも出来なく案山子のように立っていることが精一杯でした。
今まで閉じていた目が簡単に開きます。固い床の上で寝ていて、頬にその感触が残っていました。体の節々がきしむ音を上げ、その痛みが私を現実に引き戻したことを教えてくれました。
まだ夢見心地で、時間はもう夕暮れ時を過ぎています。寝る前と同じく、私の今いる場所は雪が降っているように静かでした。そしてそれは何も変わっていないということを、私に否応でも分からせます。
少しだけ笑いました。今日は来てくれるかもしれないという私の希望が砕かれたからです。私の言葉もあのときの志工先輩には届かなかったということにもです。
ヒビの入った鈴のように、カラカラと笑います。ふいに笑い声が途切れ、また変わらない静寂。それに耐え切れなく私は帰る支度を始めました。帽子とマントは燃やしてしまいましょうか。過激な思考でしたが私はそれは間違った判断ではないと信じていました。
座っている私の目の前には両足がまっすぐと伸びています。スカートから伸びる白い足は私がこの夏ここで過ごしていたことの証。そしてその努力を無駄だと示す証拠でもあります。
両足をじっと見ていても時間の無駄なので、帽子とマントを探すことにしました。帽子とマントはどこでしょう?素直にそれを考えている最中に、私はそれを探していることのおかしさに気づきました。
私が持っていたはずの三角帽子が影も残らず消えていました。その輪郭を懐かしむかのように私の手は空を掴み、指はわずかに震えています。
暗闇の中で、蛍がともすような光に包まれている両手を見つめていて、とてつもない感情の奔流が襲ってきました。扉を見ます。私が寝ている前と変わっていません。でも私の持ち物は変わっている。
見ればマントもどこかに消えていました。それが何を意味するのか。はっとした表情のまま私は扉の取っ手に手をかけます。震える手ではうまく掴むことができず、何度も取っ手を掴み損ないました。
夢の中で苛まれた状況の再来が待っているかもしれません。それを私は恐れています。だけど私は扉を開き増した。とにかく私がこう待っていたことに対する結果が現れる時が、やってきたのです。
それに扉を開かなければ何も分かりません。扉を開きます。懐かしい熱気と、くしゃみがこぼれてしまいそうな埃のにおいが私の体にしみこんでいきます。そして机をはさんだ向こうに座っている一人の生徒は、何よりも懐かしい。
魔女を言えば無意識的に思いつく、イメージに似合った容姿です。そして私の記憶にも残っている容姿です。唯一違うところは制服が女性のものではなく、男性のものであるということでしょうか?
入り口の前で私は固まっていました。まだ喜んでいい段階には至っていない。そしてそれを確認することの不安が私を縛り付けています。帽子が邪魔をしてその人の顔が私からは見えません。
「先輩ですか?」
恐々としながら私は尋ねます。その人が、小さく息を漏らします。わずかに息を吐いてその直後につばを飲む。思考の逡巡をあらわすかのように行き場を求める指先から特有の雰囲気を受けます。
それが私の頭をひっかきました。私の良く知る人にとてもよく似ている。私は椅子に座りもせず、その人に近づきました。前のめりになるのも気にせず帽子のつばを持ち上げます。
無表情ながらも端正な顔つき。こういう顔がひとつの芸術であると顔つき。相変わらず人形のような生きているということを実感していないような瞳。でも私の顔を見ると無表情だった目と口が私に分かる程度に朗らかになります。
そこには志工先輩が待っていました。
「古都を……待ったよ。ほんの数時間だけ。でも古都はもっと待っていた。古都は俺を救おうとしてくれた。自分の価値を見失っていた俺に、俺がするべきことだったことと、やるべきことを教えてくれた。答えを教えてくれた」
私は最後まで聞けませんでした。無我夢中で、私は先輩を抱きしめます。机がずれて壁に当たり無骨な音を立てるのも気にせずに。先輩の体の感触を自分の両手で確かめます。幻でも夢でもないことを確かめたかった。
先輩の体はとても熱く、そして柔らかかった。ぬくもりとは違う。抱きしめると先輩の特徴が頭の中に箇条書きされて、先輩を感じることが出来ました。もっと先輩を感じたい。そう思うともうちょっとだけ抱きしめたくなりました。
二人の息が交じり合って、同時に心臓の鼓動も重なっている。太鼓のような心臓の音が内からも外からも響いてきて、先輩がとても近くにいる。それが分かり、私の心臓はさらに激しさを増します。
志工先輩の戸惑った声を私は聞こえないふりをします。志工先輩はそれでも気にしているようでしたが、最後は私をずっと受け止めてくれました。志工先輩の仕草、視線に受ける印象、埃に混じる匂い。どれも私が感じて、先輩が近くにいるということを意識し続けました。
