Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
2/8 : 通勤特急品川行

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「これよ」
 弥生は俺に一枚の写真を差し出していた。
「……この人か」
 写真に写っている男性を見て、呟く。
 朝早く、温かそうなニット帽と、彼女には少し似合わない、もこもこのコートを身に付けた弥生が、父親の写っている家族写真を持って俺を迎えにやってきた。
 弥生が来た時には俺の準備も万端で、防寒対策もバッチリしておいた。コートのポケットの中には使い捨てカイロを忍ばせてある。
 玄関先で突っ立ったまま俺が写真を眺めていると、弥生は急かすように言った。
「行くのなら早く行きましょう」
 何かを考える時間を与えないで欲しい――そんな感じだった。
「ん、ああ――」
 写真には男性が一人、女性が二人写っている。いずれもスキーウェアとスキー板を身につけて、ストックを手にしている。
 ニット帽と、ぶかぶかのスキーウェアで弥生の顔はだいぶ隠れていたが、一目で分かった。分厚いウェアと帽子の隙間から覗かせた顔は、微かに雪焼けしていた。
 隣の女性は楽しそうに笑っている。細身の体と若々しい笑顔は、ともすれば弥生と姉妹に見えてしまうかもしれないほどだ。しかし、弥生とそっくりな目の横には、隠し切れていない皺も確認できた。
 これが弥生の、母親。
 そして、さらにその隣の男性――。
「これが、お前の親父さんか」
 歩き出しながらももう一度、口に出して確認してみる。
「――ええ」
 どこにでもいそうな、少し太っている中年男性、という印象だ。
 こちらも笑顔だが、弥生とはあまり似ず、とても優しそうな顔のつくりだ。
「似てないでしょう?」
 俺の心を見透かしたかのように、弥生が聞いてきた。
「お前は母親似なんだな」
 弥生が写真の母親のように思いっきり笑うところを見たことはないが、醸し出す雰囲気にはそう感じさせるものがある。
「というか、なんでよりによってスキー旅行の写真なんだ?」
「それが一番最近の写真だから、すぐに出せたのよ」
 そう言われて写真の右下のオレンジで書かれた日付に視線を移した。
「去年の末か――」
 どうやら、十二月二十七日の写真らしい。
「……毎年恒例だったわ」
「――だった?」
 彼女の選んだ過去形が気になって、ついつい聞き返してしまう俺は、まだ彼女の境遇に慣れていなかった。
「分かるでしょ? 私はもう何年も行ってないわ」
 弥生は刺々しく言い放った。
「ああ、そうか――悪い」
 それにしても、イライラしすぎじゃないか。
「なあ、弥生――」
「何?」
 彼女は言葉に生えている棘を隠そうともしない。
「お前、本当は行くの嫌か? やっぱり」
 彼女は立ち止まった。
「――やめるか?」
 ここからでは彼女の背中しか見えなくて、どんな表情かは分からない。
 しかし、俺はまるでそうすることで彼女の考えていることが分かるかのように、呼吸する度に上下する、彼女の小さな肩を見つめていた。そこに見える彼女の黒い髪は、厭味なほど艶やかだった。
 ――俺は、やめたくはない。
 ここでやめたら、多分、この二月は弥生にとって終わったも同然の、死んだ二月になるだろう。今までと同じものに。
「――ごめんなさい」
 終わった、と思った。
「やっぱり……」
「いいえ、ちょっと神経が尖ってただけよ。行きましょう」
 彼女は振り向かないまま、また歩き出した。

