Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
2/3 : 無邪気な食卓

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 ――温かい食卓。それは当時の自分の家にもあったものだったが、俺はこの家の食卓も好きだった。



「あー、たすくだ!」
「あ、さおちゃん!」
 幼い声が、幼い俺を後ろから呼んだ。俺は父親と一緒に、沙織は母親と、買い物から帰る途中だったと記憶している。
 高宮家――といってもこの時すでに父子家庭だったが――と金沢家の隣人関係はとても良好で、俺と沙織はとても仲が良く、沙織の母親に連れられて、三人でどこかに出かけたりすることも少なくなかった。
 沙織の母は、頼れる親戚もいなく、父子家庭でいろいろ苦労のある父の代わりに、俺の面倒をよく見てくれていた。父は常々彼女に感謝していたようだったし、俺も彼女が好きだった。
 親たちの世間話など、幼子の耳には入らない。大人たちが難しくてよく分からない話をしている間、俺たち二人は、ただきゃっきゃと二人ではしゃぎ回っていた。
「ねー、たすく!」
 彼女の口から出る俺の名前の発音はいつもたどたどしかった。今となっては懐かしい。
「なーに?」
「今日も、おうちでいっしょにごはん食べようよ!」
 いつものお誘いだった。
「いいの?」
 俺の心は弾む。
「もちろん!」
「やったー!」
 そんな俺たちのやりとりにいつの間に気づいたのか、俺の父は言った。
「……いいんですか? いつもいつも……」
 俺が週に何回も、金沢家で夕飯をご馳走になっていたことを申し訳なく思ったのか、父は遠慮がちに言う。
 だが、沙織の母は、気遣いなど知らない未熟な心に対してとても優しく接してくれた。
「いいんですよ。うちでよければ、毎日食べに来てもいいくらい」
「そうですか……助かります。助も喜んでるみたいですし」
「うちも男の子が出来たみたいで楽しいですし……それに」
 沙織の方を見やった。
「やった! 今日もたすくといっしょにごはんだ!」
「やった! さおちゃんといっしょだ!」
 やったやった、と喜びあっている俺たちを見て、父も納得したようだった。
「それじゃあ、よろしくお願いします」

 ――そしていつものように、俺は金沢家の敷居を跨ぎ、食卓に着くのだ。
「今日は二人の大好きなカレーよ」
「わー、おばさんのカレー大好き!」
「カレーだ! カレーだ!」
「よかったなあ、二人とも」
 沙織の父も一緒に食卓を囲む。彼はいつもニコニコと、俺と沙織の様子を見ていた。
 これは俺が成長してから分かったことだが、彼女の作るカレーは、ルーを使わない凝ったもので、違いの分からない幼い舌にはもったいないような代物だった。
「助ちゃんのパパのカレーと、どっちが好き?」
「おばさんの方!」
 元気に即答する俺。
「あら? パパがかわいそうよ」
「だってうちのパパ、お料理苦手なんだよー」
「うちのパパもだよ! でもね、うちのママのごはんはいーっつもおいしいよ!」
「おいおい……」
 引き合いに出された沙織の父が困ったような顔をする。
「あっ、でもね、うちのパパ、シチューだけはうまく出来るの! 練習したんだって!」
 まるで本当の家族みたいに弾む会話。本当に楽しくて楽しくて、温かかった。
 何より母の温もりを知らない俺にとって、沙織の母親はとてもよくしてくれる貴重な女性だった。
「今はパパ、おうちにひとりかあ……さびしくないかなあ」
 自分で父の話を出しておいて、その父のことを心配する。
「もしかしたら、助ちゃんがいなくて、寂しすぎて泣いちゃってるかもね」
 沙織の母は悪戯っぽく言う。
「えっ!? だ、大丈夫かな、帰ろうかな?」
 真に受けてしまった俺は、突然父のことが気になりだし、スプーンを持つ手も止まってしまう。
「えーっ? たすく、帰らないでよお」
「でも、でも……」
「ふふ、冗談よ。助ちゃんのパパはちゃんとひとりで待ってるわ」
「ほんと?」
「本当よ」

