「本当にいいの?」
「うん」
「じゃあ、いいけどさ」
「だって私この部屋好きだもん」
「なんもねーよ」
「でも好きなの」
八月三十一日。
僕は彼女にどこか行きたいところはないかと尋ねると、首を横に振った。
「じゃあ、康弘に一つお願いしていい?」
「いいよ」
止まったCDを交換しながらそう答えた。
彼女は僕のスエットを着ており、あいかわらず引きずっている。最期の日なのにお洒落すれば? と言うと、お洒落より僕の服を着てるほうがいいから、と笑った。
僕は彼女がなにを言うのだろう、と思いながらマルボロに火をつけふぅ、と煙を吐いた。
「あのね」
「うん」
「どうしようかな」
「なんだよ」
なかなか言わない彼女に笑いながら、頭を両腕で掴んで軽く揺すると麻奈は「やだやだ」と言って僕の手を取ろうとする。
「早く言えよ」
「はい、言います、言います」
目が回った訳でもないだろうが、彼女はしばらくぼんやりしてから改めて僕へと向き直った。
「おんぶして」
「は?」
僕はその台詞に間の抜けた返事をする。
「おんぶ」
「ちょっと待て。最後のお願いがそれか?」
「うん」
「もうちょっとあるだろー、なんかこう特別な感じ」
「ただおんぶするんじゃないよ。おんぶしてベランダ行こう?」
どうやら冗談ではなく、本気で言っているようだった。
僕は一体おんぶにどれほどの価値があるのだろう、と思いながらまぁ、彼女が望むならいいかと了解する。
「じゃあ、どうぞ」
「はーい」
僕の背にさして重みを感じない彼女がちゃんと乗った事を確認すると、僕は部屋を横切りベランダへと足を踏み入れた。
「今日もいい天気だね」
「なぁ、これでいいのか?」
「うん、もうちょっとこのまま」
「はいはい」
僕は、彼女を背負ったままベランダからの景色をぼんやりと見つめた。
「あったかい」
「暑いよ」
「背中、あったかい。こうやってると安心する」
彼女はそう言って、僕の背中の感触を確かめるように体を寄せる。
「あったかい」
もう一度そう言う彼女の言葉を僕は黙って聞いていた。
なぁ、麻奈。僕はもうお前にかける言葉がない。
だけどそれはきっと幸せな事なんだろう。僕は君に伝えたい事を全て伝えきる事が出来た気がする。
だから、あとはこのまま、二人でそっとその時を待っていよう?
君のおかげで、僕は幸せだったから。
とてもとても、幸せだから。
「あ」
僕の言葉に反応し、彼女は空を見上げた。
それはありえない光景だった。
つい先ほどまで晴れ渡っていた空に影がさした。
そう、それは雲よりも遥か上空、その位置で、この地球に太陽の光を遮るなにかがある事を僕達に知らせていた。
隕石の、落下。
もう商品もなく、誰もいないコンビニ。
復旧し、騒がしく音を立てているゲームセンター。
最後の客を送り出し、コーヒーメーカーの電源が切られた喫茶店。
誰もいなくなった学校。
白と黄色のウエディングドレスが飾られている結婚式場。
ジンクスのある長い階段の続く神社。
全て、一瞬にして、消えていく。
まるで今までもそこになにも存在していなかったかのように。
全てを真っ白の灰へと化し、そしてそれすら消し去っていく。
「康弘」
「ん?」
「こっち見て」
その言葉に従い、僕は首だけを動かしてずっと、今までもこれからも、ずっと傍にいる彼女を真正面に見つめた。
麻奈は、僕を見て、僕が彼女に初めて会った時、思わずどきりとした時と変わらない微笑みを浮かべて、僕の唇に、静かにキスをした。
僕は、その最後の光景を決して忘れない。
世界は、白い闇に包まれ、僕の意識は、そこで、途絶えた。