――怠惰な平日。音と光が恋しくて、見てもいないテレビは点けっ放しだった。
働く世の社会人たちは決して見ることのないであろう昼のワイドショー。年々増加するこの国の自殺者数について取り上げた特集が流れている。イジメに遭って自殺した少年Aの遺書が公開されていた。
この少年のような境遇が珍しくなくなってきた世の中が恐ろしい。
『これ以上、自分の居場所を失っていくのに耐えられません。ごめんなさい』
――居場所を失うのに耐えられないのに、自ら命を失うことを選択できるとはね。
「つうか、このタイミングで自殺特集かよ……」
特集に皮肉めいたものを感じた俺は、布団に寝転がったまま、腕だけを動かして、感触だけを頼りにリモコンを探した。指先に固いものが当たる。
「あれ、携帯か……」
リモコンを探しなおすこともせずに、間違えて掴んでしまった携帯を握ったまま考える。
今月いっぱい、バイトのシフトをキャンセルしてしまった俺は、一人でいる時間を過ごすのが少しずつ辛くなってきた。
「薫は講義だし、ハルカは呼び出す方法がないし……沙織だって病院と大学を行ったり来たりだもんな」
口に出したところで、部屋に居るのは俺だけであることは変わらない。
「用もないのに弥生を呼び出すのも悪いし――何より女の子を部屋に呼びつけるわけにはいかないよな」
それ以前の問題として、部屋の中は読み散らかした漫画やら、昨夜食べたコンビニ弁当の容器やらが散らかっていて、人を呼べる状態ではなくなっていた。
不思議なもので、人間は退屈を感じると、何かしようと思いつつも、何故かそのまま暇を持て余してしまう。バイトに出て働いていた時の方が生活も規則正しかったし、忙しくても部屋の片づけはしていた。
生活のメリハリを失った俺は、退屈をそのまま享受しようとしていたのだ。
「……バイト行かなくなって三日でこれはマズいな」
そうは思っても、体が動かない。さっき見た特集のせいか、気分まで青く、憂鬱に沈み込んできた。
母の見舞いに行くことも出来なくはないが、こんな気分で行ったらさらに気分が悪くなりそうだ。それに、これから日を追うごとに彼女の姿はどんどん弱々しくなっていくだろう。俺にはそれを直視できる自信はない。俺がその様子を見てしまったが最後、彼女は本当に死んでしまうのではないか、と根拠のない不安に心を揺さぶられる。
――ダメだ、誰かと話したい。
俺の指が意志を持ったかのように動くと、携帯の向こう側から、店長の声が聞こえてきた。
「すいません、明日はバイトに出られそうなんですけど……はい、さすがに休みっ放しじゃ迷惑だと思いまして」
中途半端に出ても迷惑なのは重々承知している。それでも、俺は他人と接することのできる機会が欲しかった。
「いやいや、無理なんかしてませんよ。ええ……はい、出られます」
無理して出なくてもいいんだよ、と優しい声がしたが、その気遣いも今はもどかしかった。
「ありがとうございます。じゃ明日」
――無理やりシフトを入れてもらうなんて初めてだ。
大して柔らかくもない枕に顔をうずめる。
通話を切った携帯電話を無造作に放り投げると、柔らかい布団の上に落ちる音が聞こえた。
昨日のことを思い出す。楽しかった昨日のことが、余計に今の寂寥感を膨張させているような気がした。
「……」
しばらくうつ伏せの状態のまま、微動だにせずにいたが、おもむろに立ち上がって、壁のフックに掛かったコートを羽織る。
テレビの電源を切って、鍵を手に取る。ナレーターは、会社員Cがどうして自ら死を選んだのか、経緯を説明することなく沈黙した。スニーカーを突っ掛けて、肌を切り裂かれそうな冷たい空気を顔に受ける。
――何もせず家にいるよりはマシだろう。目的なんてないけれど、出かけてしまおう。
冷たい、灰色の、二月の街へ。
何となく家を出たのはよかったものの、さすがにこの寒空の下、長く散歩を続けていれば、分厚い衣類に包まれた体も冷える。
ちょうど、目の前に行きつけのスーパーマーケットが現れた。丁度いいからここで暖を取ろう、と感覚の無くなった頬を撫でつけながら自動ドアを通過する。店内の温まった空気が顔の表面を舐めた。
