結局、朝まで一睡もできなかった。ハルカと話をしていたせいでもあるが、いろいろあったおかげで元々眠れそうにない夜ではあった。
弥生がなぜ今のような状態にあるのか、その理由をひとしきり話し終えた後、ハルカは泣き疲れたのか、座ったまま眠ってしまったようだ。
「……女神様でも睡眠はとるんだな」
彼女の安らかな寝顔を見ながら独り言。
安物のストーブだけでは寒い部屋だ。一応ストーブは点けっ放しにしておいたままで毛布をかけてやろう。
出かける前に、テーブルの上にメモも残しておかないとな。
『今日は午前中にバイトだから、行ってくる。ポットにお湯が沸いてるから、コーヒー飲みたかったら飲んでもいいよ。出て行く時はストーブを消して行くこと。机の上の鍵はアパートの下の郵便受けに入れといて』
――こんなもんか?
少し考え直して、最後に一文足す。
『弥生のことも出来るだけ協力したいから、バイトのシフトを二月中は少なくして貰えるように店長に言っておくよ』
そして俺はコートを羽織り、眠たい頭を振り、部屋を出た。ドアは出来るだけ静かに閉めるように気を付けた。
――意識が覚醒すると、頬に固い感触を感じ、何かが自分を覆っているような感覚を受けた。
重い頭を上げる。どうやら、頬にあった固い感触はテーブルだったようだ。私はテーブルに突っ伏して、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。体を覆っているのは毛布だ。
徐々に自分の周りの様子が分かってくると、助の姿がないことに気が付いた。周りを見渡した後、自分が頭を乗せていたテーブルの上を見る。どうやら彼は書置きを残して行ったらしい。
「バイト……か」
彼はちゃんと寝たのだろうか。多分、あんな話をされた後じゃ寝付けないとは思うけど……。睡眠不足の状態でバイトに行かせてしまったようだ。次に会ったら謝ろう。
「ストーブ消して、鍵、ね」
夜中から置きっ放しのマグカップに、コーヒーの粉末を入れる。ここは彼に甘えさせて貰おう。
「それにしても優しいなあ……。これなら弥生のことも安心して任せられるね」
起きぬけに飲む苦いホットコーヒーが私の喉を通り、体の芯を温める。
――それに、コーヒー以上に温かい何かが、私の心を満たしているように感じた。
「おかえり」
起きてからだいぶ経ったころ、ハルカが帰って来た。昨日の夜に出て、今帰ってきたということだ。
「ただいまー」
「私もう、学校行っちゃうよ」
今日は大学の講義がある。
「わかった」
ハルカはいつも、講義にはついてこない。講義中に居ても私と話はできないので退屈だと言う。きっと、他の仕事をする時間にでも充てているのだろう。
「仕事は済んだの?」
「うん、済ませてきたよ、それと」
「それと?」
「助は結構頼れそうだよ。バイトの回数減らして、とりあえず一緒に行動してくれるみたい」
……確か彼はフリーターではなかったか。バイトの回数を減らすということは、彼の生活に支障をきたしたりしないのだろうか。それとも仕送りか、それが出来るだけの蓄えがあるのか。
「もう出るね」
助――くん、彼は私より年下だろうから、この呼び方でいいだろう。助くんに関する件には触れないまま、私はハルカを置いて家を出た。二階の自分の部屋から階下に降りてリビングの前を通り過ぎる時、母が「いってらっしゃい」と言った。
「行ってきます」
私は二月の寒空の下へと歩を進めた。
――見ず知らずの私に、なぜそこまでしてくれるのかは分からない。話をしてみた感じでは、下心もなさそうだし、そもそも、一ヶ月もすれば一緒に居られなくなるかもしれない相手に対して下心を持つなんて、愚かだ。
私は元々、人付き合いが嫌いではない。大勢でわいわいと話すのも好きだし、友達だっていなかったわけではない。それでも、長くループ生活を送っていると、人付き合いが嫌になる。一ヶ月には消滅する友情など、意味を持たない。持たないけど、欲しい。私は人との交流が生み出すあの心地よい温かさを渇望していた。だから、一ヶ月でとっかえひっかえ、一緒に行動する人物を替える。同じ人に二回話しかけることも可能だが、一ヶ月過ごした記憶は彼らには全くない。それは当たり前のことではあったが、辛いことでもあった。