「……いい家だな」
 住宅街の通りの角から見えるその家は、なんてことはない、普通の一軒家だった。
「普通よ」
 別に謙遜しているわけじゃないだろう。
「いい家だ」
 しかし、俺は何故だかそう言い張った。
「あと十五分くらいだと思うわ」
「じっとしてると寒いな」
 俺はコートのポケットに手を突っ込んで、熱を持ったカイロを揉み続けていた。
 話すこともないまま、ただ俺たちの口から白くなった息が漏れ、消えていく。
 弥生はその白い霧が立ち上るのを防ぐかのように、両手を口に当てて、深い息を何度も手に当てていた。
「……使うか?」
 俺は左ポケットに入っていた使い捨てカイロを、弥生のポケットに押し込んだ。
「えっ……あ、ありがとう」
 彼女は最初は戸惑ったようだったが、右手をポケットに静かに入れると、安堵したような表情になった。
 彼女の考えていることは分からなかったが、右ポケットにもう一つ残っているカイロの温かさを感じ続けていると、同じ熱を感じているのは確かだと思えた。
「ねえ」
 しばらくして、沈黙に耐え続けられなくなったのか、弥生から口を開いた。
「ん?」
「あなたのお父さんって、どんな人……だった?」
 弥生は躊躇いがちに尋ねてきた。俺たちは互いに目を向けることなく、望月家の玄関の方向に注目したまま話を続けた。
「――シチュー作るのが上手かったね。こうやって寒くなってくると食べたくなって、自分で作るんだ」
 わざと、彼女の意図したことと別の応答をした。
「……へえ」
「あれはきっと、母さんより――母さんってのは、今入院してる方だけど――上手かったかもな」
 自分のセリフに、俺は違和感を抱いた。そこまで言って初めて気が付いた。
「あれ……俺、母さんのシチュー食ったことないな」
「――じゃあ、助くんのお袋の味って、何?」
「カレーだな。沙織もほとんど同じように作れるけど」
 こうやって、意味のない話を続けていくことで弥生の棘が少しずつ抜けていくように感じた。
 料理の話だけじゃ、俺の父さんの人物像はぼやけたままだろう。
 だけど、それでいい。今は、無難に話を続けられればそれでいいのだ。
「……あ」
 玄関の扉が開いて、中から典型的サラリーマンの出で立ちをした男性が出てきた。
「お父さんよ」
「気付かれないようについていこう」
 俺たちの存在に気付かれて、弥生がどうしてこんなところにいるのかなどと問われれば面倒だし、何より彼は俺のことを知らないから、その説明をするにも要らない誤解を生みそうだ。
 だから、俺たちは弥生の父親から適当な距離を保ったまま、気付かれないよう慎重に駅まで尾行を続けた。

 ――朝の冷え込みの厳しさは凍えるほどだというのに、プラットホームはごった返し、熱ささえ感じるほどだ。
 そのホームを足元に見つつ、弥生と駅の階段を下っていく。
「俺たちは切符を買わなきゃいけないの忘れてたな」
 切符を買っている間に、危うく標的を見失いかけた。
 大急ぎで、弥生の父親の降車駅までの切符を買い、ごった返す人山の中に彼の姿を捉えた。乗車目標の目の前、白線のギリギリ内側、最前列に並んでいる。
 もう少しで、俺たちも人の渦の中に飲み込まれてしまうというところで俺は言った。
「通勤ラッシュの電車に乗ったことなんか、ほとんどないぞ」
 俺は、通勤通学ラッシュ特有の雰囲気に気圧されていた。
「高校の時、経験したでしょ?」
「いや、ずっとチャリだったんだ、俺」
 こんなところでカルチャーショックを受けていてどうする。
「でも、おたおたしてると見失っちゃうわ」
 そう言うと、弥生は父親が並んでいる列の最後尾を目指して人と人との間をうまくすり抜けていった。
 俺は迷子になりそうな子供のように、慌ててその後を追った。
「多分、次の電車よ――」
 若干息を切らしながら呟いた弥生の言葉に、俺も釣られて電光掲示板を確認した。
 七時三十五分、通勤特急・品川行。
「お前の親父さんから目を離すなよ」
 アナウンスとともに、ホームに電車が入ってきた。
 分かってるわ、電車のせいで声はかき消されてしまったが、弥生の小さな唇はそう動いたように見えた。
 やがて電車は完全に止まり、ドアが開いた。
「――よし、行こう」
 俺たちは標的から目を離さないままで、慣れない満員電車に乗り込んでいった。

     

 案の定車内は鮨詰め状態で、慣れない俺たちは押しつぶされないようにするのでいっぱいいっぱいの状態になってしまった。
「お、お父さんは……?」
 俺にだけしか聞こえないような小さな声で弥生が尋ねてくる。
「……奥の隅」
 弥生の父親は、開いているのとは逆側の扉の脇の座席との仕切りに寄りかかっていた。
「私、見えないからお願いね」
「……ああ」
 俺は弥生の身長を計算に入れるのを忘れていた。彼女の目線からでは、周囲の人々の肩を間近に見るので精一杯だろう。さらに、動きが制限される満員電車の中では見たい方向の視界を確保するのも難しい。
 駅員が無理矢理駆け込んで来たOL風の女性を車内に押し込み、手に持っていた旗を上げるとアナウンスとともに扉が閉まった。
 そして、通勤特急はゆっくりと動き出す。
 俺と弥生の体は周りの乗客ごと、進行方向と逆に傾いた。
 電車に乗り込むときのごたごたで、俺たちは向かい合った状態で密着してしまっていた。
 俺の体は電車の進んでいく方を向いていたが、見たい方向は親父さんのいる左側の隅。俺は腕で、吊り革を掴む余裕のない弥生が倒れないように支えつつ、右腕でどうにか吊り革を持った。
 弥生の体は小さくて、俺の腕と胴体にすっぽりと埋まってしまいそうだった。
 収まりどころの悪い脚も楽な姿勢に持っていきたかったが、下手に動くと周りから迷惑がられそうで諦めた。
 こんな具合に、慣れない満員電車でのポジショニングをしている間も、俺の首は左に曲がり、視線は弥生の父親を捉えていた。
 今のところ、親父さんの周囲に女性はいない。
 それを確認してから弥生に視線を落とすと、車輪が線路の継ぎ目を渡る音以外は無音の車内の雰囲気では、息の音さえ出すのが憚られるのか、彼女は口を真一文字に結んだまま、視線で俺に訴えてきた。
 それは父親の様子はどうか、という質問だったかもしれないし、体が密着しているのが気になる、という苦情だったかもしれない。
 しかし俺も声を出せず、とりあえず首を左右に振っただけだった。
 車内は静かなまま、電車は次の駅へと進んでいく――。