 ――今思えば、あんなにうるさい子ども二人を相手に食事するのは、とても大変だったんじゃないだろうか。
 とても無邪気で、満たされた食卓だった。

 こんな感じで俺と沙織の幼児期は過ぎ去って行き――小学六年の冬。
 卒業も間近に迫っていた俺に、最大級の不幸が襲いかかった。

 ――父が亡くなった。
 登校前の忙しい朝、俺はトイレに入りたかったのだが、いつまで経っても父親が出てこない。
「お父さん、早くしないと漏れちゃうし、遅れちゃうよ!」
 トイレのドアを強く叩きながら言う。
 これでも返事がなかったのだから、小学生の俺でも異常に気が付いた。
「お父さん、お父さん?」
 何度も呼びかけてみるが、返事はない。
 ――パニックが俺を支配した。小学生の力でドアを強引にこじ開けられるはずもなく、トイレには外からの窓もない。慌てていた俺に、救急車を呼ぶなんて選択肢は思い浮かぶはずもない。
 俺は電話機の置いてある廊下を、その電話機を素通りして走り抜け、靴も履かずに隣の家へ走った。インターホンさえ鳴らさずに玄関扉を開けて叫ぶ俺に、おばさんはただならぬものを感じ取ったに違いない。
 その後はよく覚えていない。死亡宣告が出るまではそんなに時間はかからなかった。
 小学生に、クモ膜下出血について詳細を話されても理解できるはずもなく、俺はただ、父を亡くしたという事実を突き付けられていた。
 俺は病院で泣いた。それはもう、一生分の涙なんて生易しい量じゃなかった。その時世界のどこかで、知らない誰かが流そうとしていた涙さえも奪い取って泣いたんじゃないかと思えた。
 医師も、その場に立ち会っていたおばさんも、俺に声を掛けることはなかった。

 その後、頼れる親戚のなかった俺は、金沢家の人たちがいなかったら本当に何もできなかったに違いない。彼らは俺の代わりに喪主を務めてくれた。
 葬式と通夜に使われた写真の父は笑っていた。それがなぜか腹立たしかった。参列者たちが喪に服してくれているその場で、暴れてやりたい衝動に駆られた。興奮状態で周りの様子を窺う。
 その時に俺は、俺を挟むように両隣に座ってくれている沙織の両親の顔を見た。
 ――二人とも、涙を流して泣いていた。
 俺の中で膨らんでいた感情が一気に萎み、へこんだ。
 二人がいなかったら、俺は父の葬儀で涙を流すことはなかっただろう。

 俺はしばらくショックで学校にも行けなくなり、そのまま卒業した。卒業式には何とか出席したが、友達とはそのまま疎遠になってしまった。
 春休みもずっと塞ぎこんで、父との思い出の詰まった家に引きこもっていた。独りだった。
 しかし、一日に何度もおばさんが隣から訪ねてきた。食事も世話になっていたし、小学生が自分の身の回りのことをすべてこなせるわけがない。
 おばさんは俺を慰めたり、元気づけたり、時には抱きしめたりしてくれた。そして俺もようやく落ち着いてきた春休みの最後の日。
「ねえ助ちゃん」
「はい」
「うちに来なさい」
 ――それだけだった。それだけだったが、俺は言葉の裏を何の苦もなく読めていた。単に、いつものように夕飯をご馳走になりに行くのとは全くニュアンスが違っていたのだ。
 ――一緒に暮らそう。
 彼女はそう言っているのだと、確信した。
「おばさん……ありがとう」
 迷いもなかった。そうすることが、俺にとって一番自然だと分かっていて、何の疑問も浮かばなかった。
「もう今日から、おばさんじゃなくて、お母さんね」
「……お母さん」
 ――母親の記憶を持たない俺に、いきなり母親が出来た瞬間でもあった。



「……さお、俺さあ、お母さんに何にもしてやれないのが悔しい」
「……助」
 食卓の向かいに座っている沙織が、静かに茶碗を置いた。
 ――病院での見舞いを済ませた後、弥生と別れた俺はまたしても沙織と夕食を共にしていた。
「凄く感謝してるんだよ、俺」
「うん、分かってる。お母さんも分かってるよ……それで十分じゃないかな」
 沙織は辛そうだった。体のどこかに針が食い込んでいるのに耐えている、そんな表情をしていた。
 俺たちは、いつまでも昔のように楽しく食事をしていけると思っていた。今はそこからお母さんの姿が消えようとしている。そして、昔のような無邪気さが消え失せてしまっている。

 ――沙織をよろしくね。
 お母さんの言葉が鮮明にフラッシュバックする。お母さんが亡くなり、沙織がどんどん憔悴していく姿が脳裏に浮かぶ。
 その二つの事柄は、俺の中で表裏一体だった。
 ――俺がしっかりしなくてどうする。
 沙織は、俺が守らなければならない。失敗は許されないのだ。

「またすぐ、お見舞い行くからさ」
 靴を履き、玄関で向き直って沙織に言う。
「お母さんも喜ぶよ」
「うん」
「……今日も飯ありがとな、じゃあ」
 じゃあ――お前も無理するなよ。強く思っていたことは、言葉に出さなかった。
「じゃあね」

