Neetel Inside 文芸新都
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yamiako
とあるジャズクラブ

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 いつのことだかもう定かではないが、私はあのちっぽけなジャズクラブの存在を今でも憶えている。そしてそこによく出入りしていた少年のことも鮮明に記憶している。彼の名前はトシヤと言った。常連の客達によく「トシくん」と呼ばれ、クラブのマスターも「トシ坊」と呼んでかわいがっていた。

 店の雰囲気は暗く殺伐としていて、出演料をマスターがあまり払わないせいか、ステージにはよく前衛ジャズバンドや学生のパンクロックバンドが多く出演していた。おそらく彼らにしてみれば演奏さえできればいいのでチケットノルマをあまり請求しないこの店をそれなりに気に入っていたのだろう。私の方は特にそういった音楽が好きなわけでもなかった。単に何となく入ってみたそのクラブでバイトのバーテンの女の子と話が合ったのが良かっただけかもしれない。耳をつんざくような音が鳴る度に彼女と向き合って苦笑いをしていたものだった。
 そういった激しくて不協和音の多い店のステージ前を陣取っていたのはトシヤだった。彼はある時は彼らの奇抜な格好やその動きに食い入るように見ており、またある時はモニタースピーカーに座りステージとは反対側の私がよく座っていたバーカウンターに向かって呆然としていた。
 彼の居るまわりは、およそそのクラブの雰囲気からかけ離れており、私もよくそのけたたましさにうんざりした時などは彼のことを眺めていた。髪の毛を針のよう立ててボロボロのTシャツを着たヴォーカリストはよく客と殴り合うパフォーマンスをやっていたものだったがトシヤの居るステージの上手側には全く近寄らなかった。ある時そのヴォーカリストが二回りほども大きな体格の男とやりあって突き飛ばされ、トシヤに強く当たって泣かせてしまったことがあったが、彼はその時演奏を止めさせて少年を泣きやませていたのがなんとも微笑ましいものだった。

 トシヤはいつも私よりも早くその店に居た。店が開く前にバンドがリハーサルをする時間から居るときもあったらしい。マスターは彼には一切金を取らなかったし、むしろせがめば店のソフトドリンクを与えていたほどだった。身なりはあまり良いものではなかったが、品が良くそこそこ教育されている素振りをみせる彼は身元について話すことがほとんどなかったらしく、顔見知りの客やマスターに聞いてみたところでその素性は全くわからなかった。けれどむしろ私達はそういった関係を楽しんでおり、彼のことを年の離れた弟か、親戚の子供か何かと勘違いしそうになっていたのは私だけではなかったのではないかと思う。

 職場を転勤し仕事が忙しくなり、次第にそのジャズクラブに出入りすることが無くなっていった。ある時仕事帰りのすっかりと暗くなった駅の構外でトシヤの姿を見た。彼は以前よりも背丈が大きくなっており、声も少し太くなっていたようで危うく聞き流しそうになっていたが、しかし彼が発したそのジャズクラブの名前を聞いて私の疲れて朦朧している意識はハッと彼の姿を認めたのだった。
 彼は段ボールで作った小さな募金箱を抱えて駅の構外に立っていた。私は彼に声をかけて詳しくその旨を尋ねると、あのジャズクラブが地価の高騰により立ち退かざるを得ない状況になっているという話を聞いた。私はそういったことならと財布にあった有り金を全て彼に渡した。

 それから私はすぐにあのジャズクラブに赴いた。店には今月いっぱいで店を閉めるという張り紙がかかっていた。ステージには珍しくパフォーマーがおらず、その照明が無いためかそのクラブは以前見たよりも更に暗く、マスターは大人しいスタンダードナンバーを聞かせるジャズのレコードをかけていた。私はとりあえず彼の前に座りハイボールを注文すると、それを自分で用意するマスターの背中に向かって語りかけた。

「トシヤくんって居たでしょう、この間あの子が駅前で募金をしているのを見ましたよ」

 マスターは瓶を持って振り返り「ああ、それならこの前渡しに来ましたよ」と落ち着いた様子で返した。正面からよく見てみるとマスターの蓄えた顎鬚に白髪が混じりかけていた。氷の入ったグラスにそれの中身を注ぎながら「けれどもそれを受け取ることはできないでしょう」と呟くのだった。

「なぜですか?受け取ることができればまだ店をやることもできるでしょう」と思わず私は大声を出してしまった。けれどもマスターは淡々とこう言うだけだった。

「受け取ることができないから店をやることができないんですよ」

 私はそれ以上マスターに声をかけることができなかった。悲しげなトランペットの音を聞きながら、私は少年があの集めた金をどこへやったのか思いをめぐらしていた。

       

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