入口の正面、入ってすぐの野菜売り場が目に留まる。
――たまには、自炊してみようか。
孤独を紛らわせたい、そんな思いが俺を動かした。
俺はプラスチック製の買い物かごを手に取ると、ゆっくり、店内を回り始めた。
俺は部屋に帰ってくるなり、台所に立った。夕食の支度を始めるには、既に少し遅い時間になっている。
ビニール袋から買ってきた食材を取り出して、人参、ジャガイモ、玉葱、鶏肉、と下ごしらえを始めていく。
温かい湯気が立ち上るのが見えた。背が低くて、二人分を作るにはいささか大きすぎる鍋の中身は全く見えないが、きっと、とろみのあるホワイトシチューが煮えているに違いない。
「助、そこの器を取ってくれ」
「これ? はい」
深めの器を両手で持ち、鍋に向かっている父に手渡した。
父は俺の手から器を受け取ると、「これは助の分だな」と言って、器をなみなみとホワイトシチューで満たした。
その器を再び受け取りながら、俺は質問した。
「お父さんさ、どうしてシチューだけはこんなに上手く作れるの?」
「……お前のお母さんの大好物だったからだよ」
父は優しく言った。
「……へえ」
小学生だった俺は、父の口から母親のことを聞いても、感じるものが少なかった。
「今度、作り方教えてよ」
どうしてこんなことを頼んだのか、よく覚えていない。ただの子供の気まぐれだったのかもしれない。
「助が作るのか?」
「うん」
「そうか、じゃあ今度な」
そう言った父親はとても嬉しそうだったのが、記憶に残っている。
俺は父が得意げにシチューを作るのを手伝っているのが楽しかったし、冬の寒い夜、暖房の聞いた家の中で、温かい食事を二人で摂るのも好きだった。――金沢家の食卓と同じくらい、好きだった。
昔のことを思い出しながら調理を続けていき、今やシチューはほとんど完成していた。あとは米が炊けるのを待つだけだ。
――何か飲んで一息つこうと、冷蔵庫を開けようとしたとき、呼び鈴が鳴った。
驚きと嬉しさが俺の心を持ち上げる。もしかしたら、誰か知り合いが訪ねて来てくれたのかもしれない。とにかく話し相手が欲しかった俺は、焦りを抑えるように、あえてゆっくりと玄関扉へ向かう。
「どちら様ですか?」
ドアの向こうに立っているであろう訪問者に、声をかける。
「私よ」
「……!」
――どうやら、予想外の客が訪ねて来たようだ。
「ハルカにうちの場所、聞いたのか?」
「うん」
散らかった部屋をどうにかするのは諦めて、恥ずかしさに耐え忍びながら弥生を部屋にあげた。
「まあ、座れよ。コーヒーでも、いや、紅茶の方がいいか」
昨日、弥生が飲んでいたのが紅茶だったことを思い出す。
「そうね、紅茶がいいわ。ありがとう」
ありがたいことに、弥生は部屋の散らかりようには触れないまま、素直に椅子に座ってくれた。
「それとも、夕飯食ってくか? シチュー」
紅茶を入れる手を止めて、鍋を指差して示す。
「もう済んだわ。それにそこまでしてもらっちゃ悪いわよ」
「そうか」
そう言って、熱い紅茶を入れたティーカップを二つ、テーブルの上に置いた。
「今日も寒いわね」
熱い紅茶を一口飲んで、弥生が思い出したように言った。温かい部屋、温かい飲み物は、外の寒さを一層鮮明に思い起こさせる。
「……その寒い中、なんでわざわざ?」
「話したいことが二つ……と、その前に」
弥生は、わざとらしく間を取った。
「明日、お見舞いに行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
あまりの失望感に、心臓の位置が下がったような気がした。
「あー……」
――失敗した。一時の寂しさに負けて、バイトを入れた自分が途端にバカみたいに思えてきた。しかし、今から「やっぱり出られなくなりました」なんて、それこそ迷惑もいいところだ。
「悪いけど、バイト入れちまったんだ」
「……そう、それならいいのよ」
そうは言いつつも、彼女は少し残念そうに息を吐いた。それも一瞬だけで、彼女はまた話を始める。
「で、お見舞いのことなんだけど……この前の」
「ああ」
