多分、僕は人生最大の転機に直面しているんだと思う。男として。
目の前の姿鏡を見ると、まあ当然だけど僕の顔が映っている。髪が長い。後ろで結ぶにはまだ少し短い気がするが、結べない事は無いくらいの長さだ。ボーイッシュな女の子みたいに。
「――さて、」
深呼吸を二度して、無闇に高鳴る心臓を絞め殺すように息を吐く。そして鏡から三歩離れて、全身が見えるようにする。
スカートを穿いた自分の姿は、相当滑稽に見えた。
想像以上に似合っていないその姿を僕は笑いたくてしょうがなかったのだが、どうも顔が引きつって上手く笑えない。ああ、だめだ。鏡の中にいる人の顔は真っ赤である。もうやめてくれ、と眼で僕に訴えている。心臓が喉から飛び出そうなくらいに脈打っている。冷房が利いているはずなのに妙な汗が流れる。
ああ、僕は一体何をやっているんだろう。
妙に熱い耳たぶを、冷え性の手先で冷やしながらそう思った。そうしても、やっぱり溜息と引きつった笑いしか出てこない。本当、何やってるんだ僕は。
勿論だが、僕には普段からの女装癖なんて微塵もない。なので、まずはここまでに至った経緯を話そう。時は今日の放課後――、大体二時間くらい前に遡る。
今日は僕の班が教室の掃除当番であった。僕は自分で言うのもなんだが、結構真面目に掃除をする方の人間なんだと思う。そんなわけで、今日も掃除に精を出していた。
教室の前から四番目の一番窓側の席、それが紗代利さんの席だ。彼女は学年一の美少女で、学校中の殆どの男どもが彼女を狙っている。当然僕かて例外じゃない。
とりあえずは、彼女の机の下を掃除しようと箒を這わせる。しかし箒の先が引っかかってしまった。
どさどさっ。
教科書やノートやらが床に散乱してしまう。僕は慌ててそれらをかき集めてもとに戻そうとしたが、一冊の文庫本が目に入った。カバーが付いているせいで表紙は見えない。
なんだろう……、恐らく彼女が休み時間に良く読んでいる本だ。
一緒に掃除当番だった連中はもう掃除用具を片付けはじめている。
「おい、歩。もう先帰るぞ」
伊藤はそういうと他の連中とともに廊下に出て行った。チャンスだ、と僕は思った。彼女のお気に入りの本、それを知れば少しだけ彼女に近づく事ができるかもしれない。
僕は割れ物でも扱うかのように、そっと本からカバーを外す。
出てきたのはアニメ調のイラストだ。ライトノベルとかいう奴なんだろう。可愛い女の子が二人並んでいる。もしかして百合小説なんだろうか。そしてタイトルは「先輩とボク」……。
表紙を見ていると、何故だかイケナイ事をしているような気分になってきてしまった。表紙から目をそむける様に本を裏返して、裏表紙の本の解説を見る。
「純朴な少年、井上遙はひょんなきっかけから
憧れの堀江先輩に女装をプロデュースされてしまうことに!」
「女装子小説の決定版!」
「女装!」
……と、いうわけなのであった。
母のワンピースはするりと床に落ちた。母は僕よりも身長が高いから、どうもこのワンピースはサイズが合わなかった。それも似合ってない要因の一つだっただろう。なるべく丁寧に折りたたんで、箪笥の中に戻す。防虫剤の残り香が鼻をくすぐり、クシャミを一つ。
しかし何故だろう。ズボンに足を通しながら考える。服をちゃんと畳んで仕舞ったというのに心臓がまだ激しく動悸打っている。頭がふわふわしてしかたない。シャツのボタンを欠け違えないように注意する。
鏡を見ると、普通に男物のズボンを穿いて、男物のシャツを来た普通の男が写っていた。身長は157センチ。Hydeより1センチだけ高い。
ふと母の化粧台が目に入るが、流石に素人が化粧までしようとは思えなかった。悲惨な結果になる事は分かっている。
腕を組み考えるが、出てきた答えはとりあえず無駄毛の処理だった。そういえば腕も(さっき穿いたスカートは丈が長くて気にならなかったが)足も毛だらけである。まあ僕は男なんだし放っておいてもなんら不思議は無いが女装をするのなら……。
しかし鬚を剃るときのように電気シェーバーで剃るには長すぎるし、剃刀では肌が負けてしまうからだめだ。
一本ずつ抜くか。
化粧台、洗面台、風呂、救急箱、いろいろと探したが肝心のピンセットが見つからず、仕方が無いので近くの100円ショップに買いに行くことにした。
ていうか、なんで僕はこんなノリノリになってるんだ。いや、決して不純な動機ではなく、あの子に気に入られたいからなんだ! ……多分! 若しくはリベンジ心……?