 沙織の家を出て、夜の暗い住宅街を行く。住宅街特有の静けさと、家々の中に見える明かりは、寒さを何倍にも感じさせる。
「――寒いと思ったら、雪が降ってきやがったな」
 街灯に照らされて、チラチラと舞う雪が見えた。
 ――今夜の冷え込みはいつもよりも厳しいものになりそうだ。

     

『明日、ケーキバイキングに行かないか?』
 ――助くんからの誘いは、突然だった。
「……どういうこと? 話が見えないわ」
『薫って覚えてるか? 会ったことはないだろうけど、俺とシフトを代わってくれたヤツ』
 確か、私の話を聞くために、無理やりな感じでバイトを代わらせていた気がする。
「ええ」
『あいつ甘党だからさ、そのお礼にケーキ奢ることになっちゃってさ、もしよければ弥生もどうかと思って』
 シフトを代わらせる原因となった張本人の私が、代わらされた本人と一緒に甘いものなど食べていいのだろうかとは思ったが――ケーキ、か。
「――行くわ」
 実は甘いものに目がない、なんて言ったら意外だと言われそうだから、単に行くとだけ伝えた。
『おう、わかった』
「私も、私も行かせて!」
 横からハルカが割って入る。
『なんだ、ハルカか? まあ、来ればいいんじゃないか?』
「ケーキ好きとしては、行かないわけにはいかないからね」
 ――世の中、甘いもの好きばっかりだ。

 具体的な場所と時間を聞いたあと、助くんとの通話を切った。ハルカはすでに寝てしまっていた。さっきまで起きていたのに――よっぽど疲れているのだろうか。
 さて、私もそろそろ寝ようか、と厚い布団にくるまる。
 ――暗い部屋の中、今日のお見舞いのことを思い出していた。
 死にたい、と思ったら負け――助くんと沙織さんのお母さんは、そう言った。
 果たして、本当にそうだろうか。そもそも、今の私の置かれている状況は、すでに「負け」なんじゃないだろうか。
 負けじゃないとしても、もう詰んでいる。次に駒を動かせば、対戦相手は容赦なくチェックメイトを掛けてくる。
 それなら――それならいっそのこと、自分で自分のキングを倒してしまえば――投了してしまえば、それで済む。
 そこまで考えたとき、助くんの顔が浮かんだ。彼は協力してくれると言った。始めから、ここから出る手助けをして貰おうとか、自殺を助けろだなんて期待はしていない。そんなのは建前で、ただ一緒に、一ヶ月過ごしてくれる人が欲しかっただけだ。いつもそうやって、一ヶ月毎にとっかえひっかえしてきた。
 ――ただ、今回は賭けだった。いつもは自分の置かれている境遇について、相手に話したりすることは絶対になかった。「死にたい」と言って相手を釣るのはいつものことだが、永遠に同じ二十八日間を過ごすだなんて言えない。言ったらそれこそ相手にして貰えなくなる。
 ――でも、彼は分かってくれそうだったから。
 自分でも理屈で説明できない行動だったが、現にうまくいった。それならまたこの一ヶ月、彼に任せてみよう。どうせ、私は投了さえできない身なのだから。



 呑気な誘いのためにした電話を終えた後、呟いた。
「……まったく」
 ――まったく、病んでいやがる。
 最近、俺の周りにいる女性たちは、揃いも揃って病んでいる。
 お母さんは本当に病気だし、弥生はどう考えても精神的に正常な状態にいられるはずはない。沙織は母のことを気に病み、母を亡くせば憔悴していく。ハルカはハルカで、表面的には明るいが、弥生のことにずっと責任を感じている。
 ――気にかけなければならないことが多すぎて、俺も心を病みそうだ。
 俺にも誰か、相談できる人が欲しい。頼りにできる人が欲しい。いっそのこと、お父さんに――いや、沙織と変わらず、今は大変な時期だ。
 薫に相談するのもいいかもしれないが――。
「……あいつは、どうだろうな」
 相談役という感じでもないな。そもそもこの状況を相談して何になるのか。特に弥生の件は、まず信じてもらえない可能性の方が高い。
 それに、弥生に協力するとは言ったものの、具体的に何をしていいのかよくわからない。
彼女はただ一緒に過ごしてくれればいいとは言ったが、それでは俺の気が済まない。それに、彼女は母の言葉を聞いて何を感じたのか。何か考えているようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。
 ――どうせなら、この一ヶ月で、弥生には少しでも希望を与えてやりたい。
 そしてこの一ヶ月、俺は何をするのか――。別に何をする義理もない。だが、何もしないのも――。

 思考が堂々巡りしているのに気がついて、考えるのをやめた。温かい布団は、簡単に眠りへ誘ってくれる。
 ――まあいい、明日また、ケーキでも食べながら考え直そう。

       

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