掘ーリーランド
第六掘「羊頭狗肉」
「堀だ」
村井は言った。
「尾藤と江川を消した奴の正体は、一年前に松野に掘られた、堀ススムだ」
学校の屋上で、いつものように煙草をふかしていた松野と久坂は、その内容に言葉を失う。
「……マジで言ってんのか?」
久坂が信じられぬという顔で聞いた。
無理もない。
久坂の知っているのは、臆病でいじめられっ子の堀ススムだけなのだ。
「江川が『ヤンキー掘り』に狩られた時、一緒にいた女に裏を取った。 江川はそいつの事を、『堀』と呼んだそうだ。 俺達に恨みのある奴の条件にも当てはまる。 間違いないだろう」
「なんてこった……まさか、あの家畜が『ヤンキー掘り』だとはな」
「ああ。 その女の話じゃ、そいつはボクシングに似た動きで江川を秒殺したそうだ。 大方、通信空手にでも手を出して鍛えたんだろうよ。 どうやら、奴らは俺達五人を順番に狩ってくみたいだぜ」
語る内容の割には、村井の表情には余裕が感じられた。
その様子は、『ヤンキー掘り』に対していかほどの脅威も感じてはいないように見える。
まるで『ヤンキー狩り』というエースカードに対して、ワイルドカードでも隠し持っているかのように―――――
「村井………お前、何を考えてる?」
久坂が言う。
その言葉に、村井は不敵な笑みを浮かべた。
「別に? 空手の段持ちの久坂と、最強・松野が居りゃあ恐れる事なんかないだろ?」
「力の序列的に、次に狙われるのはお前だろう。 俺達とだって二十四時間一緒に居るわけじゃない。 そいつは向こうも十分心得てるだろうよ。 奴は、確実にお前が一人でいる所を狙ってくるぞ」
「だろうね。 俺もそう思う」
「どうするつもりだ?」
「簡単な事だよ」
村井は言った。
「後手に回るからいけないんだ。 相手の素性は割れてる。 ならこっちから打って出ればいい。 『ヤンキー掘り』掘りだ」
松野と久坂は、村井の意図に気づいた。
村井は金にものを言わせて、数の力を使う気だ。
ローラー作戦で標的を探し出し、波状攻撃で潰す。
数の力にかかれば、少しばかり格闘技をかじった素人などひとたまりもない。
姑息だが、確実に相手を潰せる手段に村井は出たのだ。
怒りと憎しみの違いは何だろうか。
ススムはその答えを知っている。
怒りは一過性のものだ。
突発的に激しく燃え上がるものの、冷静になればそれは容易く鎮火する。
しかし、憎しみはそれとは対照的に、冷静になればなるほどその燃性を増してゆく。
それはやがて心に巣食い、寄生虫のように宿主を侵食してゆくのだ。
憎しみとは、そうした病理的なものだ。
あの日、ススムは、初めて屋上のフェンスを乗り越えた。
口の中に残った苦い精液の味と、臀部の痛み。
虚空のように吹き荒れる絶望感。
人間の尊厳だとか、矜持だとか、そういった理性的なものは全て崩壊しきっていた。
怒りだとか憎しみだとか、そういった感情さえ、その時のススムは持ち合わせていなかった。
まるで、その空間の中に、ススムという人間の形にぽっかりと虚無が出現したかのように、ススムは虚ろだった。
なんという事はない。
あと一歩、アスファルトから足を踏み出せば、その妄想は現実になる。
アスファルトの硬さとビル八階分の落下距離は、確実にススムの頭蓋を砕いてくれる。
余計な感情を持ち合わせたススムの脳漿を四方に撒き散らして、全てを終わらせてくれる。
それは、魅惑的な死神の誘惑だった。
ああ、そうだ。
この世には、死にもなお勝る絶望というものが存在するのだ。
「その先には、何も無いぜ」
不意に、フェンス越しに声が聞こえた。
見ると、さっきまで誰も居なかった空間に、甚平を着た中年男がいつの間にか立っていた。
薄汚れた男だった。
極度の肥満体型で、口元には無精髭が散っている。
「知ってるよ」
ススムは答える。
気に留める事ではなかった。
ただ、何処ぞの物好きが一人、深夜の飛び降り自殺をアリーナで拝みに来たというだけだ。
「イジメか?」
「お前の知った事か」
「つれねぇなぁ。 今わの際を看取る人間にはもっと優しくするもんだぜ」
男はそういうと、煙草を一本取り出してふかし始めた。
ススムは、それきり男に興味を失うと、現世で最期になるであろう光景に再び目を戻した。
しかし、そうはならなかった。
「ひとつ質問だ」
男は言った。
「レストランでハンバーグを食べる奴を見て、どう思う?」
「は?」
ススムは、その突拍子もない質問に毒気を抜かれ、思わず振り向いていた。
こんな時に、こいつは何を言っているのか。
「別にどうも思わないだろう。 そいつに恨みも抱かないだろう。 そいつ自身にも、罪の意識なんてこれっぽちも無いだろう」
「―――――――――」
「だが、食われる家畜の立場からしてみりゃ、たまったもんじゃねぇ。 訳も分からない内に挽き肉にされて、他の家畜の挽き肉といっしょくたにされて炙られちまうんだぜ? そこには家畜の意志だとか、個性だのとかはまったく存在しない。 ただの挽き肉だ」
「―――――――――」
「なぁ、坊主。 お前は家畜か? 生産者も分からない挽き肉か?」
「―――――――――」
ぞくり、と肌が粟立つのを感じた。
蒙昧となっていた意識が。 鈍化した感覚が一気に蘇ってくるのを感じた。
圧倒的な容量のものが自分の内からこみ上げてくるのを感じた。
「レストランでのうのうとハンバーグを貪る豚共を、殴り倒したくはないか?」
気づいた時には、手遅れだった。
涙腺を伝って、抑え込まれていた感情が一気に放出された。
「………僕は…」
ススムは、枯れた声でようやく言葉を紡ぐ。
自分の言葉で。 自分の意志で。
「僕は……家畜じゃない………! 僕は………僕は……っ」
涙が、奔流となって頬を流れた。
涙が熱かった。
男は、ススムのその言葉を待っていたように、にんまりと笑った。
それが、ススムの人生を変える事になる、巻嶋村掘門という男との出会いだった。