 しばらく、左側にいる親父さんに注意しつつ、そのそばに見える扉のガラス越しに、流れていく朝の街並みを眺めていた。
 住宅街の端を通り、踏切を越え、商店街を一つ過ぎたところで、一つ目の停車駅だ。
 ――気をつけて。
 電車がホームに滑り込んでいき、次第に速度を落としていく途中、それまで全く動かなかった弥生が、唇だけでそう言ったのが分かった。
 どういう意味か、一瞬分からなかったが、電車が止まってハッとした。
 扉が、開く。
 空気の漏れるような音を立てながら、進行方向に向かって右側、つまり俺たちに近い方のドアが開いた。
 ――次の瞬間、開いた出入り口は大量の降車客を吐きだした。
 俺と弥生は外側への流れに翻弄され、揉みくちゃにされる。弥生とはぐれないように、左腕をキツく締めた。
 そして、押し出されそうになったのをどうにか耐えたのも束の間、次は車両が乗客を飲み込み始める。今度は押し込まれる番だ。
 通勤通学者の奔流がやってくる。
 俺は、標的を見失っていた。視界が確保できない。一定の方向を見続けていられないのだ。
 ――ヤバいぞ。
 俺の焦りが頂点に達したころ、車両は食事を終えて、その口を閉めた。
 再び動き出した電車の中、どうにか首を捻って、弥生の父親が居たはずの方向を確認する。
 そこには、男二人、女一人のグループが、親父さんを覆い隠すようにして立ちながら話をしていた。三人ともだいぶ若く、髪を派手に染め、「いかにも」といったガラの悪さだ。その三人の隙間に、どうにか彼の影が確認できる。
 ――マズい。完全にミスった。
 もし仮に、あの三人組が親父さんに痴漢冤罪を被せようとしているならば、俺の位置取りはとてもマズい。「やった、やってない」が見えないのだ。
 しかし、まだあの三人が故意にでっち上げをすると決まったわけではない。周囲に真犯人が居て、それを勘違いした形ならまだ何とか現場を目撃できるかもしれない。
 俺は四人の居る隅を凝視し続けていた。弥生が相変わらず口を固く結んだまま俺を見上げていたが、そちらに視線を投げる間も惜しい。
 ――見逃せない。
 これで失敗すれば、俺の責任だ。余計な苦しみを弥生に一つ課すことになる。
 俺はじっと、ただじっと、左側の隅を見つめていた。

 やがて、もうすぐ次の駅に到着する旨のアナウンスが流れてきた。
 あとちょっとで駅に着くということに少し安心した俺が、無理な体勢で疲れた首を一度休ませようかどうか迷い始めたとき、事は起こった。
「――ちょっと、やめてよ!!」
 三人組の中の女が、いきなり声を上げた。
 まるで車両の中に電流が走ったかのように、周りの乗客は一斉にそちらに視線を向けた。
「おいおっさん、何やってんだ!」
 その隣の男が、車両の隅の方ににじり寄った。
 ――しまった!
 親父さん以外の乗客が彼女に痴漢行為をはたらいた様子はなかった。となると、親父さん本人の様子を確かめたい。
「え、え?」
 三人組に囲まれた向こう側から、男性のうろたえた声が聞こえてきた。
 だがここからでは、親父さんの様子を直接は確認できない。
 親父さんが本当に痴漢をした様子はなかったが、どうにも見えづらい位置で、自信を持って言えるほど、状況を掴めてはいなかった。
 やがて電車は止まり、今度は俺たちと逆側の扉が開く。
「とにかくおっさん、突き出してやる!」
「ちょ、ちょっと待て、俺は何も――」
「いいから来い!」
 抵抗空しく、彼は引きずられるようにしてホームへと連れ出される。男二人に掴まれた腕は振りほどけるはずがない。
「や、弥生、追いかけよう」
 俺は弥生の腕を掴んで引っ張った。
「……助くんは駅員室に行って」
「――俺は、って」
「私は帰る」
 言うが早いか、弥生は外へと飛び出して行った。
「おい!」
 弥生は外の人ごみに飲まれ、姿が見えなくなってしまった。
 ――逡巡あって、俺は弥生を追うのを諦め、駅員室へ向かった。

       

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Neetsha