何か不都合でもあっただろうか。
「もしかして、さ」
「もしかして?」
「――私の、ため?」
言い回しはとても自意識過剰で、エゴイスティックなものかもしれない。でも彼女からはそんな感じは全くしない。
それに。
「……どういうことだ?」
「私に、あなたのお母さんの話を聞かせたかった……違う?」
――それは、自意識過剰でも何でもなく、正解――真実だったから。
俺は返答に困っていた。弥生に母の話を聞かせたい――その俺の意志は、当人たちにバレてはいけないような気がしていた。
「隠さなくてもいいわ」
俺の沈黙を肯定と受け止めたのか、弥生はそう言った。
俺は依然だんまりを決め込んで、紅茶に手を伸ばした。間を持たせるために飲んだ、まだ熱すぎる紅茶は、俺の舌を焼いた。
「だって、いくら一緒に、って言われてても、母親の見舞いに他人を連れていくのはちょっと変よ」
「……そうか?」
俺には、当たり障りのない返事しかできない。その当たり障りのなさは、かえって弥生の言葉を肯定していく。
「気を遣ってくれたんでしょ? 嬉しいわ」
「そんなんじゃない」
――俺は、ただ。
「俺はただ、自分でお前を説得出来そうにないから、母さんに頼っちまっただけだ」
利用した、という言葉を飲み込んで、柔らかい言い回しに変えた。俺は汚かった。
今日の昼に感じていたような憂鬱さがいっぺんに戻ってきたように、頭が重くなる。
俺が弥生に対する説得力を持たないのは、俺が「死」を感じさせないからではないか、そう考えた俺は、弥生に母の話を聞かせようとした。
「――そんな言い方しなくていいわ」
自己嫌悪に沈む俺に、弥生は優しく語りかける。
「私はまだ全然助くんのことを知らない。だけど……あなた少し、他人に優しすぎるわ。全く悪い意味じゃないわよ。それでも、あなたが悩む必要ないじゃない。あなたは私のためを思ってやってくれた」
違うんだよ、弥生。俺は、優しい人を「紹介」してるだけなんだ。母さんは弥生に対して優しい人だったから、俺が引き合わせただけ、利用しちまっただけなんだ。
「……俺が優しすぎる? そんな――」
「それに」
バカなことを言うな、と言いかけたところを遮られた。
「薫ちゃんのためでしょ?」
「……っ」
なんて奴だ、そこまで――。
「昨日私たちを呼んだのは、薫ちゃんのため。違う?」
「だったら?」
今や俺は開き直っていた。どうやら、弥生は嘘を通し抜けるような相手ではないことを、俺は学習しつつあった。
「お見舞いの件はとても感謝してるわ。どうやらあなたのお母さんは、死を受け入れる準備が十分出来ているみたいで、私にもとてもいい話をしてくれた」
だから、誰も傷ついてない、気にしなくていい――そういうことだろう。
「薫のことは悪かった」
弥生はきっと、俺に利用されたことが気に食わないんだ。罪悪感を持っている俺は、あっさりと頭を下げた。
「……え?」
「お前とハルカをさ、利用してるみたいで……それが、嫌だったんだよな」
――弥生は固まっていた。信じられない、という顔をしていた。
「違うわ――あなたがしたことはとても正しい、正しいけどね」
何が違うって言うんだ。
次の一言には、若干の苛立ちがこもっていた。
「――あなた、一ヶ月後、どうなるか分かってる?」
「……!」
――俺は迂闊だった。大バカだ。
弥生が鋭い眼差しを俺に向けて、問いかけている。言い訳できない問いだった。弥生の眼光と、気が付いた事実に胸を貫かれて、肺に穴が空き、呼吸が出来なくなったような気がした。
玄関の扉が閉まった。弥生が出て行った代わりに、外の乾いた冷たい空気が、少しだけ部屋に入ってきた。
――俺の心は昼と打って変わって、孤独を望んでいた。
弥生には、仕方ない、あなたは悪くない、なんてあの後フォローされたものの、俺は申し訳無さでいっぱいだった。
母親が死にかけているという事実を利用した俺――一ヶ月後に、薫にもっと寂しい思いをさせるかもしれない俺。
寒い。手が、足が、身体が、心が。寒い。
ストーブも点けず、寒い部屋の中で布団にくるまって懇願する。
こんな俺に、今は誰も会いに来ないでくれ――と。