100円ショップ「ウルカマート」は、僕の家から歩いて5分ほどの商店街にある。店内はクーラーが利きすぎているのか、頭が締め付けられるような痛みを覚えた。BGMにフュージョンみたいなジャズが静に流れている。
僕は化粧品コーナーに足を運……ぼうとしたのだが、今更ためらいの念がふつふつと沸いてきてしまった。
たかが毛抜きのピンセットを買うだけじゃないか。そんなもん男女関係無く買うもんだろう。それとも目的が女装のためだとかそういう不純な目的だから、そういう後ろめたさを感じちまうのか?
「ええい、南無三!」
「あの……、お客様……」
しまった。あまりにも挙動不振すぎたのか店員に声をかけられてしまった……。まあ確かに、男性が化粧品コーナーで挙動不審な仕草を伴いながらウロウロしてたら不審者扱いされても仕方ないだろう。
僕は反射的に振り向いてしまった事を後悔した。顔を見られてしまった。自分の顔が赤くなっているのが分かる。
「……やっぱり」
店員はそう呟くとまじまじと僕の顔を眺める。そして嫌に親しげに、僕の肩に添えた手を揺する。そういえばこの店員はどこかで見たような顔をしていた。
「あはははー、やっぱり歩君じゃん、久しぶりー!」
「えーと、」
「ほら、私だよ! 斜向かいの家の」
「ああ、鈴木さん!」
「いやはや、中学高校と別だったから会う機会も減ったしねー、ホント久しぶり!」
鈴木さんは小学校を卒業すると、中高一貫の私立ヌックマム学園、通称ヌッ学に行ってしまっていた。長年の幼馴染だったんだけど、それからは徐々に疎遠になってしまっていたのだ。でもまさかこんな形で再会するとは夢にも思わなかったし、彼女も同じ事を考えているだろう。
「いや、まさか鈴木さんがここでバイトしてたとはねー」
「あははははー、で、何してたの?」
「いや、えーと、あ、あはははは……」
「あははははー、誤魔化すなばか」
「で、何買おうとしてたの」
「いや、だからピンセットを……ね」
「……怪しいね」
疑惑の念をこめた視線で、鈴木さんは僕を見つめる。彼女のその視線と、最後に会った日より随分大人びたその顔。
「……何赤くなってるのよ」
「いや、別に……」
「君がこういうコーナーに足運ぶ事なんてねえ……。もしかして……こう、なんていうか、フジュンなコンタンって奴があったんじゃないの? うーん……たとえば、――女装とか」
「そ、そんなわけない……!」
「歩き方。妙に内股だったよ」
「ぐっ……」
耳まで赤くなるのが分かる。きっと反射的に息を止めてしまった所為だ。そうじゃないとこんなに赤くなるはずがない、と思った。実際には自分の顔色なんて見れやしないけど、鈴木さんのいたずらな笑みからして、きっと物凄く赤くなってるんだろう。
「あれ、本当に女装だったの?」
「ぬ……悪いかよ……、だよな、悪いよな。久しぶりの再会だってえのに、俺ぁ今じゃこんな男よ、そりゃあお前さんが嘆くのもしかたねえ、それじゃあ俺ぁこの辺で……」
「あ、こら、帰るなばか!」
「また馬鹿って言った……」
もう一度その左手を僕の肩にかける鈴木さん。妙に力強い。二歩ほどよろめき、あわや棚にぶつかるところだった。しかし彼女はそんな事はお構い無しに、満面の笑顔で僕の鼻先に親指を立てた。
「協力、するよ」
「ちょ……」
「いやあ、だってさ、歩君ぜんっぜん身長伸びてないんだもん。髪も長いし、頑張れば良い女装子なれるよ」
「身長の事は言うなよう……」
そう言わずに! と彼女は右手も僕の肩にかける。僕はよろめき、後ろの棚にぶつかってしまう。化粧水のボトルが床に落ちる。
「ほら、君さ、筋肉も全然ないし、ほら腕とか女の子みたいに細い」
「できるかな……僕に」
「妙に悲観的だね。家でなんか試したりでもしたのかい?」
「い、いや……別に……」
「まあなんとかなるわよ! ね!」 がくがく。
「肩をゆすらないで…………」
「よし、じゃあとりあえず化粧道具からそろえようね。最近は100円均一でも結構いろいろ揃うわけよ…………」
こうして僕の女装は幕を開けたわけだ。
そして物凄くノリノリな鈴木さんに恐怖したりもするのであった。