一呼吸あけます。それでも思考が錯乱していて、座っているのか立っているのかも分からなく、私の頭に浮かぶのは唯一つでした。
せめてこのときだけはこのまま先輩を放したくない。風船のようにそういう思いが膨れ上がって、それが破裂したときに私の喜びも頂点に達しました。間に机があるのも忘れて私は志工先輩を抱きしめ続けました。
話したいことが色々とあります。だけど色々とありすぎて、何から話したらいいのか分かりませんでした。だけどそんな心配をする必要は無い。先輩はもう私からいなくなりはしないのですから。だからこれだけは話すということをまず話すことにしました。
「先輩。おかえりなさい」
できるだけ明るく努めましたが、だけど声は震えていて、体を巡る血の熱さでこのまま倒れてしまいそうです。
私の抱擁から解放された先輩は、私の言葉を自分のこととは感じられず目を丸くして座っていました。この場所で圧倒される魔女というのも珍しいです。志工先輩は帽子のつばで自分の目を隠すと、平坦な抑揚で言葉を返しました。
「ただいま。古都」
ただそれだけ。その言葉が今まで一人だった私を救ってくれました。
白崎先輩が言うように愛情が一方通行なら、私の志工先輩に対する愛情も一方通行なのでしょう。なら志工先輩は誰に向けて愛情を向けているのでしょうか?白崎先輩?私?それとも妹さん?
私であって欲しいとは思います。わがままじみた私の駄々ですが。一方通行の愛情がそうやって循環しているのは奇跡だと思います。だけど奇跡というのは起こそうと思って起こすものではなくて、それを望んでいる私は現実が見えていないのでしょうか。
夢の中にいると最近こんなことばかり考えてしまう。奇跡を起こせるほど自分は特別な人間ではない。だから志工先輩が私の前に現れないのではないかという不安が、ゆっくりを鎌首をもたげてくる。
その度合いが強くなるとたいてい悪いことばかり夢見てしまう。例えば今開いていない扉の向こうでは、見知らぬ人が三角帽子とマントを羽織っていたり。もっと悪いと志工先輩が私ではない人を待っていたり……。
そんな光景を見せ付けられて、私は叫びたいのに、夢の中では叫ぶことも出来なく案山子のように立っていることが精一杯でした。
今まで閉じていた目が簡単に開きます。固い床の上で寝ていて、頬にその感触が残っていました。体の節々がきしむ音を上げ、その痛みが私を現実に引き戻したことを教えてくれました。
まだ夢見心地で、時間はもう夕暮れ時を過ぎています。寝る前と同じく、私の今いる場所は雪が降っているように静かでした。そしてそれは何も変わっていないということを、私に否応でも分からせます。
少しだけ笑いました。今日は来てくれるかもしれないという私の希望が砕かれたからです。私の言葉もあのときの志工先輩には届かなかったということにもです。
ヒビの入った鈴のように、カラカラと笑います。ふいに笑い声が途切れ、また変わらない静寂。それに耐え切れなく私は帰る支度を始めました。帽子とマントは燃やしてしまいましょうか。過激な思考でしたが私はそれは間違った判断ではないと信じていました。
座っている私の目の前には両足がまっすぐと伸びています。スカートから伸びる白い足は私がこの夏ここで過ごしていたことの証。そしてその努力を無駄だと示す証拠でもあります。
両足をじっと見ていても時間の無駄なので、帽子とマントを探すことにしました。帽子とマントはどこでしょう?素直にそれを考えている最中に、私はそれを探していることのおかしさに気づきました。
私が持っていたはずの三角帽子が影も残らず消えていました。その輪郭を懐かしむかのように私の手は空を掴み、指はわずかに震えています。
暗闇の中で、蛍がともすような光に包まれている両手を見つめていて、とてつもない感情の奔流が襲ってきました。扉を見ます。私が寝ている前と変わっていません。でも私の持ち物は変わっている。
見ればマントもどこかに消えていました。それが何を意味するのか。はっとした表情のまま私は扉の取っ手に手をかけます。震える手ではうまく掴むことができず、何度も取っ手を掴み損ないました。
夢の中で苛まれた状況の再来が待っているかもしれません。それを私は恐れています。だけど私は扉を開き増した。とにかく私がこう待っていたことに対する結果が現れる時が、やってきたのです。
それに扉を開かなければ何も分かりません。扉を開きます。懐かしい熱気と、くしゃみがこぼれてしまいそうな埃のにおいが私の体にしみこんでいきます。そして机をはさんだ向こうに座っている一人の生徒は、何よりも懐かしい。
魔女を言えば無意識的に思いつく、イメージに似合った容姿です。そして私の記憶にも残っている容姿です。唯一違うところは制服が女性のものではなく、男性のものであるということでしょうか?