だから、今や、私が本当に友達と言えるのはハルカだけになった。でも彼女は神だった。もしかしたら同情で友達役を演じてくれているのかもしれない。それでもよかった。重要なのは、一緒に過ごしたことを忘れないでいてくれることだったからだ。
それにしても、彼――助くんは、今までに話しかけたどんな人よりも、順応性が高い。私の話したことを新聞記事の予言なしでも飲み込み、そして翌日にはバイトを減らすという具体的な行動に移った。どういうわけかは分からないが、彼と一緒に居て悪いことが起こる気はしない。
――この一ヶ月、少しは期待してもいいかな。
バイトを終え、通りを寒さに身を縮めながら歩いていく。
「さて、スーパーに寄ってから帰るか」
仕事をあがる前に、店長には一ヶ月、なるべくシフトを入れないようにしたいと申し出た。幸いにもうちの店長は理解のある優しい人だから、事情があるということを言うと快く許してくれた。これで一ヶ月間、弥生と共に行動することが出来るだろう。
大通りを近所のスーパーに向かって歩く。大きな交差点の信号に引っかかったとき、見なれた姿を発見した。
「さお」
彼女を後ろから呼ぶ。
「あれ、助、何してんの?」
「バイト終わってこれからスーパーで買い物。さおは?」
「お母さんのお見舞い」
「え、あ、ああ、そうか」
ああ、そうか――まだ入院してるんだ……。
「そうそう。お母さん、助の顔が見たいって言ってたよ」
「そう言えば、もう一週間以上も会ってないな」
「何言ってるの、もっとだよ、助ってば、一ヶ月近くお見舞いに来ないんだから」
「――え、あれ? そうだっけ?」
一瞬、俺の記憶違いかと思ったが、思いなおす。
「ああ、ちょっと勘違いしてたよ」
「何を?」
「いや、こっちの話――お母さん、元気か?」
説明するのが面倒だ、適当に誤魔化そう。
「今のところは病状は悪くないかな」
ここで信号が青に変わり、俺たちは車道を横断し始める。
さお――沙織、金沢沙織は、俺の幼馴染だ。俺はこいつとの兄妹のような関係を気に入っていたし、大事にしていた。ただ、沙織に言わせれば俺たちの関係は姉弟なのだという。別に俺はどちらでも良かった。
それに俺たちは一時期、本物の兄妹に限りなく近い状態にあった。俺は、隣人であった金沢家に、中学生時代の三年間お世話になっていた。本当に同じ屋根の下で暮らしていた間柄だったし、よくある話のように、成長していくにつれ疎遠になるなどということもなく、ずっと俺たちの兄妹関係は続いていた。
「うん、じゃあ、明日顔出すわ」
「ホント?」
しかしそこで弥生のことを思い出す。どうするべきか……。
「んー、もしかしたら、俺の友達を連れてくかもしれないけど、いいか?」
弥生は誘ったらついて来るだろうか。普通は他人の見舞に来るようなことはしないだろうが……。
「友達って、薫?」
「薫だったらそう言うよ。お前の知らない奴だからさ」
俺と兄妹のような間柄にある沙織は、俺が最も仲良くしている薫とも当然のように中がいい。
薫――薫で思い出したが、ケーキを奢るんだったっけか。明後日でいいだろうから、あとで連絡を入れておこう。
「じゃあ私も明日も行くから」
「わかった」
「そういえばスーパーって、夕飯の買い出し?」
話題が一段落して、別の話題を振ってきた。
「そうだよ」
素直に答える。
「じゃあうちで食べて行きなよ。お父さんも帰ってくるの遅いし、昨日作ったカレーが余ってんだよね」
「マジで? いいの?」
「いいも何も、今さら助に夕飯食べさせるくらい何でもないしさ」
それもそうか。
「じゃあ遠慮なく――沙織のカレーってウマいんだよなあ」
これはラッキーだ。主婦みたいな言い方になるが、夕飯を自分で作らなくていいというのはとても嬉しい。
俺たちの間では、誰もいない家に、女が男を一人で招いてしまうのはどうかなどという懸念を持つ余地などない。俺たちは兄妹なのだ。
金沢家への道の途中、俺は沙織の母親のことを考えていた。入院している「お母さん」は、文字通り俺の母親でもあるのであった。
そう言えば、全く見舞いに行ってやっていなかったんだったよな。今更ながら後悔する。
――親孝行してないな、俺。明日はリンゴでも買って行ってあげようか。