入り口の前で私は固まっていました。まだ喜んでいい段階には至っていない。そしてそれを確認することの不安が私を縛り付けています。帽子が邪魔をしてその人の顔が私からは見えません。
「先輩ですか?」
恐々としながら私は尋ねます。その人が、小さく息を漏らします。わずかに息を吐いてその直後につばを飲む。思考の逡巡をあらわすかのように行き場を求める指先から特有の雰囲気を受けます。
それが私の頭をひっかきました。私の良く知る人にとてもよく似ている。私は椅子に座りもせず、その人に近づきました。前のめりになるのも気にせず帽子のつばを持ち上げます。
無表情ながらも端正な顔つき。こういう顔がひとつの芸術であると顔つき。相変わらず人形のような生きているということを実感していないような瞳。でも私の顔を見ると無表情だった目と口が私に分かる程度に朗らかになります。
そこには志工先輩が待っていました。
「古都を……待ったよ。ほんの数時間だけ。でも古都はもっと待っていた。古都は俺を救おうとしてくれた。自分の価値を見失っていた俺に、俺がするべきことだったことと、やるべきことを教えてくれた。答えを教えてくれた」
私は最後まで聞けませんでした。無我夢中で、私は先輩を抱きしめます。机がずれて壁に当たり無骨な音を立てるのも気にせずに。先輩の体の感触を自分の両手で確かめます。幻でも夢でもないことを確かめたかった。
先輩の体はとても熱く、そして柔らかかった。ぬくもりとは違う。抱きしめると先輩の特徴が頭の中に箇条書きされて、先輩を感じることが出来ました。もっと先輩を感じたい。そう思うともうちょっとだけ抱きしめたくなりました。
二人の息が交じり合って、同時に心臓の鼓動も重なっている。太鼓のような心臓の音が内からも外からも響いてきて、先輩がとても近くにいる。それが分かり、私の心臓はさらに激しさを増します。
志工先輩の戸惑った声を私は聞こえないふりをします。志工先輩はそれでも気にしているようでしたが、最後は私をずっと受け止めてくれました。志工先輩の仕草、視線に受ける印象、埃に混じる匂い。どれも私が感じて、先輩が近くにいるということを意識し続けました。
一呼吸あけます。それでも思考が錯乱していて、座っているのか立っているのかも分からなく、私の頭に浮かぶのは唯一つでした。
せめてこのときだけはこのまま先輩を放したくない。風船のようにそういう思いが膨れ上がって、それが破裂したときに私の喜びも頂点に達しました。間に机があるのも忘れて私は志工先輩を抱きしめ続けました。
話したいことが色々とあります。だけど色々とありすぎて、何から話したらいいのか分かりませんでした。だけどそんな心配をする必要は無い。先輩はもう私からいなくなりはしないのですから。だからこれだけは話すということをまず話すことにしました。
「先輩。おかえりなさい」
できるだけ明るく努めましたが、だけど声は震えていて、体を巡る血の熱さでこのまま倒れてしまいそうです。
私の抱擁から解放された先輩は、私の言葉を自分のこととは感じられず目を丸くして座っていました。この場所で圧倒される魔女というのも珍しいです。志工先輩は帽子のつばで自分の目を隠すと、平坦な抑揚で言葉を返しました。
「ただいま。古都」
ただそれだけ。その言葉が今まで一人だった私を救ってくれました。